はじまりの鐘(3)
その後のことは……よく覚えていないけれど。
気づけば、傷だらけの上級生たちが小さな子供みたいな泣きっ面で、お互いの肩を支えながら逃げ去っていくところだった。そうなって、初めて全力で後悔してその場にしゃがみこんでしまったことも、まさに昨日のように思い出せてしまう。
もちろん頭の中に浮かんでは消えるのは、これからのこと。これがもし学校にバレれば、ほぼ間違いなく退学処分をくらうだろう。ただでさえ犯罪者の弟として知られてしまっているのだ、こんな暴力沙汰を起こすような奴だと知られればただでさえよくない心象がさらに悪くなるに決まっている。
どうしよう、どうしよう、と今更ながらに頭を抱えていると、壁に背をつけて座り込んだままの部長が「はわー」と気の抜けた声を上げた。
「すげえなあ、お前」
その言葉には、想像していたような怯えや隔意はなくて、ただ純粋な感心だけがこめられていた。
「めちゃくちゃ強いんじゃねえか」
「……こ、これだけが、取り柄なんです。喧嘩が強いだけなんて、全然、自慢できません」
本当に、今でもそう思う。
自分は、兄のようによく回る頭を持って生まれたわけでもなければ、姉のように魔法の才能に恵まれたわけでもない。生まれつき魔法が使えない自分にあったのは、人間離れした動きを可能とする体だけで。
こんな喧嘩にしか使えないような能力、欲しくなかった。
そう思いながら頭を抱え続ける俺に対し、部長は「そう?」と首を傾げる。
「それも立派な取り柄じゃねえかと思うんだけど。あのノーグ・カーティスだって、喧嘩の達人として不良連中に一目置かれてたって聞くし」
「……は?」
いや、弟の俺が知らなかったんですけど、そんなとんでもない話。
……もちろん、あの人を見ている限り弱かったはずはない、とは思うけれど。そうやって聞くと、不良どもを従えている番長的存在にしか思えなくなるのが困る。今でもこの学校でのノーグ・カーティス像がわからないままでいるのだが、理由の一つがこの部長の言葉だと思っている。
思わず部長の言葉に顔を上げてしまってから……ふと、胸の中につっかえていたものを、問いとして投げかける。
「あの、何故助けようとしてくれたんですか?」
部長はぱんぱんに腫れた顔を更に膨らませて、唇を尖らせる。
「友達がピンチだったら助けたくなるのは、当たり前だろ?」
当たり前。あまりにあっさりとそう言ってくれるものだから、こっちはそれ以上何も言えなくなってしまったのだった。弱いなら出てこなくてもよかった。余計なことをしないでくれれば、自分が痛い目に遭うだけで終わったというのに。色々と、思うことはあったのだけれども……それが純粋な気持ちから出た、衝動的な行動だということもわかってしまったから、それ以上何が言えるというのだろう。
その代わり、どうしても気になって仕方なかったことを、問いかける。
「あと……どうして、あんなことを言ったのですか?」
「何が?」
「どうして先輩は……ノーグの弟であることが俺とは関係ない、って言ったんですか」
俺の問いに対して、部長は目を丸くして、それからけたけたとおかしそうに笑った。
「馬鹿だなあ、そんなこともわかんねえのかよ?」
馬鹿、と言われたことにはむっとしたけれど、部長が何を言わんとしていることがわからないことには反論のしようもない。黙ったまま目で話の続きを促すと、血の滲んだ唇を開く。
「俺は確かにノーグ・カーティスに憧れてる。お前さんの名前を聞いた時、飛空のこと、ノーグのことを色々教えてもらえるかもって喜んだのも事実だぜ。でも、それと、『お前さんがどんな奴なのか』とは何も関係がねえだろ」
そう言った部長は――とんでもなくぼろぼろの顔で、それでも屈託なく笑っていた。
「お前さん自身のことは、これから一緒にやっていって知っていくことさ。何も知らないうちにどうこう言うことじゃねえ。変に決め付けちまうのはもってのほかだ。違うか?」
その問いかけに、俺は答えられなかった。
代わりに、どうしても堪え切れなくて。唇を噛んでも、目に溜まった涙がこぼれ落ちてしまって。こちらを見上げた部長はぎょっとして、焦った声で聞いてきた。
「ご、ごめん、何か悪いこと言っちまったか?」
「ち、違います。違うんです」
慌てて涙をぬぐって、呼吸を整えた。その時にはまだ、胸をぎゅっと締め付けるような感覚は消えなかったけれど、それでも言葉を放つことは、できた。
「そういう風に、言ってもらえるなんて、思ってなかったから……ごめんなさい、俺の方が、先輩のことを勝手に決め付けてました」
ノーグ・カーティスの弟だから――
そういう肩書きで俺のことを見ている、という点では、自分はこの時まで部長も周りの連中と変わらないと思っていた。だけど本当は、その肩書きに囚われてるのは誰よりも自分自身だった。何も、俺を見ている誰もがそうやって思っているわけじゃない。そんな当たり前のことに、この時初めて気づかされたのだった。
そんな情けない自分に対して、部長はこう、言ったのだ。
「はは、そりゃあ、きちんと言わなかった俺も悪いから、お互いさんだ」
そして、ゆっくりとふらつく足で立ち上がり……緑のリボンを巻いた手で俺の胸をとんと叩いた。
「けどさ。これからは、言いたいことは遠慮なく言ってくれよな。もちろん、隠したいことは隠してくれても構わねえけど、やっぱり、一緒に暮らしてる仲間なんだから、いろんなことわかってた方がお互い一緒にいて楽だろ」
「は……はい」
思わず頷いてしまって、そんな自分に驚く。
本当は、誰とも深く関わらないまま、ただ日々を過ごしていこうと思っていたのに。そうすれば、誰にも迷惑をかけないままにいられると思っていたのに。
――この人となら、これから楽しくやっていけると信じてしまったことに、何よりも驚いていた。
「俺も、話せることは何でも話すからさ。何でも聞いてくれよな!」
部長の笑顔は、空に浮かぶ太陽よろしく、何もかもを照らし出す光を放っているようで。その頃の自分には眩しすぎて、今の自分にもやっぱり眩しいけれど。
それが何よりも力強くて――嬉しかったことも、覚えている。
だから。
まだふらついている部長に手を差し伸べて、微笑みかけたのだ。
「はい。それでは、これから改めてよろしくお願いします、部長」
「おうよ! って、部長?」
手を握り返しながら、部長は目を丸くして……そんな部長に向かって、いたずらっぽく目を細めてみせたのだった。
「航空部、お誘いいただけていましたよね。本日から入部したいと思うのですが、よろしいですか?」
何を言われたのかわからない、といった顔で目を白黒させていた部長だったけれど、すぐにぱっと顔を輝かせて、握った手をぶんぶんと振る。
「本当か! やった、嬉しいな、お前さんが来てくれるなら百人力だよ!」
どこまでも、どこまでも無邪気な喜び方に、こちらまで同じように笑ってしまったけれど……不意に現実を思い出してしまって血の気が引いた。
「あ……で、でも、あの……今回のことが知られたら、ここにはいられないかもしれません」
「だーいじょうぶだって! あいつら、プライドだけは無駄に高いから、新入生にこてんぱんにされたなんて口が裂けても言えねえって。あとは俺とお前さんが黙ってれば、それで解決!」
この怪我の言い訳はしないといけねえけどな、と部長も苦笑する。これだけの怪我を治すのは魔法でも手間だし、何よりも擦り切れてしまった制服は直らないのだ。
どうすっかなー、と本気で言い訳を考えているらしい部長を何だか微笑ましく思いながら、落ちたままだった眼鏡を拾った。殴られたのと、石畳に叩きつけたので分厚い硝子は粉々に砕けて、縁も無残に曲がってしまっていたのだった。
「眼鏡、割れちまったな」
「問題ありません、これ、伊達ですから」
「え、そうなの?」
見えていなかったら、喧嘩だってできないだろうに。
すっかりぐしゃぐしゃになってしまった銀縁眼鏡をポケットにしまい、くすりと笑った。
「何笑ってんだよ?」
「いえ、何でもありません」
何だよ、とぷうと頬を膨らませた部長だったけれど、今度は「あ」と大きく口を開いた。不思議に思ってどうしたのかと問うと、にっと笑って言った。
「折角部員になってくれるんだからさ、今度こそきちんと呼び名決めようぜ」
「ああ、そういえば保留にしていましたね」
確かによくある名前なのだけれども、いつも呼ばれるときは苗字だったり、『あの男の弟』だったりで、ここに来てからもあまり名前には困ったことがなかった。部長は部長で『空部』と呼ばれているから、戸惑うことは限りなく少ない、のだけれど。
それでも……これもまた一つのけじめなのだと思うことにして、言ったのだ。
「そうですね、今まで他の呼び名があったわけでもないので、部長が決めてくださって構いませんよ」
「俺が決めていいのか?」
自分に限らず、うちの家族はあまり、名づけの趣味がよいとは言えないから。
部長のセンスがよいかどうかは正直不安だったけれど、あまりに酷ければ文句を言えばいいことであって。一体どう呼ばれるのかと思っていると。
「じゃあ、ブルーって呼んでいいか?」
「ブルー?」
本名のどこもかすっていない。けれど、何となく、部長の気持ちはわかるような気がした。部長も、自分も、同じように『空狂い』なのだから。
「シェル・ブルー・ウェイヴにあやかって……ですか?」
シェル・ブルー・ウェイヴ。魔法無能のユーリス神官にして、楽園に飛空艇をもたらした天才。異端研究者として処刑されたという経歴を持っていながら、今もなお『空狂い』たちの間では限りない憧れをもって語られる存在。
「そ。逆境なんか吹き飛ばして空を飛んだ、最初で最後の『一人者』だ。お前さんにはよく似合ってると思うんだけど」
それは、あまりにも自分の身には余る名前だ、と思ったけれど。似合っている、と言った部長が無邪気に笑ってていたから。未だにその名前を素直に受け止められてはいないけれど、一年が過ぎた今日この日も『ブルー』のままでいる。
そしてきっと、これからも。
部長のことを少しだけ理解して、『ブルー』という名前を得たその日から、本当にゆっくりとした歩みではあるけれど、確かに自分は前に進んでいる。時には立ち止まって、後ろを振り向いて、後ずさりしてしまうことだってあったかもしれない。
すると、いつも部長はそんな自分に手を差し伸べて、言うのだ。
「なあ、ブルー!」
その次に言われることは、大体が本当にくだらないこと。
それでも、必ず、頷いてその手を取ろうと決めたのだ。
部長は確かに阿呆でどうしようもない『空狂い』だけど、決して馬鹿ではないから……どうしてもすぐ立ち止まってしまう自分に、新しい世界を見せてくれると信じているから。
信じて――いるんだ。
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