机上の空、論。(6)
いつもなら絶対に自分の方が早く起きて、部長を布団から引っぺがす作業から始まるというのに、その部長がいなかった。ついでに、シェルも寝床の篭からいなくなっていた。
夜、あんな失態を見せてしまっただけに、妙に落ち着かない気分になる。
リムリカさんに話を聞いても、部長が出て行ったことは知らないという。
「困ったねえ、最近変な人がうろついているから一人では行動しないように、って学校からも言われてるんだけど」
「エルルシア先生も言っていました。町のあちこちで黒服の男が見かけられるとか」
「そう、それそれ。あの子は本当にわかってるのかね……」
部長を心から心配するリムリカさんの声を聞きながら、とりあえず部長がどこに行ったのかだけでも確かめなければならない。部屋に戻って一通り見てみると……日誌の入った部長の鞄と、昨日物置で見つけた地図が綺麗に消えている。
そして、よくよく見れば、窓のところに小さなメモが貼り付けてあった。
『ブルー、今日の宝探しは俺一人でやる。寮で待っててくれ』
どういう、ことだろう。
言っていることはどこまでも簡潔だ。今日は部長一人で宝探しに行く。自分はここで待てと指示されている。ただ、その理由はどこにも書かれていない。
書けなかったのだ。
知られたく、なかったのだ。
窓は閉じていたけれど、鍵は閉まっていなかった。外の屋根を足場にすれば、窓を閉ざすことくらいわけない。
そして……ここから、飛び降りた。
三階より高くなると辛い、とのことだったけれど、ここは二階だ。魔法で衝撃を吸収すれば、何とか着地できる程度の高さ。魔法を得意とする部長ならわけもない。事実、何度もそうやってこの部屋を抜け出しているところは目撃している。
本当に何を考えているんだ、あの人は……?
とにかく、部長を追おう。待て、と言われて待つつもりはない、どうして自分を置いて一人で出て行ってしまったのか問いたださなくては。見つけた時にどんなことを言われようとも、受け入れようという覚悟だけを決めて。
適当に着替え、髪を縛って眼鏡をかけて、鞄を手に寮を飛び出す。行き先はわかっている、学校の時計塔だ。第四の地図が指し示していた、全ての終わりの鐘を鳴らす、時間を刻む塔。
風は強いけれど、空には今日も雲一つない。一旦立ち止まって、鼻の頭くらいまで下がってしまっていた眼鏡を外す。
……宝探し。
本当に、子供っぽい響きだ。実際、子供の遊びだ。
大人になりきれていない部長が、大人になりきれなかった初代部長に試されている、ただそれだけの話。部長はともかく、自分が最後まで付き合ってやる理由なんてない。部長の言うとおり寮で待っていて、部長が帰ってきた時に話を聞けばそれでもいい、はずなのだ。
それでも――認めるのは悔しいけれど。
必要ない、と言われているような気がして。
また何も知らされないまま、何が正しいかもわからないままに置き去りにされてしまうようで……どうしても、堪えられなかった。
昨日の夜からそうだが、どうして、こんなに泣きたくなるような気持ちになってしまうのだろう。どうして、自分の感情を上手くなだめてやることもできないのだろう。
情けない。情けないな。子供みたいじゃないか。
……いや、結局、子供なんだろうな。今もまだ大人になれないまま、寝るたびに青い空の夢を見て、悲しくて泣いて、その記憶を振り払おうと必死に空を目指している、小さくて泣き虫な子供。
袖で軽く目を拭いてから、眼鏡をかけ直した。
感情の波に飲まれている時間があれば、とにかく部長に追いつく努力をしよう。部長と話をしよう、わからないままでいたら、どんどん悪い方へと考えてしまう。
学校に向けて真っ直ぐに、足を踏み出して……そこで気になる人を見つけた。黒い、フードつきの法衣に身を包んだ、魔道理論のレヴァーポップ先生。昨日部室棟で見たその人が、今度は珍しくも寮の立ち並ぶこの区域をうろうろしているのだ。
どうして、朝早くから、こんな場所をうろついているのだろう? 今まで、この場所では一度も見たことがなかったというのに。
先生はきょろきょろと何かを探しているような素振りを見せていたが、小走りで学校に向かっていたこちらに気づいたのか、ふっと顔を向けた。
涼やかな……北方テレイズ系特有の、微かに緑の混ざった灰青の瞳。いつもは笑みの形になっているその目が、今日はやけに鋭く見えて、思わず足を止めてしまう。
「レヴァーポップ、先生?」
「おや、ブルーくんじゃないですかぁ。どうしました、そんなに朝早くから」
先生はいつもの眠くなるような喋り方で話しかけてくるけれど、どうしてだろう、今日に限ってはその目が笑っていないように見える。思わず肩に力が入るのを感じながら……それでも相手は先生だ。普段通りを装って、何とか震えそうになる唇から言葉を吐き出す。
「いえ……部室に、置いてきてしまったものがありまして」
「空部くんは一緒じゃないのですか?」
レヴァーポップ先生とは、授業の時くらいしか会っていないはずだけれど、流石にそれは誰だって知っていることか。よく考えてみれば、朝起きて夜寝るときまで、授業の時間以外はほとんど部長と一緒なのだから、自分と部長が一緒にいなければ誰だって疑問に思うのかもしれない。
今の自分だって、どうして部長がそこにいないのか不思議なのだから。
それでも……何故か、口を開けば事実とは違うことを言葉にしてしまう。
「ちょっとした用事なので、わざわざ一緒に出る理由もないと思いますが」
「はは、それもそうですねぇ、失礼しました。しかし……エルルシア先生から聞いていませんか? どうも怪しい人がうろついているみたいでしてね。特に夏休みはこの時間も人が少ないですからね、何が起こるかわかりませんよ」
確かに、普段ならば既に朝の部活動に向かう生徒でごった返しているはずの通りも、人はまばらだ。それならば……自分はともかく、部長に何かがあったとしても、気づかれない可能性が高い。
……部長は、それをわかっていて一人で動こうとしている、のか?
駄目だ、それだけじゃ部長が何も言わずに、あんな伝言だけ残して出かける理由としては足らない。あの人は阿呆だけれども馬鹿じゃない、決して馬鹿じゃないんだ。
いや、考えるよりも先に動くべきだ。自分は考えている間に足を止めてしまうのだから、動いてから後悔すればいい。
とにかく、今は先生と話している場合ではなく、部長に追いつくのが先決だ。頭を下げて、レヴァーポップ先生の横をすり抜けようとして。
先生は……くつくつという笑い声と共に、声を、降らす。
「そんなに慌てなくとも、『机上の空』は逃げたりしませんよ?」
――っ!
背筋に走る、違和感。それは「悪寒」と言い換えてもいいかもしれない。
足を止め、じり、と荷物を抱えて一歩下がる。
「どうして、それをご存知なのです?」
喉からかろうじて漏れた声は掠れていて。先生の方が、驚いたような顔でこちらを見てから、取り繕うように言葉を続ける。
「昨日、エルルシア先生が教えてくれたのですよ。空部くんと君が、初代部長の残した宝物を探している、って……」
――それは、絶対に嘘だ。
眼鏡越しに先生の目を真っ直ぐに見据え、言葉を、放つ。
「部長は、昨日から初代部長の宝を探している、とは言っていますが、一度も『机上の空』とは言っていません。何故ご存知なのです?」
今度こそ、先生は黙った。やはり……先生は、何かを隠している。本当ならば知っているはずのないようなことまで知っているのだ、自分たちが宝探しを始めてからあちこちで見かけたのも、偶然ではない。
それならば、あちこちで見かけられたという黒尽くめの男も、きっと――!
「あー、それはね、ブルーくん」
「すみません、お話の途中ですが失礼します!」
全力で、石畳を蹴る。声が、背中から追って来た気がするけれど、すぐに聞こえなくなった。
早く、早く部長に追いつかなければ。とても嫌な予感がする。
これがただの宝探しならよかった、けれど……荒らされた部室、何かを探っているような黒尽くめの男、そして決定的な何かを知っていたレヴァーポップ先生。自分たちが考えるよりもずっと大きな出来事になりつつあるのではないかと、思わずにはいられない。
確信はない。何一つ確信はないけれど、関わっている人物が人物なのだ、いくら不安がったところで間違いはない。
そうだ、この宝探しの発端は、『機巧の賢者』ノーグ・カーティス。
当人の思想や人格は関係なく、かつてここでどのように生きてきたかも関係なく、ただ、厳然たる事実として、あの人は楽園にとっては最大の敵であり……同時に楽園の敵である連中にとっては、神と等しく崇拝される存在。
それが関わった時点で、何がどう悪い方向に転がっていっても、おかしくはないのだから――!
全力で走れば、学校の中、時計塔まではすぐだった。
聳える時計塔は、どのような工法で作られたのかも定かではない魔王城を除けば、おそらくリベルでは一番高い建造物のはずだ。
立ち入り禁止の場所ではあるが、大気の魔力を吸い込み、循環させる仕掛けであるため、月に一度の点検以外で管理人がここに訪れることもない。そのためここまで来るのに見咎められるということもなかった。誰かが、自分がこっちに走っている姿を見て覚えているかもしれないが、それはもう不可抗力とする。
このどこかにあの人の宝が隠されている――
いつも魔法の鍵で堅く閉ざされているはずの扉は、今日に限って薄く開いていた。おそらく、部長がやったのだろう。別段生まれ持った魔力は特筆するほど高くないらしいけれど、技術、という点では下手をすると専門家のエルルシア先生すら上回ると言われている部長だ、鍵開けくらいお手の物なのだろう。
そっと、扉に手を触れると、扉は音もなく奥へと開く。そうする理由もないのだけれど、足音を殺して中に入る。
薄暗い石造りの塔は、壁に取り付けられた階段で上へ昇れるようになっている、ようだ。上へ伸びていく螺旋を見ていると、目が回りそうになる。
この上に、部長が?
もし階段を上っているとすれば、足音くらいはしそうなものだが。それとももう、目指す場所にたどり着いているのだろうか……
思いながら、一段目に足をかけようとしたその時だった。
突然、ぐいと肩を押されて、強い力で壁に押し付けられる。はっとしてそちらを見ると、仮面を被った黒い影が、こちらの肩を片手で押さえ、片方の手で首元に何か……多分ナイフか何かだ……を添えていた。
ひゅっ、と喉が鳴る。
怪しい人どころじゃない、これは明らかに危険人物じゃないか。
こんなところまで入れてしまうなんて、衛兵は何やってるんだよ……部長に言わせてみると、リベルの衛兵とは「魔王城に忍び込もうとする子供を追い払う達人」を指すらしいから、まあ、そもそも期待すべきでない人たちなのだろうな。
ナイフを持つ男の後ろからもう一人、これまた黒い仮面で顔を隠したひょろ長い体の男が現れて、聞き覚えの無い声で聞いてくる。
「今日は一人か。小さいのはどうした?」
「し、知りません、よ。こちらが探してるくらいなんですから」
「生意気な口を利くガキだな」
ナイフを持った男が、甲高い声で言って刃を喉に当てる。少しでもこちらが動けば刃が喉に食い込むだろう、ということくらいは、わかる。以前にもこんなことがあったから。
「まあいい、お前が動いてくれたお陰で、我らが主の残した記録の場所がわかったのだ。もはや泳がせておく理由もない」
――我らが、主……っていうと、ここで考えられるのはたった一人、か。
眼鏡越しに、視線だけをナイフを持つ男の手首に向ける。案の定、そこには剣と杖を交差させた、歯車の紋章をあしらったメダル……『機巧の賢者』ノーグ・カーティスを崇める異端研究者の秘密結社『エメス』の証があった。
いつも思うのだけど、秘密結社というわりに全然隠していない気がするのだけれど、ここまで有名になってしまえばもはや隠す隠さないの問題ではないのだろうな……
言葉を出すことも許してもらえないまま、ただ壁に磔になっているこちらに、ナイフの男が「けけけ」と癇に障る笑い声を立てる。
「お前さんを追いかけるのは楽勝だったぜ。その派手な見た目が仇になったなぁ、ガキんちょ?」
……むかつくけれど、何処までも、何処までも、事実だ。
この見た目で目立たないわけないってことくらい、自分が一番よく知っている。
当然、一緒にいる部長だって……部長、だって?
――もしかして、
「ブルー!」
思いついた瞬間に、聞き慣れた声が塔の上から響いて。
「誰かいるのか?」
と背の高い男が上を向いた途端。
ぽとん、とその仮面の上で跳ね、改めて床に着地した……青くてふわふわの塊。
ぴょ、と抗議するような声を上げてすっくと石畳の上に立ち上がったそいつは、部長の愛鳥、青いひよこのシェルだった。流石に落ちてきたのが生きたひよこだとは思っていなかったのだろう、仮面の男たちの視線が、てちてち歩くシェルに釘付けになって。
その時、男たちは気づかなかったようだけれど……自分は確かに見ていた。
遥かな頭上、薄闇の中で輝く、空の船乗りたちが使う光の信号。魔法の杖が放っているのだろう薄青の信号は、部長らしくとても簡潔だった。
『やっちまえ』
そういうことか……部長!
完全に、部長にしてやられた。昨日の今日でこれだなんてやってくれる。ずいぶん馬鹿にされたものだと思うけれど……それよりも何よりもおかしくて、思わず口元が笑みの形になってしまう。
「何、笑って……」
こちらに顔を戻したナイフ男が、喉に当てたナイフに力を入れようとするけれど。
残念ながら、こちらの方が速い。
姿勢を動かさないまま、腕だけをとんと突き出す。別にすごく力をこめたつもりじゃないけれど、男の体はナイフごとあっさりと離れ、床にころりと転がる。
やっとのことで自由になった肩をぐるりと回す。喉の皮が引きつるから、少し切ってしまったのかもしれないけれど……この程度どうということない。
「な……何を」
呆然と、ひょろりとした男が呟く。ナイフ男も転がった姿勢のまま、何が何だかわからないという様子でこちらに顔を向けている。
……そういう顔で見られるから、あまり見せたくはなかった、けれど。
「シェル、危ないから隠れてて」
ぴぃ、と頷いて階段の隅に隠れるシェルを横目に、ゆっくりと銀縁の眼鏡を外す。
――部長。
悔しいけれど、今は素直に感謝するしかない。
「悪いけど、痛い目に遭うのはそっちだ」
視線を隠すためだけにかけていた眼鏡を、胸ポケットに収めて。
ありがとう。
ここならば、誰の目を気にすることなく、本気を出せる。
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