選択の結末4
カスペールは劇場や遊楽街も多い、そこそこ規模のある町である。希少品でなければ大体売っているし、それなりに流行りものも見かける。しかし痒いところに手は届かない。そんな町だった。
「えーと、まだまっすぐ……」
人でごった返す通りを、ソフィは地図を頼りに進んでいく。
がらがらと忙しなく馬車が行き交い、人々がざわめき、通りに並ぶ店からはひっきりなしにドアベルが聞こえてきていた。昼が近いせいもあるだろうが、それにしても賑やかである。
すれ違う人が時折銀髪に目を向けてくるのを感じたが、ソフィは気づかないふりをして歩き続ける。
ぶつからぬよう苦心しつつ、ようやく目的地に辿りついた。
建物を見上げ、鞄を持ち直す。地図をたたんでポケットにしまった。
――人形師協会カスペール支部。
短い階段を上がり、扉を開く。
ホールの正面にカウンター、その横には二階への階段があった。が、人の姿はない。がらんとしており静かだった。
ひとまずカウンターへ向かう。帳面が無造作に放置されていた。
どうしようかと思っていると、左側にあるドアが開いて、一人の女性が姿を見せる。
「……あ。ごめんなさい、お客様?」
女性は苦笑しながらソフィに駆け寄った。
「見学かしら。それとも人形師の方? 何かご入用?」
「あ、えっと……あの、学校で、人形師について調べていて」
「まあ、そうなの。ドゥージェール学校の子かしら?」
「は、はい。まあ……それで、昔ここに住んでいた人形師のことを知りたいんです」
「そうね、けっこういたのだけど。有名どころではハーメッタ・レビューとか、レイモンド・アイモンドとか」
言いながら、女性はカウンター後ろの棚から本をいくつか取り出す。
「……オット・ハーゲンという人はいませんか?」
ルネの主の名である。彼女から聞いてはいないが、ソフィは以前彼の作った別の人形を見ている。身体の作りなどの癖が一緒だったため、すぐに分かったのだ。
「オット・ハーゲン? んー」
首を捻りつつ女性は本をめくる。名簿だ。
「あ、本当ね。オット・ハーゲン。えーと……五一〇年から五四二年。あら、若くして亡くなっちゃったのねー」
「……………」
それは町の図書館でも調べがついた。五四二年。約六十年前だ。ルネの言葉を信じるなら、家を出てすぐに死亡したことになる。問題は死因と、場所だ。
「どうしてそんなに若く? 病気ですか?」
「んー、ちょっと待ってね」
女性は別の本を抜いた。
「えー……自宅前の通りで馬車事故に遭ったんですって。不運ねぇ」
「自宅前……?」
(ルネは、確か……)
――あの日は、お忘れになって。
――主を見送ったあとに気づいて、追いかけたのですが――
追いかけたが、間に合わなかった。そう言っていた。間に合わなかったというのは、つまり、事故に遭って渡せなかったということだったのだ。
(ルネの目の前で亡くなった?)
冷たいものが喉の奥を滑り落ちていく。
「郊外にお墓があると思うわ。行きたいなら住所を教えてあげる」
「……お願いします。家は残っているのですか?」
「それはちょっと分からないわね。工房の方なら登録が必要だから、ここにも載っているんだけど」
「そうですか。――あの、この人は公認人形技師にならなかったのですか?」
「公認人形技師になれるなら、もっと有名だったと思うわ」
「……そうですね」
ソフィは住所のメモをもらい、急かされるように踵を返す。女性がその背中に声を掛けた。
「その人。どうもここのお偉いさんと仲が悪かったみたいよ」
「え?」
彼女は本に目を落としながら続ける。
「協会と折り合いが悪く、よく衝突していたことで有名。かなり偏屈で人嫌いだったみたい。こんなことで有名になってもねぇ」
公認人形技師になれなかったのは、そのせいもあるのかもしれない。彼の人形作りの腕は決して悪くはなかった。なにしろ自律人形を完成させたのだから。
ソフィは今度こそ礼を言って、協会を後にした。
白い墓石が整然と並んでいる。
ひとけはない。白い柵で隔離され、乱れなく石が整列した景観は、軽々しく踏み込んではいけないような――
ぽつぽつと響く鳥のさえずりが、静寂を際立たせている。空気を吸い込むと霜が肺を刺すようだった。冬とはいえ、もうすぐ太陽が真上に来るというのに、日光を反射する白い石は寒々しく佇むだけだ。感傷もなく。言葉もなく。
――その墓は、一切の手入れがされていないようだった。
ソフィは白い息を吐き出しながら、辺りに視線を巡らせる。
他の墓には花が供えられてあったり、丁寧に洗浄した跡が残っていたりするのだが、この墓はずいぶん長い間放置されていたようだった。
汚れをこすって確認すると、何とか人名が読みとれる。
オット・ハーゲン。
「……………」
ルネは、主が死んだことを知っていたはずだ。だが確かに生きているとは言っていないし、死んだとも明言していない。彼女は嘘を言っていない。ソフィの感じる限り、彼女が嘘をついたのは一度だけだ。
『……ご主人を待っていたい?』
『……いいえ』
ルネはきわめて人形らしい人形だ。
主が死んだことを受け入れられず――六十年間、ずっと、主の命令を守って待っていたのだろう。
しかし身体や心臓板の限界を悟り、人形技師であるソフィを訪ねてきた。
(やっぱり同じ……なんだ)
過去にとどまっている。ソフィと同じように。
変化を望まず、先に進むのを恐れ、かつて在った光にばかり目を向けている。
だからソフィは何とかしたかった。過去に取り残された彼女を、すくい上げたかった。人形は、人間がいなければ存在できない。存在意義を見出せない。主以外の『人間』を、彼女に見せたかった。
そうすればソフィ自身も前に進める気がしたのだ。
――鳥が鳴いている。
冷たい風に揺られて、近くの梢が軋んだ。
苔むした墓標。捧げられることのない花。真白い群れの中にあって、ぽつねんと立ち尽くすその石。いずれは名前さえかすれて読めなくなるのかもしれない。
(……そっか)
すとんと――長年つかえていたものが、落ちた。
ソフィは、忘れ去られるのが嫌だったのだ。
六十年前、多くの自律人形が人殺しのための道具となった。ソフィの人形も。
そして役目を終えたあとは、まるで忌むべきもののように廃棄された。当時は口に出すことさえはばかられるほど、人々の自律人形への恐怖と嫌悪感は高まったのである。
人のために作られた人形だった。
人の友となり、家族となり、教師となり、生徒となり――恋人となるために生まれた存在だった。
一時的とはいえ軍用の兵器となったのも、間違いなく人のためであったろう。
それが、なかったことのように扱われるのが嫌だった。
人のために生まれ、人のために生き、人のために死んだ彼らが、忘れられていくのが怖かった。
――確かに彼らは生きていたのだ。
「……生きてた」
隣に。
人々の隣に。
ソフィの隣に、あの掛け替えのない人形は在ったのだ。
時の流れが恐ろしかった。彼らの存在が、雪の中に埋もれていくようで。この墓標のように置き去りにされる気がして。
「生きてた――」
初めて涙が頬を伝った。
不思議なことに、ソフィは当時泣かなかった。思えばそれも逃避だったのだろう。思いきり泣いて、喚いて、怒り狂えば良かったのだ。
嗚咽を漏らしながら、ソフィは墓の前にしゃがみこんだ。
「……ソフィなら、ここにはいないよ?」
ドアを開けた体勢のまま、ギイはにこりと笑った。居留守を使えば良かった、と後悔する。
目の前にいるのはルネだった。古いコートとフードという先日同様の出で立ちで、淡白にギイを見上げている。
「……存じております」
「そう。そういえばそうだね。ソフィの家に転がり込んでるんだもんね。律儀な彼女が言わないわけはないか」
「……はい」
あっさりと肯定され、ギイは顔をしかめる。
ソフィに『離れていかない』とは言ってもらったものの、やはり別の人形が彼女のそばにいるのは面白くないのである。
「じゃあ、何の用?」
「……お話が」
「立ち話で終わる?」
「……いいえ」
ルネは緩慢に首を振った。
「来ていただきたいところがあるのです」
「どこに?」
「……来ていただければ、分かります」
ギイはげんなりして髪を掻きあげる。
「……ソフィに待っててって言われたんだけどなぁ」
「……………」
ルネはゆっくりと瞬きをした。どうやら困っているらしい。目線を落として何事か考えはじめた。
「諦めて帰るって選択肢はないのかな」
「……はい」
「……………」
閉口するギイ。
ギイが彼女を疎ましく思うのは、なにも嫉妬ばかりが理由ではない。
人形は、人間の感情や意思には大きく左右されるが、人形のそれにはほとんど影響を受けない。つまり人形と接してもなんら益がないため、基本的に関心の対象外なのだ。
人形同士で個人的に話をしたところで、少しも楽しくない。
とはいえ、ルネは目的を果たすまで帰らないだろう。彼女を無視してドアを閉め切ってしまうのも選択の一つだが――
「……分かった」
ギイは溜め息をついた。
「この寒空の下、きみを放置したなんて知ったらソフィが悲しむだろうし。ちょっと待ってて、用意をしてくる」
「……ありがとうございます」
ほっとしたように息をつくと、ルネは小さく微笑んだ。
――人がいなくて良かった。
ようやく涙が枯れ、落ち着きを取り戻したソフィは、真っ先にそう思った。鼻をかみつつ辺りを探る。墓地には無言の石が並ぶのみである。
「こんなに泣いたの、どれくらいぶりだろ……」
気づけば淡白な表情と心をまとっていた。傷つかないための防衛本能だったのだろう。両親には腫れ物のように扱われ、家庭教師とは事務的なやり取りしか許されず、いちいち感情を揺らしていては
「でも、すっきりした」
肩の力を抜き、深く長く息を吐く。
ソフィは目の前の墓石に手を這わせながら、さてこれからどうしよう、と頭をひねる。
「ルネになんて言おう……」
彼女は主の死を知っていた。知っていてなお、六十年間待ち続けた。そしておそらく、今も命令を遂行したいと思っている。
だがそれは不可能だ。ルネの身体は――心臓板は、あと一年と保つまい。もし寿命を延ばせたとしても、主が亡くなっている以上、『自分が帰ってくるまで家を守っていろ』という命令は、永遠に達成できない。
「……………」
一瞬、引きつるような違和感が頭をかすめた。
――そもそも、ルネは何のためにソフィの元へやってきたのか?
調整だけを頼みに来たわけではなかった。
『このまま独り朽ちてゆきたくないのです。だから、どうか――人形師さま。わたしをおそばに置いていただけませんか』
寂しさゆえの言葉だと思っていた。もし違う意味なら?
ルネは主の命令を果たすつもりでいる。
彼女は――主に忠実な、きわめて人形らしい人形だ。
『貴方の自律人形はいないのですか?』
その問いを思い出した刹那、激しい震えが全身を駆け抜けていった。
「まさか……」
ルネは最初から、自分の行為がすべて無意味であると自覚している。
無意味でも不可能でも、彼女は行うのだ。それが命令を遂行するために必要なことならば。
ソフィは蒼白になり、鞄を握りしめると身を翻した。
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