人形伯爵2
「……こいわずらい?」
初めての単語を耳にした幼児のように、ソフィはゆっくりとその言葉を飲み下した。
「――恋煩い? え、ギイが?」
「いや、本当にそうなのかは分からないんだが」
ノウルは困ったように答え、給仕係から渡された注文票を確認した。
「というか今更?」
セリーヌがソフィを
「まさか、ソフィの他に好きな子ができたとかいうんじゃないでしょうね」
「知らねえって」
「だって相手がソフィなら今更すぎるじゃない」
「だから俺に聞くなよ」
緊張感が高まった二人の間で、ソフィは呆然とフォークを握りしめていた。刺さったままの果肉から果汁が滴る。
(恋?)
ギイがやってきてから三ヶ月余り。とうとう恋する相手ができたのだろうか。
心弾む半面、胸の中心を西風がさらっていく気がした。
(恋煩いかぁ……)
あるいは、主人と長く離れているために情緒不安定になっているだけとも考えられる。
役割が失われたきりというのは、彼のような人形にとって精神的な負担になっているはずだ。その上主人と離れ離れでいる。人間では想像もできない心細さに違いない。
そう考えると、彼が最近やたらと髪や頬に接触してくるのも説明がつく。人恋しいのだ。
「……………」
(分かってた、はずなのに)
すうっと体が冷えていく。
恋煩いならいい。だが、もしそうでないなら、真っ先に人形師であるソフィが察知するべきだったのだ。どれだけ温和に振舞っていても、心までそうであるとは限らない。彼なら何でもないふりをすることなど容易いだろう。
「私、ちょっとギイと話してみるね」
ソフィは真剣な面持ちで告げた。
セリーヌとノウルも真面目な顔になる。
「……修羅場ね」
「は?」
「ソフィ、ほら、ちょっと魔が差しただけってこともあるからな?」
「え?」
「気にすることないわよ。男なんてふらふらするものなの。たんぽぽの種子と同じ。風が吹けばあっちこっちに散布することしか考えないのよ」
ひどい例えである。
「いや、私、単にギイが何か悩んでるなら相談に乗るねって意味で」
「分かってるわ、探りを入れるのね」
「ギイのことだからそうそう不誠実なことはしないさ。あまり思い詰めるなよ」
「……………」
ソフィは溜め息をついて残りのデザートを片づけた。
ギイを見やれば、今までサボっていた分とばかりにこき使われている。一心不乱に動き回る姿は確かに少々違和感があった。過度に力を入れている。
(……………)
生き生きと艶めく
ソフィの胸にさざ波が立った。
(人形)
――ふいにギイが振り向く。
目が合うと、彼ははにかむように微笑んで、すぐに視線を逸らした。
「……………」
(人形、だってば……)
しかし困ったことに、彼は近頃ますます人間に近づいている。表情に深みが増し、飾ったような不自然さが消えたのだ。
模倣の質が上がったのか、それとも心に変化があり、それが表面にも影響を及ぼしたのか――
変わったのは果たして心か、形か。
夕方を待って、ソフィは再びノウルの店を訪れた。店内では迷惑になるため、従業員用の裏口へ足を向ける。
フードを深くかぶり、路地の壁に背を預けてドアを見た。三段ほどの階段の先、簡素なドアはまだ開く気配がない。
少し早く来すぎたか、と悔いつつ
辺りはすでに大分暗い。もう冬である。
「……………」
――待っていた時間はそれほど長くはなかった。おそらく十五分程度だろう。
小さな開閉音が鳴った。
「ソフィ?」
驚きに満ちた呼びかけに、ソフィは顔を上げた。ギイが慌てておりてくる。
「どうしたの? 何か用事?」
「用事ってほどじゃないんだけど――まっすぐ家に帰る?」
「うん……そのつもりだったけど」
「じゃあ、一緒に帰ろう」
ギイはソフィの頬に手を当てた。ソフィはくすぐったさに身じろぎする。
「冷たい。ずっと待っていたの?」
「ずっとじゃないよ。今日は夕方までだってノウルに聞いてね、ちょっと前に来たの」
「何かあった?」
たたみかけるように問う。
今までソフィが約束もなくわざわざ待っていたことなどない。心配するのも道理だろう。
「何も。ただ話がしたかっただけ」
「話?」
ギイは後ろめたそうに手を引っ込めた。
「話って……?」
「とりあえず帰ろう?」
促すと、彼は困惑しながらも隣に並んだ。
路地を進めばすぐ大通りに出る。暗くなったとはいえ、この辺りは自警団の働きで治安も良いため、まだまだ人影は多かった。
「あのね、ギイ」
すれ違う人々に目をやりながら、ソフィはさりげなさを装って口を開く。
「何か悩んでることとか、ない?」
装ったわりには直球の問いかけであった。
ギイが苦笑を浮かべる。
「ノウルに言われた?」
彼は鋭い。ソフィが率直すぎたとも言えるが。
「言われた、けど、それだけじゃないよ。私も心配だから」
「……悩みなんてないよ」
笑顔を崩さずギイは答える。
――最近の彼は人形らしい不自然さが消えた。だからこそ、逆に嘘や隠し事は見抜きやすくなる。
感情豊かな翡翠の目が、言い知れぬ愁いを湛えていることにソフィは気がついた。
「ね、ギイ。ひょっとして――」
「……え?」
ギイは一瞬身を強張らせ、
「ご主人と離れてるから、寂しいんじゃない?」
一気に脱力した。
「どうしてそう思うの?」
「だって、やっぱり不安でしょう? ご主人がそばにいないのは」
「そりゃ、多少は……」
ギイは困ったように微笑む。
――的外れだっただろうか。
ソフィは難しい顔で頭をひねった。
考えを巡らす彼女を、ギイが隣でじっと見つめる。
「……もし」
いつの間にか
「もし、寂しいって言ったら、ソフィはどうする?」
ギイは足を止め、苦しげに息を吐く。
その表情にソフィは胸を突かれた。
何かを求めるような、期待するような、怯えるような、焦るような、もどかしい想いが渦巻く瞳。深い孤独と不安。
ソフィは強い罪悪感に襲われた。
なぜもっと早く気づけなかったのか。彼の寂しさを理解できるのは、人形師であるソフィだけだったというのに。
――ほんの数秒でギイは我に返った。
「冗談だよ」
すぐさま負の感情を隠し、朗らかに笑ってみせる。
「そんな顔しないで。きみもいるし、ノウルやセリーヌもいる。寂しいなんて思うわけないよ」
ソフィは表情を歪めたまま声を発せずにいた。
「ごめんね、本当に何でもないんだ。言ってみただけだから」
人形は求めない。望まない。ただ人のために在る。
――どれだけ自分が傷ついても。
「そばにいるから」
はっきりと告げた言葉に、ギイは笑顔を落とした。
「私じゃご主人の代わりにはならないだろうけど、でも、そばにいるから」
人形師としての、そして彼の友人としての、偽りのない気持ちだった。少しでも彼の慰めになればいい、純粋にそう思ったのだ。
しかし鋭い冷風が身を震わせても、ギイは放心したまま微動だにしない。ソフィはだんだんと恥ずかしくなってきた。冷静に考えれば愛の告白のようでもある。事情を知らぬ者が聞けば間違いなく誤解するだろう。
「そ、それに、ノウルもすごく気にしてたんだよ。多分彼が一番心配してるんじゃないかな。ギイの様子をね、やたら細かく覚えてて、相当気がかりだったんだろうなぁって思う。あの、だから、私だけじゃなくてね、他にもギイのことを考えてくれてる人はいるから――」
言い繕うほど顔が上気していく。
ソフィはとうとうギイを直視できなくなり、うつむいた。消え入りたい心地で立ち尽くす。
そして少しの空白の後――
「……うん」
小さな――本当に小さな返事が耳に届き、顔を上げた瞬間、ソフィの頭の中を目も眩むような強い風が吹き抜けていった。
ギイの手が頬に触れる。
「うん、分かった」
喜びに溢れた夢現のような微笑。切なさを帯びた眼差し。――その表情の意味を読みとることすら、ソフィにはできなかった。さきほどの風が思考のすべてを奪い去っていたのだ。
逸らされることのない視線は、儚い反面貫くほど強く、緩慢に頬を滑る指先は綿毛を包むように優しい。
――なぜ。
ようやく一つの疑問が滴下すると、そこから急速に働き始めた。おもに、心臓が。
(な、なんで、これは、何?)
いや、ギイが頬に触れてくることはままある。見つめてくることも、よくある。そんな彼の模倣に一人動揺するのはしょっちゅうだ。
では、一体なにに対して問うているのか。
ソフィ自身も明言できなかった。
強いて言うならばギイの視線に込められた熱。本当に恋でもしているような甘い笑み。
(模倣がうまくなってる……!)
混乱した頭でそれだけを認識した。
思わず逃亡が頭をよぎるが、舌の根も乾かぬうちにそれは、いくらなんでもためらわれる。
ソフィは心停止の恐怖と闘いながら硬直していた。
「……………」
ややあってギイが苦笑を漏らす。
彼は平静を取り戻すように深く息を吐くと、ゆっくり腕を下ろした。
「もう暗いから、送っていくよ」
「だ、大丈夫」
ソフィは上擦った声で返し、二歩分ほど距離をあける。
「……そばにいるって言ってくれたのに」
「それは……ぶ、物理的な意味ではなくて……」
「違うの?」
「あの、つまり、いつも心配してるよっていう気持ちを……」
ギイが失笑した。
その笑顔にいつもの穏やかさ以外がないことを知ると、ソフィは知らず安堵し、ギイを睨みつける。
「そういう冗談は、止めて」
「冗談のつもりはなかったんだけど」
ソフィはフードの両端を引っ張り、今更ながら紅潮した頬を覆い隠した。
ギイが一歩近づき、反射的に一歩さがる。
「も、もう帰るね」
「ソフィ」
「一人で大丈夫」
物言いたげなギイを残し、ソフィは脱兎のごとく逃げだした。
直後、道路を渡った彼女とギイの間を、ごろごろと馬車が隔てていく。
無粋な
「……
寂寥感に満ちた呟きをこぼし、ギイは部屋に向かう。
――が。
「…………?」
一度、不審げに振り返った。
身なりのいい男が、ソフィを追って角を曲がったふうに見えたからである。
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