月と太陽2
伸びやかな歌声だった。
高く高く、天へ昇っていくような高音。深みのある響き。情感豊かに紡がれる、一つの家族の物語。
――幸せな日々。突如訪れる別れ。苦悩と
そして様々な苦難からの奇跡的な再会――最大の高音域で演出されたそのシーンは、観劇でもしているかのような臨場感があった。
余韻がゆっくりと消えていく。
音を出しきった歌姫が優雅に一礼すると、大きな拍手が巻き起こった。
「あ、どもども」
赤毛の歌姫は照れくさそうに頭を下げつつ、席につく。
拍手をしている人々は客ではない。たまたまその場に居合わせただけの通行人だ。あるいは、このオープンカフェの一般客。
唐突なリサイタルにもかかわらず、これだけの耳を惹きつけてしまうのだから、たいした才能である。
ギイは感嘆しながら拍手を送った。
「すごいね。綺麗な歌だった」
「まだまだ修行中です」
歌姫――ロザリア・ベルモントは、謙遜ではなく真摯にそう思っているようだった。
実際、彼女の歌は荒削りだ。上手いのは確かだが、独学ゆえに細部の調整や巧みさに欠ける。伸び代がかなり残されている気がした。
「でも、ギイ様のためにこれ以上ないくらい心を込めて歌っ……あ!」
「どうかした?」
「い、いえ、ちょっと選曲を……」
ロザリアはごにょごにょと言葉を濁す。
――選曲を間違えた。
そう言いたかったのだろう。
さきほどの嫁云々という発言は置いておくとしても、彼女が自分に好意を持ったことくらい、ギイは一目で察していた。
恋する相手に捧げるのなら、家族愛を描いたものではなく、異性への愛を語るような歌の方が相応しい。
しかし彼女はとっさに一番得意な――あるいは好きな歌を披露してしまったのだ。
可愛らしいな、と思ってギイが微笑むと、ロザリアは熱に浮かされたような表情で惚けた。
潤んだ瞳。紅潮した頬。艶を帯びて輝く肌と、少女らしい柔らかな仕草。
(これが恋……か)
代役をしていた頃、こんな表情をする令嬢とよく会った。それは無論、ギイではなく本物への恋慕だったし、当時は恋などに興味もなかったため、あまり気にしてはいなかった。
(模倣の参考にはなるけど)
ギイは人形師の少女の言葉を思い返す。
チャンスだよ、と彼女は言った。
『自分に恋してる人のそばにいた方が、恋しやすいかも知れない』
――と。
つまり彼女は、ギイがロザリアに恋すればいいと思っているのだ。
彼女の意見には一理ある。好きになられた方が相手に好意を持ちやすい。それは確かにそうだろう。
ギイもそう考えたからこそ、デートの誘いに応じたわけだが――
(紅茶に砂糖、入れるんだ)
ロザリアは結構な甘党らしい。砂糖を大量に投入していた。
ソフィはいつも何も入れない。
「――それで、この間も酔っ払いが絡んできて! 派手な顔ってほんと嫌ですよね!」
美しい歌姫は何やら憤慨していた。ころころとよく表情が変わる。
ふと淡白な人形師の顔が浮かんだ。彼女は怒っても喜んでも、それほど変化しない。赤面はよくするが。
笑い方もだいぶ違う。ロザリアはまさに太陽と表現できる眩さだが、ソフィは透明で静かな――月のようなほのかな明かりを灯す。
(……うーん)
ロザリアに――目の前の歌姫に、恋をする。
彼女は可愛らしいし、正直で善良な人間だ。相手が彼女でも支障はない。
なのに、なぜだろう。
今一つ気乗りしていない自身に、ギイは当惑した。
「――それで、置いてきちゃったの?」
「置いてきちゃったって、そんな物みたいな……」
親友の反応に面食らいながら、ソフィは鞄をカウンターに置いた。
「悪い子には思えなかったし、話してみて気が合えばうまくいくんじゃないかな」
セリーヌは珍しく、口をあんぐり開けて無防備な姿をさらしていた。
彼女は事あるごとにソフィとギイの仲を冷やかすが、二人が恋人同士ではないと知っている。ついでに言えば、ギイがソフィを口説くのは、単なるコミュニケーションの手段なのだと伝え続けていた。――信じているかどうかは不明だが。
「そこまで驚くこと?」
ソフィには訳が分からない。
「だって、ソフィ――ギイはなんて言っていたの?」
「特に何も。そうだねって」
セリーヌは大げさによろめいてみせた。額に手を当て、カウンターにうなだれる。
「信じられないわ。どうしてそうなるの?」
「セリーヌ、私とギイは恋人じゃないよ?」
「それは分かってるわよ。ギイもギイだわ。どうしてそこで、あっさり了承しちゃうのかしら」
ひとまずソフィは鞄から粘土製の人形を取り出した。愛らしい着せ替え人形である。セリーヌの仲介で受けた仕事の依頼品だ。
「はい、これ」
「……この子はこの子で何事もなかったかのように仕事の話に切り替えるし」
「だってそのために来たんだし」
深い溜め息をつき、セリーヌは人形を受け取った。しかしろくに検品もせず横に置いやると、続きとばかりに身を乗り出す。
「いきなり逆プロポーズをしたんでしょ?」
「ねえ、セリーヌ。一応依頼品の確認くらいはして欲し……」
「相当思いこみの激しい子よ。しかも積極的だわ。うかうかしてたら既成事実でも作られかねない」
「……………」
もはやどこに突っ込んでいいのか。ソフィは困りきって首をかしげた。
「胸はどうなの」
「え?」
「胸。バスト。大きかった?」
「えっと……」
なぜそんな話に、と疑問を抱きながらも、ソフィは歌姫の姿を思い出した。
甘やかな苺色の髪。強い輝きを宿す蜂蜜色の目。やや日焼けした健康的な肌と、はっとするほどの美貌。胸は――
「……大きかった、かな」
そして締まるところは締まっていた。
「危険だわ」
「何が?」
セリーヌは真顔でソフィを指差した。正確には、彼女の胸元を。
「……………」
「可愛さで言ったらソフィの方が勝ってるに決まってるけど、男は単純だからね――分かりやすい餌に釣られるのよ」
「……セリーヌ。だから、私とギイは、そんなんじゃないんだってば」
それにそこまで小さくない、と心の中でつけたす。
「ソフィはいいの? 彼が他の女の子と付き合っても」
「いいよ。多少寂しくはなるけど」
あの嫁発言は勢いで口走っただけだろうと考えていた。人形は結婚などできないが、恋愛なら自由だ。それとて永遠に続くわけではない。どう進んでいくかは彼と彼女が決めることである。
(そりゃ、寂しいけどね)
それまで懐いていた犬が離れていってしまったら、隙間風を感じもする。
だが、この方が彼も目的を果たしやすいはずだ。
「ギイがあの子と仲良くなればいいと思うよ」
「ねえ、本気でそう思ってるの?」
「うん」
平然と肯定し、ソフィは店の新商品を物色する。
いつもと変わらぬ淡白な様子に、セリーヌは深々と溜め息をついたのだった。
さわり、と、さざなみが起こるように空気が変わった。
ちょうど夕飯の頃合いだ。通りに人気は少ない。それは稲穂がそよ風に揺れる程度の変化だった。
紙袋を抱えて歩いていたソフィは、ささやかなその波が訪れるのを感じて振り返る。
「……あ」
天使がやってくる。
否、それは赤毛の歌姫だった。
昼間見た旅装束ではない。仕事をする際の衣装なのだろう。厚手の白い布を重ね、装飾品で飾ったドレスに、淡い色のストールを羽織り、目元と唇に鮮やかな化粧を施していた。
ただでさえメリハリのある容貌が、さらに鮮烈で輝かしいものとなっている。王都の舞台に現れてもおかしくない存在感だ。
ソフィはやや逃げ腰になった。しなやかな獣を思わせる琥珀色の眼差しは、なぜかソフィに据えられていたのだ。
「――ソフィ・ブライト?」
抑揚のある美声。そこに険があってもうっとりしそうである。
「はい……?」
怯みながらもうなずくと、ロザリアはますます目つきを鋭くさせた。明らかな敵意。しかしその表情すら美しい。
「ギイ様の恋人の?」
「……え」
「町でも噂の恋人同士だそうね」
ソフィは彼女の不機嫌の理由を理解する。ギイとのデートの後で誰かから聞いたに違いない。
「誤解だよ。私とギイは、ただの友達」
「友達?」
今度はあからさまに疑わしげな顔つきになる。分かりやすい少女である。
「恋人だったらギイと貴女を二人にしないし、ギイだって貴女の誘いに乗らないでしょう」
「……ふーん」
信用できないのだろうか――彼女は険しい顔でソフィの値踏みを続けていた。
ややあって、感情豊かな瞳にふと拗ねたような色が混じる。
「……上の空だったの」
「はい?」
「ギイ様。今日、あたしとデートしている時、どこか上の空だったのよ。ずっとにこにこしてたし、受け答えもしてくれてたけど」
そういえばなぜ『様』付けなのだろうと思ったが、今尋ねることでもないので胸の内に押し込めておく。
「これでも放浪生活長いんだから。相手の意識が自分に向いてるか向いてないかくらい分かるのよ」
「へえ……すごいね」
「ま、まあ、大したことじゃないけど」
ちょっと照れたように咳払いし、ロザリアは続ける。
「とにかく。何かに気を取られてたのは確かよ。このあたしが目の前にいるのに! これでも容姿には自信があるのよ?」
これだけ麗しい外見をしておいて、自信がないなどと言われたら単なる嫌味だ。
(でも……)
上の空?
何か考え事があったのだとしても、それを悟られるとはギイらしからぬ失態である。しかも女性を同伴している時に、だ。
「直感したわ。女だって」
「はい?」
「片っぱしから聞きまわってみたら案の定。あんたの名前が挙がったわけよ」
「えっと……だから、それは誤解なの」
「いーえ、あたしの勘に間違いはないわ!」
言い切られてしまった。
思い込みが激しい――セリーヌの分析が脳裏に蘇る。
「ギイ様は、あたしの運命の人なの」
「はあ」
「あたしの、王子様なんだからねっ!」
ギイがやってきてからというもの――
意味が分からないことが増えた、と、ソフィはしみじみ思った。
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