選択の結末3
はやる気持ちを抑えて、軽くノックする。
返事はない。
ソフィはもう一度、今度は少し強めにドアを叩いた。
やはり返答はない。
ぐっと恐慌を呑みこんで、ノブを回した。抵抗なく開く。昼間だというのに中は薄暗かった。窓もカーテンも閉め切っているのだ。
「……ギイ?」
ゆっくりとドアを引きながら声を掛けると、奥の寝台が揺れた。
寝そべっていたギイが勢いよく身を起こす。目が驚きに見開かれ、体は石化したように固まっていた。
「あの、えっと……入ってもいいかな?」
ギイは珍しく呆けた表情のまま、小さく顎を引いた。ソフィはほっとして部屋に入る。
「ノウルから、倒れたって聞いて。具合はどう?」
「……心配かけてごめんね。なんでもないよ」
ギイは寝台に座りなおして微笑んだ。
「一応身体を診るよ。どこか痛いところはない? 違和感があるとかは? まだ気持ち悪い?」
「ううん、大丈夫。ただの寝不足かも」
確かに人形とてある程度の睡眠は必要だが、いくらなんでも倒れるはずはない。ソフィはギイの前に立ち、鞄を置いた。
不安に陰る翡翠の目がソフィを見上げる。
それでも柔らかな笑顔を作るギイに、胸が痛くなった。
「身体は、本当に何ともないの?」
「うん。本当だよ」
「じゃあ、念のため心臓板を診てもいい? 服の上から触るだけ。動きで大体分かるから」
「……………」
ギイは戸惑ったように視線を逸らしたが、やがてこくりとうなずく。
ソフィが隣に座ると、ぴくりと肩を揺らして顔を背けた。ソフィは気にしないようにして、手のひらを彼の左胸に当てる。
心臓板は人形の原動力だ。これが動くことによって、彼らは考え、運動し、感情を抱き、記憶し、学習する。人間の心臓と同じように、何か異常があれば乱れたり音が濁ったり――場合によっては熱を持ったりするのだ。
「……あのね、ソフィ。本当に何でもないんだよ」
「何でもないのに気持ち悪くならないし、倒れないでしょ」
ギイは視線を外したままだった。
本当だよ、と彼は再度言う。
「ただ、きみを傷つけた、から。傷つけた自分に、気持ち悪くなっただけ」
「傷つけたのは私の方だよ」
「違う。僕が――自分の感情を優先して、きみの気持ちを無視したんだ。人形なのに、自分のことばっかりで」
「……じゃあ、おあいこね」
ソフィは苦笑した。
ギイは虚を突かれたように絶句し、何やらもごもごと口を動かしてうつむく。
――心臓板は大きく脈打っていた。それは生きている証だ。ソフィは無性に泣きたくなる。今触れているものが、とてつもなく幸福で貴い、温かなもののような気がしたのだ。
「……きみは、怒っていないの」
ためらいがちにギイが呟く。
「怒ってないよ」
「僕に失望してない?」
「してない」
「僕のこと、嫌いになっていない?」
「なるわけないよ」
ギイが寝台のシーツを握りしめた。
「異常は、ないみたい」
ソフィはギイから手を離し、深く息を吐き出す。鞄を開けて小瓶を取り出した。
「でもちょっと速いかな。大丈夫だと思うけど、念のため心臓板の動きを抑制する薬を出しておくね」
「いらないよ」
「念のためだから。心臓板が動きすぎても身体に負担がかかるし――」
「ソフィ。僕の心臓板の動きが速いのは、きみがそばにいるからだよ」
小瓶を持った状態で、ソフィは硬直した。
ギイはいつの間にかソフィを見つめている。
「きみがそばにいる時は、いつもドキドキしているよ」
「あ――そ、そう……なの。でも、あの、念のため――渡しておく、ね」
うろたえながら、小瓶をギイに押しつける。今度はソフィが、蜜の乗った微笑みから目を逸らす番だった。
「……………」
コツ、と瓶が鳴る。
何かと思えば、ギイが爪を当てたのだ。コツ。コツ。何度か続いた。ゆるやかな動きは楽器の鍵盤を叩いているようで、そこに苛立ちの色はない。一体何をしているのか。ソフィは首をかしげ、ギイの表情を窺った。
彼は瓶になど関心を示していなかった。ソフィと目が合うと、嬉しそうに、だがどこか切なげに微笑する。
「……触れてもいい?」
「えっ?」
「きみに触れてもいい?」
一瞬呼吸が止まった。
「ど――どこに?」
「え?」
頭になかったらしい。ギイはしばし考え、恐る恐るといった様子で答える。
「じゃあ……頬」
――頬なら結構許可なく触っているような。
ソフィは思ったが、それならと妙なところを指定されても困る。無言でうなずいた。
ゆっくりとギイの手が伸びてくる。まず親指が触れた。それから人差し指。確かめるように少しだけ撫でたあと、手のひら全体で頬を包み込んだ。
頬や髪なら、ギイはよく触れてくる。あまりにも頻繁なため、近頃はソフィもそれほど羞恥を覚えなくなっていたのだが――
(は、恥ずかしい……!)
触れ方が一段と優しかった。生まれたての雛にでも対するように。
ソフィは居たたまれなくなって、膝に置いた自分の手を凝視しはじめる。とてもではないが、真正面から見返すことはできない。頬だけが異様に熱を放っている気がした。
「……………」
ぎしり、と寝台が軋む。ギイが体をかたむけ、ソフィに近づいたのだ。自分の拳に集中していたソフィは気づかなかった。
頬を撫でながら、ギイは引き寄せられるようにソフィに接近していく。
次第に距離を縮めていく顔。響く時計の音。手のひらが頬を滑り、耳たぶをかすめて、髪を絡めながらゆっくりとうなじの方に回っていく。
静かな吐息を近くに感じ、ソフィはふいに視線を上げる。
――とたん、ギイの顔が間近にあるという事態に仰天し、身を引いた。
ギイがはっとしたように体を戻す。
「……………」
「……………」
硬直する時間。
二人は互いに驚きながら見つめ合った。
「……ごめん。ソフィって、良い匂いがするなぁと思って」
やがてギイが柔らかな笑顔を作った。
「は? に、匂い?」
「うん。シャンプーかな。果物みたいな甘い香りがするよね」
「た、確かに、果物の香りだけど」
ソフィは無理やり短い髪を引っ張り、鼻に近づけてみる。
「でも、そんなに強い香りじゃないはずだけど……」
「僕、鼻がいいから」
――香りにつられた。
(いや、でも、あれは……そんな感じじゃなかった気が……)
しかしそうでなかったとしたら、何だと言うのか。
ソフィは赤面し、慌てて話題を変える。
「そ、そう。そうだ、私ね」
「うん」
「私、ちょっと出掛けるんだけど……」
「――どこに?」
空気が一変する。ギイはさっと笑顔を消し、ソフィの腕を掴んだ。
「えっと……カスペールって町まで。あ、長く留守にはしないよ? もしかしたら一、二泊はするかもしれないけど。今、どうしても行かないといけなくて」
「なら、僕も行くよ」
「それは駄目。一人で行きたいの」
ルネの寿命は数日中に訪れるわけではない。ギイも、どうやら心配はない。ならば今進まなければならない。
「すぐに戻るから」
「……………」
ギイは捨てられた犬のように寂しげな顔をした。
別に今まで毎日必ず顔を合わせていたわけではない。ソフィが他の町に遠出したこともある。普段なら、たかが一、二日不在にするだけでこんな反応を示しはしなかっただろう。
「……離れていかないで」
――ギイは不安なのだ。
主がおらず。ソフィには距離を取られ。自らの感情に戸惑い、その間に別の人形がソフィの隣を埋めた。
人形である彼にとって、『孤独』とは耐えがたい恐怖なのだ。
ソフィはすがるようなギイの手に触れる。
「離れてなんか、いかないよ」
「……好きなんだ」
唐突な告白。
ソフィは思わず固まった。だが、ギイは構わず続ける。
「そばにいさせてくれるなら、もう、何でもいい。僕を嫌っていても、疎ましく思っていても、必要としてくれなくても、いいよ。きみが望まないことは何もしない。きみが好きなんだ。……ただの人形としてでいい。そばにいさせて」
それは極めて一方的で、利己的な懇願だった。
だが、人形のギイがその望みを口にするまでに、どれほどの葛藤や混乱があったのだろう。本来、人形は個人的な欲求など持たない。常に人間を優先し、気遣い、その願いを叶えることを唯一の存在理由とする。
人間の意思も感情も無視した自分勝手な望みを抱くことに、そしてそれを口に出すことに、どれだけの
(……ああ、もう)
――もう駄目だ。
ソフィはギイの手を掴み返した。彼の拳を両手のひらで覆うようにして持ち上げると、うつむいてそっと額に押し当てる。ソフィは触れるのも触れられるのも得意ではない。抱きしめ方は分からない。だから、これが限界だった。
「……ギイ」
「うん……?」
困惑した声が応じる。
「戻ってきたら、ちゃんと、全部言うから。自分の気持ちにも、ギイの気持ちにも、ちゃんと向き合って、伝えるから。だから……」
今はまだ、これが精一杯。
「だから、待っててくれる?」
これでは想いを伝えたようなものではないか――口走ってから、我に返り恥ずかしくなる。だが、逃げたくなる気持ちを封じ込めて、ギイの返答を待った。
数秒か。数分か。あるいは十数分か。ゴムのように引き延ばされた時間のあとで、ようやく小さな声が落ちる。
「……うん」
――花が綻ぶような。
どんな顔をしているか、見なくても想像がつく。
「待ってる」
おそらくギイも、ソフィがどんな顔をしているか想像がついているだろう。そう思うとますます羞恥心が増し、ソフィはしばらく微動だにできなかった。
――待っていろ。
遥か昔の命令。
コートをはおり、大きな鞄を持って、彼の人は振り返らずにそう言った。
開け放たれた扉は外へと続いている。差し込む陽光が彼の輪郭を白くぼかした。
――僕が戻ってくるまで、工房を守っていろ。いいな。
それは確認であって、意思を問うものではない。肯定以外の言葉を彼は求めていないからだ。
だからルネは、いつも通り『はい』と答えた。
――はい。いってらっしゃいませ。
軽い失望の溜め息が落ちる。
いつも通りのやり取りだというのに、なぜ彼がそんな反応をするのか、ルネには理解できなかった。彼は顔だけで振り向いたが、表情は逆光のためよく見えない。しかしやはり失望しているのだろう、ということは察せられた。
――どうかなさいましたか?
――いいや。
あの時、別の言葉を返すべきだったのかもしれない。
だが、ルネにはあれ以外に相応しい回答が思いつかなかった。
六十年間考え続けても、答えは出ない。
――待っていろ。
「……はい」
呟いて、ルネは目の前の瓶に手を伸ばした。
片手では掴みきれない。直径十センチほどの大きめの瓶である。液体が重たげに揺れていた。
――僕が戻ってくるまで。
「はい、我が主……」
あと十年待ったところで、彼は戻ってこない。
二十年待っても。
三十年待っても。
それならば――
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