青色薔薇の咲く街で(3)

 目の前に聳えるのは、数百年の時を経ながらなお漆黒の壁をさらして佇む魔王イリヤの居城。かつて楽園を恐怖に陥れ、近づく者もなかったとされる城は、今や楽園の各地から訪れた人で囲まれている。

 城の前には即興で作られた舞台が置かれて、そのほとんどには幕がかけられていたけれど……よく目を凝らしてみると奥の方にはうちの学校の楽団の面々が座り、更に奥には劇のための舞台装置が並べられているのが見て取れた。

 どうやら、劇の開始には間に合ったようだ。

 ただ、舞台は何とか見えるけれど、これでは演者が米粒にしか見えない。クラエス先輩があの壇上にいるかいないかなんてわかりやしない。自分でそうなんだから、部長はもっと見えていないに違いない。そもそもこの姿勢じゃ、背中しか見えないと思うけれど。

 すると、部長が再び背中をつついて言った。

「城に向かおうぜ。俺、特等席知ってんだ」

「特等席……ですか?」

 部長の声が妙にうきうきしているのが、何とも嫌な予感を誘う。

 それでもこのまま立ち止まっているよりかはマシだと信じて、部長の言うとおり城に足を向ける。人の密度が通りの比ではないから、亀の歩みではあったけれど。人を避け、じたばたする部長を無理やり押さえつけ、何とか前に進んでいくうちに魔王城址の目の前までやってきた。舞台の横にある扉が開放されていて、やっぱりたくさんの人が出入りしている。

 この中に入っていくのだろうか、と思っていると部長が言った。

「ここからじゃなくて、裏に回んの」

「う、裏、ですか」

 どうも、嫌な予感が的中しそうだ。

 立ち並ぶ衛兵の目を人の波を盾にしてかいくぐり、城の裏手に回る。さすがに裏手には何の催し物もないということもあって、人の姿もまばらだ。

 ただ、こんなところに連れて来て、部長は一体何をする気なのだろうか。ところどころが崩れているといえ、黒い石の壁に入り口らしい入り口も見当たらないのだけど。

「ブルー、ちょっと止まって」

 あてもなくうろうろしていると、部長が突然背中を叩いた。ただ、足を止めたところで何が起こるわけでもない。目の前にあるのは、他の場所と変わらない黒い石の壁……と思いきや。

「お前はそんな形じゃないだろ」

 部長の声と同時に、ふっと黒い壁が消えた。

「え……」

 そこにあったのは、ぽっかりと開いた穴。おそらくは、長い年月をかけて崩れてしまった場所なのだろう、ということはわかったけれど。

 それなら、先ほどまでこの目に見えていた壁は一体何だったのだろう。

 呆然としていると、部長がしつこく背中をつついてきた。

「ほら、入った入った。すぐ塞ぐからさ」

「え、あ、はい」

 開いた穴は部長なら立ったまま入れそうだが、自分には少々小さい。担いだ部長が穴の縁にぶつからないように気をつけながらくぐってみると、真っ暗な廊下が広がっていた。

「よく聞け、実はお前は壁なんだ」

 背中で何を呟いているのかと思ったら、今くぐったばかりの穴が消えていて、代わりに周りと同じ黒い石の壁が再び背後に現れて、外の明かりを完全に遮断する。

 ……そうか、幻の魔法か。

 やっと、部長が何をやっているのか、壁が何故急に消えて現れたのかが自分にもわかった。

 それにしても、普通、呪文と言ったら『我は呼ぶ、汝の名を』か『我は汝に命ずる』で始まるものだと思うのだけれど、部長は魔法文法も完全に無視してしまう。魔法を使えない自分からすれば、どこからどこまでが呪文なのかもさっぱり理解できない。

「お前の名前は光だ」

 今のも多分呪文だったのだろう。腰から抜かれた杖の先端に光が灯って、周囲を明るく照らす。いきなり周囲が明るくなったのにびっくりしたのだろう、背中でシェルがひよっと一際高く鳴いた。

 光る杖を振り振り、部長が言う。

「それじゃ、そこを右。階段があるから、足元に気をつけて上ってくれよ」

 はあ、と答えてはみるけれど、一体これからどこに連れて行かれるのだろう。長らく人の手が入った様子のない、ひび割れた廊下。今にも崩れそうな柱の前にはおどろおどろしい彫像が立ち並び、こちらを睨んでいる。

 絶対に、立ち入り禁止の場所だよなあ……ここ。

 ただ、よく見れば廊下には埃が積もっていたけれど、数百年の時を経たにしては新しすぎる足跡がかなりの数残されている。自分が思っているよりは、ずっと人に知られている通路なのかもしれなかった。

 ゆっくりと、足を踏み外さないように崩れかけの階段を上り、部長の声と灯された光に従って歩いていくと、一つの扉があった。石造りの扉は、部長が軽く杖を振っただけでそっと横に動いて開き……その瞬間、外の光が、目に飛び込んできた。

 暗い場所からいきなり光を浴びたので、目が焼けるように痛い。部長を担いでいる方とは逆の手で目を覆い、何とか目が慣れたかと思ったところでそっと腕を退けてみると……そこには巨大な窓があって、城址を中心に広がる人の輪が一望できた。

 広場から溢れんばかりの人、人、人。その中心にあるのは城址、そしてほとんどが幕に覆われている劇の舞台。上から見る舞台は、先ほど遠目から見ただけではわからなかったけれど、急ごしらえながらもとても大きなものだった。そして、舞台の少し高くなった位置に座る楽団員たちの顔も……もちろんクラエス先輩の顔も、ここからならばはっきりと見ることが出来た。

 すると、クラエス先輩が周りに会わせて立ち上がり、ぴかぴかの喇叭を構える。何かが始まる気配に、あれだけざわついていた広場が一瞬で静寂に包まれる。

 静寂の中、手を握り締めて、息を飲み込んで。

 刹那。

 空気の隅々まで響き渡る、高く張り詰めたファンファーレ。

 その音色に合わせて幕が引かれ、現れるのは張りぼてとはいえ本物とほとんど同じ見かけを再現した、神殿の柱。そして銀色に輝く鎧を纏った騎士がぴったりと足並みをそろえて上ってくる。

 その先頭には、一際強い輝きを放つ鎧と外套を身に纏い、聖なる槍を手にした女騎士……聖女ライラの姿。

 絵本の中でしか見たことのないおとぎ話の世界が、確かにそこにあった。

「す……っごい、ですね」

 素直な感想が、口からこぼれた。一足先に肩から降りていた部長がにっと笑う。

「だろ? あ、でも見つかったらまずいからこっそり覗いてくれよ」

 柵の陰に隠れていればバレないはずだから、と付け加えて部長は埃塗れの床に座り込む。自分も部長にならって、ぎりぎり外が見える位置に陣取って座り込んだ。

 ひよひよ、と鳴くシェルを手の中で遊ばせながら、部長は怪我した足を投げ出した姿勢で舞台を見つめる。杖を持った袖から覗く緑色のリボンが、杖の羽飾りと一緒に窓から吹き込む冷たい風に揺れていた。

 舞台の声は、拡声の魔法を通してここまで届いてくる。今こそ、女神ユーリスの名において、異界の住人『悪魔』を操る闇の魔王イリヤを打ち倒すときである、と。

 女神ユーリスうんぬんはともかくとして、今日この日のために猛特訓してきたのだろう、ライラ役の声は凛と冷たい空気を貫いて耳の中まで響いてくるよう。聖女の歩みに合わせて騎士たちがざっと道を開き、楽団が奏でる音楽も勇ましいものに変わる。

『さあ、行きましょう! 悲しみを断ち切り、誰もが笑いあう未来のために!』

 ライラが白銀の槍を突き上げると、わあっと歓声が上がる。これだけの人だから、それはもう歓声なんて生易しいものではなくて、地鳴りのようですらあった。舞台に合わせて上がった花火の音すらも、かき消されてしまいそう。

 そうだ、これが――聖ライラ祭。

 これだけの人が集まって、誰もが舞台の上を見つめている。この瞬間だけは、ここにいる全ての人の心も遠い昔、おとぎ話の時代に生きた聖女ライラに向けられている。それは何だかとても素敵で、素敵だけど、ちょっとだけ怖いとも思う。

 しばらくは、窓の柵に取り付くようにしてただただ舞台に見入っていたけれど……無性にあることが気になって、横で食い入るように舞台を見つめていた部長に、恐る恐る聞いてみる。

「部長……こんな場所、どうやって知ったんですか」

「友達が教えてくれたんだよ。他にも抜け道色々あんだけど、誰にも邪魔されずに見るならここが一番いいかなって」

「相変わらずろくな友達じゃないみたいですね、その人」

 む、と部長は不満げに頬を膨らませる。

「失礼な。すっげえいい奴なんだぜ?」

「本当にいい人ならこんな怪しい抜け道なんて知らないでしょうし、校長室に忍び込んで彫像に落書きはしませんし、図書室の本でドミノ倒しもしません」

 部長の話を聞いているとこの「友達」がよく出てくるのだが、これがただでさえ暴走しがちな部長にろくでもないことばかり教えているようなのだ。実際にその友達を見たことはなかったけれど、毎度彼……もしかしたら彼女かもしれないが……を恨まずにはいられない。

 何しろ部長は、友達から教わった下らないことを欠かさず実行し、その度に何故か自分までこっぴどく叱られる羽目になるのだから。

 ……自分はいつ、部長の保護者になったのだろうか。納得いかない。

 ついこの前、校長に呼び出されたことを思い出してつい横目に睨んでいると、部長は膝に乗せたシェルよろしく唇を尖らせた。今にもひよひよ鳴き出しそうな顔がちょっとおかしい。

 そんな、ひよこのような横顔の部長が、急に真面目くさった声で言った。

「なあ、ブルー。『机上の空』って、知ってるか」

 机上……の?

 一体何を言い出したのだろう、と思っていると、部長は杖を持った手を空にかざしてみせた。手首に巻いたリボンと杖の羽飾りを大きな瞳に映し込み、舞台の声、楽団の音色、観衆の歓声にも負けない声で言った。

「友達曰く。この町のどこかには、とびっきりの宝物が隠されてる」

 また、そんな子供みたいなことを。

 そう思いはしたけれど……いつしか、部長はひよこ口をやめて、唇を引き締めて空を見据えていた。

 たまに。本当にごくたまに、部長はそんな顔をする。

 そんな顔をされると、つい、こちらは言葉を飲み込んでしまう。

「そいつは、ほとんどの奴にとっちゃ、ゴミみてえなもんだって言ってた。けれど、きっと俺たちにとってはとびっきりの宝物になるはずなんだ」

「……どういうこと、ですか」

 かろうじて、問いかけの言葉を投げかけると、部長は杖の先端を空に走らせる。こぼれた光が抜けるような青空に銀色の軌跡を描き、やがて一つの形を描き出す。

 それは――船、だった。

 けれど、今、この空の上を飛んでいるどの飛空艇とも違う。腕を広げたようにも見える薄く細長い四枚の羽に、今にも折れてしまいそうな胴体を持つ、たとえるならば竜蟲によく似た、不思議な形の船だ。

 きっと、こんなものが飛ぶなんて、ましてやここに人が乗るなんて、ほとんどの人は考えられないに違いない。

 けれど、これがまさしくリベル上級学校航空部に代々伝わる夢。航空部を築いた或る『空狂い』が描いてみせた全く新しい船の形、そして代々の『空狂い』たちがいつか空に飛ばすことを夢見ながら未だ実現に至っていない、架空の船。

 そんな『空狂い』たちの心を過剰なまでに受け継ぎ、今ここにいる部長は、空に描いた船を仰いで言う。

「初代部長が隠した宝物……『机上の空』。そいつがまだこの町の何処かに眠ってんだってさ」

「初代……って」

「聞くまでもねえだろ」

 そう、聞くまでもない。それでも聞かずにはいられなくて。

 部長は空に描いた船の尾翼を、杖の先端でそっと叩いた。すると、幻の船は音もなく空を滑り出す。それこそ、季節はずれの竜蟲のように。

 その様子をじっと見つめたまま、部長はきっぱりと言った。

「ノーグ・カーティス」

 ノーグ・カーティス――

 夢の船を描いた航空部の創設者にして、学内で密かに語り継がれる稀代の天才。


 そして……今もなお楽園に色濃く影を落とす、禁忌と異端の担い手。


 楽園の誰もが恐れる名前をためらいなく言葉にした部長は、不敵に笑っていた。

「卒業するまでに絶対見つけてやるって決めてんだ」

 空色の、幸せを運ぶというひよこを抱いた部長は、海のように青く染まった町を見下ろして叫ぶ。

「天才からの挑戦状だぜ、燃えるじゃねえか!」

 盛り上がる部長に合わせて部長の膝の上のシェルもひよひよ力強く鳴いてみせるけれど。

 自分だけはそんな部長の言葉に頷くことも、否定することもできないままに、歓声に包まれた空に消えゆく幻の船を見つめていた。


 ただただ、見つめていた。

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