一片の雪5

 ギイはしばらく黙っていた。

 何を思っているのか、感じているのか、その整った横顔からは読みとることができない。思案しているようではあった。しかしこうも長く黙考するのは珍しい。

「後悔をしてる?」

 ギイの視線は前方に向けられたままだった。

「……どうかな」

 ソフィも顔を前に戻しながら答える。

「後悔は、したよ。散々。だけど本当に昔のことで――今は思い出すと少し苦しいだけ。どうしようもないことだったと思う。過去には戻れないし、謝っても、あの子はもういない」

 作戦終了後、投入された自律人形は残らず廃棄処分となった。破損や、それに伴う精神的および肉体的な異常を起こした個体が多かったこと、民衆が『殺人人形』を恐れたことが主な理由である。

「お別れも言えなかったな」

 愚かなことに、ソフィは事を済ませたあとで自らの行いの重みを自覚した。

 今まで感情豊かに笑い、怒り、考え、動いていた人形が、一切の表情をなくし、ガラス玉のような目で宙を見つめていた。

 受け答えはする。ある程度は自身の思考で行動する。しかしそれは、もはや自律人形――生きた人形ではなく、動く物体でしかなかった。

「こんな姿のまま何十年もうろついて、何がしたいのか自分でも分からない」

 ソフィは長く息を吐きだし、天を仰いだ。

 その時、まぶたに冷たいものが弾けて、瞬きをする。雪だった。

「とうとう降ってきた」

「本当だ」

 ギイが空中に手のひらを差しだす。一つ、二つとそこに白い粒が落ちた。すぐさま体温に溶かされて消える。また落ちる。溶ける。落ちる。わずかに残る。増えていく――

 雪はゆっくりと髪を、肩を、腕を、足を、ベンチや地面を、白く塗装していく。

 ソフィはぼんやりとそれを眺めた。

 ――もし、時間というものが雪なのだとしたら。

 自分の雪は延々溶け続けているのだろう。

 高く高く積み重なっていく周囲の雪を、下からただ見上げている。溶けて流れた自分の雪をただ傍観している。ずっと同じ、底にとどまったまま。

「……きみは、変わっていくのが怖いの?」

 指摘されて。

 ソフィは氷を押し当てられたような心地になった。

 ギイは再びソフィを見つめている。

「怖いって……どうして?」

 平静を装って聞き返しながらも、じわりと汗が滲み出てきていた。

 ――怖い。怖いのだろうか。何が?

「忘れ物があるから、それを置いてけぼりにするのが怖いのかなって」

 忘れ物ならとうに失われた。過去にしがみついても取り戻せないことは承知している。

「それとも、まだ自分を責め足りない?」

 責めても意味がない。自己満足だ。

「ソフィ、きみを怖がらせているものは何?」

 ソフィは思わず立ち上がっていた。

 服についた雪が滑り落ちていく。そのままじっとしていれば、やがてまたぽつぽつと積もり始める。

 ソフィは顔を硬化させてギイを見返した。

「……僕ね」

 ギイはにこりと笑って座るよう促す。

 ソフィは渋々彼の隣に戻った。

「オムライスを上手に作れるようになったんだよ」

「……は?」

「安心して。ノウルや色んな人に及第点をもらったから」

 にこにこと嬉しそうなギイ。

 彼はよく唐突に話題を転じる。ソフィからすれば突拍子がないのだが、彼の頭の回転の早さを考えると、どこかで繋がってはいるのだろう。

「そ、そう……おめでとう」

「今度ソフィに食べてもらいたいな」

「うん。食べさせてもらうよ」

 ノウルに合格をもらったのなら心配なかろう。ソフィは頬をゆるめた。

「……………」

 会話が切れる。

 ギイは逡巡するように視線を逸らした。静かに息を吸う。そして、再度ソフィの方を向いた。

「……必要ないことなのに、オムライスの作り方を覚えたのも、紅茶を飲みたいと思うようになったのも、きみが人間だからだ」

 ゆっくりと、一言一言を噛みしめるように、ギイは語り出した。

「変わっていく、流れていく生き物だからだ。僕達は、だから人間に惹かれるんだよ。人間の心が、変化が、僕達にもそれを与えてくれるから。空っぽの器を満たしてくれるから」

 眼差しが熱を帯びていく。

「きみが、僕を満たしてくれるから」

 翡翠の瞳に明確な火が灯った瞬間、ソフィは反射的に火の粉から逃れようとした。が、それより早く腕を掴まれ、身をすくませる。

「逃げないで」

 低い囁きが容易くソフィを捕らえた。腕を拘束する力はさほど強くないというのに、全身を絡め取られたように身動きできなくなる。

「きみは何も変わらないままでいる方が安心するんだと思う。だけど――ごめんね。僕は嫌だ。きみからもらった心を否定されているみたいで、嫌なんだ」

「ギイ、離して」

「従えない」

 掴まれた腕が焼けつくように熱かった。くっきりと指の跡が残りそうな気さえする。

 だが、本当にそこまで締めつけられているのは、腕ではなく胸だ。

「ソフィ」

 切なく名を呼ばれれば、神経が一気に耳へ集中する。

 ソフィは視線を逸らせなかった。

 睨むようなギイの目が苦しげに細められる。熱のこもった吐息が白く滲んで拡散していった。

 数拍の沈黙。

 ギイは一瞬だけ、握る手にぐっと力を加えると、まっすぐに告げた。

「ソフィ、きみが好きだよ」

 冬の風が体を凍らせていく。

 ソフィが呆然としているうちに、彼は言葉を重ねた。

「きみに恋してる」

 ――眩暈。

 直球で叩きつけられた強い感情に。それを受けて渦巻いた自らの想いに。ソフィは目が眩み、自分の居所を見失った。

 ほとりと、腕にまた雪片が落ちる。ソフィは我に返った。溶けずに残るそれらに今更焦燥感を覚え、無意識のうちに手のひらで押しつぶす。

 舞いおりてくる雪は冷たさを空に置いてきてしまったらしい。頬に当たっても体温を下げてはくれない。

「ソフィ?」

 ――全身が熱いというのに、体の芯はひどく凍えていた。

 ひたむきな翡翠の眼差しが痛くて、ソフィはうつむく。

「……ご、ごめんね――」

 腕を振りほどく。

 足元に置いていた鞄を掴むと、ソフィは逃げるように走った。



「はぁっ……はぁっ……」

 駆けながら、ソフィは反芻する。

『きみは、変わっていくのが怖いの?』

 ――怖い。

 そう、怖いのだ。

 あの雷の日。暗い空。騎士達。無言のまま怒っていた兄。すべてを飲みくだして頷いた師。穏やかに微笑んで受け入れた人形。横たわる姿。心臓板の感触。――虚ろな碧眼でこちらを見返した、自分の半身。

 ぐるぐると、輪のように同じ景色ばかりが巡っている。

 その輪から抜けだしてしまうのが恐ろしいのだ。あの時間から、あの時代から、先に進んでしまうのが嫌なのだ。

「……っはぁ……はぁ……」

 雪は積もらない。

 どれだけ降ったとしても、水になって流れていく。

「はぁっ……」

 その寂しさに、虚しさに、どこか安堵していた。これでいいのだと思っていた。なぜかは分からない。あるいは、思春期に抱く漠然とした不安に近かったのかもしれない。

 しかしそこには、思春期のような殻が剥ける直前の瑞々しさも、心躍る期待感もない。どこまでも乾いていて、凝固しきっており、淡白だった。

 ――けれど。

「はぁ……はぁ……」

 ひとけのない道を走り、高台を駆けあがって、ようやく自分の家に辿りつく。

 額をドアに押しつけると、ソフィはずるずるとしゃがみ込んだ。

「はぁ……は……」

 少しずつ呼吸を整えていく。混乱した頭を整理する。鼓動を落ち着かせる。火照った体を冷えた風にさらした。

 ――けれど。

「は……」

 冷えない。体は熱を放ったままだ。

「……………」

 変わりたくない。

 変化をもたらす外界からの刺激を望まない。

 なにより彼は人形だ。

 けれど――

「……どうしよう……」

 体中に広がるのは、甘い悦び。

 雪が一片ひとひら落ちていく。胸の底へ、軋むほど冷たく、しかし同時に陽だまりのような温かさを内包しながら、落ちていく。

 雪が。

 ――雪が熱い。


「……あの」


 か細い声がした。

 ソフィははっとして振り返る。

「……人形師さまでしょうか……?」

 抑揚に乏しい平坦な声音。色を感じない無機質な気配。どこかたどたどしく、ざらついた仕草。

 舞い降る雪の中、その女性は立っていた。

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