オムライスはいかが?2
小さなキャンバスに細やかな絵が描かれていく。細い指が滑るたび、一本、二本と色づいて、様々な紋様が浮かび上がる。ツタに似た曲線や、雫のような不可思議な円系、いくつも重なる図形の数々。繊細で、精密で、大胆で、そしてどこまでもやけっぱちだった。
「……ねえ、何やってるの?」
セリーヌは、さきほどから一心不乱に糸を動かすソフィにそう尋ねた。
「刺繍」
顔も上げずに答えるソフィ。
ハンカチほどの大きさの白い布は、すさまじいスピードで色々な模様に埋め尽くされていく。下書きはない。加えて構図を考える気もないのか、頭が痛くなるほど細かなわりにバランスが悪かった。
「刺繍してると、落ち着くから」
「どす黒い感情を縫い込めてるように見えるけれど」
厨房からは良い匂いが漂ってきている。そろそろ料理が完成するのだろう。思い思いに談笑している観客たちも、待ちきれないのか、厨房の方を覗きこんでいた。
「あの王子様、料理なんてできるのかね」
「ノウルはプロだもの、勝つのは難しいんじゃない?」
「いや、案外できるんじゃないか」
「いくら美味くったって、お姫様の好みに合わなきゃなぁ」
「ソフィったら罪な子ね――」
「やっぱり身分違いの恋なのかしら?」
糸が、ずれた。奇妙なところに一本だけ飛び出す。ソフィは一時手を止めたものの、気にせず続行した。
「――それにしても、自分の得意分野で勝負だなんて……余裕のない真似をするわね、ノウルも」
「……多分」
ソフィはセリーヌの独り言を拾った。
「多分、次の勝負はギイの得意そうな内容にするんじゃないかな」
「あら。どうして?」
「そういう人でしょ。実直で、誠実だよ」
「で、いい人?」
「うん」
ノウルは大抵の者に優しい。無愛想なソフィ相手でもそれは変わらない。いい人だと、ソフィは常々思っていた。
セリーヌが苦笑する。
「そうよね。いい人で終わるタイプだわ、奴は」
「? それ、良いことだよね?」
「相手にもよるんじゃないかしら?」
「そう?」
セリーヌは時折謎かけのようなことを言う。ソフィには意味が理解できなかった。
その時、厨房の方がにわかに騒がしくなり、ソフィはさっと顔色を変える。
今か今かと待ちかまえていた観客たちが浮き立ち、ざわめきが大きくなった。
――ああ、とうとう来てしまったのだ!
ソフィは針を思いきり布に突き刺した。
アーモンド型に整えられた金色の卵。その中央にとろりとかかったケチャップ。柔らかさと程良い酸味が合わさった匂い。スプーンを入れると、厚みのある卵がふわっと割れ、色づいた御飯が覗いた。
――完璧である。
「さすがノウルね……」
セリーヌが感心している。
彼女の言葉にはソフィも同意するが、いかんせん興味津々のギャラリー陣に囲まれ凝視されている状況である。美味しそうな好物を前にしても、あまり食欲が湧かない。
「さあソフィ、食べてみてくれ」
ノウルに催促され、仕方なくソフィはスプーンを口に運んだ。
「……………」
しん、と辺りが静まりかえる。
ソフィは時間をかけて咀嚼し、丹念に舌で味わって、こくりと飲みこんだ。
しばらくして顔を上げる。
「……美味しい」
幸せそうな微笑み。
観客が、良かったねえ、とうなずきたくなる幸福感だった。
ソフィはそれ以上何も言わなかったが、次々にスプーンですくい取られていくオムライスは、彼女の感想を如実に表している。
「ソフィ、ちょっと――食べすぎよ。次があるんだから、もうダメ」
「あ……」
セリーヌに皿を取り上げられ、ソフィは悲しげに肩を落とした。まだ半分も食べていない。
「……そんな顔しないでよ。分かったわよ、ちゃんと残しておくから。あとで食べればいいわ」
「うん」
「――じゃあ、次は僕の番だね」
ギイが進み出た。
ソフィは反射的に身を強張らせる。根拠のない予感ばかりが理由――ではない。ギイが掲げた皿を見た観客たちが、一様に絶句し、顔色を失ったからだ。
「私、帰――」
「はい、どうぞ、ソフィ」
問答無用でテーブルに置かれたもの。
赤かった。
なにが赤いのか。
卵が赤いのだ。
鋭く刺すような酸味臭は明らかにケチャップだが、濃厚であることは必ずしも良い結果を生むわけではないという好例だった。
「どうしたの?」
ギイは戦慄する一同など気に掛けていないらしい。硬直するソフィに、どうぞとスプーンを差しだす。
「なんで、卵が赤いの?」
ソフィはスプーンを受け取れなかった。
「ケチャップを入れたから」
「なんで入れたの」
「ずいぶんケチャップを使う料理なんだと思って。この際徹底的にした方がいいかと」
いいわけがない。
スプーンを渡され、ソフィは恐る恐る『それ』を割った。中から出てきたのは、ケチャップにまみれたという印象しか抱けない御飯である。しかもなぜか、御飯でも鶏肉でもない白っぽいものまで混じっている。
「……一応聞くけど、味見はしたの?」
「味見?」
なにそれ、とでも言いたげな顔に、ソフィの体からすうっと血の気が失せていく。
――食べるしかないのだろうか。ソフィは絶望的な心地になった。においを嗅いでいるだけで鼻に痛みを感じそうである。
しかし出された以上、食べなければ失礼だ。ギイも、別に悪意があってこんな料理を作ったわけではないだろう、多分。ノウルを観察しつつ、自分なりにアレンジを加えたに違いない。――料理初心者のアレンジほど、失敗に繋がりやすいものはないのだが。
「ソフィ、こんなの食べなくていい」
ノウルがたまりかねて口を挟んだ。
「食べるまでもない。ギイの負けだろ」
「どうしてそんなことが分かるの? ソフィの満足できるオムライスを作った方が勝ち――だよね。確かにきみほど美味しくはできなかったかも知れないけど、ソフィがどっちを好むかは食べてもらわないと分からない」
正論だ。正論だが、この料理を前にして堂々と言える者は少ないだろう。
「……食べるよ、大丈夫」
「ソフィ……」
心配そうにノウルが名を呼び、
「胃薬が必要だったら言ってね」
真剣な表情でセリーヌが小瓶を取り出した。
観客たちはもはや祈るような面持ちであった。
ただ一人、ギイだけが楽しそうな笑みを浮かべている。
(……もしかして、分かっててやってる?)
ギイの笑顔を見てふいに疑念が湧いた。
彼は人形だ。人の感情を察することに長けている。周りの人々が何に慄いているのか、ソフィが何を躊躇しているのか、なぜノウルが制止しようとしたのか――正しく理解しているはずだ。
「……………」
――悪意や悪気はないのかもしれない。故意に不味くなるオムライスを作ったわけでもないだろう。
だが、確実に現状を面白がっている。
「どうしたの、ソフィ?」
無垢な笑顔で促すギイに、ソフィは黒い羽を見た。
――自明のことだが。
一口食べただけでソフィが蒼白になったため、誰が何も言わずとも、料理対決はノウルの勝利となった。
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