第3話 サヌザと共に
旅人は途方に暮れてあたりを見渡した。
丈の低い草が痩せ地にへばりつくように生えているだけの乾いた草原を突っ切る、一筋の古街道。これまでにも何度か往来したことがある見知った道筋の、このあたりは迷いようもない一本道であったはずなのに、行けども行けども、今日中に辿りつくはずだった次の宿場が見えてこないのだ。気がつくと、足下の街道自体が、人の踏み跡も絶えて久しい風情で黄褐色の砂を被り、草に埋もれかけている。
そういえば先頃から、普段なら何組も行き会うはずの他の旅人と、一度も出会っていない。やはり気づかぬうちに古い枝道にでも迷い込んでしまったのだろうか。いや、そんな道はないはずなのだが……。胸の
西方の砂漠に産する
が、夜目が利かないのだけは、鳥であるからにはしかたがない。
野営をするのはいいとしても乏しくなってきた水だけはなんとか調達できぬものかと思案していると、行く手に何か見えてきた。
近づいてみると、なんと都合の良いことに、それは古びた井戸だった。見渡す限り遮るものとてない広い草原の只中に、ぽつんとひとつ、井戸がある。傍らには一人の老婆が、頭からすっぽりと布を被って、
砂鳥から降りて年長者への礼を取りながら進み出ると、老婆は皺深い面を上げ、旅人を差し招いた。間近に寄って見下ろせば、老婆の
老婆は井戸守りと名乗り、井戸から水を汲んで、まず自分で一口飲んでみせてから、柄杓を差し出してきた。なぜこんなひとけのないところに老婆が一人で、と、不思議に思いながらも、有り難く澄んだ水を飲み干し、勧めに従って皮袋にも満たした。砂鳥も、足元に置かれた水桶に幾度も頭を突っ込んで、雫が伝う長い
謝礼の小銭を差し出そうとすると、老婆は受け取らず、旅人が背負った半月琴に目をとめて、謝礼代わりに音楽と一夜の話し相手をと所望した。
まもなく日も暮れる。この先にはどうせ何もないから、ここで夜を明かすと良い。屋根はないが焚き火を振る舞おう。あそこに積んである薪を運んできて火を熾しておくれ、と。
この老婆は何処に住んでいるのだろう。まさか普段からここで一人で夜を明かしているのだろうか。水はともかく食料はどうしているのだろう……。訝しみながらも旅人は、言われるままに火を熾し、焚き火のほとりで携帯食を食べ、老婆にも勧めたが、老婆は手を振って断った。その背後に、火明かりが作るはずの影がないのに、そのとき初めて気がついた。
いずれ人外のものであろうとは薄々察していたから、意外には思わなかった。
それでも旅人は、老婆に琴を奏でて聴かせた。
旅人は楽師でもあった。よしや妖しの者であっても、楽の音を愛するものがもてなしの対価として演奏を望むのに、応えないのは楽師の名折れだ。それに、たとい魔物であれ亡霊であれ、楽を愛する者であれば、楽の奏で手に危害を加えはしないものだ――その演奏が、その者の心に適いさえすれば。
旅人は己の楽の音にいささかの自負を持っていた。演奏の技量にではなく、音色にこめることができる音楽への純粋な愛に対して。
心をこめた演奏を老婆は気に入り、返礼にこの場所にまつわる物語を、と申し出た。
この場所を、よく見てごらん――という老婆の言葉に、あらためて黄昏の草原を見回すと、周囲には風化した石材の破片が散乱し、目を凝らせば、井戸を取り囲むように、城郭の跡と思しき草むした遺構もところどころ見分けられるのだった。
老婆は、かつての光景の幻を見ているかのように夕闇に沈みかけた街道の先を見遥かし、低く語りはじめた。
「遠い昔、この道の向こうから、騎馬の軍勢がやってきたのだよ――」
◇
かつて、ここには、城壁に囲まれた小さな都があった。小さいけれど文化の栄えた古い都で、古い血を引く王もいた。年若い王で、未だ正妃を持たず、ただ一人の愛妾を一途に慈しんでいた。妾姫は名立たる舞姫で、その美貌と舞の上手の評判は、草原の西の果てから東の果てまで隈なく鳴り響くほどだった。王と妾姫は幸せだったが、雅な文化を誇る古い王国は既に昔日の勢いを失い、熟れすぎた果実が自ら地に落ちようとするように、すっかり力衰えて緩慢な滅びの中にあった。
そんな頃、草原の北に台頭してきた蛮族が、この道を通って都に攻め寄せてきたのだ。
迎え撃つすべも持たぬ文弱の王は、民を城壁の外に逃がして後に城門を閉ざした。
涙ながらに都を捨てた人々のどれほどがどこかで生き延びることができたのかは知らない。
城門を閉ざした都は、騎馬の蛮族に包囲された。城壁の中には、王と家臣たち、そして、都と運命を共にすることを選び取った一部の民たちが残った。城壁を乗り越え、打ち壊して蛮族が攻め込んでくるのは時間の問題と思われた。
そんな中、蛮族の首領は、城壁越しに舞姫に呼びかけてきた。明日の朝までに自ら出てきて自分のものになれば命は助けてやろう、と。王たちにも、止め立てせずに舞姫を通せば都の陥落の後に多少の情けはかけてやろう、と。
陥落後の情けなどという約束が嘘であるのは明らかだったし、情けをかけられたいとも思わなかったが、舞姫の命を取らないという約束は本当だろうと思われた。舞姫はその絶世の美貌を草原中に謳われていたから、蛮族の首領がまだ見ぬその美姫を一目見たいという好奇心に駆られ、さらには己がものにしてみたいという好色な野心と執心を抱いても、何ら不思議はない。
王は、我が身を断ち切る思いで、己が愛妾にこの呼びかけに応じることを勧めた。が、舞姫は、王と共に、都と共に滅びることを自ら選んだ。
諸共の死を覚悟した王は、その夜、蛮族たちの包囲の中で、この都の最後の舞の宴を催したのだった。
煌びやかに着飾った王に家臣、やはりできうる限りの盛装に身を包んだ民たちの全員が、赫々と篝火を焚いた王城の中庭に
◇
「翌朝攻め入ってきた蛮族たちはどうなったかって? 全部死んだよ。一人残らずね。何故なら、井戸に身を投げた
そう言いながら、老婆の口調は笑いを含んでいた。
あたりには、いつしか深い闇が落ちていた。
「堅固な石造りの城でさえ崩れ果てて砂に還り、跡形もなく草に埋もれるほどの長い長い年月のうちには、いかなる美女も老婆になろうというもの。じゃが、話を聞いてくれた礼に、昔日の美女の舞姿を見せてやろう。さあ、楽を奏でておくれ……」
そう言って老婆が、被いていた衣をするりと肩に落とし、袖を通しながら立ち上がると、曲がっていた背がすっくと伸びて、そこには金糸銀糸の舞衣を纏った、
しなやかな指先が中空に軌跡を描いて天に伸べられ、ゆるやかに舞が始まった。幾重にも重ねられてきらめく玉飾りがしゃらしゃらと鳴り、滑るような足取りを追って華麗な裳裾がさんざめく。ふいに身を翻せば
はじめはゆったりと、しだいに早く激しく、舞姫は舞った。
舞は語った。過ぎし日の愛を、誇りを、恨みを、憎しみを、哀しみを――。
いつしか、金砂のように闇を彩る火の粉に混ざって、白い花びらが降っていた。
旅人は夢を見ている心地で、降り惑う花びらと
本当に夢を見ていたのかもしれない。旅人はいつのまにか演奏の手を止めていたのに、楽の音は続いていて、小さな焚き火は赤々と燃え盛る篝火に変わり、立ち並ぶ篝火の向こうには、装いも美々しい若き王と居流れる廷臣たちのおぼろな影が、
陶然のあまり、しだいに夢も現も判らぬようになり、目を開けて舞を見ていると思っているうちにいつのまにか目を閉じて、ただ
夢の中の美姫は囁いた。良い伴奏であった。おかげで心置きなく舞うことができた。消え残っていた想いの全てを舞い尽くすことができた。伴奏と、話を聞いてくれたことの礼に、これを進ぜよう。そなたが自分で持っていても良いし、人にやっても、売ってしまってもかまわない。ただ、そなたは、妾のことを、そして滅びた都のことを、憶えていておくれ。忘れずにいて、語り伝えておくれ。そしてこの髪挿しを人に譲るときには、必ずや、その相手に、妾と都の話を語り、髪挿しと共にこの物語を語り伝えてゆくようにと頼んでおくれ。さすれば妾は安んじて、ここを離れることができる。天へと続く道の途中で妾を待ってくれている愛しい王の元に、旅立つことができる。旅人よ、伝えておくれ、滅びし都の、名は
はっと気がつくと、旅人は、心安らぐ鳥の体臭と柔らかな羽毛で満たされた心地よい薄暗がりで目覚めたところだった。砂鳥の翼の下で、その羽毛と体温に包まれて寝入っていたのだ。旅人の手の中には、古びてはいるが見事な細工の螺鈿の髪挿しがあった。
目覚めた合図にそっと砂鳥の胴を叩くと、砂鳥は頭上から翼をどけて静かに立ち上がり、長い頸を下げて頭を擦り寄せてきた。旅人が頼れる相棒への感謝をこめて顎の下を掻いてやると、愛鳥は心地よさげに目を細めて、咽の奥でクゥ、と啼いた。
あたりは朝で、老婆の姿はなく、ただ崩れかけた古い枯れ井戸があるだけだったが、水袋にはちゃんと、昨晩井戸から汲んだ澄んだ水がいっぱいに入っていて、朝日を受けて砂鳥と共に出立すれば、街道はいつのまにか見慣れた佇まいに戻り、ほんの数十歩も歩いて振り返ると、そこにはもう、古井戸の影も形も見えなかったのだった――。
◇
「そして、これが、その髪挿しだ。どうだい? 砂に埋もれた古い都の、王の寵姫の髪飾りだよ」
賑わう市の片隅で、旅の楽師兼物売りは、砂鳥に括りつけた袋から取り出した髪挿しを恭しく掲げて見せた。そうしながら、遠巻きに群がる子供たちに声をかけるのも忘れない。
「ああ、ぼうやたち、砂鳥は大きいが優しい生き物だから、怖がることはない。ほら、可愛い眸をしてるだろ? 名前はサヌザと言うんだ。触ってみるかい? 頸を撫でてやると喜ぶよ。ただし、気をお付け、もしも、お母ちゃんへのお土産に羽を一本、なんて悪戯心を起こして引っこ抜こうとでもしたら、この大きな嘴で、頭からばくっと齧られてしまうよ」
騎乗用の砂鳥は東方では珍しいから、こんな田舎の市では、傍らに立たせておくだけで恰好の客寄せになる。
楽師は人垣の中から、赤い頬をつやつやさせた頑丈そうな女に目をとめて差し招いた。
「ねえ、そこの美しい奥方。そう、あなただよ。この髪挿しを買わないかい? あなたのような美しいご婦人になら、きっと似合うと思うから、安くしとくよ。儲けより、似合う人に挿してもらうのが一番だからね。ああ? そんな、井戸に身を投げた悲運の姫の髪挿しなんて、呪われているのじゃないかって? 祟るんじゃないかって? まさか。とんでもない。あれはたしかに亡霊の類ではあったと思うが、悪いモノじゃあなかったよ。ただ、自分たちのことを誰かに憶えていて欲しかっただけなんだ。自分たちのことを語り伝えてくれる人が欲しかったんだ。だったら、そうしてくれる相手に害を成すわけがないだろう。古き繭羅とその舞姫の物語を語り伝えてゆく限り、髪挿しを持っているものは、むしろその伝え手として守護してもらえるはずさ。奥さんに、娘はいるかい? じゃあ、その娘さんが嫁に行くときに、この髪挿しを、由来を話して持たせておやりよ。そうして、娘さんは、そのまた娘さんに、物語と共に髪挿しを伝える。そうすれば、繭羅の舞姫は深く満足して、この髪挿しは、あなたとその娘、そのまた娘を代々守ってくれるだろう。……しかも、この髪挿し」と、物売りはここで、秘密めかして声を潜める振りをした――実際には声色が変わっただけで、声は小さくなっていなかったが。
「ここだけの話、あの舞姫が、石造りの城が砂に還るほど長いこと絶世の美貌を保っていられたのは、これのせいじゃないかと思うんだ。だって、舞姫が私に渡そうと髪挿しを抜いたとたん、みるみる縮んで、萎びた老婆の姿に戻り、ふっと消えてしまったんだからね。実はこの髪挿しにこそ、若さと美貌を保つ不思議な力があったんじゃないか? もしかすると、生前の舞姫の美貌も、多少はこの髪挿しのおかげだったのかも……? ねえ、あなたのその健やかな美しさが、これ一本でいや増した上にいつまでも保たれるとしたら、私はとても嬉しいんだけどな……」
◇
「そう言って、物売りは、招きよせたあたしの手に髪挿しを載せて、あたしをじっとみつめながら優しげに笑ってね、その手を両手でそっと包みこんだんだ。それがまあ、うっとりするようないい男だったんだよ……。金の髪に翠の目の、珍しい西域の美貌でさ。煙るような金色の睫毛の長いことといったら!」
たまさか訪れた下界の市で髪挿しを購った高地の村の女は、そう言って、井戸端に集った女たちに髪挿しを見せびらかすのだった。
衣を濯ぎながら笑いさざめく賑やかな女たちの頭上には、純白の雪を頂く峻嶺が厳しくも清らかに聳え、光明るい高嶺の空を清澄な風が吹き渡る。
「その物売りの綺麗な顔とお世辞につられて、ふらっと買っちまったわけかい? 挿してるだけで美人になれる髪挿しなんて、そんな莫迦げた話があるもんかね!」
どっと笑われて、女は頬を膨らます。
「別にそんなのは嘘だっていいんだよ! だって、ほら、見事な細工じゃないか。物売りの話が嘘でも本当でも、値打ち物には間違いないよ。それに、あの綺麗な西域の物売りが、あたしのことをじっとみつめて、美しい奥方って言ってくれたんだよ。嘘でも嬉しいじゃないか。これを見るたびに、そのことを思い出して楽しくなれるじゃないか」
「でもさ、そんなものに大枚はたいて、あんたの亭主がなんて言うかね」
「ふん! 亭主になんか何も言わせやしないよ! だってこれは、あたしが山に入って採ってきた薬草をあたしが自分で市に降りて売った金で買ったんだからね。あたしが稼いだ金で何を買おうと、あたしの勝手さ! ねぇえ、ラサ、あんたが嫁入りするときには、この髪挿しをあげるからね。古い繭羅の都の、王の寵姫のご加護がある、特別の髪挿しなんだよ」
女たちの足元で遊んでいた泥に汚れた裸足の小娘は、突然名を呼ばれ、きょとんと指を咥えて母親を見上げる。
幼子の手を引き堂々たる尻を揺らして立ち去る健やかな女の髪で、螺鈿の髪挿しはからりと明るい山の陽にきらめき、空はどこまでも澄み渡って白い稜線を抱くのだった。
その頃、同じ空の下、純白の峰々に見下ろされて街道をゆく旅人は、翼持つ相棒の頸の付け根を優しく叩いて呟いていた。
「ねえ、サヌザ、あのひとは、いまごろ髪挿しを挿してくれているだろうかね。サヌザ、お前にわかるかな。もしもあのひとが私の頼み通り、髪挿しとともに古き繭羅の物語を本当に語り伝えてくれるなら、その時、髪挿しは本物なのだよ」
旅人は夢見るように微笑んで、高地の女の面影を胸に、背後の山並みを振り返る。
砂鳥は小首をかしげて賢しげな眸を瞬かせ、訳知り顔でクゥ、と啼いた。
「サヌザ、わかってくれるのかい?」
「クゥ」
「そうか、わかってくれるのか」
「クゥ」
「綺麗な女だったね。美人ではないが、私はあのひとを綺麗だと思ったよ」
「クゥーゥ」
サヌザは幾度でも機嫌よく主人の声に応えながら、長い脚を悠然と繰り出して歩を進める。
こうして旅の楽師兼物売りは、今日も愛鳥サヌザと共に、草原の道を、いずこへともなく旅しているのであった。
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