第2話 夢売りの話
「夢を買いませんか?」
夜の街角で急に声をかけられて、ぼくはとっさに答えていました。
「北海道の原野なら要りませんよ。火星の土地もね」
普段なら、こんな怪しいキャッチセールスなど無視して、聞こえぬふりで通り過ぎるところですが、その時、ぼくは、会社帰りに同僚と一杯やって別れたところで、つまり、ちょっとばかり酔っ払っていたのです。
答えながら、声をかけてきた相手の姿にちらりと目をやって、ぎょっとしました。
声をかけてきたのは、見るからに怪しげな、黒ずくめの小男だったのでした。
ずんぐりした身体を黒いコートに包んだその男は、くたびれた中折れ帽を顔が隠れるほど目深に被り、コートの襟を立て、濃灰色のマフラーに顔の下半分を埋め、ご丁寧に、両手に黒い手袋まではめているのです。
男は、ぼくの警戒の視線などものともせずに、愛想良く話しながら擦り寄ってきました。
「いえいえ、火星の土地ではありませんよ。まあ、星といえば星ですが……。ほら」
そう言いながら、男は、ポケットから何かビニール袋のようなものを取り出して、片手で掲げて見せました。
ぼくは、不覚にも好奇心に負けて、男が掲げている袋をのぞきこんでしまいました。風船のように丸く膨らんだビニール袋の中には、金や銀、赤や青と、色とりどりに光る小さな星たちが浮んで、ちかちかとまたたいていたのです。どんな仕組みか分かりませんが、実によく出来た飾り物です。
「どうです? きれいでしょう? 今なら特別サービスで、たったの五百円。今、あなたが手に持っているその硬貨一枚で、煙草一箱の代わりに、このすばらしい『夢』が買えるんですよ」
その時、ぼくは、ちょうど自販機で煙草を買おうとしていたところで、男の言うとおり、五百円玉を一枚、手に持っていました。(言い忘れていましたが、これは、今から少し前、まだ街角に煙草の自動販売機が溢れていた頃の話なのです)
確かに、男の言うとおり、このありふれた五百円玉で、ありふれた煙草の代わりに、こんな、ちょっと珍しい、きれいな玩具を買ってみるのも、たまには悪くないかもしれません。
普段なら、そんな、街頭で声をかけてきた怪しい男から物を買うなんて考えられないことですが、さっきも言ったとおり、この時、ぼくは、少々――いえ、正直に言うとかなり――酔っ払っていたのです。
なので、ぼくは、つい、手の中の五百円玉と引き換えに、男からその袋を受け取ってしまったのでした。
男は、ぼくに袋を渡すと、言いました。
「いいですか、お客さん。この『夢』はね、一日に一粒ずつしか食べてはいけませんよ」
ぼくは、てっきりそれを飾り物だと思っていたので、驚いて問い返しました。
「た、食べるんですか……?」
そう言いながら、手に持った袋に目を落とすと、それは、もう、さっき男が持っていた時の、中に星が浮んだ袋ではなく、ただの、こんぺいとうの入った袋なのでした。
手の中のこんぺいとうの包みを見下ろしてぽかんとしているぼくに、男は、
「いいですね、一日一粒までですからね」と、念を押すと、呼び止める間もなく立ち去ってゆきました。
妙な手品に騙されて五百円もするこんぺいとうを買ってしまったぼくは、なんだかバカらしくなって、もう改めて煙草を買う気にもならず、そそくさと一人暮らしのマンションに帰ったのでした。
そして、シャワーを浴びて寝る段になって、サイドテーブルに投げ出しておいたこんぺいとうの包みが目に入り、なんとなく、一粒、口に放り込んでみました。
こんぺいとうの懐かしい薄甘さが口の中に広がったとたん、ぼくは、夢を見ていました。
夢の中で、ぼくは、宇宙飛行士になって、いろとりどりのこんぺいとうそっくりの星々の間を飛び回っていました。ぼくは世界的なヒーローで、胸躍る冒険も人々の賞賛も思いのままなのでした。
実に子供っぽい夢ではありましたが、夢を見ている間の感覚は妙にリアルで、あまりに楽しかったので、朝、目が覚めてからも、(そういえば子供の頃、宇宙飛行士に憧れた時期もあったなあ)などと懐かしく思い出して、顔を洗い、ひげを剃りながらも、気がつくとにやにや笑っているのでした。
その日一日、会社でも、時々、夢のことを思い出して一人笑いをして同僚に気味悪がられました。
ひさしぶりにこんな楽しい夢が見られたのは、このこんぺいとうのおかげかもしれません。
そういえば、あの奇妙な小男は、このこんぺいとうを『夢』だと言っていたのですから。
これは、こんぺいとうの形をしているけれど、ただの菓子ではなく、何か安眠のためのサプリメントのようなもので、そのおかげで心地よく眠れて、楽しい夢が見られるのかもしれません。菓子ではなくサプリメントだから、一日一粒と決まっているのでしょう。一度に多量に摂取しすぎると、何か副作用があるのかもしれません。
それから毎晩、ぼくは寝る前に、こんぺいとうを一粒ずつ食べました。
そして、毎晩、素晴らしい夢を見ました。
サッカー選手や野球選手になって大活躍する夢。人気タレントになってテレビに出る夢。博士になって大発明をしてノーベル賞を貰う夢。億万長者や総理大臣になる夢。
十日ほど経つと、こんぺいとうが無くなりかけました。
発売元が分かれば取り寄せることも出来るかもしれませんが、袋には、何も文字が書いありませんでした。連絡先どころか、商品名さえ書いてないのです。あんな怪しい販売の仕方をしていたことを考えても、もしかすると、何か、個人輸入の脱法サプリメントなのかもしれません。
残念に思いながら最後の一粒を食べ終えた、その次の晩。
会社帰りに、以前と同じ街角で、また、あの小男が声をかけてきて、次のこんぺいとうを、やはり五百円で売ってくれたのです。
こんぺいとうの見せてくれる夢は、偉人や有名人になるような大それたものばかりではなく、もっとささやかな夢のこともありました。
小さな子供になって、優しそうな両親に両手を繋いでもらって公園を歩いているだけの夢。苦手な算数のテストで百点を取って褒められたり、かけっこで一等賞になったり、喧嘩した友達と仲直りしている夢。欲しかった玩具を買ってもらう夢。犬を飼う夢。好きな女の子と両思いになる夢。あるいは、幸せな家族の食卓の夢。
いずれも、どうということのない光景なのですが、それが、どれもこの上もない幸福感に満ちていて、心の奥深いところまでしみじみと幸せが染み渡るような気がするのです。
それからまた、夢の中で、ぼくは、子供たちが憧れるようなありとあらゆる職業に就きました。医師に弁護士、作家に漫画家、教師に消防士に警察官にパイロット。
どの職業に就いても、ぼくは必ず成功し、さっそうと大活躍しました。作家になれば書くもの書くものがベストセラーになり、教師になれば子供たちに慕われ、医師や消防士になれば大勢の人を助けて感謝されました。
夢の中のぼくは常に有能で、評価され、賞賛され、いきいきと輝いていたので、眼がさめたとき、ふと、現実の自分が単なる冴えないサラリーマンであることのほうが奇妙に感じられるほどでした。
毎晩毎晩、そんな楽しい夢を見続けるうちに、ぼくは、夜になって夢を見るのを楽しみに一日を過ごしているような気分になってきました。
会社でも、早く帰ってこんぺいとうを食べることばかり考えて、ぼんやりすることが多くなりました。
こんぺいとうがなくなりかけると、決まって、同じ場所にあの男が現れて、五百円硬貨と引き換えに、次のこんぺいとうを売ってくれるのでした。
その頃、ぼくは、新しい重要プロジェクトの責任者にライバルを差し置いて大抜擢されたばかりで、大いに張り切っていたはずなのですが、こんぺいとうを食べるようになってからというもの、昼間も仕事に身が入らず、失敗をすることが増え、何度も上司から叱責されるはめになりました。
が、普段ならそんなことになったらものすごく落ち込むはずが、まるですべてが壁一枚を隔てた出来事のように思えて、叱責を受けている間も心ここにあらずで、こんぺいとうのことばかり考えていたのでした。
そのうち、プロジェクトは、いつのまにかぼく抜きで動き始めていました。
みな、案じているような軽蔑しているような目で遠巻きにぼくを見るようになりました。
仲の良かった同僚には、顔色が悪いと心配されました。なんだか顔が黒ずんでいる、しかも人相も変った、頬がこけたのか顔が面長になったように見える、どこか内臓でも悪いのではないか、病院で検査してもらった方がいいのではないかと言うのです。
上司には、ストレスが溜まっているようだから心療内科でも受診してきてはどうかと勧められました。休みはいくらでもやるから、と。
ぼくは、自分では自分の体調が悪いとは感じていませんでした。別にストレスが溜まっている気もしませんでした。以前のように仕事の進み具合やら職場の人間関係のことが頭を占領して夜眠れなくなることもなく、毎晩楽しい夢を見ながらぐっすり眠っていて、ぼくの主観では、心も身体も、宙に浮んでいるように軽やかだったのです。ストレスといえば、日中、こんぺいとうを我慢しなければならないことだけです。言われて見れば色は黒くなったような気がしますが、きっと日焼けでもしたのでしょう。そういえばまともな食事もとっていなかったので頬はこけたかもしれませんが、甘いこんぺいとうを毎晩食べていては腹が空かないのも当然で、もともと太り気味を気にしていたぼくにとっては、むしろちょうど良いダイエットというものです。
が、上司は、ぼくにはぜひとも療養休暇を取る必要があると思ったようでした。
ぼくは、しかたなく、同僚に付き添われて産業医を訪ね、翌日から、会社を休むことになりました。
会社を休めることは、ぼくにとっては好都合でした。これで、一日中、こんぺいとうの見せてくれる夢のことだけを考えていられます。
ぼくは、時々コンビニで食料を買いだめする他には一切外出せずに、一日中、カーテンを閉め切った部屋に閉じこもって過ごすようになりました。
病院へは、その後、一度も行きませんでした。病気ではないのに病院に行く必要などありませんから。
会社を休んでしばらくたった頃、心配した同僚から電話がかかってきました。
もうすぐ療養休暇の期限が切れる、病院に行って診断書を取りなおせ、という上司の伝言も伝えられましたが、適当に返事をして電話を切りました。もう、会社など、遠い夢の世界のようで、どうでもよかったのです。
そのうち今度は上司から電話がかかってきて、具合が悪いのならいつまででも休んでよい、例のプロジェクトは佐藤君に任せたから安心して完治するまで療養に専念するように、と言われました。なんならもうずっと会社に来なくても構わない、とも、付け加えられました。
佐藤というのは、ぼくが蹴落としたかつてのライバルの名です。
ぼくをあのプロジェクトの責任者に抜擢した時、確か、あの上司は、『これは君にしかできない仕事だ』と言ったのです。が、今度は、その仕事を、ぼくが療養中だから佐藤に任せたというのです。なんだ、別にぼくじゃなくても良かったんじゃないか……そう思うと、ますます、会社のことなどどうでもいいような気がしてきました。
やはり、会社にとって、ぼくは、取替えがきく歯車の一つにしか過ぎなかったのです。
もちろん、そんなことは、もとから知ってはいました。けれど、これといった趣味も親しい友人も恋人もなく会社と一人暮らしのマンションを往復するだけの毎日を送っていたぼくは、あえて自分が会社になくてはならない人間であるかのように錯覚することで自分の人生と折り合いをつけてきたのです。その幻想を目の前ではっきりと打ち砕かれた時には、やはり、それなりの虚しさを感じました。
そんなわけで、ますます投げやりになったぼくは、それから数週間、ろくに物も食べず、風呂にも入らず、ただ、こんぺいとうがなくなりかけた時にいつもの場所に出かけていって小男からこんぺいとうを買うだけという生活を送りました。
ぼくがあの場所に行くと、いつでもそこにあの小男がいるということを、もう、不思議にも思わなくなっていました。
その頃には、ぼくは、とっくに一日一粒という制限を破り、朝も昼も、こんぺいとうを食べては一日中うとうとと夢を見て過ごすようになっていました。
当然、こんぺいとうはすぐになくなり、数日置きに小男からこんぺいとうを買わなければなりませんでした。
そのたびに、小男は、ぼくにこんぺいとうの食べすぎを注意しましたが、ぼくはのらりくらりと生返事をしながら、男の手からこんぺいとうをひったくるのでした。
けれど、ある日、小男は、ぼくにこう言い渡しました。
「もう、あなたには、これはお売りできません」
「な、なぜですか!?」
ぼくは、目の前が暗くなるような気がしました。このこんぺいとうがなかったら、この先、どうやって生きていけばいいのでしょう。
ぼくは、必死で男に詰め寄りました。
「お、お金なら、まだありますから! 五百円といわず、五千円でも五万円でも、いや五十万でも!」
ぼくは当時、もうずっと働いていませんでしたが、ろくにものも食べていませんでしたし、唯一定期的に買っていたこんぺいとうは毎回必ずたったの五百円で、家賃や光熱費が自動で引き落とされる以外にはお金を使うこともほとんどなかったので、貯金はまだ残っているはずでした。といっても、残高の確認さえ長いことしていませんでしたが、もし残っていなければ、借金をしてでもこんぺいとうを買う気でした。
「いえいえ、お金の問題ではないのです。これ以上食べると、あなたにとって大変なことが起こるのです」
「大変なことって、なんですか!?」
その時のぼくには、こんぺいとうを食べられなくなるより大変なことなど、何も思いつきませんでした。
「夢を食べ過ぎると、獏になってしまうんですよ」
ぼくは、ぽかんとしました。てっきり、冗談だと思ったのです。
ところが、そうではありませんでした。
「ほうら、こんな顔になってしまうんです」
そう言って帽子を取った男の顔をみて、ぼくは、すっとんきょうな悲鳴を上げました。
確かに、今までも、帽子の下からちらりと覗く男の顔が、マフラーに顔の下半分を埋めていてさえ分かるほど妙に面長なことには気付いていました。それに、やけに色が黒かったので、『流暢な日本語を話すけれど、もしかすると外国人かもしれない』とは、思っていました。
が、外国人などではありませんでした。
小男は、本当に獏の顔をしていたのです。
そんな顔を見せては周囲が大騒ぎになってしまうのではないかと、ぼくは思わずあたりを見回しましたが、その時、ぼくたちの周りは、まるでそこだけ周囲から切り離されたかのように街の灯りや喧騒から隔てられ、近くを通るものは誰もありませんでした。
小男――いえ、獏は、口をパクパクさせているぼくを見て、にやりと笑いました。当たり前ですが、ぼくは、獏が笑うところを初めて見ました。
「そんなに驚くことはないでしょう。あなただって、ほら、とっくに……」
獏がポケットから取り出して目の前に突きつけてきた手鏡を見て、ぼくは、もう一度、もっと大きな情けない悲鳴を上げました。
「うわぁ……!」
そこに写っていたのは、ほとんど獏になりかけた人間の顔でした。
同僚がぼくのことを、色が黒くなり顔が長くなったと言っていたのは、あれは、本当だったのです。ぼくは、自分でも知らないうちに、獏になりかけていたのです。
どうして今まで、鏡を見ても気づかずにいたのでしょう。
いや、そういえばぼくは、このところ、しばらく鏡を見ていませんでした。もう長いこと、顔も洗わず、歯も磨かず、髭も剃っていませんでしたから。
けれど、一瞬の衝撃が去ると、ぼくは、不思議と肝が据わってしまいました。開き直ったということでしょう。
別に、顔が獏そっくりになったって、どうということはないでしょう。
どうせ、ぼくの顔なんて、もともとそう見られる顔でもなかったし、ましてや今は会社に行っていないから、顔がどんなふうだろうと仕事に差し支える心配もありません。コンビニで店員に悲鳴を上げられたりすると少々困るかもしれませんが、今までだってどうせほとんど目もあわせず、うつむいたまま商品を受け取っていたのです。この男のように帽子を目深に被るなり、サングラスやマスクをするなりすれば、それなりにごまかせなくもないでしょう。
「いいですよ、獏になったって、別に」
そう言うと、獏は、ほほう、と、感心したように笑いました。
「いや、あなた、思ったより肝が据わっていますね。でもね、獏になるというのは、ただ顔が変るだけじゃないんですよ。私どものお仲間になっていただくということなんです。つまりですね、今、私がしているような、この<夢売り>のお仕事をしていただくことになるんですよ」
「構いませんよ。職が貰えるなら、ぼくとしても好都合です。どうせ今の会社はもうクビですから」
「なかなか大変な仕事ですよ。海外出張が多いですからね」
「海外出張?」
「ええ。流れ星が落ちる場所を観測して、世界中のどこへでも拾いに行くんです。北極でも南極でも、砂漠やジャングルの真ん中でもね。実はね、このこんぺいとうは、みんなが流れ星にかけた願い事なんです。私どもは、地上に落ちた流れ星を世界中から集めてきて、みんなの夢が沁み込んだその星を精製してこんぺいとうを作っているんですよ」
そんな荒唐無稽な話が信じられるか、とも思いましたが、実際に、目の前には二本足で立って言葉をしゃべる獏がいるのです。それを信じるくらいなら、流れ星からこんぺいとうが出来ると言われても信じられるでしょう。
ぼくは、半ばむきになって叫びました。
「お、面白そうじゃないですか! ぜひやらしてください! だから、そのこんぺいとうを売ってくださいよ」
きっと、ぼくの目は、熱に浮かされたようにギラギラしていたと思います。それほど、こんぺいとうが欲しかったのです。今すぐ食べなければ、気が狂ってしまうだろうと思うほどに。
けれど、獏は無情に言いました。
「いいえ。申し訳ありませんが、あと一袋食べると獏になれるという、その記念すべき最後の一袋は、お金ではお売りできないんです。あるものと引き換えに、無料でプレゼントさせていただいているんですよ」
「『あるもの』って、何です?」
「あなたの夢です」
「はぁ?」
「ああ、ご安心を。あなたがこんぺいとうを食べて見る夢ではありませんよ。あれは、あなたの夢ではなく、他の人の夢ですからね。眠っても夢が見られなくなるとか、そういうことではありません。そうではなく、あなたが胸のうちに持っている、あなた自身の夢です。それを持っているうちは、夢売りの仕事は出来ないんですよ」
獏の言うことはさっぱり訳がわかりませんでしたが、こんぺいとうを食べて夢を見られなくなるのでさえなければ、別に構わないと思いました。そもそもぼくに『自分の夢』なんてものがあるとも思っていなかったし、もし持っていたとしても、自分でも持っているかどうか分からないようなものなら、獏にやってしまっても同じことでしょう。
でも、そんなものをどうやって他人に渡すことが出来るのでしょうか。
すると、獏は、にやりと笑いました。
「そんなもの、どうやって他人に渡すんだろうと思っていますね? 簡単です、こうやるんですよ、ほら」
そう言って、獏はぼくの胸元に、黒手袋の手をにゅっと突き出してきました。
ぎょっとして避けるまもなく、獏の拳はぼくの胸に何の抵抗もなくめり込み、かと思うと、すっと引き抜かれました。
獏が拳を開いてみせると、掌の上に小さな黄色い星が浮んで、頼りなく瞬いていました。今にも消えそうな、くすんだ、小さな、弱々しい星でした。
ぼくはびっくりしてそれを見つめながら、ふいに、胸に痛みを覚えました。
痛みというより、寒さでしょうか。何かすうすうするような、寂しいような、自分が自分でなくなったような……。そう、たぶんこれが、よく喩えで言う、『胸にぽっかりと穴が開いたような』というやつなのでしょう。
そして、ぼくは、その小さな弱々しい星を、絶対に売り渡してはならないものだと知ったのです。
「か、返してくれ。やっぱりやめた。こんぺいとうはいらないから、それを返してくれ!」
ぼくは思わず獏に詰め寄っていました。
獏は、急に今までの慇懃無礼な口調をかなぐり捨て、悪戯っ子のように節をつけて意気揚々と叫びました。
「やーだよー、だ! もらったものは返せませーん!」
それを聞いたぼくの頭に、かっと血が上りました。
ぼくは、獏に掴みかかりました。
「返せ、返せよぅ! それは、ぼくンだ。ぼくンだぞ!」
「あ、痛、いたた、ちょ、ちょっと、何すんですか! 案外乱暴な人ですね!」
「だって、ぼくはそれをあんたにやるとは言ってないぞ!」
「言いましたよ!」
「いや、言ってない!」
「言った!」
「言ってない!」
「……あ、そういえば、言ってなかったですね。しまった……」
星を抱え込んで激しく抵抗していた獏は、急にしゅんとなって暴れるのを止め、ふてくされたように、ぼくに星を差し出しました。
「ほら、返しますよ、返せばいいんでしょ、返せば……」
ぼくは獏の手の上からひったくるように星を奪い返して、いきなりそれを口に放り込み、飲み下しました。
小さな熱の塊が喉をすべり落ちて、胸の奥のあるべき場所に星がすっぽりと収まるのを感じました。
ああ、この感じだ……と、ぼくは気付きました。小さな、小さな、冴えない星だけれど、この星は、今までもちゃんとそこで瞬いていたのです。その、小さな小さな光で、ぼくの胸の中を、ほんの少しだけれど温め続けていたのです。
「お帰り、ぼくの小さい星……」
胸に手を当て呟いたぼくの中で、星が、再会の歓びに震えて、チリチリと、リンリンと、歓喜の歌を奏ではじめました。最初は遠慮がちに、次第に高らかに、胸の中で鳴り響く星の歌は、光となってぼくの中から溢れ出し、どんどん広がって、世界は一面、晴れやかな歓喜の歌と眩い光に満たされました――。
*
気がつくと、カーテンを開けっ放しだった窓から朝の光が差し込んでいるのでした。
ぼくは自分のベッドに寝ていて、目覚まし時計が鳴っていました。
慌ててベルを止めると、枕元からスタンドミラーを引ったくり、顔を映してみました。見慣れた自分の顔でした。
頭が痛いのは、二日酔いのせいでしょう。
サイドテーブルには、寝る前に脱ぎ散らした背広やネクタイが、だらしなく引っ掛けられて、ずり落ちかけていました。
その上に、封を開けたこんぺいとうの袋が載っていました。
袋には、こう書かれていました。
『夢の味! 獏印こんぺいとう』
そうして、下手くそな獏のイラストの下に、小さな文字がありました。
『ご注意:食べ過ぎると獏になります(なんちゃって☆)』
ぼくは小さく笑って、残りのこんぺいとうを全部ざらざらと口に放り込み、空き袋をくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ捨てました。
その時、袋に描かれた間抜け面の獏が片目をつぶったように見えたのは、たぶん、前夜の酔いがまだ残っていたのでしょう。
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