はじまりの鐘(2)
去年の春――学校に入ったばかりの自分は、当然浮いていた。
そりゃあそうだ、この目立って仕方ない見た目で、しかも義理とはいえ楽園全体に宣戦布告を吹っかけた馬鹿野郎、異端研究者ノーグ・カーティスの弟なのだから。
あの馬鹿がもう少しまともに立ち回ってくれていれば、今もなお禍根を残すことはなかったかもしれないのに、というのはもはや今更過ぎる愚痴で、今はただその事実を背負って毎日を淡々と消化していくしかないと、思っていた。
幸いと言うべきか何というか、新入生といっても年は周りより五つほど上であったから、誰もが遠巻きにして積極に関わろうという姿勢を見せなかった。下手に絡まれるのも面倒くさいからありがたい、と思うことにして、日々の勉強に打ち込むことで気を紛らわせる毎日だった。
唯一、そんな自分に積極的に関わってくれたのが、部長だった。
当時はまだ航空部に入るとは決めていなかったとはいえ、飛空艇技師の家に生まれて技師を目指す自分としては、同じような志を持つ同室の部長が一番話の合う相手ではあった。
ただ、他の人たちとは正反対に、「ノーグ・カーティスの弟」である自分に対して極端に肯定的な反応を示す部長が奇妙で、怖かったのも事実だった。
要するに、部長が何を考えているのか、さっぱりわからなかったのだ。
部長が投げかけてくる優しさに何か裏があるのではないかと疑い続け、極力自分自身の話はしないように心がけて、部長と自分の間に線を引いた。部長がその一線を越えてくるようなら、こちらの心に踏み入ってくるようなら、拒絶する覚悟すら決めて。
結局部長は、その一線を決して踏み越えてはこなかった。
それで安堵していたこの時の自分は、さっぱり気づいていなかった。
――部長は、こちらが「線を引いた」という事実に気づいていた、ということに。
そんな風に、誰に対しても壁を作っていたある日……知らない上級生の集団に声をかけられた。
とても汚い言葉で何かを言われて、路地裏に引き込まれて。とりあえず、厄介な奴らに目をつけられてしまったのだな、とやけに冷静に思ったことは覚えている。
上級生たちの言い分を纏めるとこうだ。
「反逆者の血を引く奴は、皆同じような考えを持つものだ。だから自分たちがその芽を今のうちに摘むべきだ」
全く、めちゃくちゃな言い分にもほどがある。だからその時の俺は、苦笑すら浮かべて答えたのだったと思い出す。
「俺、養子なんで血は引いていませんが」
見ればわかりそうなものだろうに。ノーグ・カーティスの顔なんて、この町のあちらこちらでも見ることが出来る。神殿が出している手配書に描かれた似顔絵は、俺とは似ても似つかない。当然あの人は青い髪なんてしていないし、目の色だって銀色じゃない。
もちろん、自分が言ったことが相当とんちんかんだったこともわかっている。結局のところ、上級生たちの言葉に意味はない、ただ「ノーグ・カーティスの弟」という得体の知れない物体を排除したい、それだけだったに違いなかったのだから。
そんな奴らに、俺の言葉など届くはずなくて、返ってきたのは「口ごたえするな」という言葉と重たい拳だった。
顔を狙った拳を避けることはしなかった。頬に拳が食い込み、頭が揺さぶられてその場に倒れた自分に対し、次々と蹴りや踏み付けが繰り出されるのを、歯を食いしばって耐える。
そんな状態を、やっぱりその時の自分はやけに冷静に分析していた。
痛みなんて慣れている、冷たい視線と耳に届く心無い言葉の方がずっと息苦しいのだから、こうやってわかりやすい形で感情をぶつけてもらった方がよっぽど気が楽ですらあった。
とにかく頭だけは庇って、上級生たちの気が済むのを待っていた、その時だった。
「何やってんだよ、お前らっ!」
上から、声が降ってきて……反射的に、空を見上げた。
そう、声の主は確かに自分の視点より遥か上にいて……俺を蹴飛ばすのに意識を持っていかれていた上級生たちも、呆気に取られて空を仰ぐ。
声の主、部長は、何故か屋根の上に仁王立ちになっていた。
どうやって登ったんだろう、家の人の迷惑にならなかったのだろうか、などと緊張感のないことを考えてしまう程度には、自分もその時の状況を正しく理解していたとは言えなかったのかも、しれない。
「おい、あれ、空部じゃねえか」
「何やってんだあいつ」
「そういや、こいつと同室だって聞いたことあるぞ」
などと囁きあう上級生たち。自分もまた、ただただ呆気に取られて部長を見上げることしかできなかった。
どうして、どうして来たのだろう、この人は。
不可解な気分になりながらも地面に這いつくばったまま空を見上げていると、部長は「とうっ」と気の抜けた掛け声と共にこちらに落ちてきた。この高さで大丈夫なのか、と思ったが、地面にぶつかろうとしたその瞬間に、空気が動いて部長の体を支えたのがわかった。
――呪文抜きで、魔法を使ったのか。
この時まで、自分は部長の魔法をあの披露会以外でまともに見たことがなかった。魔法実技で優秀な成績を収めているのだろうな、ということはわかっていたが、専業の魔道士でも難しいといわれる落下制御の魔法を呪文なしで扱うほどの腕前だとは思わなかった。
当然、上級生たちもにわかに顔色を変えた。多分、部長の魔法の腕を、俺以上によく知っていたのだと思う。リボンを巻いた右手に杖を手にした部長は、つかつかとリーダー格の上級生の前まで歩み寄りながら言った。
「お前ら、よってたかって新入生いじめて、恥ずかしくねえのかよ?」
その声は、同じ部屋で聞いていた部長の声とは全く違った。ひどく落ち着いていて、それでいて明らかな怒気を含んだ、低い声。この人にこんな声が出せたのか、と妙なところで驚いた記憶がある。
部長に対して怯えに近い表情を向けていたリーダー格の上級生は、それでも出来る限りの虚勢をこめた大声を張り上げる。
「うるせえよ、空部! いい子ぶってんじゃねえよ、こいつはあの反逆者、異端研究者ノーグ・カーティスの弟だぜ?」
「そんなの知ってるよ」
部長はあからさまに不機嫌そうな顔になって言った。そんな部長の態度をどう勘違いしたのか、上級生たちは口々に、その前に俺に言ってみせたようなことを繰り返す。反逆者の弟は反逆者であり、この学校に、反逆を企む異端がいるなんて許されることじゃない。さっさと追い出してしまった方が、皆のためになるのだ、と。
そんな上級生たちを、部長は上目遣いに睨めつけて――
「お前ら、ノーグの弟、ノーグの弟って言うけどさ、それがこいつと何の関係がある」
あっさりと、言い切った。
その言葉に誰よりも唖然としたのは、俺自身だった。
何よりも「ノーグ・カーティスの弟」であると聞いた時に喜んでみせた部長が、己の言葉を真っ向から否定したように聞こえて……その言葉を、どう考えてよいのかわからずに戸惑った。
そんな俺の戸惑いなんか知らないままに、部長は頭一つくらい大きな男子たちを前に、一歩も引かずに声を荒げる。
「生まれとか、育ちとか。そんなの、そいつが選んだわけじゃねえだろ? そんなことを理由に相手を貶めるなんて最低だよ、手前らは!」
「何……だと……?」
流石に、部長の言い方にはかちんと来たのだろう。今まで気圧される形だったリーダー格の上級生が、明らかに額に青筋を立てた。
「や、やばいっすよ! あれに手をあげたら、後で何を言われるか……」
やけに怯えた表情の取り巻きに対し、部長は獰猛な笑みを浮かべて手をちょいちょいとやって上級生たちを挑発した。
「遠慮すんなよ。勝っても負けても、手前らのことは黙っててやる。フェアじゃねえから、魔法だって出さないでおいてやる」
言いながら、片手の杖をベルトに収めて。圧倒的に腕っ節の強そうな連中を前に、部長はどこまでも真っ直ぐに、
「こいつは大切な俺の友達だ。落とし前は、つけてもらうぜ」
そう――言った。
友達、だなんて。俺は一度も認めた覚えはない。
それでも部長は言った。迷いなく、「大切な友達」と。
そんな部長に対して、自分は何も応えられないまま、地面に這いつくばったままで。上級生の一人が放った拳が、部長に向かって放たれるのを、見ていることしかできず。
全く避けることも出来ないままに吹っ飛ばされ、他の奴らに続けてたこ殴りにされていく部長を、直視する羽目になってしまった。
――弱っ!
今度こそ、本気で呆気に取られるしかない。
あれだけ大きな口叩いておいて、喧嘩は全然できないんじゃないか……どうやら、魔法を扱わせれば一流だけれども、拳でやり合うことには慣れていなかったようだ。普段どれだけすばしっこく動いていても、いざという時動けなければ何も意味がない。
それでも、何度も殴られて、頬は腫れ、唇は切れ、制服の腕や膝が擦り切れて血が滲んでも……部長は折れなかった。力が篭っているとは言いがたい拳を突き出し、何とか抗おうとするが、そんな拳が届くはずもなく、あっさりと受け止められて手痛い反撃を食らっている。
それなのに、それなのに。
まだ、部長は膝をつかない。口の中に溜まった血を吐き出して、掠れた声で、叫ぶ。
「謝れよ、こいつに謝れ! 手前らは、やってはならねえことをしたんだよ!」
「うるせえ、貴族様だか何だか知らねえが、偉そうなこと言ってんじゃねえ!」
リーダー格の男子が放った拳が、部長の顎を完璧に捉えた。小さな部長の体が軽々と宙を舞い、壁に叩きつけられたのを、見た。
……何を、しているのだろう、と。
その時に、初めて俺は己に問うた。どうして、自分はここに這いつくばったまま、立ち上がろうとしなかったのだろう。簡単に折れて、諦めて、嵐が過ぎ去るのを待とうなんて思ってしまったのだろう。
本当は俺とは全く関係のないはずの部長が、今もなお立ち上がろうとしているのに……自分はここで呆然としているのだろう?
本当は。
「……て」
俺が、俺自身が、
――克服しなければならない、ものだというのに。
壁に手をつき、立ち上がり。
「やめて、ください」
掠れる喉を震わせて、声を上げる。そこで、初めて俺の存在を思い出したかのように、その場にいる全員がこちらを見たことを覚えている。
もちろん、部長も……ほとんど原形をとどめていないように見える顔で、それでも輝きを失っていない黒い双眸をこちらに向けていた。
「何だ、手前……まだやるってのか?」
一番近くにいた、背の高い上級生が近寄ってきて、胸倉を掴んでくる。その手首を、軽く掴む。
「やめてください、って言ったのですが、聞こえませんでしたか? それとも、人の言葉もわからないほどの馬鹿ですか?」
「……ああん? 何ふざけた」
その言葉を聞き終わる前に、相手の手首を握った手を捻り、体ごと地面に叩きつけてやった。
驚愕の表情で全員が固まる。まさか、という顔だ。そういう顔で見られたことは一度や二度ではないけれど、今も慣れないしきっとずっと慣れないだろう。慣れては、いけないだろうとも思っていて……それだけに、本当は入学早々こんな姿を人に見せたくはなかったのだけれども。
割れた眼鏡を外し、泡を吹いて気絶している上級生の顔の横に叩きつける。
その時の俺は、もう、迷わないと決めて――声を、上げた。
「来いよ、アンタらの相手は俺だろ! そんなに追い出したいってんなら、力づくでやってみろ!」
その叫びを聞いた上級生たちは、一斉にこちらに向かって飛び掛ってきて……
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