パン屋

□月給:170k〜180k

□期間:半年

□支払日:月末締め


□備考:衣類貸与、売れ残りのパン支給、長期休暇少、福利厚生無、雀の涙程度のボーナス有り


□収入:★★☆☆☆

□兼業:★★☆☆☆

□危険:★★☆☆☆

□ネタ:★★★☆☆


□実働時間:4時〜14時




□至った経緯

 パンが食べたい。動機はそんな些細なものだった。遺跡発掘に従事していた筆者の食事と言えば、貧弱な身体を補う為の白米と肉。そんな日々を続けるうちにことさら脳が要求しだしたのは、筋力や体力の維持増進とは全く無縁のパンなる存在だった。大阪は古市駅前の手作りパン屋、そこから漂う香ばしい匂いに誘われ戸口に至った筆者は、偶合にも求人のチラシを目にし発起したのだった「次はパン屋にしよう」と。




□業務内容

 パン屋さんはオシャレな仕事。非業にもアニメやドラマによってそう植え付けられている諸氏も少なからずいるかと思う。だが現実は違う。パン職人の朝は早い。まだ薄暗い4時から作業を始め(店長たちはさらに早くから仕込みに入っている)日の昇る6時にはパンが店頭に並んでいなければならないのだ。


 夜が白み鶏が鳴く頃には、それらの生地は窯によって念入りに焼かれる。基本的にはここからが見習いである筆者の出番だ(さあ本物のパンってヤツを見せてやろう)温度を調節しながら蒸気を用いる窯場周辺の温度は50度を超す。これは当然ながら真夏のトタンの家の中に居るより遥かに暑く、窯場を離れた室内ですら40度を下回る事は無い(開店の10時からは鉄板の洗浄やカスタードの仕込みに入り、昼過ぎには発注も終え晴れて帰宅と相成る)


 待て待て、そんな地獄の様な光景を見たことは無いぞと諸兄は仰るかも知れない。なるほど確かに。駅前のオシャレで綺麗なパン屋で、かくも汗だくになって働く職人はいないし、そう思うのも無理からぬ事だ。




 だが甘い、それが浅慮だと言うのだ。

 筆者が師に渡された教科書には、こう書いてある。

「パンにとって住みよい環境とは、人にとって住みにくい環境である」と。


 イースト菌では無く天然酵母を用いる筆者の店舗では、発酵の為の室温の維持と、生地乾燥を防ぐ為の措置として空調は午後になるまで使わなかった。師曰く「本当に美味しいパン屋が、作業場まで綺麗な訳が無い」との事。これは酵母を育みパンを焼く環境を鑑みての発言であろうが、それ以来筆者は、見栄えの良いオープンキッチンのパン屋より、少々古めかしくともクローズドのパン屋を選ぶ様になった。なお美味しいパン屋を見分ける方法は実に簡単で、試しにバゲット(フランスパン)を1本買ってみると良い。フランスパンが美味しいのなら、そこの店のパン生地は間違いなく当たりだ。


 なにせ筆者も比較的早い時期から捏ねる作業を教えられたが、フランスパンだけは上手く行かなかった。熟達の職人が手品の様に生み出すステッキに、旋律の如く刻まれる切れ目クープは、焼成(窯場でパンを焼き上げる作業)によって美しく花開き、シンプルでありながらも味わい深いバゲットの1輪を芽吹かせる。要はそれだけの妙技を要するという訳だが、このフランスパン1つですら様々な酵母と小麦粉のブレンドを試行錯誤し「これは北海道(品名は伏せる)の小麦だ」などと熱心に味見を繰り返していた店長たちの姿が思い出深い。そんなこだわりぬいたパン屋の一品なのだから、当然おいしくない訳がなかった。




□だが筆者は日本人だった

 どんなにおいしい食事であっても、それが毎日続くとなるとやがて苦痛へと変わる。このパン屋は個人経営という事もあってか、おつとめ品や試作品をどんどん筆者に分けてくれた。最初は喜々としてそれらを持って帰り、夕飯に夜食にと繁く口に運んだ筆者だったが、それも一ヶ月が過ぎる頃にはギブアップ。結局は元の白米に戻るという顛末と相成ってしまった(そしてカロリーの高いパン類の事、当時筆者の体重は幾分かの増加を見せた)




□火傷には注意

 窯場の熱い事は先に触れた通りだが、その都合から火傷はつきものになる(何枚もの鉄板を出し入れする過程で、どうしても腕には幾本もの赤い線が刻まれてしまう)一二年は消えないリストカットの様なそれらの痣を、気にしてしまう人は辞めた方が良い。




□メリット

 パン(酵母)を育て上げる作業は、生物の育成にもよく似ている。覚えなければいけないデータ(パンごとに焼く時間や、スチームを入れる時間も異なるし、酵母の配合によって発酵の環境も置く場所も異なってくる)と過酷な労働環境に比べ給料はごくごく僅かだが、実際にはかなり楽しい(正直創作という道筋が無ければこちらにブレていた可能性すらあるほどだ)とくに筆者はカルピスが好きな訳だが、その案を取り入れて作ってもらったカルピス食パンが誕生した折には言い知れぬ喜びを覚えたものだった。




□総括

 まとめとしては薄給だがやりがいのある仕事、という位置づけになると思う。

 実際職人になっていけば給料も上がるから、身を捧げる覚悟があるなら目指して良い分野なのだ。


 とは言えそのゆえに兼業には向かない。目指す先が別の道である以上、本作に目を通す大多数の諸氏にはお勧め出来ないという事になる。


 筆者はこのパン屋を震災の後、復興作業に赴く為に辞める事となったが、パン屋は創作の分野でも(主人公の両親が営むなど)しばしば取り上げられる職種だ。ひととおり経験しておけた事に、損は無かったのではと考えている。そんな所だろうか。



 それではまた。

 草々。


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