大掃除狂騒曲(3)

 結局……部室を片付ける手伝いをしただけで、一年前のその日は部室を出たのであった。また来るかもしれない、とは言ったけれど正直どうしたものかと思っていた。

 部長以外に誰も部員がいないことにはそれなりの理由がありそうで、その点ではとても嫌な予感がしていたけれど。

 それ以上に――部長の反応が、心に残っていて。

 もう一度、今度はきちんと話を聞いてみてもいいかもしれない、決めるのはそれからにしよう。思いながら長く伸びた髪の先を指先でくるくるやりつつ、一通り学校の中を見てから寮への道を歩いていた。

 ……寮。そう、入学したその日から寮に入ることになっていたのだ。

 本当は数日前に入る予定ではあったのだが、手続きやら何やらに手違いがあって入学式当日の入寮となってしまったのだった。荷物はあらかじめ届けてもらっているはずだったから、学校に必要なものだけを鞄に詰めて、地図を片手に知らない道を歩いていた。

 同じ学生服を着た生徒たちが、ちらちらとこちらを見ては目を逸らす。その視線を感じながらも、知らない風で髪をくるくるやり続けるしかなかった。

 これからは、きっと、もっと心無い視線を向けられるのだろう。そう思うと気が重くて、何ともやるせない気分になって、寮に向けた足も重たくなる。

 だけど、中には、中にはああいう人もいるのだ、と思うことで下がりかけた頭を上げる。何も言わず、当たり前のように招き入れてくれて、しかもあれほどまで好意的な反応を示してくれた、部長。

 本当に……部長は知らないと思うけれど、今更恥ずかしくて言えないけれど、救われた気がしたのだ。

 大丈夫、自分はここでやっていける。きっと。

 自分で自分に言い聞かせて、寮の前に立つ。

 町に数多く存在する学生寮の中で、一際古く小さな白い建物。『白樫寮』という看板が取り付けられたそこは、父さんが勧めてくれた場所だった。話は通してあるし、そう不安がることはないと父さんは請け負ってくれたけれど……不安は募るばかり。一瞬前を向いたのが嘘のように、心がしぼんでいったのを思い出す。

 それでも、扉の前で立ち尽くしているわけにもいかない。思い切って、玄関の鈴を鳴らした。響き渡る音色が消える前に、扉が開く。

 扉の向こうから顔を覗かせたのは自分よりも遥かに背の低い女の人、寮母のリムリカさんだった。リムリカさんはドワーフで、長年この白樫寮で働いているということは、父さんから聞かされていた。

 そのリムリカさんが、こちらの顔を見上げたまま呆然として目を白黒させていたこともはっきりと思い出せる。

 けれど、名前を名乗って今日からこの寮に入ることになっている旨を伝えると、急にぱっと笑顔になった。

 そう、それは部長が見せてくれた反応とよく似ていた。

 リムリカさんは嬉しそうに笑いながら寮の中に招き入れてくれた。そして、こう言ったのだった。

「そうかい、アンタが! 何だい、どんな悪ガキかと思ったら、随分礼儀正しいいい子じゃないか」

 ……事前に色々伝わってはいたのはわかるけれど、何が伝わっていて、リムリカさんにどう思われていたのだろう。正直、今でもよくわからない。

「あの……一体、父からどう聞いていたのですか?」

「いやいや、こっちの話さね。それじゃあ、まずはアンタの部屋に案内するよ。顔合わせはその後だね。アンタの部屋は、ここの二階。紫位の子と同室だよ」

 リベル上級学校が階位を色で表すことは、入学する前から教わっていた。入学したての自分は第一階位の赤位で……紫といえば第六階位、上から二番目の階位になる。

 リムリカさんは階段を昇りながら、同室の先輩について付け加えた。

「少し変わった子だけど、決して悪い子じゃないから仲良くやれると思うよ」

「は、はあ……」

 変わった、という言葉が妙に引っかかった。すごく、引っかかった。だが、引っかかるだけだった。

 本当ならば、その時に既に嫌な予感を覚えるべきだった。

 けれど、その時の自分はぼうっとしたまま、リムリカさんに連れられて扉の前に立つだけだった。扉だけ見れば変哲の無いただの扉だ。それは当然といえば当然だが。

 リムリカさんは軽く扉をノックして、部屋の中に声をかけた。

「新入生の子が来たよ、入れてあげてちょうだいな」

「あ、え、ちょ、ちょっと待って! まだ片付いてな……」

 何か聞き覚えのある声がした、と思う間もなく、リムリカさんは鍵が開いているかどうかを確認もせず、問答無用で扉を開く。

 そして――


 まさしく、そこは魔界だった。


 魔界の主は、足の踏み場もないほどの紙と本と模型に埋め尽くされた部屋の真ん中に立ち尽くす、見覚えのある赤毛の上級生……つまりどこぞの航空部長で。部長は空っぽの木箱を両手に抱えて以下略。

 あれ、こういうのって既視感って言うんでしたっけわかりません。

「あ、あれ? どっかで見た顔……」

 呆然とこちらを見る部長。部屋を見渡して渋い表情をしていたリムリカさんは部長の言葉に「おや」と意外そうに眉を上げた。

「何だい、会ったことあるんだね?」

「そうそう、さっきうちの部室に来てくれたんだけど……もしかして、お前さんが同室なの?」

 途端に、部長の顔がぱっと明るくなった。一体どう反応していいかわからずおろおろしていると、部長は迷わずこちらの手を取った。小さくて意外と無骨で、やけに器用そうな手だ、と意味もなく分析してしまったことを思い出す。

 その手首に巻かれた緑色のリボンが、やけに鮮やかに目に映ったことも。

「改めて、これからよろしくな! あとよかったら空部に入るといいと思うぜ!」

「……え、ええと……よ、よろしくお願いします。で……」

 視線を、部長から、どうしようもなくなった部屋の中に彷徨わせる。本当は直視したくなかったのだけれど、結局見ずにはいられなかったのだ。

 先ほどの航空部室と何も変わらない、むしろ部室をそのまま持ってきたのではないかと疑いたくなる、航空に関する写真と絵と書物に満ちた部屋。

 唯一違うところといえば、部屋の両隅にそれぞれ寝台が一つずつ置かれているところだった。それも、部長が使っている寝台の上は本や物に溢れていて、とても寝られるような状態ではない。

 ……実は普段からその状態で、体の小さい部長が更に体を丸めて眠っていたのだと知ったのはもう少し後の話だけれども。

「……これ、片付けないと、荷物も置けません、よね」

「お、おう。ごめんな、新入りが来るから片付けようと思ったんだけど、何か間違えてばら撒いちまってさ」

「何で間違えて悪化させるんですかああああ!」

 叫んだところで、結局ここがこれから数年間を過ごす場所であり、「今、ここを掃除しなければならない」という事実が覆るわけではなかったのだけれども。

 部室の時と全く同じように部長と共に片づけを始めながら、この時に一つだけ、覚悟を決めたことがある。

 ――航空部に入るか入らないかはともかくとして……これから数年の間、最低でも自室の掃除は自分の担当になるのだろう、と。


 

「……思い出したら無性に腹が立ってきました」

「え、い、今更? 今更恨んだりするわけ?」

 部長がぎくっとした顔をする。けれど、そんな間抜けな部長の顔を見ていると、肩の力も抜けてしまうというものだ。

 ……出会ったその時から今の今まで散々部長に振り回されてきたけれど、それでも他の連中のように航空部を辞めずにいられているのも、部長のやることなすことに悪気がないとわかっているからだ。悪気がないからタチが悪い、ともいうのだけれど。

 何といえばいいのだろう……どうしても、憎めない、のだ。

 この程度のタチの悪さなんてまだマシな方だと思ってしまう辺り、ずいぶん自分も道を踏み外してきてしまったのではないか、と疑いたくもなる。部長のせいで危うく生命の危機に瀕したことも、一度や二度ではないのだけれど。

 肩を落としたまま、木箱が崩れないように積み方を整えて。

「まあいいです、それは確かに過ぎたことですしね。……今日はこれからどうします?」

「俺は追い出されるまでは残ってるよ。先帰ってても構わないぜ?」

 そうですね、と窓越しに学校の時計台を見る。

 何だかんだで時間を食ってしまったから、日暮れの時刻も近い。もう、新入生はほとんど各々の寮に帰ってしまったに違いない。もし仮に学校に残っていたとしても……自分が残っていると、新入生だって部屋に入りづらいかもしれない。

 部長に言えば「そんなことないだろ」とあっけらかんと笑ってくれるだろうこともわかっている。わかっているから、何でもない風を装って言う。

「それでは、お言葉に甘えさせていただきますね。リムリカさんには、遅くなると伝えておきますので」

「おう、頼んだぜ!」

 部長は白い歯を出して手を振る。シェルは部長の頭の上でひよひよと鳴いている。心なしか目つきが悪く見えるのは、こちらの被害妄想だろうか……まだちょっとぴりぴりする頭皮を無意識に押さえつつ、部室を後にした。

 斜めに差し込んでくる日の光が、町をゆっくりと赤く染めていく。学校の時計台が帰宅を促す鐘を鳴らし、同じ制服を着た学生たちがぱらぱらと帰路についていた。

 中には知った顔もあって、「ブルー、じゃあな」といつも通りに手を振ってくれる。手を振り返すと、その横にいた知らない男子……多分、新入生だ……が不思議そうな顔でこちらを見てから、慌てて頭を下げて走って友人を追いかけていく。

 ――ああ、本当に、一年が過ぎたのだと実感する。

 上げたままだった手を下げて、夕焼けの空を見上げる。

 何だかんだあって、航空部の名簿に名を書き入れてしまって一年が経って。何度か辞めてやろうと思ったことも、なかったわけではないけれど。今日みたいに部長と下らないことで騒いで、時には周りの迷惑なんか顧みずに空を目指す。何も余計なことを考えなくていい、という意味では……そう悪くない毎日ではある。

 ただ、ひとたび一人になって、こうやって空を見上げていると、何故か心がぎゅっと締め付けられる。

 空が綺麗であれば綺麗であるほど、今にも泣き出したくなるような気持ちになる。

 空……空は、決して自由ではなくて、手の届く場所ではなくて、だからこそ魅せられる――部長の口癖だ。言葉自体は誰かさんの受け売りなのかもしれないが、部長が背負っている空への思いそのものであることは疑いない。あの人はそう難しく考えない。考えないように、している。

 ただ……自分は、どうだろう。

 純粋な憧れとはまた違う。空を見上げているだけで、不意に泣き出したくなるような、胸にぽっかり穴が空いたような、それでいて酷く苛立ちを掻きたてられるような、いても立ってもいられない気分になる。

 理由は、わかっているつもりだ。わかっているつもりでも、胸の中に湧き上がってくるこの思いをどうすることもできなくて……だから、空を目指して生きてきた。

 あの場所に、あの人が目指して届かなかった場所にたどり着けば何かが変わると信じて、空を飛ぶために必要な知識を身につけるためにここにいる。こんなままならない足取りで、空に近づけているかどうかはまだわからなくて。それもまた、苛立ちを呼ぶ原因なのかもしれない、とは思う。

 ――ああ、下らない。

 そんな醜い感情を理性で押さえ込み、ふと空から視線を下ろした瞬間に、何かが視界の端で動いたような気がした。何とはなしに視線だけを向けると、ちょうど航空部室の横を、学校ではあまり見ることのない黒い服の人が背を丸めて走り去っていくところだった。

 ……生徒にも見えなかったけれど、誰だろうか。

 ただ、何をしていたというわけでもなさそうだし、これだけ大きな学校だから、まだ顔を見たこともない先生だっている。教師の服装は自由だから、多分、自分の知らない先生だったのだろう……そう思うことにして寮へ帰る道に着き、


 

 翌日、その選択を後悔する羽目になる。

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