机上の空、論。(7)
「手前、馬鹿にしやがってぇ!」
ナイフを構えなおした男が、立ち上がりざま凄い勢いで突っ込んでくる。
流石に徒手でこれを受け止めることは出来ないから、一歩下がって避ける。それでも、予想以上に鋭い返す刃が、肩の辺りを掠めた。じわりと伝わってくる痛みは、唇を噛んで耐える。
先ほどは不意打ちだったから簡単に転がすことが出来たけれど、本気でかかってくる戦闘の専門家相手にどうこうする技術は……もう、とっくに忘れている。平和ボケ、と笑われても仕方ないかもしれないけれど、それが己の選んだ道だ。
当然、怖くないと言ったら嘘になる。どんなに力が強くたって、それを上手く使えなかったら意味がない。耳が痛くなるほどに言われ続けたことを、今、改めて実感する。こんな短いナイフでも、人を殺すだけの力があると知っているだけに……怖い。怖いに決まっている。
それでも。
踊るように、一歩、段を上る。
急所を狙う、ナイフの先端からは目を逸らさずに、更に上へ。
仮面の男が笑ったのが、わかる。階段を昇ってしまえば、床の上よりも更に逃げ場はなくなる……自分で自分の首を絞めているようなものだと、思ったのかもしれない。
実際、自分ひとりなら、そういうことになるだろう。
だけどさ、この場にいるのは自分一人じゃないって……アンタたちだってわかってるだろ?
螺旋階段を昇りながら、手すりの下を見る。執拗に追いすがってくるナイフ男に対し、もう一人の男は魔法使いなのだろう。こちらに向かって、手を掲げているけれど……何を仕掛けてくるかなんて、生まれつき魔法の才能を持たない以上見ただけではわからない。
わからないから、頼らせてもらうんじゃないか。
――頼みましたよ、部長。
「はは、そいつは通さねえよ!」
声は出さなかったはずなのに、まるで息を合わせるかのように、上から降ってくる愉快そうな笑い声……そして視界を染める光の雨。
それは、初めてこの学校に来た日、部長が校庭に咲かせた光の花と全く同じ色をしていた。
赤に青、緑に黄色。きらきらと輝く光が横をすり抜けて真っ直ぐに降り注ぎ、遥か下方……今にも魔法を放とうとしていた男を直撃した。
「う、うわああっ」
情けない叫び声と、床に何かが倒れる音。これで、すぐにこちらを邪魔されるということはない、はずだ。
シェルは無事だろうなあ、とちょっとだけ不安になりながらも、今はそっちに意識を向けている場合では、ない。
「何、しやがったあああっ!」
伸び上がるようにして突き出されたナイフが今度は頬を掠める。う、顔は後で言い訳できないから嫌なんだけどな。後で部長に治してもらおう……ここを、乗り切ったら、だけれども!
覚悟を決めて、一歩、踏み込む。階下に待つナイフ男に向かって、飛び込むように。
人の命を奪うことの出来る武器を前に、守ってくれる盾もない。それでも、もう迷わない。
『お前は、凄いよ』
違うんだ。あの時は上手く言えなかったし、今も言葉には出来ないけれど……凄いのはそっちなんだよ、部長。
何の疑いもなく、心のままに全てを認めてくれる言葉。その言葉だけで、自分は……俺は、少しだけだけど、胸を張れる。一人ではためらってしまう一歩を、踏み出すことが出来るんだから。
ひゅっ、と耳に届いた呼吸の音は、俺のものだったか、相手のものだったか。
握った拳を振り上げて――針を、回す。
銀色に輝く時計の針、それはあくまで心の中に浮かび上がる空想にすぎない。けれど、幻の針を頭の中でそっと回すだけで、世界は色を変える。
何もかもが色を失い、音は消えて。動きを止める世界に対し、体は何もかもから解き放たれたように軽くなる。急に生彩を失ったナイフの切っ先の横をあっけないほど簡単にすり抜けて、握った拳を、男の顔に向かって突き出す。
拳が男の仮面を叩き割って、頬にめり込んだ確かな感覚。
その瞬間に、止まっていた時間は正常に動き出す。
男はナイフを手に握ったまま、階段を盛大に転げ落ちていく。こちらも勢いづいて一緒に落ちそうになるが、何とか手すりに掴まって耐えた。
恐る恐る下に降りてみると、何だか見るに堪えない姿になってしまったナイフ男と、部長の光の雨をもろに浴びてしまった魔道士の男が一緒になって伸びていた。……死んではいないようで、胸を撫で下ろす。部長はともかくこっちは手加減が苦手なのだ、いくらこいつらがこっちを本気で殺す気だったとしても、これで死なれでもしたら流石に寝覚めが悪すぎる。
「ブルー! 大丈夫かー?」
「大丈夫です! 今、そっちに行きます!」
上から聞こえてきた部長の声に返し、階段の下で震えていたシェルを、そっと拾い上げる。シェルはふわふわの毛を逆立てて、怒っているのか何なのか、肩に飛び乗ってこっちの髪をしつこく引っ張り始めた。いやだから痛いから勘弁してって。頼むからそれを日課にしないでいただきたい。
……部長の言うとおり、ライバルだと思われているのだろうか。
それはそれで、ひよこに同格だと思われている事実を自覚して、ちょっと悲しくなるだけなのだけれど。
シェルを何とか髪の毛から引き剥がし、手の上に載せて階段を一気に駆け上る。
下から見上げると気の遠くなりそうな螺旋階段だったけれど、実際に上ってみるとそれほどの長さではなくて、塔の一番高いところまではすぐだった。
そして。
頂点の鐘の後ろ、大きな窓から足を投げ出すようにして、部長は座っていた。東の空には朝日が眩しく輝いていた。
そんな日の光の中で、部長は笑う。いつもと全く同じ顔で、とても、とても、愉快そうに、
「お疲れさん、ブルー」
晴れ晴れとした声を当たり前のようにかけてくるのだ。
――本当に、悔しい。
結局、今回もまた部長にしてやられた形になってしまったから。
「……どうして、一人でここに来たんですか」
問いながら、シェルを離してやる。シェルはてちてちと頼りない足取りで、本来の飼い主である部長の下へ歩いていった。それを見送りつつ、言葉を続ける。
「一人で相手する気だったのですか? 馬鹿じゃないですか、俺が間に合ったからよかったものを、部長、喧嘩はめっぽう弱いじゃないですか、死ぬ気だったんですか?」
「違うよ」
部長は青いひよこを拾い上げ、定位置である頭の上に載せて笑う。
「絶対にブルーは来てくれるって、『知ってた』から」
――俺にだって、知ってることくらい、あるさ。
昨日の夜、「部長は何も知らない」と喚いた俺に対してそう言った、部長。
部長は、己の言葉が正しいことを、俺に示してみせたのだ。こんな、むちゃくちゃなやり方で……それでいて、全く否定の余地がない形で。
その答えはとっくのとうに想像出来ていたというのに、全身から力が抜けてその場に膝を突いてしまった。緊張の糸が切れたともいう。
「ああ……もう、ああもう部長はああああああ!」
思わずその姿勢のまま頭をかき回してしまう。このやり場のない怒り、どうしてくれよう。これだけ綺麗に引っかかってしまったのだから、今更部長にぶつけることもできない。
部長はそんな俺をにやにや笑いながら見つめていたが、不意に真面目な顔になって、空に視線を移す。
「それにさ。連中が『エメス』だってわかってたら、お前は絶対に、誰にも言わないまま一人で奴らとやり合う気になるだろうな、って思って。とにかく、それだけは避けたかったんだ」
「……え?」
つられてその視線を追いながら……問い返してしまう。
部長は、珍しく苦笑なんて浮かべてこっちを見た。
「黙ってて悪い、俺、実は最初から知ってたんだ。部室を荒らした連中が、初代の記録を狙った『エメス』の連中だったって」
どうして、という問いは言葉にならなかった。けれど、部長は俺が何を言いたいのか察してくれたのだろう、ポケットの中に手を突っ込んで、何かを取り出す。
「じゃじゃーん」
いや、そのファンファーレ要らないから。
何とも気の抜ける効果音と共に部長は手を開く。そこには……見覚えのある、メダルがあった。歯車の上に交わる剣と杖、『エメス』の紋章。『エメス』の構成員だけが持つことを許されているはずのそれを何故か部長が持っているという事実に、つい部長の黒い目をまじまじと見つめてしまう。
「こ、これ……どこで?」
「春先、部室が荒らされた時だ。犯行声明のつもりだったのかもな」
「どうして、それを言わなかったんですか! 『エメス』が学校に潜入してたなんて、まともな話じゃないですよ!」
表に出てくる『エメス』の活動といえば、各地の神殿を襲撃したり、自分たちに都合の悪い連中を殺してしまったりとろくなものではない。……中には、純粋に研究だけを目的に『エメス』に名を連ねている研究者がいないわけでもないことは、知っているけれど。
それでも、部室を荒らし、勝手にあの人の残したものを奪おうとするような。そしてこの場で自分たちを殺そうとするような連中を、放っておくなんて頭がおかしいとしか思えない。
苛立ちと共に部長を鋭く睨んでやると……部長は、何ともあっさりと「言ったよ」と言ってのけた。
「モニカせんせには、伝えたんだよ。多分、先生は皆知ってたと思う。ブルーに言うなって口止めしたのはごめん、だけどさ」
……ああ。
本当なら、怒りたかった。
どうしてそんな大切なこと、自分に教えてくれなかったのかと。一人だけ知らないままに、気楽に宝探しをしていた自分が恥ずかしい。教えておいてくれれば、それだけの覚悟を決めておけたというのに。それこそ、部長の手を煩わせるまでもなく、こちらから奴らの方に乗り込むことくらいはしたというのに。
けれど、部長はどこまでも真っ直ぐにこちらを見すえて、言ったのだ。
「そうやって、お前がすすんでノーグの影を背負うこともねえんだよ」
吐き出そうとした言葉が、喉元で止まる。
「俺は、お前がどれだけきつい思いをしてきたかはわからねえ。教えてもらったって理解はできねえよ。でも、それをずっと続ける理由はねえってことくらいは、わかる。誰がお前にそれを望んだわけでもねえんだろ」
――どうして。
言葉に出して、それを伝えたことはない。もちろん、俺とあの人の関係なんて誰だって知っているけれど……今に至るまで、自分があの人についてどう思っているかなんて、一言も言葉にしたことはなかったのだ。
言葉にできるはずもないと、飲み込んでいたのだ。
それなのに。それなのに……
「……ブルー?」
どうして、部長はいつも、俺が一番欲しい言葉を知っているのだろう。
視界が滲む。朝の光が酷く眩しくて、袖で目を拭って……
急に視界が陰って、はっとして顔を上げる。
足音もなく、気配もなく。部長と自分の間を遮るようにして、黒服の男が立っていた。下に置いてきたナイフ男でも、魔道士でもない。目深にフードを被り、先ほどの『エメス』の連中のそれとは違う、やけに派手な道化師の仮面を被っている。
「『空狂い』の阿呆どもが、ついにここまでたどり着いてしまったか……」
地の底から響くような、低い声。囁くようでありながら、全身が震えるほどの力が篭った声で、それだけで鳥肌が立つ。そして、驚くことに……その声は、いつもはただの睡眠音波でしかなかったはずの、レヴァーポップ先生の声であった。
……何してんだ、先生。
一瞬呆れかけたが、すぐに我に返る。
そうだ、あの襲撃です部長に伝えるのもすっかり忘れてしまっていたけれど、レヴァーポップ先生も俺たちが何を探しているのか知っているのだ。考えたくないけれど、先生も、奴らの仲間なのか……
先生は細く白い指先で、腰の杖を抜く。改めて身構える俺に対し、無防備にもばっと立ち上がった部長は、杖すら持たないまま、妙な構えを取って言った。
「出たな、演劇仮面!」
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