人形伯爵6
「そんなことより、彼女を離してくれないかな」
ギイの声音はひどく無機質だった。不機嫌そうでもなく、立腹しているようでもない。闘志すらもそこにはない。
「答えろ。どうしてここが分かった?」
「……足跡」
ギイは溜め息をつく。
「足跡だぁ? この暗いのに、こんな短時間で追ってこられるわけがねえ。大体、足跡は消したはずだ」
「夜目が利くからね」
淡々と応じる自律人形に、ソフィは物恐ろしくなった。
彼は感情を抑制しているわけではない。実際に怒っていないのだ。血のついた剣を今もなお鋭利に光らせながら、それでも敵意や殺意を微塵も持っていない。当然だ。自律人形は人間に悪感情を抱かない――
「大通りへ出て正門を抜けていれば、他の足跡に紛れて分からなかったと思うよ。用心して家の裏手から外壁を越えたのが裏目に出たね。壁の外には車輪の跡が残ってた。あそこはもう誰も使っていない旧道だから、追いやすかったよ」
勝ち誇るでもない、見下すでもない、平坦な口調。
彼は怒っていない。――が、確かに激怒しているのだ。悪感情の代わりに、完全なる無関心という形で。
「もう少し丁寧に消されていたら追えなかったかもしれないけど」
夜だったこと。田舎だという侮りがあったこと。人形伯爵の噂を撒いて多少なりとも気を抜いていたこと。
「詰めが甘くて助かったよ」
ギイは微笑した。
彼には馬鹿にする意図などなかったのだろうが、ジョットは口元を引きつらせ、刺すような視線を返す。しかしすぐにソフィの腕をきつく締めると、傲慢に笑った。
「詰めが甘ぇのはそっちだろう」
金属音がした。硬いものがソフィの頭部に押し当てられる。
――拳銃。
ソフィはそれを初めて見たが、どんなものかは知っていた。
冷たい銃口が体の芯まで凍えさせていく。
「剣を捨てな。こいつの頭にチェーンを通してネックレスにでもしてやろうか?」
「……随分品のない人形伯爵だね」
ギイは鬱陶しそうに片眉を上げる。
「ハ。長いこと人形に囲まれてたんで、人間らしい品も情も忘れちまったんだろうよ」
「見る目がなければ、どれだけ優れた人形がそばにあっても無意味だろうね」
「そんなもん分かる必要もねえのさ。俺にとっちゃあ――このお嬢ちゃんが動ける人形でも、動けない人形でも、大して変わりない」
ジョットは挑発に乗らず、銃口を強くソフィに押しつけた。
「……………」
ギイが様子を確かめるようにソフィを見た。
ソフィは青ざめた顔でかぶりを振る。
ギイは困ったように微笑んで、剣を投げ捨てた。
「僕は、彼女を人形にはしないよ。人形伯爵」
「……ギっ……!」
名を呼ぶ間さえ与えられずに。
銃声が鳴った。
耳の奥を突かれたような痛みと衝撃に、ソフィは一瞬音を失う。同時にジョットから放り出され、立っていられずに座り込んだ。
火薬の臭気。ジョットの持つ拳銃が細い煙を吐きだしている。
ギイが左胸を押さえ、膝をついた。
(――撃たれた?)
全身の血が凍る。
自律人形の核となるのは左胸の心臓板だ。それが破損してしまえば、損傷具合によっては二度と元には戻らない。――人形の死だ。
「ハッ。馬鹿が」
とどめを刺すつもりか、ジョットが銃を構えたままギイに歩み寄る。
ソフィはもがいた。必死になるほど腕はさらに締まっていく。縄が皮膚をこすり、赤くにじんだ。革靴の音が止まる。一メートルにも満たない至近距離。銃口がゆっくりとギイの頭に下ろされていく。
ゆっくりと。
錆びた歯車が軋みながら回転するように。
「…………っ」
――そして、瞬時に弾けた。
銃口が狙いを定めたその刹那、ギイは雷光のように動いていた。低い姿勢から踏み込み、目にもとまらぬ速さで腕を薙ぐ。赤いものが散った。ギイはいつの間にかナイフを握りこんでいたのだ。
「てめえ――」
驚愕するジョットの手から拳銃と血がこぼれ落ちる。
「人形か……!」
一歩。彼が後退できたのはそれだけだった。
ギイは転がった剣に手を伸ばしながら、思いきりジョットの足を蹴り払い、流れるような動きで倒れた彼に刃を突きつけた。顔の前ではなく、鼻先でもなく、喉元でもなく――眼球の、ほんのわずか手前に。
ジョットは床に尻をついた姿勢で。ギイは剣の切っ先を向けて。それこそマネキンか何かのように、両者は硬直して動かなくなった。
「……人形なら」
口だけを動かして、ジョットが言う。
「人形なら、人を殺せねえはずだ……」
「――そうだね」
ギイはあっさりと認める。
「殺すつもりで傷つけることはできない。だけど傷つけること自体が禁じられているわけじゃない」
彼はさきほどジョットの部下を斬った。極めて冷徹に。
「僕はね、どちらでもいいんだよ。興味がないんだ。きみが失明しようがしまいが――その後、失血死したとしてもね」
剣は微動だにしない。次の瞬間には簡単に引きそうでもあるし、あっけなく貫きそうでもある。
おそらくは、ジョットの返答次第で。
「……………」
ジョットは痙攣するように笑った。
「……分かったよ。もう何もしねえ。あんたらにゃ手は出さねえさ」
「そう」
ギイは剣を鞘に収めると、もはや一片の関心すら持たずにジョットの脇をすり抜けた。
ジョットが体の向きを変え、ギイを追って足を踏み出す。
「――ギイっ!」
ソフィは悲鳴を上げた。ジョットが腰から短剣を抜いたのだ。
鋭い刃がギイの背に迫り――
振り返りざまに上げたギイの手が、それを容易く払いのけた。
愕然とするジョット。そらされた腕と短剣が行き場を失って宙をさまよう。
「正当防衛だね」
満足げに笑うと、ギイは容赦なくジョットの顎へ拳を叩きこんだ。
長躯が勢いよく長椅子に突っ込む。埃と木の破片が舞い、音もなく男の体に降り積もった。
「……………」
夜の静けさが戻る。
身を翻したギイは自らのナイフを拾い上げ、ソフィの前にしゃがみこんだ。
「ソフィ、大丈夫?」
ギイが手を近づける。ソフィはびくりと身を竦ませた。彼が怖かったわけではない。急な刺激への反射的な反応だった。
「ごめんね、怖い思いをさせて」
ギイは手を引っ込め、ナイフで腕と足の縄を切った。そして外套を脱ぎ、ソフィの肩に掛けてやる。
ようやく自由になったものの、ソフィの頭は呆然としたままだった。全身が強張り、表情すら作ることができない。
「ソフィ」
ギイが優しく頭を撫でた。
「もう大丈夫だよ」
温かな手のひらが少しずつソフィを解かしていく。胸にじわりと熱がにじんだ。
「もう大丈夫」
次第に血液が巡りはじめ、体のあちこちが痛みを訴えだした。急に床の硬さを認識する。目の奥が絞り込まれたように熱くなった。
その時、ソフィの目に留まったもの。ギイの左胸――そこをやや逸れた位置に、抉ったような穴が開いていた。撃たれた個所。
――限界だった。
堰を切ったように涙が溢れだす。
ギイが触れる手に力をこめた。
「ギイ、う、撃たれ……」
「え?」
「銃でっ、撃たれ、て」
「ああ。大丈夫だよ」
ギイは苦笑した。
「心臓板には当たってない。でも、さすがにこれは自己修復できないかな……今度でいいから、直してもらっていい?」
まるで衣服のほつれでも語るような、あっけらかんとした言いざま。
ソフィの落ち着きかけた感情は逆流した。
「なっ、なんで――」
声が上擦る。
「なんで、あ、あんな、危ないことしたの!」
「……え」
「人形だって、撃たれたら痛いし、もし、心臓板に当たったら――し、死んじゃうかもしれないでしょ……!?」
実のところ――
ギイはその気になれば痛覚を遮断できる。人間に偽装するには痛みを感じないと不自然が出るので、よっぽどのことがなければしないのだが。人形師であるソフィなら知っているはずだ。
それに、あんな粗悪な拳銃では至近距離でないとまず命中しない。ジョットもそれを理解していたからこそ、一発目は的の小さい頭ではなく胸を狙ったのだろう。
だが、今のソフィにそれを説いたところで納得はしそうになかった。
「……うん、ごめんね」
ギイは複雑な心中に悩みながら、ひとまず温和に笑ってみせる。
てっきり安堵して泣きついてきてくれたのかと思いきや、ソフィが口にしたのは人形の心配だ。心を砕いてくれるのはギイも嬉しいのだが、彼女はもっと自身へ目を向けるべきである。
「ごめん。もうあんな無茶はしないよ」
僕だって心配したんだよ――そう主張したいのをこらえ、ギイは辛抱強くソフィを宥めた。
何度も頭を撫で、髪を梳き、そうしてようやく嗚咽が治まってきたところで、ソフィのこめかみに触れる。血がにじんでいた。
「……殴られた?」
「蹴、られて――あっ」
ソフィはいきなり顔を上げて辺りを見回す。
「ペンダントっ……」
「ペンダント?」
「公認人形技師の……鎖が切れて、落ちて」
「……………」
ギイは呆れて溜め息をついた。
「僕は傷の心配をしたつもりだったんだけど……」
「だ、大丈夫なの、傷は、かすり傷だから――」
「……分かった。ちょっと待っていて」
様々な言葉を呑み込み立ち上がると、ギイは周囲に視線を走らせた。少し離れたところに銀色のきらめきを見つける。屈みこんで腕を伸ばし――
その手が、途中で止まった。
ギイは表情を消し、ペンダントを凝視したまま硬直する。
「……ギイ?」
ソフィが声を掛けると、ギイははっと振り返り、困惑に満ちた瞳を向けた。
「どう、したの?」
「……………」
言葉を失ったのはほんの一瞬。
ギイはすぐにペンダントを拾い、ソフィの元に戻った。
「なんでもない。鎖が……ちょっと歪んでるみたいだ。直してから返すよ」
「うん……」
ペンダントがギイのポケットへ押し込まれる。
「彼らは逃げられないように縛っておこうか。ノウルにも伝えておいたから、もうすぐ自警団が来ると思う。あとのことは任せておけばいいよ。怪我はもうちょっと我慢できる? 家に着いてから手当てしよう」
ギイは安心させるように微笑んだ。
その笑顔にまた涙腺がゆるみそうになり、ソフィは息を吸い込んで耐える。差し出された手に掴まった。
「――帰ろう」
「……うん」
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