濁り水4
ソフィにとって、人形は幼い頃からの友人だった。
彼女の人形を操る力は、多くの場合、好意的には受け止められない。家族にさえ。
広い室内。音のない部屋。踊る人形たち。ソフィの世界のすべて。
それが広がるきっかけとなったのは人形で、人と繋がるすべを教えてくれたのも彼らだった。
『人形師になってみればいい』
たまたま家を訪れた壮年の紳士にそう勧められなかったなら、ソフィはずっとあの部屋で人形とともに暮らしていたに違いない。理想の人形を表現する技術も、楽しさも、喜んでくれる人々にも、巡り合うことはできなかった。
――ただの道具だなどと、どうして言えるだろう。
「――ソフィ、大丈夫?」
ビスクドールが完全に停止し、炎が消えてから、ギイは改めてソフィに向き直った。
「怪我は? 痛いところはある?」
「だい……じょうぶ。ありがとう」
ソフィは小さく咳き込んだ。声がうまく出ない。
ギイは眉を顰め、彼女の首に触れた。
「ごめんね。もっと早く来られれば良かったんだけど」
ソフィの首にできた赤い痕を、静かに指でなぞっていく。
その仕草に他意はないのだろうが、むず痒さと恥ずかしさに耐えきれず、ソフィはつい身を引いた。腕を掴まれたままなので大して意味はなかったが。
「だ、大丈夫……」
「本当?」
「本当。――ところで、どうしてここに? お店は……?」
ソフィが離れたがっていることを察したのか、ギイはそっと腕を解放した。剣を鞘におさめ、黒ずんだビスクドールを見やる。
「やっぱり心配だったから……ノウルに頼んで早めにあがらせてもらったんだよ」
「よくここが分かったね」
「セリーヌに聞いたら、オルガって子のビスクドールだろうって。その子に買った店を教えてもらって、その店で入手経路を聞いて――」
要するに、ソフィと同じ道を辿ってきたらしい。ソフィの場合、周辺住民からブルジェ家について聞きこみもしていたため、追いつくことができたのだろう。
「……心配した」
ギイがついた息は――安堵のものだけでは、なさそうだった。
彼の緑眼は穏やかなままだったが、明らかにソフィを非難している。
「きみは時々、すごく危なっかしいよ」
ギイはソフィの髪を撫でると、そのまま手のひらを頬から顎へ、首元へと下ろしていった。彼女の細い首を絞めるような形で――しかし包み込むように優しく、痕と指を重ね合わせる。
「人形が望むなら、命すら与えてしまうの?」
「そ……そんなわけ、ないよ」
咎められていると分かって、ソフィは逃げることができなかった。
「ただ、さっきは――足が竦んで、動けなかっただけで」
「……人形のために、人間が傷ついたり危険な目に遭うのは本末転倒だって、きみならよく分かってると思っていたけど」
ソフィの誤魔化しを、ギイは易々と看破した。
「きみは人形に感情移入しすぎるね。あまり良いことではないと思う」
「分かってる……よ」
「分かってるなら、どうしてあんな状況になっていたの」
「……………」
「きみに何かあったら、ノウルやセリーヌだって悲しむよ。きみの人形たちだって――自律人形じゃなくても、皆きみを好いてるんだから」
ぐうの音も出ない。
彼の口調は責めるというより悲しげで、だからこそソフィには痛かった。うつむいてただ受け止める。
別に死ぬつもりがあったわけではない。ソフィとて自分の命が大切だ。だが、あの人形を切り捨てられなかったのも事実である。ギイが来なければどうなっていたか――あるいは寸前で決断できていたかも知れないが、今更そんな可能性だけで弁解しても意味はなかろう。
「こんなこと言いたくないけど、きみは人形師に向いていないよ」
――おまえは人形師に向いていないね。
過去の記憶が一瞬だけちらついた。
ソフィは瞠目し、顔を上げる。
怪訝そうなギイと目が合った。
ぽかんとしていたソフィは、突如として笑いがこみ上げてきて、こらえきれずに口元をゆがませた。
「……ソフィ、何笑ってるの」
「ご、ごめん。昔、兄に同じことを言われたなって」
「兄?」
「兄弟子、だけど。人形師の」
くすくすと笑いはじめてしまったソフィに、ギイはもう一度溜め息をついた。諦め、だ。
「もういいよ。僕は心配しているのに」
「ごめん、懐かしくてつい。ギイの言う通り、私は人形師に向いていないと思うよ。気を付けるね。ありがとう」
指摘された当時は傷ついたものだが、今はそのことさえ感慨深い。
人形師は場合によっては人形を破壊、処分する。愛情を持つのはいいが、道具以上の感情を抱くべきではないのだ。
(分かってる、けど、もうここまでくるとなぁ)
ソフィは外套を外してビスクドールに歩み寄った。持ち帰って改めて処理する必要がある。
そんな彼女を制して、ギイが先にビスクドールを拾いあげた。熱くはないのかと思ったが、平然としているので、任せることにする。
「ソフィがそんな風に笑うの、初めて見た」
ギイはいささか困惑しているようだった。
「え? そうだった……かな」
「うん」
ソフィはあまり大きく表情を崩さない。笑う時も滅多に声を立てず、静かに微笑むだけだ。
「可愛いなぁ」
それは、いつもの演技じみた口説き文句ではなく――
仔猫の愛らしさに思わず笑んだような、自然な呟きに聞こえたので、ソフィは虚を突かれて絶句してしまった。
(そんなに綺麗な顔をしてるくせに、何を)
ソフィは赤面してギイから離れ、鞄を持ち上げる。そのまま逃げるように部屋のドアをくぐった。
「ソフィ、僕が持つよ」
「ギイはその人形を持って」
「あ、足元気をつけて」
「大丈夫」
「そんなに急いだら転んでしまうよ」
「大丈夫だってば!」
ソフィは早足で玄関ホールへと出て、屋敷の扉を開ける。
ギイはソフィの背中を見つめながら、ほんの少しの間だけ、その場にとどまっていた。
「……………」
視線が黒く焦げたビスクドールに落ちる。
「魂を得たら――僕も人を傷つけるのかな」
かすかに揺らぐ水面。それが泥のように濁ってしまわないように、彼はソフィのあとを追った。
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