選択の結末2

「ソフィ」

 二度目の呼びかけ。

 ソフィははたかれたように振り返った。

 ギイである。

 瞬間、紙袋が手をすり抜け、落ちる。石畳にオレンジが散った。

「あっ……」

 ソフィは慌てて果物を追う。隣でルネもゆっくりと腰を曲げた。

 幸い狭い道である。それほど広範囲には転がらない。ソフィは己の失態に冷や汗を流しながら拾い集めていく。

「……はい。これで全部だよ」

 周囲を確認しようとしたソフィは、近くで聞こえた囁きに硬直した。

 すらりと伸びた腕が、最後の一つを紙袋に導く。

 ソフィは目を合わせられなかった。

「あ――ありがとう。ごめんね」

「ううん。僕がいきなり声を掛けちゃったから」

 柔らかな声音に沈んだ音を感じ、ソフィは思いきって顔を上げた。

 微笑みはいつも通り温和だが、翡翠の瞳は曇っている。

(き、傷つけた……?)

 声を掛けたら荷物を落とした――となれば、怯えていると受け取られてもおかしくはない。

 弁解すべきか否か。悩んでいると、ルネがそっと顔を覗きこんだ。

「ソフィ?」

「な、なんでもないよ」

 ギイがわずかに眉を上げる。

「――彼女は?」

 殊更にっこりと笑った。

「え?」

「この人形は、何?」

 ルネが不思議そうにギイを見返す。そしてソフィの代わりに答えた。

「ルネと申します」

「そう。でも名前は聞いていないよ」

 ギイの声音は柔らかい。もちろん表情も柔らかい。しかし、そこに込められた感情が、決定的に尖っている。

「あ、えっと……彼女は、ちょっと事情があって。うちに居てもらってるの」

「事情って?」

「えーと……」

 人形とはいえ、他人の事情を勝手に明かしてしまうのは気が引けた。

「……主が、仕事で遠くへ」

 ルネが言葉を引き継ぐ。

 へえ、とギイは低く相槌を打った。

「いつまで居るの?」

「……正確には不明です」

「主が帰るまで? それはいつ?」

「ギイ、ちょっと――」

「……さあ。わたしには分かりかねます」

 ルネは淡々としている。見定めようとしているのか、ギイをじっと見つめていた。

「そう。でも、ソフィはきみの人形師じゃないんだよ。あんまり頼るのはどうかと思うけど」

「……………」

 束の間視線を落とし、それからちらりとギイを見上げたルネは、薄い微笑を返した。

「……そうですね。けれど、それは貴方も同じでは?」

 その時、二人の間に亀裂が走ったのを、ソフィは確かに感じた。

 笑顔を保ったままのギイがソフィに向き直る。

「ソフィ」

「は、はい?」

「彼女を家に泊めているの?」

「あ、うん……」

「そこまでする必要はないんじゃない?」

 甘い声と笑顔だった。しかし雰囲気は冷たく澄んでいる。

「でも、お金がないっていうから」

「そんなのソフィが負うものじゃないよ」

 ね? と優しく諭すように言ってはいるが、妙な圧力がある。

 ――確実にギイは不機嫌だった。

(どうしよう)

 ソフィのよそよそしい態度と、見知らぬ人形の存在が、ギイの不満と不安を生んでいるのは間違いない。以前であれば安心させる言葉――たとえば、そばにいるだとか、大切に思っているだとか――を掛けることもできたのだが、今のソフィの心理状態では無理な話だった。

「あのね、ルネはご主人と離れているし、頼るあてもないそうなの。それに身体が結構傷んでいるから、もう少し診てあげないと――」

 結局、現状を理解してもらえるよう、やんわりと反論するしかない。

 ギイはひどく悲しげに目を伏せただけだった。

「僕の身体は診てくれたことなんかないのに」

「え? だ、だってギイはまだ調整とか必要ないでしょ? それともどこか調子が悪いの?」

「悪くないと診てくれないの?」

 拗ねている。間違いなく。

 しかし、調整は自律人形に少なからず負担をかける。無闇に行うものではない。本当に診るだけなら問題はないが、不調を感じたわけでもないのに診る意味は、普通ないだろう。

 ソフィが答えあぐねていると、ギイはどうやら要求を却下されたと判断したらしい。瞳の愁いを深くした。

「……きみは人形を信用しすぎる」

「それは……当たり前でしょ?」

「きみは人形を無条件に友達だと思っているんだろうけど、すべての人形がきみに友好的だとは限らない。きみだって言ったよね。人間に恋をした人形が、その人のために他の人間を殺してまわった話があるって」

「そ、それはまあ。でもルネは――」

「どうして彼女がそんなに信用できるの」

 ギイは苛立ったようにルネを一瞥した。

「人形に殺されそうになったのを忘れたの? 何が目的できみに近づいたのかも分からないのに、人形というだけで信用しては駄目だよ」

「……ギイ」

 彼らしからぬ辛辣なセリフに、ソフィはショックを受けて立ちすくんだ。

 ギイがはっと息を呑む。

「ソフィ」

「そんな言い方をしないで。この子はギイと同じなんだよ。ご主人から離れて、一人で、ここに来たの。だから私は……」

 主のそばに居られず、役目も失い――ルネの気持ちは、ギイが一番よく分かるはずだ。

 ギイが何か言いたげに口を開いた。が、ソフィはルネの腕を引いて顔をそむける。

「ごめんね。もう帰る。――行こう、ルネ」

「……はい」

 ルネは二人を見比べたが、特に異を唱えることなく従った。

 二つの足音が乾いて響く。ギイは追ってこなかった。ただ、視線だけがソフィの背にすがってくる。振り返らなくてもそれが分かった。

「……ソフィ。ごめんなさい」

 歩調を乱さずルネが言う。

「何?」

「わたしのせいで喧嘩をしたのですね」

「違うよ、君のせいじゃない。私が――」

(私が)

 ギイの想いに――いや、自分の心に、向き合っていないからだ。

 自覚せず、実感せず、何十年も目を背けていたのだろう。これまで形をかたくなに変えようとしなかったのは、間違いなくソフィの心だ。

 そしてこれからも、変わらずにいるのだろうか。ギイを傷つけてまで。

「……貴方は、あの人形が好きなのですね」

「…………!?」

 ルネは淡く微笑んでいた。

 違う、と言いかけ、ソフィは口をつぐむ。

 躊躇した時間は長かった。

 視線をあちこちにさまよわせ、無意味に荷物を持ち直し、寒さだけではない赤みを頬に乗せ――

 そして、小さくうなずいた。



 喉が渇いて目が覚めた。

 しんと静まり返った深夜。ソフィは手探りでランプに火を灯し、寝台から起き上がる。ランプを片手に寝室を出た。

 リビングのソファにはルネが寝ている。といっても座った姿勢だが。彼女を起こさないよう静かに通りすぎようとして――

「……どうかしたのですか?」

「わっ!?」

 突然声を掛けられ、ソフィは飛び上がった。

「ご、ごめん、起こしちゃった?」

「いいえ。起きていました」

 ルネは膝の上の手に、視線を落としていた。いや、正確には手のひらの中にある、小さな何かに。

「……それは?」

 尋ねると、ルネは一度ソフィを見、そしてまた手元に視線を戻した。

「心臓板のかけらです。わたしの」

 小さな金属片。

 ルネを作る際に余ったものだろう。公認人形技師として認められると、その金属片を加工してペンダントにする。加工されずに残っているということは、ルネの主は公認人形技師にはならなかった――あるいはなれなかったのだ。

「いつも主はこれを持ち歩いていたのですが……あの日は、お忘れになって。主を見送ったあとに気づいて、追いかけたのですが、間に合いませんでした」

「……そっか」

 ランプの光に照らされ、陰を作った空色の目は、真摯しんしに金属片を見つめている。

「ご主人は、どんな人だったの?」

「……とても、勤勉な方で。人形師として成功するために努力を続けておられました」

「そう。真面目な人だったんだね」

「……はい」

 視線は片時も金属片から逸らされない。

『主は、もう帰ってこられないでしょう』

 ルネはそう言った。

 分かってはいても、納得はできていないのかもしれない。人形にとって主の命令は絶対だ。赤ん坊にとっての母親のように――

「……ご主人を待っていたい?」

 ルネはゆっくりと顔を上げてソフィを見た。

 やはりゆっくりと、瞬きをする。考えている時の癖なのだろう。

「……いいえ」

 ルネはゆるやかに首を振った。

 ――彼女の嘘は、分かりやすい。



 この町の図書館は、小さいわりに良質の本が揃っている。

 絵本、新聞、小説、画集、歴史書に学術書。あまり専門的なものはないが、軽い娯楽や調べ物には充分な種類だ。

 ソフィが今いるのは、芸術分野の本が並ぶ棚である。

「……あった」

 若干の驚きを声に滲ませて、一冊の本を手に取る。

 決してメジャーなジャンルではないのに、ここには人形や人形師に関しての書籍がやたらと多い。人形愛好家たるアラン・クレヴリーが寄贈、取り寄せしているらしかった。

 索引を確認し、ページをめくっていく。

 目的の文章を視線でなぞったあと、別の本を引き抜いた。同様に迷わずページを開き、目を動かして、本を閉じる。

「カスペール……馬車で三、四時間くらいかな」

 情報を頭の中で整理しながら、次の本を取る。

 それを何冊か繰り返した頃だった。

「……ソフィ」

 図書館だからだろう、声はささやくように潜められていた。

 ノウルである。

 やや呼吸を乱し、冬だというのに額にはうっすらと汗をかいていた。彼はこの時間仕事中のはずである。よくよく見れば、外套がいとうの下にはエプロンを付けたままだった。

 ソフィは嫌な予感に身を強張らせる。

「家に行ったら、ルネって人形がいてさ。あれ自律人形だよな? ソフィが作ったのか?」

「ううん。私ではないんだけど、事情があって家に居るの」

「そうなのか。初めて見たんで驚いた。――いや、それはともかく。その人形から、ソフィは図書館に行ったって聞いて」

 ソフィの手元の本を見て、ノウルはきまり悪そうに頭を掻いた。

「悪い、もしかして仕事関係か」

「大丈夫、個人的な調べ物だから。何かあったの? お店は?」

「それが……あー、落ち着いて聞いてくれ」

 ソフィは息を呑んでうなずく。

「ギイの奴が、いきなりぶっ倒れた」

「……倒れた?」

 どくん、と心臓が大きく脈打つ。

「最近、あいつずっと店に来てなかったんだけど、それは知ってるか?」

「し……知らない」

「――まあ、ずっと体調悪いとかで休んでたんだよ。それで、今日ようやく復帰したと思ったら、仕事中に気持ち悪いっつって倒れたんだ」

 心臓の音がひどくなっていく。

 ギイは人形だ。病気になどなるはずがない。倒れるほど具合が悪くなるとすれば、精神的なものか、あるいは心臓板の異常か。

 ――心臓板の異常であれば、ソフィには手の打ちようがない。

 ぞわっと恐怖が全身に広がった。

「医者を呼ぼうとしたら、絶対駄目だ、なんでもないって主張しやがるからさ。とりあえず家に送ってって寝かせたんだが……ソフィ、大丈夫か?」

「だ、大丈夫。それで?」

「熱はないし、意識ははっきりしてるし、呼吸も普通だし、深刻な状態じゃなさそうなんだけど――ソフィ、ちょっと見舞いに行ってやってくれないか? 俺はもう店に戻らないと」

「うん」

 ソフィは震える手で本を戻した。足元に置いていた鞄を持ち上げる。そのまま駆け出したい衝動をこらえて、ノウルを一度振り返った。

「教えてくれてありがとう。すぐに行ってみる」

「ああ、頼む。――ソフィ」

 ソフィは足を止めた。

「あいつ、ソフィがいないとこの世の終わりみたいな顔するんだ。何があったか知らねえけど、見捨てないでやってくれよ」

 ソフィは即答できなかった。

 ためらいがあったわけではない。考えたこともなかったのだ。当たり前すぎて。

(ああ……つまり)

 そういうことだ。

 結局のところ、何を悩んでも、躊躇ちゅうちょしても、怖がっても、ソフィにとってギイが大きな存在であるということは変わらない。

 苦悩も逡巡しゅんじゅんも恐怖も無意味なら、もう進むしかないのだ。

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