第6章

一片の雪1

「――ぃよし、終わった!」

 脚立の上で紐を結び終え、ノウルは手を打った。

「お疲れ様、ノウル」

 下で待っていたソフィが微笑む。

 ノウルは素早く脚立からおり、ソフィとともに家を見上げた。

 立ち並ぶ家々には飾り紐が掛けられている。ドアの前にリボンやら刺繍のされた布やら人形やらが節操なくぶら下がっていた。冬の怪物を追い払うとされている魔除けである。

「ちょっと曲がってるか?」

「平気じゃないかな。明日はちょっと天気が崩れそうだから、外れなければ問題ないと思う」

「ここんとこ冷えるからなぁ。雪かな」

「かも」

「グレッグん家、飾り少なくないか?」

「本当だ。また飾り作りをさぼったんだね」

「まったく……あとで言っとかねえと」

 白い息を吐きながら、二人で作業を確認していく。

 その後ろを何人もの町民が忙しく行き交っていた。ソフィらと同じく町の飾りつけや道路の清掃、外灯の設置など、明日の祭りに向けて準備の仕上げを行っているのである。

「ノウルー、なんかさー、ユーシスんとこの劇団が小道具ぶっ壊したらしいんだけど」

 一人の若者が呼びかけた。

「はあ!? 明日だぞ、直るのか?」

「よく分かんないけど、縁起悪いからもうやらないって喚いてる」

「あの野郎……」

 さきほどからノウルに相談事を持ってくる者が後を絶たない。管轄外のことでも決して無下にせず、解決に取り組んでくれるので皆が頼るのだ。

 ソフィはそばで会話を聞きながら、ふと視線を滑らせた。

 反対側の通り。そちらではギイとセリーヌが同様の仕事をしているはずだった。

 金の髪を探して顔を巡らせたソフィは、思いがけず当人と視線がかち合ってしまい、大きく心臓を震わせる。

 ギイは脚立に乗り、作業の手を止めてソフィを見ていた。一瞬その眼差しに引き込まれたソフィは、次の瞬間我に返って視線を逸らす。拳を握りこみ、胸元を押さえた。

(び、びっくりした……)

 先日のことが思い起こされて、体が熱くなる。

 ――掴まれた腕。頬をなぞる指。眩暈がしそうなほど強い視線と、涙をすくった唇。触れられた感触までもが鮮明に。

「……ソフィ? おい、大丈夫か?」

 話を終えたノウルが怪訝そうに振り返った。ソフィは弾かれたように顔を上げる。

「え、な、なに?」

「顔真っ赤だぞ。熱あるんじゃないか?」

「だ、大丈夫」

「本当か? 先々週あんなことがあったばっかりだし、もう終わっても――」

「大丈夫、本当に、何でもないの。それでユーシスは? どうするの?」

 ノウルは肩をすくめる。

「……とりあえずぶん殴りに行く。大丈夫そうならソフィも来てくれるか? 壊れたっていう小道具の修復を手伝ってくれ」

「分かった」

 うなずき、ソフィはノウルを追って小走りで駆けていく。

 再びギイの方を窺う勇気はなかった。鎮まらぬ動悸を抑えつつ、まっすぐノウルの後についていく。

(……困ったな)

 その鼓動は金の鐘の音のように清らかで、そして淡く色づいていた。



 遠ざかるソフィの背を、翡翠の目は見えなくなるまで追っていた。

 彼女は振り返らなかった。ノウルと連れ立って通りを進み、何事か会話を交わしながら、そのまま角を曲がって広場の方へと消えていく。

「……………」

 ギイは知らず全身に力を入れ、飾り紐を握りしめた。手の中で鈴がくぐもった音を立てる。

「ギイ、目も手もお留守よ」

 脚立の下からセリーヌが注意すると、ギイはぎこちない笑みを返した。

「ああ、ごめん」

 もそもそと作業を再開する。

「結び方。それだとすぐに外れちゃうわよ?」

「あ、そうだね」

「……………」

「……………」

 溜め息。ギイのものである。手がまた止まっている。

「……ねえ、セリーヌ」

「なあに?」

「ソフィとノウルって、仲良いよね」

「――そうね」

 セリーヌはあでやかな唇をゆっくりと弓なりにした。

「ソフィが越してきた時から、ノウルは随分気に掛けていたからね。恋仲だって思ってる人もいるみたいだし」

 ギイは目を見開いた。やや慌てた様子でセリーヌを凝視する。

 彼女は猫のように目を細め、ギイの視線を軽く受け流した。

「少なくともノウルは満更でもないわよね」

「きみは僕をからかって楽しんでる?」

「そう思うのなら、さっさと仕事を終わらせてソフィの応援に行く方が賢いんじゃない?」

 知性的な笑顔を向けられ、ギイは口を結んで手を動かした。

 飾りが騒々しく揺れる。その中で、小さな鈴はなんとも細い音を鳴らしていた。

「あなたでもそういう顔をするのね」

「どんな?」

「子供みたいな顔」

 ギイは物問いたげにセリーヌを見やったが、それ以上詳しい説明はされなかった。

 飾り紐をくくりつけ、試しに少し引っ張ってみる。しっかりと固定されているようだった。セリーヌも今度は特に指摘しない。ギイは息をついて脚立からおりた。

「こんなものかしらね。あとは――」

「セリーヌ」

「なあに?」

 セリーヌは手際よくハサミやらテープやらを箱に片付けはじめる。対してギイは、散らばった道具を拾っていくものの動きが極めて鈍重だ。

 北風が通りすぎる。

「ソフィは、ノウルが好きなのかな」

 それは質問や相談というよりも独り言に近かった。

 セリーヌはきょとんとしてギイを一瞥し、それからおかしそうに笑う。

「今更ね」

 ギイは戸惑ったように視線をさまよわせた。

「そうだとしたら、あなたはどうするの?」

「どうするって」

 返答に窮するギイ。

 彼にとって、ソフィはもはや第二の主人と言っても過言ではない。もし彼女に想い人がいるのなら、人形はそれを叶えるために行動するのが当然である。

 しかし、その答えは強烈な抵抗感をギイに芽生えさせた。

「ほら、その顔」

 セリーヌが白い歯を見せる。

「顔?」

「子供みたいな、素の顔よ」

 ――演技を失念していた。

 ギイは愕然とする。

『人間』を演じているのだから、嫉妬してみせるか、もしくは不敵な笑みでも浮かべるべきだった。己の内面にかまけて役を後回しにするなど言語道断である。

 セリーヌはギイのショックなど気にした様子もなく、楽しげに笑っている。

「あなたって本心が見えないところがあるから、ちょっと安心したわ」

「……そう? いつも本音で接しているつもりだけどね」

 おどけた微笑みを返しながらも、ギイの内心は揺らいでいた。

 彼は急に作業を再開し、てきぱきと後片付けを進めていく。一転して機敏な動作だが、どこか焦点の定まらない目は頭が働いていない証拠であった。

「まあ、なんにしろ」

 苦笑を含んだセリーヌの声に、ギイは顔を上げる。

「ソフィの気持ちはソフィにしか分からないわ」

「……そうだね」

 短く答えると、ギイは後始末に没頭した。



 どうにか小道具を直し、ユーシスを説得し終えた頃には、陽は傾きはじめていた。

 白い息を吐きながら、ソフィはゆっくりと視線を巡らせる。通りにはまだ、明日の準備に追われる人々の姿がちらほら見られた。

 小さな男の子や少女、若い娘達、背筋のぴんと伸びた老人や活力に満ちた青年など、老若男女が頬と鼻を赤くして動き回っている。ソフィは束の間、遠望するようにその光景を眺めた。

 先刻自分が作業していた辺りまで戻ってくると、少し肩を落とす。

「……帰っちゃったかな」

 家々のドアを飾り紐が華やかに彩っていた。その付近で働いている者はいない。

 ふと、どちらを期待していたのだろうと考えた。

 ギイか、セリーヌか。

「……………」

 悩んで、ソフィは解答を出す前に頭を振った。明日の段取りで脳を埋め尽くし、余計な隙間を塞いでいく。

「ソフィ」

 ――塞いだはずだが、そのたった一言で霧散した。

 ソフィはバネのような反応を示した。瞬く間に全身に緊張が走る。

「どうしたの?」

 いささか面食らった様子で立っていたのは、ギイである。

 ソフィは瞠目し表情を凝固させたまま、大きくかぶりを振った。

「どうも……しないよ?」

「……そう?」

 ギイは少し寂しそうに微笑み、口を閉ざした。

 早々に会話が途切れる。

 ソフィは先の発言を後悔した。ギイにしてみれば、そっけなく拒絶されたように感じたのかもしれない。しかし今更取り繕うのも逆に気を遣わせる。かといって、ここでしらばっくれて別の話題に移れるほど、彼女は器用ではなかった。

「ソフィは、もう受け持ち分は終わり?」

「う、うん」

 ソフィが彼の表情をのぞくと、すでに物柔らかな笑顔に変わっていた。ソフィは安堵し、やや肩の力を抜く。

 だが、それでもまだ動揺が残っていたのだろう。次に彼女の口から出た言葉は、まったく意味も必要性もないものだった。

「えっと、セリーヌは……」

「セリーヌ? 寒いって言って帰ったけど……何か用事があった?」

「ううん、大したことじゃないの」

 ――用などない。

 ただ、無性に恥ずかしかったのだ。二人きりで話をするのが。話の中だけでも誰かに関わってほしかった。要するに逃避したかったのだ。

 しかし実際にこの場から逃げ出せない以上、ソフィの無意味な問いは、単に微妙な沈黙をもたらしただけであった。

(うう……)

 胸のうちだけで呻く。もはや自分が何をしたいのかすら分からなかった。

「……明日は」

 ややあって、ギイがぽつりと言いだした。

「明日、ソフィは誰かと回るの?」

「え、あ――明日は、私は舞台とか劇団の手伝いがあって」

「そうなんだ。ずっと?」

「夕方くらいまで、かな。休憩はあるけど、お祭りを観て回れるような長い時間じゃないから」

 実を言えば、ノウルから適当な時間に切り上げて楽しんできていい、とは言われていた。だが、彼の忙しさを知っていると申し訳ない気がして、ソフィは毎回辞退しているのである。

「じゃあ、終わったあとでいいから、一緒に回ろう?」

 一瞬固まるソフィ。

 即座に察したギイが瞳を曇らせた。

「あ、もう約束がある? ……ノウルとかと」

「ノウル? ううん、してないけど……でも、夕方だよ? 多分四時とか五時とか、そのくらい」

「いいよ。待ってるから」

 さらりと忠犬のような発言が出た。

「まっ……な、何言ってるの。ギイはここのお祭り初めてでしょ? 昼間の方が出店も多いし、出し物も派手だよ。せっかくなんだから楽しんできて。友達でも誘って――」

「きみじゃないと、意味がない」

 意味。意味とはなんだろう。

 ギイの熱っぽい視線に、ソフィは体温が上昇するのを感じた。

 恋人の真似をしているのだから、ということか。人形だと知っているからということか。言葉の表面だけをとれば、甘い口説き文句にも思える。ソフィの胸に針の痛みと虚しさが去来した。

「分かった、じゃあ――私の仕事が終わるまでは、好きに回っててね? 一人でもいいし、誰かと一緒でもいいから」

「……………」

 ギイは返事をせず、ゆるやかに目を細めた。

 それを肯定だと受け取ったソフィは、小さく息を吐いて笑い返す。

 幸い、その後はいつも通りに会話することができた。

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