月と太陽6

 一見無理に思えても、挑戦してみれば案外可能なものである。

 先入観をなくすこと。それが第一。

 まず試してみること。それが第二。

 場の暗さ、影、植物や木材などの遮蔽しゃへい物、周囲の見通し、環境音。様々な要素が『そこ』を作り上げる。

 そして、『そこ』を見つけるのが、ソフィの楽しみであり特技であった。

「……よく見つけたわね、ここ」

 町の高台には、一か所だけ、一人二人が入れるくらいの浅い窪みがある。

 頂上ではない。急勾配の高台の側面――つまり、足を滑らせれば下へ真っ逆さまという危険極まりない場所である。高さがある上、植物が繁っているため、頭上からはもちろん地上からも発見されにくい。

「落ちたら多分死ぬから、気をつけてね」

「背筋が冷たくなるから言わないで」

 ロザリアは肩を震わせて窪みの奥へ身を寄せた。奥というほど深さはないのだが。

「はあ、まったく――なんでこんなことに」

「話を聞く限り、貴女が暴力振るったからだよね」

「あれは自衛よ! なに、女は黙って触られてろとでも言うの?」

「そういうわけじゃないけど、穏やかな相手ではないから。敵に回さない方がいいと思う」

「もう遅いわよ」

 それもそうか、とソフィは溜め息をついた。

 クレヴリー商会は町の有力者や貴族をも顧客に抱えると聞く。客以外の住民といざこざを起こしたり、無闇に狼藉ろうぜきを働いたりといったことはないが、平穏を望むなら深く関わるべきではない相手でもある。

「……………」

(……寒いな)

 ソフィは首を縮めて息を吐いた。ゆるやかな風が当たるせいで、肌がひどく冷たい。

「――どうしてあたしを助けたの」

「え?」

 ソフィはフードの下から視線だけを上げた。

 ロザリアは仏頂面だった。

「そんなヤクザみたいな奴らだって分かってたのに、どうしてあたしを助けたの?」

「どうしてと言われても……追われてたから」

「それで一緒にこんなところに逃げ込んで。馬鹿じゃない?」

 言葉はきついが、その声音は気落ちしたように弱い。巻き込んでしまったと自責しているのだろう。

(いい子だなぁ)

 ソフィは首を外套にうずめ、目を細めた。

「考えなしに人助けをするほどお人好しじゃないよ。ちゃんと目算があった」

「何よ、恩でも売ってギイ様を諦めさせようって魂胆?」

「そういう意味じゃなくて――というか、私とギイはただの友達だってば。ギイだって別に私のこと何も言ってなかったでしょ?」

「……………」

 ロザリアは小さく眉を動かした。

 何か言っていたはずがない。仮にもデート中に別の女性の話題を出すほど迂闊ではないだろう。

「……特に言ってはいないけど」

「なら」

「もういい」

 歌姫は拗ねたように遮り、ぷいっと横を向いてしまった。

 ソフィは困惑する。なぜこうも頑なにギイとの関係を疑うのか。――いや、疑うどころか確信しているように思える。

(まさかギイが何か誤解させるようなことしたのかなぁ。それともセリーヌかノウル? オルガとか……おしゃべり好きだし……)

 一人悶々と思い悩む。

 風だけがしばらく二人の間を通っていた。

 ――町の雑踏が遠かった。唐突に、そのことに気づく。

 子供たちの笑い声も、主婦たちの井戸端会議も、当然だが追手の怒声もなく、喧騒はかすかにしか届いてこない。

 ああ独りだと、ソフィはこうした瞬間に思う。

 誰かの温もりを感じるには隔たりがあり、しかし孤独に震えるほどの静寂でもない。寂しさと、安堵と、胸の痛みと、諸々の想いが波のように打ち寄せて、思考を一気に過去へと押し流していく。

 工房。師と兄弟子。初めて一人で作り上げた人形のこと。喜んでくれた人々。

 そして、雷の音。

「……………」

(――遠いな)

 随分遠くまで来てしまった。何のために。分からない。

 曇りかけた気分を一掃するように頭を振る。

 ふとロザリアに意識を移すと、彼女が両手で大事に抱えているものが目に留まった。

「その笛、大事なものなの?」

 ロザリアは弾かれたように振り向き、それからゆっくりと笛へ視線を落とす。顔つきが優しいものに変化していた。

「母親のものなの」

「お母様?」

 形見なのだろうか――ソフィは若干息苦しくなる。

 だが、見透かしたようにロザリアが続けた。

「あたしが小さい頃、父さんに愛想つかして出ていったのよ」

「そ、そう」

「笛の奏者だったの。すごく上手で、綺麗で――憧れだったのよ。母さんみたいに吹けるようになりたかった」

「……………」

 あれ、と思う。

 ロザリアは歌姫だ。

「……笛は、母さんに基本しか教えてもらえなかったから。歌の方がさ、万人受けするのよね。歌詞とか声とかある分、人の心に響きやすい」

 彼女の笑顔には寂しげな色があった。

 歌を愛し、真剣に取り組んでいるのは事実だろう。そうでなければ人を魅了する歌など唄えるはずはないのだから。

 だが、本当は母と同じ道に立ってみたかったのではないだろうか。――今も。

「……ねえ、ちょっと吹いてみせてくれないかな」

「は!? 今の状況分かってんの?」

 無論分かっている。悠長に演奏会を開いている場合ではない。

「大丈夫だよ。ここなら、笛の音も風が遠くへ飛ばしてくれる」

「……………」

 ロザリアは呆れたように口を開けた。

「あんた意外と図太いのね」

「うん」

 早く、と視線だけで急かす。

 ロザリアは躊躇しながら笛を握った。

「……言っとくけど、大したことないわよ?」

「うん」

「本っ当に、お金取れるようなものじゃないからね?」

「丁度良かった。今手持ちがないんだ」

「……………」

 ロザリアは諦めたらしい。

 笛に唇を当て、緊張した面持ちで目を閉じた。

「……………」

 ――風が吹く。

 高く澄んだ音が伸びて絡み、雲のように流れて遠ざかっていく。

 曲名は分からなかった。だが聞き覚えがある気もする。柔らかく寄せては返す音の波は、優しい響きで耳に染み込んでいった。

 ソフィは傍らの鞄に手を伸ばす。ファスナーをおろし、中から取り出したのは少女人形だった。

 愛らしいドレスに身を包んだ小人は、笛の音に合わせてステップを踏みはじめる。

 ロザリアがぎょっとした。が、笛は止めない。

 一、二、三……

 一、二、三……

 狭い場所で、人形はくるくると踊る。

 髪が舞う。ドレスが遊ぶ。小さな足が楽しげに跳ねる。

 昔もこうして遊んでいたことを、ソフィは思い出した。

 ただ、その時は独りぼっちで、これほど心が弾みはしなかったが。

 ――やがて演奏が終わると、人形は綺麗にお辞儀をして鞄の中へと戻っていった。

「……………」

 不審げな顔をしている奏者に、ソフィは笑顔で拍手を送る。

「ありがとう。すごく綺麗な音だね」

「……なに今の。あんたがやったの? 人形師ってそんなこともできるの?」

「人形師だからってわけではないけど――まあ、そう」

「ふーん」

 よく分からない、といった様子で首をかしげ、ロザリアは笛をしまいこむ。

「全然、駄目なの。母さんはもっとすごかったし。こんなんじゃお金なんて取れない」

「でも、私は好きだよ」

「――は?」

「好きだよ、貴女の笛の音。優しくて懐かしくて、穏やかな気持ちになる」

 数秒の、空白の後――

 ロザリアはかあっと耳まで赤くした。

「な、ば、馬鹿じゃないの!? あたしっ、あたしは恋敵なのよ?」

「いや、私は恋敵なんて思ったこと一度もないんだけど……」

「そこは貶すところでしょ! それが、す、好きってなによ、馬鹿じゃないの!?」

(褒められると弱いんだ……)

 可愛いな、と口走りそうになったが、もっと怒りそうなので言葉を呑みこむ。

 ロザリアは散々ソフィを罵倒すると、やがて静かになった。気が済んだというより、ソフィが透明な表情を崩さないので馬鹿馬鹿しくなったのだろう。

「……はあ」

 ロザリアは疲労のにじんだ溜め息をつき、膝を抱える。

「いつか――笛をもっと沢山の人に聴いてもらいたい」

 タイミング良く吹いた風に紛れこませるように。

 ロザリアが呟いた夢は、遠く前を向いていた。

「……………」

 うん、とソフィは相槌を返す。

 琥珀色の目がちらりとソフィを窺った。

「……あのさ」

「ん?」

「ギイ様は」

 少しためらって、ロザリアは切りだす。

「ギイ様は、あたしの理想なの」

「理想?」

「あたし、昔っからなぜか変質者に好かれるのよ」

 ソフィはうなずくこともできずに耳をかたむけた。

「誘拐されかけたり、変なイタズラされそうになったり、後をつけられたり、使用済みのティッシュを奪われたり――もう、本当、昔から、男どもに気持ち悪い思いをさせられてきたわけ」

「そ……そうなんだ」

「だからあたしね、男なんて父さん以外はケダモノだと思ってるの。ケダモノよ。頭の中はみーんな同じ、ケダモノなのよ」

 そんなことはない、と反論したかったが、それを許さない妙な凄みがあった。相当嫌な思い出ばかりのようだ。

「――でも、ギイ様だけは違ったの」

 そこでロザリアは表情をやわらかくした。

「優しくて、穏やかで、紳士で、何があってもにこにこしていて……あたしのことを変な目で見ることもしなかった」

「……うん」

 当たり前と言えば当たり前である。ギイは人形だ。性欲の有無は不明だが、あったとしてもそれは『本能』ではなく『付属機能オプション』に過ぎない。彼の意思で制御が可能なはずである。

 男性不信の嫌いがある彼女にとっては、それがもっとも重要な要素なのだ。

「女性慣れしててエスコートも上手だし、でも不誠実には見えなくて」

「うん」

「かっこよくて、本当に王子様って感じで」

「うん」

「玉の輿に乗るのが野望だったし」

「……うん?」

 最後の一つだけは肯定できなかった。

(……玉の輿?)

 ロザリアは夢見るような瞳で宙を見つめている。

「甲斐性なしの父さんのせいで、ずっと貧乏だったの。だから、かっこいい王子様と、広いお屋敷で、美味しいものを食べて、綺麗なドレスを着て暮らすのが夢だった」

「……………」

 ギイは確かに、主人から結構な額の仕送りをもらっているようだった。加えて最近は自身でバイトも始めたため、お金に余裕はあるだろう。ただし、それはあくまで集合住宅での生活で、しかもギイ一人の場合である。

 ロザリアの思い描く贅沢な暮らしが実現できるほど裕福かと言えば――答えは否だ。

(……いや、でも恋愛と結婚は別だし……)

 しかしロザリアを見ていると、彼女はどうやら恋愛から直接繋がった先にそういった結婚生活を据えている。

(……でも、本気で好きなら妥協してくれる、よね)

 そうであってもらいたい。ギイのためにも。

「だからあたし――」

 ソフィの動揺など気づかぬまま、ロザリアはそこまで言って、口をつぐんだ。

 そしてきゅっと唇を引き結び、何かを振り払うようにソフィの方を向く。

「……じゃ、あたしはそろそろ戻るわ」

「戻る?」

「さすがにあいつらも諦めたでしょ。宿に戻るわ」

「今日は諦めたかも知れないけど、あの人達は顔が広いよ。町にいる限り必ず見つかる」

「……なら、あたしだけ出ていくわよ。さすがに殺されたり犯されたりは――しないでしょ? あんたは巻き込まれただけだって、ちゃんと説明するから」

 ソフィは立ち上がろうとしたロザリアの髪を掴んだ。ロザリアがぐきっと喉をそらす。

「何すんのよ!」

「あ、ごめん……とっさに」

「とっさに掴むならせめて腕にしてよ! なんなの、髪って!」

 腕より近くに長い赤毛があったからなのだが、ロザリアの言い分はもっともなので、素直に謝罪を重ねる。

「私についてきて」

 改めて腕を掴み、ソフィは告げた。

「ついていく? どこによ」

「もう情報は届いているはずだから」

「だから、どこ!」

「クレヴリー商会」

 ソフィは鞄を持ち上げた。











※ギイは町での暮らしが長くなってきたので、今は宿ではなく安い集合住宅に住んでます。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る