第7章

選択の結末1

 赤みの強い、琥珀色の液体がゆらゆらと揺れていた。小さなカップに押し込められ、窮屈そうに表面を波立たせている。湯気とともに抜けていく香りはひどく薄かった。鼻腔をただ通過するだけで、何の感慨も与えることなく、閉め切った室内に霧散していく。

「……………」

 ギイは寝台の上に座り込み、ぼんやりとそれを眺めていた。

 片膝を立て、気だるげに壁にもたれている。趣味に興じる風情ではない。どことなく投げやりで、不機嫌だった。

 浮かない面持ちのまま、カップをかたむける。

「……苦い」

 顔をしかめた。

 蒸らしすぎたのだろう。余計なえぐみが紅茶の味を損ねている。

 ギイは仏頂面で一気に飲み干した。

 深い溜め息をつき、空のカップをサイドテーブルに置く。

 ――ふと、視線を横に流した。ドアの方である。

 ノブが乱暴に回ったかと思うと、鍵が外れ、一切の遠慮なくドアが開け放たれた。

「あがるぞー」

 明るい日差しとともに侵入してきたのは、ノウルである。

 ギイは眩しさに目を細めた。薄い笑みを浮かべる。

「合鍵はソフィにしか渡してないはずなんだけど……」

「昼間っから暗いな。カーテンくらい開けろよ。鍵は大家に借りたんだ」

「泥棒やり放題だね、きみ」

 ノウルは近所の者からの信頼が厚い。大して事情も聞かれず受け取ったに違いない。

「サボリ魔に言われたくねえよ」

 勝手に椅子を引き寄せて腰掛けながら、ノウルが鼻を鳴らす。

「ちゃんと連絡はしたよ」

「連絡すりゃいいってもんじゃねえだろうが。いきなりしばらく休むっつって引きこもりやがって。もう五日だぞ。レインスの奴が死にかけてる」

「……………」

 ギイは同僚の青年を思い浮かべ、うなだれた。

「ごめん……」

「まあレインスなんて死なせておけばいいんだが」

 さらりと言い捨てて、ノウルは腕を組む。

「――で、ソフィと何があった?」

 ギイは一呼吸分、間を置いた。

「……どうして断定するの?」

「おまえがそこまで影響受けるのなんて、ソフィ絡みくらいだろ」

「まるで僕がソフィのことしか考えていないみたいじゃないか」

「違うのか?」

 ギイは押し黙った。

 時計の針が回っていく。ノウルは相変わらず辛抱強かった。

「……違わない」

 頭を壁に当て、ギイは溜め息をつく。

「ノウル、僕はもうこのまま壊れたい」

「壊れるなよ」

「ソフィに拒絶されたら生きている価値がないんだ」

「思い詰めすぎだろ……」

 人形ゆえか、恋心ゆえか。

 ごめんねと告げた少女の姿が、絶えずギイをさいなんでいる。

 どんな意味の謝罪だったのか、平静を欠いたギイには分からない。

 答えられなくてごめんという意味か。

 応えられなくてごめんという意味か。あるいは両方か。

 ――実を言えば、拒絶されることは想定内ではあった。問題は、それが想像以上にこたえたこと、今現在も継続していることだ。

 ギイはソフィの行動パターンをおおむね把握している。何時頃に家を出るのか、何時頃帰宅するのか。どれくらいの頻度で、どの店に、いつ足を運ぶのか。仕事を請け負っている時といない時の違い。

 そのため会おうと思えば高確率で会うことができる。――否、過去形だ。ソフィは今、おそらく意識的にその習慣をずらしている。

 ギイを避けているのだ。

「避けられてる……」

 口に出して改めて認識すると、さらに気分が沈んだ。

 ギイは、あの優しい人形師が本気で自分を嫌いになるとは思っていない。とにかく人形には甘くて寛容なのだ。どれだけギイが困らせても、結局最後には許容してくれる。

 しかしそれでも、会うことさえ拒否されているという現実は、ギイをひどく打ちのめした。紅茶すらまともに淹れられなくなるほどに。

「ソフィに何したんだよ」

「やましいことはしてない」

「だから、具体的に何を」

「……ノウル、僕はもう疲れたよ」

 話したくない、と暗に伝える。そして空っぽになったティーカップを引き寄せた。

「美味しい紅茶が飲みたい……」

「おまえ案外打たれ弱かったんだな……」

 ノウルは眉根を寄せ、頭を掻いた。膝を叩いて立ち上がる。

 彼はぐるりと室内を見回すと、寝台横の小さな机に目を留めた。

 ギイの部屋は殺風景だ。必要最低限の家具はすべて未染色の木製で、洒落たインテリアなど見当たらない。余分な装飾も一切なく、小物、絵、花の一つすら飾っていないのだ。本棚に並んだ小説を除けば、面白味どころか人間味のない無味乾燥とした内装である。

 だからこそ、机に置かれたそれはノウルの関心を惹いたのだろう。

「祭りで買ったんだろ。渡さなくていいのか?」

 手のひらに乗る程度の、小さな包み。女の子が好みそうな可愛らしいラッピングがされている。

 ギイは返事をしなかった。壁に寄りかかり、ふてくされたようにそっぽを向く。

「……ま、好きなだけ腐ってりゃいいけどさ。ソフィはここんとこずっと同じ奴と一緒にいるみたいだぞ」

「――誰?」

 ギイはぱっと身を起こした。

 ノウルはすでに背を向け、ドアの方へ歩いている。

「さあな。いっつもフードとコートで全身隠してる。ちらっと見たが、知らない顔だ。この町の奴じゃない」

「……………」

 表情を消したギイを一瞥すると、ノウルは一方的に挨拶を済ませてドアを開けた。

 吹き込んだ風が肌を叩く。よどんだ室内の空気をかき回し、冷却して、やがて鎮まった。



 雪の降る中、ソフィの元に訪れた女性は、ルネと名乗った。

 外見は二十代半ばほど。ゆるやかに波打つ小麦色の髪と、空色の瞳、小さな赤い唇を持った――人形である。

 ルネはきわめて人形らしい人形だった。

 肌はガラスのように滑らかで、視線はあまり動くことがなく、身体からは生物にあるべき匂いがしない。また、人間であれば出てくるはずの、無駄な仕草や動きがほとんどなかった。あったとしてもどことなく不自然で、形だけなぞっているような白々しい印象を受ける。

 人形師の目すら欺くギイとは違って、少し見れば一般人でも判別できるだろう。

「わたしのあるじは、長い間工房を留守にしております……」

 ルネは家に入るなり話しはじめた。

 淡々とした声は美しいが、いささか情感に乏しい。

「わたしは主から留守を頼まれました。けれど、長いこと身体を調整していませんでしたので、最近うまく動かないのです」

 自律人形は定期的な調整を必要とする。彼女の動作の硬さはそのせいもあるのだろう。

「貴方は人形技師だとお聞きしました。……調整をお願いできませんでしょうか」

「うん、それはもちろんいいよ。君のご主人はどれくらい不在にしているの?」

「……………」

 ルネはゆっくりと瞬きをした。長い睫毛が思案するように揺れる。

 空色の目は透明なままだった。

「……六十年」

「――え?」

「もう六十年になります、人形師さま」

 そう言ってルネが小首をかしげたのは――おそらく、ソフィの顔が強張ったからだろう。

(偶然?)

 寒気が一瞬だけ背筋を撫で上げる。

「六十年……前、どうして、君のご主人は?」

「……詳しくは伺っておりません。仕事だと」

 ルネはゆっくりと腕を上げ、手のひらを自らの左胸に当てた。

「主は、もう帰ってこられないでしょう。六十年という年月が、人間にとってどれほど長いものであるか、理解はしております。わたしにとっても長い年月でした。……わたしは、もうすぐ止まります」

 左胸。心臓板の位置。

「心臓板の寿命です」

 ソフィは拳を握った。

 心臓板にあらかじめ設定された寿命なのか、それとも心臓板に使用される金属の寿命なのかは分からない。どちらにしろソフィにはどうにもできないことだ。

「主は、自分が戻ってくるまで工房を守っていろと、お命じになりました。けれど、それがもう無意味であることは分かっています」

 六十年。

 主人の年齢がいくつかは分からないが、すでに亡くなっている可能性が高い。生きていたとしても、戻ってこないということは戻る意思がないということだ。

 ルネは澄んだ眼差しを維持したまま、静かに懇願した。

「このまま独り朽ちてゆきたくないのです。だから、どうか――人形師さま。わたしをおそばに置いていただけませんか」



「……………」

 青果店で目当ての果物を購入し、ソフィは溜め息をついた。紙袋を抱えて露店を後にする。

 後ろをついてくるのはルネだ。彼女は影のようにソフィに付き従う。

 淡々としたその表情を盗み見ながら、ソフィはまた溜め息をついた。

 ルネの心臓板に使われた金属は、あまり純度が高くなかった。有体に言ってしまえば安物である。寿命は必然だろう。高価なものであれば、彼ら自律人形は半永久的に生き続けるのだ。

 心臓板を作り直すことはできないし、取り替えることもできない。ソフィはただ黙って彼女が止まる時を見ているしかなかった。

「……はぁ」

 三度目の溜め息。

 立て続けに起こった出来事が、ソフィの心を重くしていた。ギイのことも何一つ解決していないのだ。

「どうかしましたか?」

「何でもないよ」

 ルネは首をかしげ、じっとソフィを見る。猫が観察するような素振りだった。

「ソフィ、貴方は人形技師でしょう?」

「うん」

「貴方の自律人形はいないのですか?」

「あー……うん」

 曖昧にうなずくソフィ。

 ルネが疑問に思うのも当然だろう。自律人形の制作こそが、人形技師としての誇りであり集大成でもある。そばに自律人形がいないのは不自然なのだ。

「昔、事情があって……手放しちゃったの」

「……そうなのですか」

 ルネはそれ以上尋ねなかった。

 気持ちを切り替えるつもりで、ソフィは紙袋から果物を取り出す。

「ルネも一度食べてみる?」

 ルネはぱちりと瞬きをした。

「……いいえ。せっかくですが、食べられるように作られていません」

 彼女は反応がワンテンポ遅い。相手の言動を理解するまでに若干の時間が必要なのだろう。

「そっか。味も分からない?」

「はい」

「残念」

 改めてギイの特異性を思い知らされる。

 ソフィの自律人形も食事はしなかった。単純に必要性がなかっただけで、そのように作ろうと思えば不可能ではなかっただろうが、ギイほど繊細なものにするのは難しい。――ちなみに、ギイは毒を判別するために嗅覚と味覚は相当高性能にできているとか。

(ギイは会話の切り返しも早いしなぁ)

 ソフィよりもよほど頭が回る。王子の代役なら、それくらいでないと務まらなかったのだろうが――

「……………」

 ギイはどうしているだろうか、とふと思った。

 ソフィは最近、ギイの――正確にはノウルの、店に顔を出していない。極力ギイに会う可能性が低くなるように行動している。敏い彼ならば気づくだろう。避けているのだと。

 このままではいけないと、無性に焦る気持ちはあるというのに、一歩を踏み出す覚悟が持てない。

 ――そう、覚悟。六十年前も、ソフィには覚悟がなかった。

 判断の正しさなど関係ない。決断する覚悟が、それによって訪れる結末を受け入れる覚悟が、六十年前にあれば。

 きっとあれほど後悔はしなかった。

 ギイが投じた一石を無視するのか、それとも己でさらに一石を投げ込むのか――

 今度こそ、ソフィは覚悟を決めて決断しなければならない。

「――ソフィ」

 最初、その声が幻聴だと思った。

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