濁り水3
屋敷の外側はまだ優美な面影を残していたが、内側はひどい有様だった。
どうやら出火したのは二階だったらしい。一階からその部屋を見上げてみると、床が焼け落ち、焦げた家具ごと崩落していた。
煤けたソファ、割れたテーブル、散らばったガラスの欠片。窓際付近は煤ではない黒い染みで色変わりしていた。おそらく雨だろう。
崩れずに残った天井からは、カーテンなのか絨毯なのか、あるいは床の木材の一部なのか、判別のつかない真っ黒い何かが垂れ下がっている。
また、明らかに新しい破壊の形跡があった。焼け跡の少ないインテリア類も不自然に散乱している。物盗りにでも入られたようだ。
「あとは朽ちていくだけ、か」
ソフィは窓から吹き込んでくる冷たい風に身を震わせた。
――壁に肖像画が飾られていた。ややかたむいているが、奇跡的にほぼ無傷だ。
描かれているのは三人。眠そうな表情の紳士と、椅子に座って微笑む貴婦人、その隣では二、三歳ほどの快活そうな少女が満面の笑顔でこちらを向いている。
「――ここに来たかったの?」
絵の前で呟き、ソフィは振り返った。部屋の中央に置いた鞄は、いつの間にか開いている。その傍らにビスクドールが立っていた。
「君は、何をしたいの」
答えはない。
「何が望みなの」
青い目は吸い込むようにソフィを見つめている。
ビスクドールは微動だにしなかった。
「……………」
ソフィは溜め息をついて背を向けた。再び肖像画に視線を移す。
オレリア・ブルジェは死亡当時七歳だった。この絵が描かれたときは、まだ幸せだったのかも知れない。
――時間は戻らない。
あの女性の言葉が蘇った。
「……ごめんね」
ここまで来てみたはいいが、結局、ソフィにできることは一つだけだ。
外套のポケットに手を入れ、再度ビスクドールの方を向く。
――瞬間、ソフィは凍りついた。
人形の長いドレスが揺れている。その中で、足が
――……ウシテ。
夢で聞いた、幼い声が掠れて響いた。
黒ずんだ床を踏みしめながら、ビスクドールはゆっくりと歩いてくる。
――ドウシテ?
ソフィは急激に視界が狭まるのを感じた。取り込まれる――唇を噛んでポケットから瓶を取り出す。
だが、できたのはそこまでだった。
――ドウシテ殺スノ?
全身が石の塊にでもなったように、身動きがとれなくなる。
白い
幻だ。ビスクドールにこびりついた過去の映像が再現されているに過ぎない。
(燃やさなければ)
しかし、瓶を握りしめたはずの手の感覚すらすでに淡い。
ソフィは知らぬ間に膝を折っていた。
――殺サナイデ……
幻の手のひらと、ビスクドールの小さな手が重なる。
目の前にあるのは人形の愛らしい顔ではなく、ぞっとするような表情で睨みつける、銀髪の女性だった。
じわじわと喉が絞めつけられ、呼吸が苦しくなっていく。
――おまえのせいよ。
――ごめんね。
――おまえさえ生まれなければ。
――ごめんなさい――
矛盾する感情が交錯する。
謝罪と罵倒を繰り返しながら、それでも目の前の母は手を緩めない。
(私を憎んでいるの?)
それが幻聴なのか、人形の発した声なのか、あるいは自分自身の思考なのか――ソフィには分からなかった。
(愛してはくれないの?)
(殺さないで)
(おかあさま)
(おかあさま――)
(――違う!)
かすかに残った理性が、同化しかけた心を引き離した。
ソフィは渾身の力でビスクドールを振り払い、瓶の中身をぶちまける。
油だ。
体を折って咳き込みながらも、外套の中に滑らせた指がマッチ箱を探しあてる。ソフィは涙でかすむ視界にビスクドールを映した。
ビスクドールは細い腕をぎこちなく動かし、体を起き上がらせる。
――ドウシテ殺スノ?
燃やさなければ。
マッチ箱がからからと乾いた音を鳴らした。
――私ヲ殺スノ?
――愛シテハクレナイノ?
――捨テナイデ。
――棄テナイデ――
ビスクドールが再び近づいてくる。
ソフィは動けなかった。思考はすでに冷えている。幻は見えていない。
それでも、体は硬直したままだった。
――棄テナイデ。
棄てないよ。
訳も分からずソフィは泣きたくなる。
可哀相な人形だ。大切にされたのに、されたからこそ、ゆがんでしまった。ゆがんでしまえば処分するしかない。人形は道具に過ぎないのだから。
過ぎるべきでは、ないのだから。
(それでも、幸せになってほしかった)
マッチ箱の角が手のひらに食い込む。
――ソフィ、と、名を呼ばれた気がした。
刹那、鋭い音とともに風が立つ。
ビスクドールの小さな両手が腕ごと吹き飛んだ。
「……え?」
混乱する間さえなく、ソフィは腕を強く引かれ、よろめきながら立ち上がる。
「……駄目だよ。何を考えているの」
耳元で聞こえた囁きには、呆れと焦りが混じっていた。
顔を動かせば、ぎょっとするほど至近に、太陽のような金髪と深い翡翠の瞳がある。
「ギ、イ……」
どうしてここに、と問う前に、彼は抜き身の剣を脇に挟むと、ソフィからマッチ箱を奪い取って片手で器用に火を点けた。
虹を渡るように弧を描いて飛んでいく灯火。
ビスクドールの肩に落ちた瞬間、小さく爆発するように発火した。
――ドウシテ殺スノ?
ビスクドールは悲しげでもなく、苦しげでもなく、ただただ澄んだガラス玉の目でソフィを見ていた。
人形とは
彼らは良くも悪くも人の影響を受ける。人の感情を、意思を、心を、精神を、記憶を読みとり、受け取って、その器の色を変える。
このビスクドールは、持ち主であるオレリア・ブルジェの思いを受けすぎた。魂――そう呼ばれる何か。器を変質させるもの。ソフィには祓い清めることはできない。
――ドウシテ殺スノ……
炎に包まれてなお、人形は水面のように持ち主の声を映し続けていた。
髪が、服が焼け、全身が屋敷と同じく黒に染まるまで。
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