月と太陽4

「返してほしいのよ」

 ロザリアが笛に辿りつけたのは、結局翌日になってからであった。

 激昂して飛び出したはいいものの、すぐに気づいたのである。金貸しの名前も人相も訊いていなかったことに。

 ロザリアはこんな間抜けなことになったのも父のせいだと責任転嫁し、憤慨ふんがいしながら宿に戻って改めて詳細を追及した。

 その金貸しが所属する商会の名前や会った場所、風貌などを事細かに問い詰め、一つ明らかになるごとに父を叱責し、曖昧な言動をとろうものなら怒鳴りつけ、泣いて逃げようとすれば懇々とお説教、そうしてようやく充分な情報収集と怒りの発散ができた頃には、すでに空が白んでいた。

 ちなみに途中で宿の主人が様子を見にきたようだが、あまりの修羅場に無言で退散したという。ロザリアは気づかなかったが。

 ともかく、さすがに疲れ果てた彼女は一度休息をとり、英気を養ってから笛の奪還へと向かったのだった。

「返してほしいの。あの笛は大切なものなのよ」

 ロザリアはゆっくりと繰り返した。

 ――こぢんまりとした酒場である。どうやら昼間は軽食をふるまう食事処となっているようだが、客などはいない。少なくとも、一般客は。

 町で有名な金貸し屋――クレヴリー商会の営業店で、関係者以外はほとんど利用しない。たまに無垢な者が迷いこんだとしても、そのよそよそしく閉鎖的な空気に、たちまち踵を返すだろう。

「昨日、ホーン・ベルモントにお金を貸したでしょう?」

 そのテーブルには、三人の男が座っていた。

 明るい茶髪を一つにくくった小柄な若者。三白眼の黒髪青年。長身痩躯そうく剃髪ていはつ男。服はそれぞれ違うが、全員がどこかに同じ記章をつけている。

 間違いない、とロザリアは確信する。彼らだ。

「――笛って、これかい?」

 茶髪の若者が少年のような高い声で返した。彼が握っているのは見覚えのある笛だ。

「……それ!」

 ロザリアは勢い込んで言う。

「馬鹿な親が間違えて渡してしまったの。もちろん代わりを持って来たわ――充分足りるはずよ、交換してほしいの」

 テーブルにいくつかの装飾品を滑らせる。

 すべてロザリアの持ち物だ。歌うときに見栄えがするよう、こつこつと貯めて集めてきたものだが、この際仕方がない。

「お釣りはいらない。だから、笛を返して」

「へーえ」

 目つきの悪い黒髪が面白そうに一つ手に取って確かめる。

「これ、本物だぜ」

「ふうん」

 茶髪の若者が興味津々に眺めながら、片手でくるくると笛を回した。

(や、やめて! 雑に扱わないで!)

 ロザリアは内心悲鳴を上げたが、ぐっとこらえた。ここは下手したてに出なければならない。

「……お願い。それ全部なら、利子の分を足したって充分でしょう?」

「どうする?」

 黒髪が二人に視線を投げた。

 茶髪の若者は上機嫌に、剃髪男は仏頂面のまま顔を見合わせる。

「別にいいんじゃねえ?」

 答えたのは茶髪の方だった。もう一人は返答どころかうなずきすらしない。

「このおじょーさんの言う通り、これなら釣りがくるだろ」

「まあ、そうだわなぁ」

 黒髪も同意する。

(やった!)

 ロザリアは表情を輝かせるとともに深く安堵した。

 さすがの彼女もこんなところに長居はしたくないし、金貸しなどという不穏な男どもと関わっていたくもない。

「……でもなぁ、そのまま交換ってのも、つまんねえよな」

「な、なんですって?」

 黒髪の三白眼が舐めるようにロザリアの体を見やった。ロザリアの全身に寒気が走る。

「おねーちゃん、いい女だね」

「そ、それはどうも……」

「せっかくだから、ちょっと付き合っていけよ。おごってやるからさ」

 にやにやと笑う黒髪男の目は、ロザリアがもっとも嫌悪する色に染まっていた。茶髪の若者がまたか、とばかりに溜め息をつき、剃髪男は――やはり眉一つ動かさない。

 どちらにしろ諌める気はないようだった。

(このケダモノが……!)

 罵りかけ、慌てて口を引き結ぶ。下手したてに。下手に出なければ。

「ざ、残念だけど――ええ、残念だけど、急ぎの用事があるの」

「まあそう言うなよ」

 腕を引かれて反射的に手が出そうになる。

 ここが普通の酒場か公園で、仕事中だったなら、上手にあしらえただろう。

 だが相手は金貸しで、明らかに粗暴な雰囲気をまとっており、しかも三人組で、ここはひどく排他的な煙に満ちていた。

 いくら世慣れていると言っても、年若い娘一人が冷静にいなせる状況ではない。

(どうしよう、何とかうまいこと言って逃げ――)

「もったいねえなぁ、旅芸人なんて」

 黒髪男はそう呟くと、無造作にロザリアの尻を撫で上げた。

(…………っ)

 激しい不快感と悪寒に襲われた瞬間――

 彼女はテーブルにあった灰皿を思いきり男の顔面に叩きつけていた。

「……………」

 凍りつく空気。停止する時。秒針の音だけが大きく響く。吸殻が黒髪男の顔を灰色に汚しながら落ちていった。

「な……」

 それは誰の発した言葉だろうか。

 膨らみすぎた風船を破裂させる針だった。

「何しやがる、このアマっ!」

 三人組が椅子を蹴って立ち上がるのと、ロザリアが笛を奪い取って身を翻すのは同時であった。



 その時、ソフィは鞄を手に通りを歩いていた。

 寒がりな彼女の外套はもう冬仕様で、厚手の生地が腰までを覆い、暖かそうな毛皮のフードが頬と耳を包んでいる。

 最近はやたらと目立つギイのせいで、すっかり髪や顔を隠すことなど諦めているのだが、防寒の意味でもフードは重宝していた。

 難点があるとすれば、やや視界が狭まるということだろうか。

 馬車も通れる広い往来で、考え事もしていないのに、ギイ並みに人目を惹く彼女の存在をしばらく見落としていたのはそのせいだ。

 前方から。反対側の歩道を、赤毛の歌姫が走ってくる。息を乱し、焦燥のにじんだ琥珀色の双眸を何度も背後にやりながら、すさまじい勢いで。

 理由はすぐに判明した。三人の男達が追ってきているのだ。

 彼らの表情は硬い。怒気に溢れていると言ってもいい。楽しげな鬼ごっこでないのは明白だった。

「……………」

 ソフィは視線をいくつか転々とさせると、車道を渡り、ロザリアの前に飛び出した。

「ロザリア――」

「……ぇぎゃっ!?」

 ひどい悲鳴である。ロザリアは予想外なほど動揺し、つんのめって転倒した。

「あ……」

 散らばった赤毛が、即座に跳ねて元に戻る。鼻の頭を赤くしたロザリアは、それでもやはり愛らしかった。

「あんた何してんのよ! こっちは急いで――」

 待て、と男達の怒声が接近した。

 ロザリアは肩を震わせ、急いで立ち上がる。

 ソフィはその手を掴んだ。

「何するのよ! 離して!」

「待って」

 静かに制し、ソフィは男達の方を見る。彼らは仰天する人々の横を通りすぎ、こちらへ迫ろうとしていた。

 若い女性の、青年の、老人の、親子連れのそばを通過し――

 ソフィは糸を引っ掛けて寄せるように、くん、と指を曲げた。

 怯えて通りの隅に寄っていた子供の腕から、人形が飛ぶように抜けだして、男の一人の足にしがみつく。

「おぉっ!?」

 黒髪の男が足をもつれさせて膝を折った。倒れまいと伸ばした手が剃髪男の服を掴み、掴まれた方は支えきれずに引きずられ、前にいた茶髪の青年も巻き込んで、三人まとめて派手にすっ転ぶ。

 事態を引き起こした人形は、ぽかんとしている持ち主の腕に素早く舞い戻った。

「今のうちに」

 ソフィはロザリアの手を引いて裏道に逃げ込んだ。



「よく追われるね」

 息を切らしてソフィが呟く。それは独り言に近かったのだが、返事はあった。

「追われたくて追われてるわけじゃないわよ!」

 それはそうだろう、とソフィは思った。

 しかし、ただの酔っ払いならまだしも、今度の相手は少し厄介だ。

「お金を借りたの?」

 ロザリアがぎょっとして振り向く。

「クレヴリー商会の人達だよね、あれ。もしかして、踏み倒そうとして追われてるとかじゃ――ないよね?」

「有り余るほど返したわよ、失礼ね!」

 ロザリアは燃えるように反論した。

「あいつら、触ったのよ!」

「触った?」

「お尻を!」

「……………」

 それだけでソフィは大体を把握した。

 出会いの時もそうだった。ロザリアはどうも欲望の対象にされることが大嫌いらしい。気性の荒い彼女は、我慢できずに手を出したのだ。

「お金は、ちゃんと全額返したんだよね?」

「返したって言ってるでしょ!」

「分かった」

 ソフィは狭い道を駆けながら後ろを振り仰いだ。男達の姿は見えないが、荒々しい声は間違いなく追跡してきている。なかなかしつこい。

 しかしソフィもこの町に住んで三年だ。人目を避け、窮屈な場所を好み、一人になれる憩いの場を探し続けて三年である。彼らもあらゆる抜け道を把握しているに違いないが、それでもかくれんぼには自信があった。

「とりあえず、どこかに落ち着こう」

 包囲されなければいいけど――と、心なしか増えていく追手の声に集中しながら、ソフィはロザリアを誘導した。

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