人形伯爵7

 それは夢だった。

 銀色の、自分と同じ長い髪。

 青色の、自分と同じ目。

 自分の容姿を土台として作り上げた、双子のような自律人形。

 彼は満面の笑顔で目の前に佇んでいた。

 対して自分は無表情で彼と向きあっている。

 自分の手のひらには小さな金属のプレートが乗っていた。上部に穴が穿たれ、そこに細い鎖が通っている。彫りこまれた少女人形の横顔が空々しく輝いていた。

 寒さ。暑さ。音。風。匂い。風景。なにもない。

 ――唐突にプレートが割れた。

 手の中で軽く跳ね、足元に落下していく。

 衝突音はなかった。なぜなら床が存在しなかったからだ。

 プレートはそのまま靴底より下へ、闇の底へ、あっという間に沈んで見えなくなる。

 はっと顔を上げると、目の前にいた人形は姿を消していた。



「……ソフィ?」

 霞がかる頭に、まずその声が届いた。

 次に、額に触れる手。

「……ギイ……?」

 聞き返す。頭を動かせば、確かに彼がいた。

「起きたんだね。大丈夫? 痛いところはある?」

 背中が柔らかいことにソフィは気がついた。ベッドだ。ギイはすぐそばの丸椅子に座っていた。

 鮮明になりはじめた視界で確認してみれば、そこは馴染んだ部屋である。薄暗いが間違いない。

「……あれ。なんで私の部屋……」

「帰る途中で寝ちゃったんだよ。ちょっと前まではノウルやセリーヌもいたんだけど……体は平気? お医者様に手当てをしてもらったから」

「平気……」

 言いつつ上半身を起こそうとしたが、疲労感が強く断念した。ソフィは溜め息をつき、緩慢に腕を持ち上げて目元を覆う。頭が重かった。久しぶりに大泣きしたせいかも知れない。

「……ごめんね、迷惑かけて」

「迷惑じゃないよ」

 ギイがゆっくりと頭を撫でていく。

「助けてくれてありがとう」

「うん」

 時計の息が近い。一定間隔で吐き出される音。気づけばその吐息だけで空間が満たされていた。

 まだ陽は昇っていないのだろう。時折風が窓を揺らすだけで、ひどく静かだった。

「……あっ。ギイ、撃たれたところ――」

「大丈夫だよ。今は痛覚を消してる」

「……あ、そっか」

 慌てて起き上がりかけたソフィは再びベッドに沈んだ。

「だから、体調が戻ったら直してくれる?」

「うん……」

 彼の優しさが傷にしみた。長年一人で生きてきた者には痛みを伴う。心地良いが、それはぬるま湯の心地良さだ。

 心音が色を乗せている。訳もなく涙が出そうになった。

「……ギイ」

「ん?」

「ありがとう。もう大丈夫だから……家に戻って、休んで」

 頭を撫でる手がぴたりと止まった。

 石のような沈黙。秒針がつっかえながら回っていく。

「……大丈夫?」

 だいぶ経ってから、ギイはそう尋ねた。ただの気遣いの言葉にしては響きが硬い。多くの感情を無理やり圧縮させたような、不安定な重みがあった。

「大丈夫だよ」

 ソフィは繰り返す。

「明日また――あ、もう日付としては今日なのか。今日の昼か夕方にでも、寄ってくれればいいよ」

 心配性で忠実な彼は、こうでも言わなければずっとソフィのそばにいるに違いない。これ以上頼るわけにはいかなかった。

 自律人形に睡眠は必ずしも必要ではないが、休みなく稼働しつづければ、ある程度の集中力の低下や運動性の鈍化などは出てくる。定期的な休息はやはり不可欠だ。

「――分かった」

 ギイは意外なほど簡単に了承した。立ち上がり、サイドテーブルを引き寄せる。

「発熱するかもしれないって、お医者様が薬をくれたんだ。熱が出たら飲んで。水差しここに置いておくね。あ、飲む前に何か食べなきゃ駄目だよ。ノウルがサンドイッチを作ってくれたから、一口でも食べてね。朝になったらまた来るから。起きないで、ちゃんと寝てるんだよ。タオルはここ。着替えもあるから――あ、用意してくれたのはセリーヌだから安心して。汗をかいたら使ってね。温かくして寝ないと。ほら、きちんと毛布掛けて――」

「わ、分かった、分かったから」

 そのうち寝方まで指示されそうだったので、ソフィは慌てて起き上がり、ギイを押しやった。

「ありがと」

「……………」

 ギイはするりとソフィのこめかみを――ガーゼの当てられた傷口の上をさすると、身を離した。

「鍵、かけていくね。もう一つくらい持ってるよね?」

 ギイが指に引っ掛けて見せたのはこの家の鍵である。ソフィはいつもベッドの宮棚に置いていた。

「うん。合鍵があるよ」

「じゃあ借りていくね。でも家から出たら駄目だよ」

「分かったってば……」

 苦笑しながらギイを見送る。

 寝室のドアが閉まった。足音が遠ざかっていく。

「……………」

 ソフィは長く息を吐き、膝を立ててうずくまった。寝台が寂しげに軋む。

 目を閉じるとふいに寒さを思い出した。寒さを思い出せば、記憶が引かれる。こめかみに手を当てた。

「……怖かった……」

 よくあの状況であんなことが言えたものだ、と我ながら感心する。ギイがあと少しでも遅れていたら、こうしてのんびりと感想を口にすることもできなかったろう。とりあえず従うふりをしておけば良かったのだ。しかしそれだけは嫌だった。

「……怖かった」

 もう一度呟く。震えを止めるために膝を抱えた。

 ――その時。

 何の前触れもなくドアが開いた。

 足音などなかった。ノックはもちろん声もなかった。

 立っていたのは、帰ったはずのギイであった。

「……ギ……」

 ギイなら無音で移動することも可能だろう。つまり、わざと足音を立てて帰ったふりをしてから、足音を立てずに寝室の前に戻ってくることも、彼にとってはたやすい。

 問題は何故そんな面倒な真似をしたのかということだ。

かたくな」

 ギイは、ソフィの声ならぬ疑問と、自身の不満とをその一言で片付けた。

 ソフィは我に返って目元をこする。大股で近づいたギイがその腕を取って制した。

 ――視線が絡む。顔が近い。見慣れた顔。だが見知らぬ男性のようにも思える。ソフィはうろたえた。

「……目を傷つけるよ」

 声はいつも通り穏やかだった。しかし眼差しに笑みはない。真剣で、まっすぐで、意識を呑みこみそうな吸引力を放っている。

 へたな受け答えをすれば噛みつかれる。本能的にそれを察したソフィは慎重にうなずいた。口を薄く開いた犬を前にした緊張感だった。なぜそう感じたかは不明だが。

「……………」

 ギイは左手でソフィの腕を捕らえたまま、右手を頬に滑らせた。ゆっくりと涙の跡をなぞり、目尻をぬぐう。

 そして濡れたその指を――舐めた。

「…………!?」

 かっとソフィの頬が発火した。

 彼の唇が直接触れたわけではない。触れてはいない。それなのに、口付けでも受けたような堪えがたい羞恥がこみあげた。

 抗議しようにも声が出ず、手を振り払おうにも力が入らず、頭を働かせようにも、考えは泡のごとく弾けて飛んでいく。

 一方ギイは顔色一つ変えることなく額に触れていた。

「……少し熱が出てきたみたいだね。もう寝た方がいいよ」

「う、ん……」

 あまりにも平然とした様子に、ソフィは自分が反応しすぎなのかと混乱した。ぐるぐると考えるものの纏まらず、そのうち思考を放棄して素直に横になる。

 ギイがベッドの端に腰掛けた。手は握ったままである。

「……あの、ギイ」

「なに?」

「手……」

「きみが眠ったら離すよ」

 やはり声音は柔らかく、しかし笑顔はない。ソフィは若干焦った。

「……あの、ギイ」

「なに」

「怒ってる?」

「……どうして。怒っていないよ。いいからもう眠って?」

 甘やかすような優しい口調。わずかな笑みさえ見せない端整な顔。そのちぐはぐさが一層ソフィを追いつめた。

「ギイ、あのね、別にギイを邪魔に思ったとか、頼りたくないとか、そういうわけじゃないの。本当に、心配されるほどのことじゃないと思って――」

「ソフィ」

 ギイはやんわりと言い訳を遮った。眉を顰め、握った手に力をこめる。

「どうしてきみは、いつも僕の言うことを聞いてくれないの」

「……え」

 そんなにないがしろにしていただろうかと思い返す。しかし熱のせいか頭は回らなかった。

「きみの大丈夫はあてにならない。話ならあとで聞くから、もう黙って、目を閉じて」

「う、うん。でも」

「眠って。ね?」

「……はい」

 ソフィは居心地悪く身じろぎした。人形に命令される人形師。立場が逆である。

 しかしうなずいたはいいものの、ギイがじっと見つめており、とてもではないが眠れそうになかった。しかも手はいまだに繋がっている。どうにも神経がそこに集中してしまい、困り果てた。

 せめてもの抵抗で顔を逸らす。

 視界からなくなったことでますます握られた手に意識が向いた。ぴたりとついて離れない。動きもしない。ソフィの眠りを妨げないためか、ギイは息を詰めて静止しているようだった。

「……………」

 それでもしばらくすると、疲れでうとうととしてくる。五感が遠ざかり、意識はゆるやかな浮き沈みを繰り返す。こうなれば熱を帯びた手さえ気持ち良かった。

「……ごめん」

 小さくギイが呟く。夢現をたゆたうソフィはぼんやりしながらギイを見た。すでに意識が曖昧で、彼の表情までは認識できない。

「きみが僕の要求を聞く義務なんてないのに――僕が、きみの意思を尊重しなきゃいけないのに」

 声は雫のように落ち、揺れる波間に吸いこまれて消えていく。

「なんで望みばっかり増えていくんだろう」

 うん、とだけソフィは答えた。もはや彼の真意とまともな返事を考えるだけの思考能力がなかったのである。

「……言うことを聞いてくれなくてもいいよ。望み通りにならなくたっていい。きみを都合のいい人形にしたいなんて思わない」

 ――人形伯爵のように。

 ギイは一度手を離し、再び重ねた。柔らかく指を絡める。

「僕はきみが――」

 言葉が切れる。時計の音。不自然な空隙。針の形が刻々と変化していく。

 最後の一言は、胸をかきむしるような切なさをはらんで響いた。

「……きみが、無事で良かった」

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