人形伯爵4

「……あ、そうだ」

 紅茶を飲み終え、立ち上がったところで。

 ギイは唐突にあることを思い出した。

 それと同時にカップが手から滑り落ち、慌てて受け止める。

「――危ない」

 そこそこ気に入っているカップである。できれば割りたくはない。丁寧にソーサーに戻し、台所へ持っていった。

 本来ギイに水分補給は必要ない。もっと言えば、食物も摂取する必要がない。彼ら自律人形のエネルギーは、体内に埋め込まれた『心臓板』と呼ばれる小さな金属塊である。

 ただギイは人間の代役だったため、食事ができるようには作られていた。ある程度の量であれば体内ですべて分解、吸収できるのだ。

 味は分かるが特に好みはなく、必要がなければ食べたいとも思わないので、基本的にギイは人前以外では一切ものを口にしない。――しなかった。

 一人でいる時、無性に紅茶が欲しくなるのは、彼女が好んで飲んでいるからだった。

「ソフィに明日の予定聞き忘れたな……」

 どうしようかな、と逡巡しゅんじゅんする。

 もう時間も遅い。一人暮らしの女性の家を訪ねるには不適当だ。まだ寝てはいないだろうが、わざわざ明日の予定を聞くためだけに訪問するのは気が引けた。なにより、あまりしつこくして嫌われたくはない。

「……………」

 ほのかに残る紅茶の甘みが、彼の人を想起させた。

 一日の記憶が逆さまにほどけていき、同じ場面を繰り返し脳裏に蘇らせる。声や言葉、表情、所作にいたるまで、何度も、詳細に。

 そのうちに胸が締め付けられるような苦しさを感じ、とうとうギイは耐えきれなくなって、言い訳をしながら外套がいとうを羽織った。

 明日もし出掛ける用事があるのなら、聞いておかなければ困る。

 遅くなる時は家まで送ると約束したのだから。



 ――人形伯爵は、人の近づかぬ森の屋敷で、人形達と暮らしていた。彼の顔には醜い傷痕があり、人は皆彼を恐れ、避けていたからである。

 そんな伯爵が、町に現れては若い娘達を遠巻きに観察するようになった。

 町の人々は噂した。伯爵もいい年だ。花嫁を探しているのではないか――

 親達は心配し、娘に決して一人にならぬようにと言い聞かせ、娘達は万が一にも伯爵の目に留まらぬよう顔を隠して過ごした。

 しかしある商家の娘だけは、金と地位に目が眩み、伯爵に近づいたのである。

 伯爵は噂と違い、大変優しく穏やかな紳士であった。

 最初は用心していた娘も、だんだんと彼を信用し、警戒心を解いていく。

 やがて娘は屋敷に招かれ――

 そこで、室内を埋め尽くす数の人形と対面する。

 扉が背後で閉まる。屍のような無数の瞳。さざなみすら立たぬ空気。カーテンの閉め切られた薄暗い部屋、浮かびあがる白い仮面の男。

 人形伯爵は、仮面の向こうで笑っていた。

 ――さあ。

 ではさっそく、君を人形にしようか。


 ぞうっと背筋を駆けあがる悪寒とともに、たゆたっていた意識がいっぺんにすくい上げられた。

 直後、腹部に鈍痛を感じて、ソフィは小さく呻く。手を当てようとして、体が動かないことに気づいた。

 頬から伝わる冷たさ。硬い感触。目に映るのは薄汚れた板張りの床。どうやらそこに寝かされているらしいと理解する。腕は背中の方で固定されており、両足首も拘束されているようだった。

 辺りは暗い。少し遠くに灯りがあり、その光が周囲を淡く照らしていた。

「――やあ、お目覚めかね、お嬢さん」

 足音が耳鳴りのように響いた。

 ソフィは重たげに首を動かし、相手を確認する。

 背が高く、痩身の男だった。上品そうなスーツと革靴を身につけている。年齢は分からない。声で推定するなら二十代後半といったところだろうか。顔立ちも、そこから読みとれるはずの感情も知ることはできない。暗がりに浮かび上がる白い仮面が鉄のように視線を跳ね返していたのだ。

 人形伯爵――

 混乱と戦慄がソフィから血の気を奪う。

 だが、恐慌に陥る寸前で理性を取り戻させたのは、他ならぬ人形伯爵だった。

「乱暴な真似をしてすまなかった。邪魔をされたくなかったのでね」

 違和感があったのだ。目の前の男には。

 耳が痛むほどの静寂ゆえか。奇妙な非現実感をもたらす白仮面のせいか。それともうすら寒い風の生々しさからか。すぐには違和感の正体を暴けなかった。

「君のそばにはいつも青年がぴったりとついていたから」

 ギイのことを出されて、歯車が合う。

 急速に頭が冷えていき、それと同時に別の震えが起きた。だが、馬鹿馬鹿しい茶番を見せられているような不快感に、思わず口を開く。

「……赤点だね。私の友達はもっと上手に模倣するよ」

 すうっと――空気が乾いて落ちた。

 男は沈黙し、動きを止め、仮面の向こうでソフィを凝視している。先の一言が男を不愉快にさせたのは明白だった。

 ランプの灯りが頼りなげに揺れる。仮面は漂白されたように白い。それでも、さきほどまでの薄気味悪さはもはや拭い去られていた。

「……くっ」

 男が笑った。嘲笑。こらえきれないとばかりに声を上げて笑いだす。

「あーあ。まあ、この辺にしとくか。意味もねえし」

 口調を一変させると、男は仮面を放り投げた。日に焼けた鋭い面差しがあらわれる。

「なんだ、伯爵さまのふりはもう終いですか」

 ソフィの背後から別の男の声がした。

「だからジョットさんは貴族なんてガラじゃねえっつったんですよ」

 もう一人。こちらも背後だが、少し遠い。

 どうやら三人いるようである。

 ソフィはゆっくりと上半身を起こした。服に乱れはない。体の痛みも腹部だけだ。これは家で殴られた時のものだろう。

 ひとまず安堵して、改めて周囲を確かめる。

 人形伯爵を演じていた男――ジョットと呼ばれていたが――の後ろに、古ぼけた台と、特徴的な像が見えた。廃教会、だろう。ソフィの左右にはぼろぼろの長椅子が無残に転がっている。

 窓は板張りされ外の様子は窺えない。光源が足りず近くの窓しか視認できないが、おそらくすべてがそうなっているのだろう。

 しかし、外からの光がまったく入ってこないということは、間違いなく今は夜だ。気温も、沈んだような静けさも、まだ朝が遠いことを示している。意識の混濁や体の倦怠感けんたいかんはなく、薬を使われた様子がないことも考慮すると、拉致されてからさほど時間は経っていないと思われた。

 ならばこの廃教会も町からそう離れてはいないはずだが、たまに外から届くざわめきは葉擦れの音だ。――森の中。逃げだせたとしても、この寒い時期に夜の森を着の身着のままうろつくなど自殺行為である。凍死か、獣の腹におさまるのが関の山だ。

 そもそも人形を繰るしか能のない女一人が、腕と足を縛られた状態で、三人もの男の手から逃れるのは不可能に近い。

 せめて腕が自由にならないかと手首や指をひねるものの、つりそうになるだけで効果はなかった。

「抵抗しても無駄だってことは、理解したかね? お嬢さん」

 言葉遣いだけは人形伯爵をまねて――ジョットと呼ばれた男は革靴を鳴らした。

 立ち姿は恫喝どうかつ的。仕草は粗野。声は洗練されているとは言い難い。ソフィは王侯貴族との関わりなど一切ないが、ギイと比べれば差は一目瞭然であった。

 彼らは多分、貴族達とは逆に位置する類の人種だろう。

「――ソフィ・ブライト」

 名を呼ばれた瞬間、ソフィは吸い込んだ息を止めた。ジョットの手が首にかかる。背筋が凍りついた。

「公認人形技師さん」

 首をなぞった男の指がペンダントの鎖を探り当て、乱暴にソフィの服から引き出した。

 鎖が軋みを上げる。震えるように卵型のプレートが揺れた。公認人形技師の証である。

「別に難しいことは言わねえ。おまえはただ人形を作りゃいい。人間そっくりな、自律人形を」



 ――やっぱり帰ろう、とギイは思った。

 町外れの高台。月明かりの下、密やかに佇む家。漏れるささやかな灯り。それらが視界に入ってきたとたん、不安の方が勝った。

 冷静に考えれば、こんな時間に若い女性の家へ押し掛けるなど非常識もはなはだしい。緊急の用事でもあれば話は別だが、ギイの用件はそこまで切迫したものではない。明日でもいいし、聞かなかったとしても律儀なソフィはきっと知らせてくるだろう。

「……………」

 ギイは足を止め、細く息を吐いた。胸に渦巻くもやが少しでも軽くならないかと期待したものの、それは重たく内にとどまったままだ。

 今のギイはお世辞にも理性的とは言えず、合理的でもなければ論理的でもない。自覚がある分、彼の戸惑いは大きかった。そしてそれは恐怖でもあった。自制できないということは、予期せぬところで相手を傷つけかねないからだ。

 ――傷つける。

 いつか見たビスクドールの姿が頭をもたげた。体が指先まで冷たくなっていく。

「……………」

 それ以上家に近寄る勇気は持てなかった。

 ギイは踵を返して来た道を戻り――

 ――振り返った。

 名残惜しかったのではない。奇妙なものが見えた気がしたのだ。

 ドアの下端……月光を跳ね返す小さなもの。

 ギイは音を立てずに家の前までやってくると、ドアに挟まったそれをつまみあげた。

 手のひらほどの大きさの、白い布だった。色鮮やかな刺繍がされている。今度の祭りで玄関先に提げるという魔除けである。

「……ソフィ?」

 ギイは表情を険しくする。

 刺繍は未完成だった。糸の先端に針がぶらさがっている。

 灯りがついているのに、中からは物音一つしない。

「――ソフィ、開けるよ!」

 鍵は掛かっていなかった。

 冷え冷えとした空気がギイを迎え入れる。テーブルに置かれたランプ。刺繍の道具。まるでたった今誰かが立ち上がったばかりのような、かたむいた椅子。

 他の部屋を確かめるまでもない。家には人の体温がなかった。

「甘かった……!」

 人形伯爵。

 その噂が不自然であることには、すぐに気がついた。広がり方が異様に早かったのである。間違いなく誰かが故意に流していた。

 意図的に噂を広める理由は主に二つ。一つは事実を隠すため。しかしそれならば、もっと多様な噂を流した方が確実だ。

 もう一つは、噂の内容そのものに意味を持たせるため。

 人形伯爵が、人形を作れる者を求めている。作れないと答えるなら無害、作れると答えたならば、連れ去られて二度とは帰れない――

 二度と帰れない。重要だったのはその部分だけだ。

 田舎の人々は根本的なところでまだまだ迷信深い。今ソフィが姿を消せば、まず思い浮かべるのは得体の知れぬ『人形伯爵』だろう。捜索がなされたとしても、先入観は必ず目を曇らせ、動きを鈍らせる。

 ソフィが狙われている確信はなかったが、いや、だからこそ、ひとまず夜道で一人にしなければ大丈夫だと油断していた。

(連れ去った。どこに?)

 ギイは素早く室内を検分し外に出る。ドアの前。足元。踏み固められた土。夜の闇の中、目を凝らして痕跡を探す。空転しそうになる思考を押しとどめ、かろうじて冷静さを維持した。

 ――もっと早く来ていれば。

 焦燥が追い立てるように背中をいていく。深い闇がじわじわと胸の内に広がりはじめた。

 わざわざ噂を撒いてまでさらったのだ。そう簡単にどうにかしてしまうとは考えにくい。

 無事なはずだ――自らにそう言い聞かせ、ギイは高台を駆けおりていった。

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