翳踏むばかり
釘島滝子
001:ある陰翳の話
(最初のノート内の紙片 これだけが比較的新しい)
僕の身にはひとつのかげが欠けている。それは地に伏し僕に着いて来るではなく、僕の足許から煙のように立ち上る。僕の総身に寄り付いて離れず、一種のしもべか、あるいは屍肉周りの羽虫のようでもあり、如何にしても僕を追ってくる。そこにあるのは陰翳である。生ける陰翳、仄かな暗がりである。僕にしか知り得ぬ僕の破片である。
さて誰に見せるでもなし、誰へ伝わるとも限らぬものながら、たかが一人間の生涯の陰に、かのうつくしい陰翳は身を隠してしまうようであるが、あれにもまた生命ならぬ生命のあるがため、僕はこれを以てあれの墓標としてやりたい。
◎
わが陰翳へ うつくしい国へ
◎
ぼくは、親戚の中では祖父と一番に仲が良い。
ぼくの家族は昔は父方の実家で暮らしていたので、祖父は距離としていつもぼくの近くにいた。ただ祖父との関係といえば、一般の「祖父と孫」とは言えないように思う。祖父は決してぼくに甘くはない。どこの家の子でもそのおよそが、「孫」なる立場に伴っての特権を持っていると思うが、ぼくには祖父から甘やかされた経験がこれっぽっちもない。物をねだっても買ってもらえたためしはないし、小遣いも菓子も、いつも祖母の手からやってくるものだった。何につけても祖父はたいへん淡泊だ。それでも優しい人だとは思うが、すべての他人に同じような距離、態度をとる人でもある。誰へ向いても距離は遠い。孫であるぼくへも、血縁の身内というより、もっと無責任な感覚でもって、付き合っているように見える。ぼくと祖父とは昔から仲が良く、ぼくを一番分かってくれる人といったら祖父に違いないのだが、その逆はありえなかった。両親や祖母のような気持ちのいい人たちと違って、祖父は自分の中に明確な垣根を持っていて、そこから中へは誰も入らせやしない。誰であれ、身内であれ、家族であるとか、血縁だとか、そういう理由では、祖父の領分に立ち入ることは許されない。
そんな人間だから、祖父はしばしば薄情だと言われる。数年前に祖母が盲腸で入院したときも、歳のこともあるし、普通は心配くらいするのだろうが、祖父はひと言「何とかなる、ならんかったらそれまで」と言い切った。その後は見舞いもそこそこに、退院まで放って置かれた祖母である。さしも、ぼくでも呆れるところを、祖母は「そういう人だから」と済ませてしまうのである。数十年と連れ添うにあたり、いかに大きな苦労があっただろう。おっとりとした祖母なのだが、中身は案外したたかだ。
────そう、そういう祖父は、少なくはない親戚一同からも、一様に変わり者として見られているらしい。その祖父と仲良くしているぼくもまた、子どもながらに「変わり者」だ。誰か人から、直接言われるわけでは当然ないが、視線は多くを物語る。親戚なんて数年に数度、会うかどうかの人たちだが、暗によそよそしくされるのをぼくは気にした。人目を気にするだけの分別は昔からあった。
「あいつらは珍しがっとるだけに過ぎん」
放っとき、と祖父は、一方でいつも平気な顔をしている。その神経を羨ましく思うこともある。
昔から、祖父はおおよそ出不精だ。寄る年波に、健康に悪いのは百も承知である。そのあたり全く同様のぼくも、四つ下の妹に引っ張られて遊びに行かされる以外、(ゲームを買ってもらえない家庭だったからでもあるが)家にいて本でも読んでいるほうが疲れなくて好きだ。祖父は昔から読書家で、ぼくが小学生の高学年にもなると、自分の大きな本棚から「お前くらいの頃に読んだ」と言っていくらか、昔の児童文学や、子どもにやるには難解な、よく日焼けした古い文庫を出してきて、ぼくに貸した。それがたとえば児童向けのミステリーなどであれば、ぼくは決まってどこが面白いとか、どこがかっこいいとか、そんな話を祖父相手に、いつまででもしているのが常だった。彼もまた昔の読者だから、少年心を思い出すのか、気分よく談議に乗ってくれることも多かった。彼とのこういう時間が好きで、ぼくはたびたび、祖父の部屋へ遊びに行った。彼も、ぼくの宿題がおろそかにならない範囲で付き合った。ぼくの世帯が家を分け、引っ越したのは小学校の高学年の頃だが、その頃までこの付き合いはたびたびの頻度で続いたのだった。
祖父とのことには、特別の思い入れがひとつある。世帯を分けた後、中学に上がるよりは昔で、庭の金木犀の古木が花をつける季節の頃だった。泊まりがけての帰省の際、借りた本を返しに祖父の部屋に行くと、ふたつ、小さな古い段ボール箱が開けてあって、祖父はその中の、これまた古く分厚いノートを、読むのか読まないのか無造作に捲っていた。箱自体、長年触っていなかったものらしく、換気もしないので、部屋いちめんに埃のにおいが噎せかえっていた。
祖父が顔を上げたところで、ぼくは「何、それ」と聞いた。祖父は「日記」と答えた。
「日記? じいちゃんの?」
「死んだ友達の。そいつの遺言で、おれが貰って良いことになっとった」
「古いね。どのくらい前の」
「さあ。けど、死ぬ少し前まで書いとったか。お前が生まれる半年前に、死んだやつで」
祖父の手もとを見ると、ノートの紙は経年劣化でずいぶん茶色くなっていて、罫線の細い隙間には、少し右肩上がりな楷書の字がびっしりと並んでいた。手直しらしい赤字も見えて、何かの原稿のようだと思ったのを覚えている。
「興味あるか」
ぼくの目に気づいた祖父が言った。ぼくはうろうろと首を迷わせた。
「むずかしそう」
「そうでもない。お前も今少し、大きくなりゃ、すらすら読めるようになる」
祖父は自分で開いていたノートを閉じ、箱に詰めなおしながら「やるわ」と事も無く言った。
「何、箱ごと?」
「ん。読んでも読まんでもええで」
「友だちのなんでしょ。いいの」
「ええわ」
迷いなく言うようだが、ぼくに分からないところに意図があるらしいのは、あきらかだった。ぼくの方に顔が向いていても、祖父の視線は少しずれたところへ流れていった。
「どのみち、おれが死んだら誰も読まん。お前も別に読まんでええ。後へ残したいだけやで」
結局、ぼくは断り切らなかった。まず貰う理由がないのだが、拒む理由も特になく、半ば押し付けられるくらいの気持ちで譲り受けた。しかしその箱は、子ども部屋の押入に場所を移しただけで、また長く日の目を見ないことになる。
二箱。名前も顔も知らない男が書き遺した思い出らしいものが、得体も分からないまま、段ボールに二箱である。人の思い出と思うに、少ないんだか多いんだか、たまに考えていたら十年経った。そこにあることを忘れていたわけではないが、開く機会がなかったのだ。
そしてついこの間、大学に上がる前に部屋を大掃除したとき、そういえばと引っ張り出してみた。貰って一度も中を見ていないノート群を、片付ききらない部屋の中でふと読んで、ぼくは不思議な興味を惹かれた。祖父の言うような「ただの日記」とは言い切れなかったからだ。
改めて祖父に聞いた話では (聞いたら聞いたで、喜んで話してくれるのだ)、日記の主は祖父の幼馴染で、三つ年少にあたる、無名の三流作家だった。名前を原田斗志見という。彼は終戦の少し前に生まれ、ぼくが生まれた年に、五十代そこそこで亡くなっている。無名の名に違わず、作家としては生涯世に知れなかった彼には、細かい記事を書いた雑誌が多少と、ほとんど自費で出した単行本が二冊きり、残っているのみだそうだ。
そんな原田の「日記」だが、ある程度目通しした上で考えるに、これもまた創作なのではないかという予想が、ぼくの中で立ち上がっている。日記は日記らしく、彼の目で見た彼の体験についてのことが、何くれとなく書かれているのだが、それぞれの章段(というより話)は日の区切りで書かれたものではなかった。日付が付いた記ももちろんあるのだが、統一はされず終始曖昧だ。あきらかに意図して組み立てられた文章と、随所の赤鉛筆による直しは、初見の印象と同じく、小説の原稿らしさを感じさせる。それだけを考えても、内容に創作が混じっているのは想像がつく。
というのも、中身の大半は、この目で見なくては信じられない事々、前近代的、あるいは超自然の、言葉を憚らなければ、胡散臭い、霊的な体験を含んだものだった。ぼく自身はそういった、オカルトっぽいことは正面からは信じきれないタイプだが、祖父の言うには、ノートの内容は大概が本当にあったことか、もしくはそれに準じたものということである。祖父もまた、不思議な事ごとに巻き込まれたことは何度かあったが、「何度か信じられないものを見たと思うし、冷や汗もかいたはずだが、信じられないから記憶が薄い」のだそうだ。位置の上では、祖父はほとんど部外者だったとも聞いている。
ともかく、そういった諸々を物語様式に書きつけたのが、あのノート群ということだろう。分厚いノートが全部で三十二冊、それは彼が二十四歳の時点に始まり、享年の頃で終わっている。
ノートにナンバリングはなく、一部の話に書かれた頃と見られる年号が、メモ程度に記されているばかりで、話の順序は内容から予想するしかない。だが一冊だけ、表紙に「一」と雑に書かれたノートがあり、それがいちばんはじめにあたるもののようだった。
以下に続く文章は、原田が書いたものへ、ぼくが加筆を加えて打ち込み直したものである。原田はこの日記────いや手記を、特に他人に見せる気はなかったらしい。自分や近しい人間に分かるようにだけ書かれたようなので、ぼくも理解するのに苦労したところが多々ある。しかし、ぼくのような素人の手入れで、彼の文章が損なわれたらたまらないので、細心の注意を払ったつもりだ。
僕の方こそ、誰かに見せる機会なんて、どこにもないのだけど。
◎
(某年 夏頃と思われる)
あれは一体いつからのことか、詳しいことは記憶も定かでないのだが、物心ついて年経たぬ頃、長い少年時代の中腹時分のことである。
その陰翳は、いつの間に僕の視界の端を、明滅して彷徨っていた。
最初に確と認識したのは、夏の盛りのことである。夏とはいつになっても同じもの、道の奥に陽炎が立ち、蝉どもの木陰にやたらと鳴いて忙しない。歳頃を思うに、夏季は休暇の最中、表へ出るにも蒸し暑いのは嫌いだし、夏らしい陽射しにもまた焼かれるばかりであるから、せっかく元の白さに返した肌を黒くするのもみすみす、厭わしく、僕はそのあたりから逃れるべくして、家に籠ることにしていた。広い家なので奥には数間の座敷があるが、あまり光が差して来ないものもいくらかある、うちのひとつには風がよく通る。表へ出たがらない僕の不健康を、母はうるさく心配したが、僕はこの座敷をひとつの逃げ場とした。母の目が喧しくなりそうな頃を見て、兄や父の書架から持ち出した本を、奥座敷の奥で読み耽るのが、ひっそりと楽しい時代であった。
陽に乏しい部屋は、昼でも薄暗い。その頃から目を悪くしかけた僕は、物置から古い燭台を持ち出して、火をたより、字を読んだ。座敷は自室の倍ほど広い、ひとりで使うには持て余すが、これもまた物置を漁ると、背の高い枕屏風がひとつふたつと出てきたので、部屋の片隅にうまく組み合わせて、手ごろな個室を作ってしまうと、また楽しくなった。秘密基地でも得たような気持ちで、夏のうちは暇を見てそこにいることが多かった。母にはきっと早々に知れただろうが、どのみち僕は聞かん坊である。おかげで読書はよく捗ったし、読書の他の楽しみも得た。字のたよりである蝋燭の灯であるが、揺れる光を、日がな眺めるのもよいものである。さりとても直に見るには眩いので、時には、火からくる赤い影が、ほのかな動きで僕の背後へ遊ぶのを、時を忘れて見守ることもあった。張り替えて数年の障子紙に透ける陰翳は、まったく自分のものではあるが、何か奇妙な魅力を持って、美しかった。果してどうしたナルシシズムか、陰翳を見る都度、夢中な気持ちがどうしても惹起されて、返り難かったのを覚えている。
────なので、感慨に呼ばれた現象と思っても、さほど不思議ではあるまい。ある日、いつものように読書にくたびれ、己の陰翳を眺めていると、その端に、陰翳に同じく薄暗いものが、変則して動くところを見た。
動きは明らかに不自然であった。何がどのように動いたかは、記憶の上に曖昧だが、それは障子に映った僕の影、肘をついて寝転ぶ形の、背中か腕のあたりに見るほのかな波打ちであっただろう。灯の揺らぎとは異なおかしさ。不思議に思い眺めていると、陰翳の一端は裂け、縄状になり、天井のほうへ伸びていくのだが、動く様子は蛇の匍匐に似て、先は蛇の頭の形をした。そのときは呆然と、半透明で平らな蛇をどこかに見送るばかりであった。
次に見たのはほんの数日後、やはりその小部屋の中である。蝋燭の火により障子紙に透けた影が、不思議に動いて、やはり蛇の形をした。今度は、爪の先ほどの障子戸の隙間から、音もなく外へ出ていくのであるが、どこへ行ったものか。戸を開けると、蛇は消えていた。
当初のような蛇を見たのは、通して五回ほどであった。なぜ蛇の形か、どこへ行くのか、ついぞ知れない。
やがては、数日をかけ、陰翳は所構わず化けるようになり、僕からまったく分離した位置に現れはじめた。
家の裏手には山があり、庭から直に入ることができるのだが、少し奥へ入ったところにごくなだらかな所があって、そこには亡き祖父が余興で設えた藤棚と長椅子があった。あの奥座敷と同じく、森ゆえの涼しい風が通るので、家にいるのに飽きると、そこまで出ていくことがある。
あるとき、その短い道中でのこと。歩いていく途中、足もとを何かの掠めた感触があり振り返ったところ、今来たところに暗い輪郭の、兎の姿が、跳ねながら遠ざかっていくところを見た。薄ら暈けたあの蛇の同種かと思いながら、何ともなく不思議な兎を見つめていると、あれは不意に立ち止まるや、ひととき、僕を振り向いたようであった。遠目ながらに、その長い耳のあたりの稜線が、影らしくぼんやりしていた。同様に覚束ない目もとには、やさしい暗闇が控えていて、僕はそのすべての様子に、謂れなき眩暈を覚えるのだ。そこからやがて立ち返ると、兎は姿を消していた。近くの叢にでも、紛れて行ってしまうのか。
あるときは、食事中に眼前を紐が過ぎたかと思うと、それは蛇の形をした陰翳であった。またあるときは部屋の隅に、猫の形の陰翳が丸くなっていた。
あれは玄関先から浴室から、果ては厠にまで現れたし、また時を経るごとに、陰翳の取る姿も多彩を極めた。
そしてそのさまは、父母や兄にはまるきり見えていないのである。教えてやろうかとも思ったが、これ以上の奇人になりたいわけでもない。この影については、僕ひとりの秘密に止めておいた方がよいと思った。
陰翳は、僕から生り離れた存在なのだと、その頃は勝手に考えたものだった。あれは僕から解き放たれて、そこらを悠々と動いていた。当初、影らしくおぼろだった輪郭も、次第にはっきりと目に映るようになり、いつ頃からか、他の野良動物と一緒に見ても、遜色ないまでに成長していた。しかし影はやはり影である、モノクロームの世界から、ひとり抜け出してきたかに見えて、あるいは色彩あるところへ、突然黒インクを一滴垂らしたか、陰翳は潔く、ただきっぱりと黒かった。その黒色が、いつでも僕にとって好ましい。
しかしあれは、見えども触れ得ぬ、近くも遠いだけの距離を、僕に対して保ち続けた。僕が寄るとあれは離れ、逆に僕が離れるとあれが寄る。必ず視界のどこそこかに滑り込むのがかの陰翳。付かず離れずを体現したこの空間は、物足りなくも心地が良い。あれは決して僕に触れず、僕もあれに触れることがない────かなわない。互いが互いの目を楽しませるための存在としても過言ではなかった。少なくとも、僕はそのように考えていた。
陰翳との奇妙なやりあいは、当初のひと夏が過ぎてもなお続いた。学期が始まり、外へ出るようになると、陰翳は学校や通学路にもたびたび現れた。同級の徒にも無論、その姿は見えていないようだった。
秋が過ぎて、冬が過ぎ、春が、夏が訪れても、生きて動く陰翳は近い遠くに留まっていた。それから数年にわたり、あれは僕の世界のただ中を永くちらつき続けた。
けれども一度きり例外らしい機会はあった。僕からあの陰翳へ、直に接する機会である。
確か中学の三年か、高校の一年かの夏(僕と陰翳とは夏に所縁があるらしい)、裏山の藤棚へ、読書の用に赴くところ、途中にあれと遭遇した折のこと。
陰翳は、陽の差す茂みに蹲っていた。はじめ見たときにはどんな形をしたものか見えなかったが、珍しくあれは微動だにしないので、姿の何たるか見定められるまでに、近づくことができたのである。
僕の足許に、あれは小さく縮まっていた。見るに野犬の出で立ちが、その右前脚に、とらばさみに似た罠が喰いついていた。明らかに肉までを喰わせた傷口からは、血が、赤い血が、河をなして流れた。得体の知れぬ陰翳もまた、身に血の巡る生物かと、心中に驚いた覚えがある。
陰翳は僕へ見向きもしない。畳んだ脚の痛みに耐えるようであった。肘関節と手首の間のあたりに傷はある。毛皮は暗く深く濡れそぼる。あまりの痛ましさ、傷は直視に堪えかねたが、陰翳の生物としての姿は目新しい。不快と高揚とを同時に覚えた奇妙な心もち。手を伸べたらば、この不思議のものに触れることができる距離。
しかしその心は内へ止めた。代わりにひとしきり陰翳を見つめてのち「外そうか」声をかけた。人の言葉が理解されるかは知らなかったが、このとき、陰翳は少なくとも僕の言うのには反応した。黒い面が不意に僕を向く。獣の目を模す、深々としたやさしい暗闇を、僕は初めて正面に見た。瞳ともつかぬ瞳の奥に、見てとれたのは頑とした孤独であった。角度のするどい視線を受けながら、固唾を呑み呑み、しばらく待つと、陰翳は獣の面をまた俯けた。獣の表情など知らないので、頷かれたのだと思うことにした。
陰翳の手負いの脚を見るに、傷口は脚を一周、取り囲んでいた。傷の脇には、血が毛皮を巻き込んで固まりかけていた。よくよく見ると羽虫さえ集らんとしているのだから具合は悪い。すっかり錆の浮いたとらばさみへ手をかけると、思わずして傷をつついたか、陰翳の身が跳ねた。「じっとしていろ」と言うのだが、素直に聞く犬ではない様子であった。
とらばさみの罠は、外すのに無理な力が要った。根深い錆に見合った年だけ、放置されていただけはあった。よくぞこれまで、誰も踏み抜かなかったものである。しかし、僕の力でどうにもならないほどではないので、時間をかけて、ようやく罠の口を開くと、陰翳は素早く脚を引き抜いた。罠は太い木の枝に噛ませて、もうずっとそのままにしてある。持ち帰るわけにはいかない。
脚が自由になると、陰翳は僕から距離を取るべく立ち上がろうとした。しかし、手負いのために均衡が取れない。どうにも身体は蹲る。無論、痛みも酷かろう。陰翳は首を窄めて痛みをどうにか堪える様子、しかし警戒めいた、張った態度は解くこともない。陰翳は不愉快をあらわしていた。それらしくないとばかり僕は思った。
「膿むな」
ひとりごとの風情で言った。「傷、きっと膿むぜ」陰翳は小さく反応した。脚を向いていた視線は僕へ移る。目もとをわずかに顰める。暗にどうしろと訊かれたように思った。僕は思考した。
「手当てのひとつ、してやるさ。どうする」
陰翳は怪訝を表したが、しばらくのうち考えた様子、頷くのか俯くのか。
そもそもこれは、僕に直に関わるつもりなど微塵もなかったらしい。加えて頑固者でもある。見るからに歩けないので、抱え上げて家まで連れて行ったのだが、あれは何とも不貞腐れた態度で身じろいだり、唸りを上げたり、時に無事な方の脚で僕の背中を蹴るなどした。
その日家人は留守であった。それを知ってのことである。陰翳の脚よりの血で床を汚すわけにいかないので、新聞紙とタオルとをいくらか無駄にした。手当と言っても簡単なもので、ガーゼを宛がい包帯を巻いただけであるが、陰翳は特段に何も言わない、当時は話すかどうかも知れなかった。消毒液をやるのにはさすがに痛んだらしいが、そうでなくとも、あれは延々、大なり小なりの不機嫌の不機嫌を表した。不満があろうと知れる。降ろされた縁側から動かず、憮然とした様子も隠すことなく、その面の眉間には小さな皺が見えた。何と顕著な表情であるか。
「なあ」
呼んだとても黙殺されようと踏んだが、意外にも陰翳は視線で応じた。
「傷はそんなに痛むか」
無論畜生らしく返事はなかったが、あれは当然とばかりに小さく頷いた。そしてすぐに目をどこかへ逸らした。
置物のようでいる陰翳の傍らに、黙りこくるのも退屈であるから、僕はそのうち陰翳といくらかの対話を試みた。さりとてあれは畜生の形なので、首肯するか首を振るかに返事の落ち着く、簡単なことしか訊かれない。しかしあれも退屈するのは同じようで、僕を無視することはなかった。平素物を喰うかと訊くと頷き、睡るかと訊いても頷いた。また喋るかと訊いてみると、逡巡したのち首を振った。何にしてもならぬようであった。
また、まことに何ものにも化けるかとも訊いた。陰翳の形は僕がそれまでに見ただけでもさまざまであったから、概ねあれも頷くだろうと踏んでのことである。しかし陰翳は長く考えてのち首を傾げた。僕もまた少し考えた。
「何でもと、いうわけにはいかないか」
陰翳は今度こそ頷いた。それまでに僕が見た陰翳の恰好は、蛇、兎、猫、蜥蜴、鼠に烏、野犬である。何れも普段に見かける動物なのだが、陰翳は見たものを形の上で模倣するものと僕は考えた。
「なろうと思えば人にもなるか」
思いつきから呟くと、陰翳は野犬の耳をわずかに動かした。僕をつと向いた墨色の目の怪訝な趣きは、存外に多くを物語る。あれは肯定も否定もしないが、暗にそうせよと望むのかと、無言のうちに訊ねるようであった。僕はすべて汲んでやった。
「お前が人なら、話のひとつ、しやすかろうと思っただけさ。今で不都合はない」
互いにそれなりの疎通は成っていた。言葉が加わったところで、対話がより詳らかになるだけのことである。
何より、僕と陰翳とのこれまでを思うと、互いに不接触を貫くことの不文律は、怪我が癒えたらば元に戻るだろう。対話は陰影が手負いのうちに限られたものに相違あるまい。一時のことであれを縛る道理は、僕にはなかろうと考えた。
その意は理解されたか、あれは特に何を訴えることもなく、視線を外してどことも知れぬ方へ面を向けた。
陰翳は、痛みが収まるまでは大人しくしようと考えたようである。野犬の形を保つままに、四日ほどあれは屋内に身を潜めていた。姿は家人の誰にも見えぬ、けれどもあれは気配を避けてか、誰も覗かないあの奥座敷の隅に、じっと黙っていた。あれとは以来数度対話した。取り留めもないやり取りばかりするうちに、あれはいつの間にか傷を治していた。そして僕の手の届くところから、いつの間にすっかり姿を消した。視界の端に居所を戻して、ちらつくばかりのものになり、野犬の形も自由に解いて、蛇になったり猫になったりした。近づくことも遠ざかることもなく、見えはしても触れはしない。不可侵はそこにまざまざとあった。そうあっては僕も、あれに声をかける気にならなかった。思った通り、あの四、五日の会話自体が、そもそも殊なことであったと、考えるより他になかった。
陰翳にさして変わりはない。ただ動物の恰好で、あたりを徘徊するのみである。
ただ折に触れて、化ける形が多少増えることはあった。ささやかな発見と思うと悪くないが、やはりそのほどの関わりである。付かず離れず、互いが互いへ触れ得ぬとあっては、あの陰翳は景色の中の同居人に他ならない。奇妙な同居人である。
十代の一時期を無為に過ごすうちに、陰翳と真向から視線を取り交わす再びの機会は、ついぞ得られなかった。
後に、僕は進学に伴い上京した。地元は近畿なので、家には余計に金を遣わせた。当然、独居のため下宿を取ったが、しばらくののち、視界の端にかの陰翳がいないことに気がついた。傍らに気配が足りないのだ。土地を離れることは、あの距離にあったならば陰翳とて知るところだろうが、あれは自ら残ったのか、知れない。地元は緑豊かで過ごし良い田舎であるが、較べれば都会はせせこましい。たとえ慣れても窮屈だろう。また陰翳がいないからといって、特段、僕には何もなかった。賑やかしが抜け落ちたので物足りないけれども、それだけのことである。思えば、初めて陰翳の蛇を見たのはその頃からみて八年ほど前だ。突然にいなくなるには、陰翳は僕の世界に溶け込みすぎていた。けれども本当に、それだけのことであった。
不自然にはしばらく苛まれたものの、ひと月、あるいは一年も経つと、感覚は薄らいだ。僕はそれからの数年を、陰翳を忘れて都会に暮らした。
実家に余分な金がいくらもあることは知っていたし、いつまでも東京に留まる気はなかったので、大学を出ても仕事には就かなかった。しかしすぐに帰るのは面倒で、続く仕送りをたよりに、向こうで細々と物を書く生活をしばらくした。父の訃報が届いて帰郷したのが、ある年の夏のことである。郷里を離れてからというものろくに帰省もせず、老父の顔を最後に見てから四年ほどを経ていた。物言わぬ死人の顔を眺めつつ、世に言う親孝行もしないうちにと、殊勝なことを考えるうち、父の葬式は終わっていた。兄は外せぬ仕事があるのでと早々に帰ってしまったし、僕はといえば、久しぶりに戻ったのだからと母にせがまれ、数週ほどは居続けた。息子が帰ると母は孤独だ。寂しかろうことは僕にも知れた。
最初の数日は片付けで忙しくしたが、段落つくと暇である。懐かしい近所を回るにも飽きて、母から何か言いつからない限りは家にいた。やたらに大きかった家は、数年前に減築したせいか、幾分狭くなっていた。当て所なく回ったり、自室に残した本を眺めたりなどしていると、特に意味もなく時が経つ。
そのなか、ふと思い立ったのはいつのことか、少年時分に入り浸った奥座敷が懐かしくなり、久しぶりに読書でもと、考え付いたのである。間取りが多少変わっても、奥座敷は必ず日陰になる。光の少ない薄暗い所であった。障子戸を開けたところで変わらないのには安心したが、何に対したものであったか。知らぬうちに変わっていくもののなかに、唯一、不変を見出した喜びだろうか。
不変というと、僕はそこで初めて、数年ぶりに陰翳を思い出した。あれもまた、僕が眺めた十年近く、ほとんど不変を保っていたが、一体どこへ行ったか。実家に戻ってからは一度も、視界の隅に薄暗闇を見つけることがなかったので────ひと匙の不思議を、際限なく投じ続けていたあれのこと。思うにつけて、何より懐かしい。
奥座敷には誰もない。物置同然であるが広いので床は余る。昔に籠るのに使った燭台と枕屏風のいくらかは、一番大きい物入れの隅に、当時のまま仕舞われていた。
数年。月日は長い。床間の古い壺などは、上に埃が積もっていた。しかし件の枕屏風を引き出したとき、舞い上がるものが思うほどなかったのを、僕はふと訝った。最近になって出されたのだろうが、一体誰が。父母は僕が興じた秘密基地の遊びを詳しくは知らぬはずであった。僕が陰翳と邂逅することのできる場所であるから、幼心に秘匿を試みたのだろう。易々と、ひとに知られてはならなかったのだ。
晩夏の日陰は涼しいが、それ以上の感慨を僕は得られなかった。日暮れに近づき、蝋燭に火を入れても、陰翳の姿は現れなかった。
その晩である。
僕は奥座敷の隣、病臥の父の寝部屋を宿に宛がわれていた。少年時代の自室より広いのがいつまでも慣れず、妙に目が冴えて、長く灯りを落とすことができない毎夜である。
時間を持て余すと、僕はいつも本を読んだ。すっきり冷たい意識と裏腹に、身体ばかりが眠たがるものだが、その日、疲れた両耳は突如、近くに物音を聞き取った。
どこで鳴れる音だろう。夜盗か、あるいは野良猫か。身を起こすと再び、今度は何かを引きずる音がした。隣室────奥座敷から来れる音のようであった。
僕は素直に怪しんだ。音の出所を突き止めた方がよかろうかと、立ち上がる。それが本当に夜盗の類ならばどうするつもりか、そんな心配はしなかった。
忍び足に部屋を出て、隣室へ目をやると、部屋の電気は落ちているのに、それより他に薄ぼけた、炎の光があるらしい。蝋燭でも使うような、風のそよぐほどに揺れる仄かな光、いつか戯れた見覚えのある灯りが、夜中、姿なき月灯りの下の、障子のうちにひらめいていて、向こうにひとつの気配がある。家族のものとはまるで違うが、不審を覚えることはない。
僕は僅かに息を呑む。障子をそろそろ開けたところ、静かな部屋の片隅に、枕屏風を仕切りに立てた小部屋がある。僕が昔に作ったのと同じ形で、光はその向こうにいた。近寄ると、枕屏風はもう僕の膝までしか届かぬ高さであった。向こうを覗き見るのは容易である。
────上から見下ろしたところには、蝋燭のもと、丸く横たわる獣の毛並みが薄く輝いていた。野犬の形の陰翳が眠っているのである。
吸った息を、吐くのを忘れた。
確かに過去へ置いてきた、あるいは置き忘れてきた、翳りの柔らかな生物の姿が、またも手の届くところに落ちている。この野犬、僕が家を去ってから、延々ここに留まっていたのだろうか。帰って以来、陰翳は僕の目の届くところへ現れ出はしなかったが、どこかへ行って、今戻ったのか。
ともかくにも湧きあがる疑いはあったが、僕はそれぞれに回答を持たなかった。真夜中、しんと涼しい空気が、重く沈んでいく感覚が皮膚のうちにあった。混乱は色濃くも、光なき陰翳の毛並みを眺めるほかはない。寝息ともつかない規則的な呼吸音が、滑らかに大気をすり抜けていく。陰翳は陰翳らしくありながら未だ生命のようであった。
僕はかつてのように、あれに声を掛けるべきか否か逡巡した。今なら気づかれぬうちに立ち去ることもできるからだ。その存在を思いのほか呆気なく忘れていた僕が、またある程度の気安さを持つのは気が引けて、口をひとつ喉をひとつ、動かすことにも迷うほどであった。我ながらあまりらしくないことを思った。他人事としたくとも難しい。
しかし僕の動くのがあまりに遅いのでいけなかった。ある一瞬、陰翳が小さく身動ぎ、目を覚ましたらしいことを僕に教えた。犬は重く頭を擡げ、薄い目蓋のわずか奥から、冷えびえと冴えわたる、重い闇に満ちた瞳で以て、僕の目を、じと、射るように仰ぎ見た。闇は夜より深く、また暗く、僕など容易く呑み込まれそうな錯覚を齎すので、恐れは鮮烈に背筋を上り、ひ、と喉に妙な音が通る。咄嗟に身を引いたら、畳に足を取られて尻餅をついた。それなりの物音が立ったように思ったが、寝ているはずの母が起き出した気配はなかった。
陰翳が枕屏風の向こうからこちらの様子を見に出てきたことにばかり、僕は気を取られた。屏風越しの蝋燭の灯は、陰翳の墨色の輪郭を浮き彫りにするには、あまりに明るい。不思議な像に見惚れたわけではない、犬の瞳の暗色に囚われたようになって、身動きままならぬ錯覚を得ていたのであるが、僕は陰翳の、睨みがちの視線の内に、身動ぎするのがどことなく気まずく、しかし沈黙もまたむず痒く思った。「久しいな」固い喉からそれきり搾り出す。陰翳は凝と黙っていたが、僕を捕まえる視線が僅かに緩んだ心地があった。張りつめていた肺のあたりから少しの呼吸を得た。
「お前、ここにいたのか。姿が見えないので、どうしたかと」
陰翳はそっと僕から目を逸らした。無言のうちに認めがたい肯定がある。僕が居所を移したことを不満に思うのか、あるいは単に驚いたのか、それとも移ろうこともまた節理と取って沈黙を貫くのか。父が死んで僕が戻ったことにも、同じようなことを思うのかもしれなかった。
「話す用意も、まだ整わないか」
奴は変わらず無口だが、今なら何ごとか訊いてもよいものと僕は踏んだ。怪我を見てやったときのように、互いの距離が狂うとき、僕と陰影とは対話を持つことがかなう。陰翳はいつかのように、露骨な怪訝を表して僕を見た。何れにしても目でばかり多くを語ろうとする犬である。さしずめ、同じことを訊くなと言うのか、あるいは分かりきったことをと呆れるのか。「いや────」僕は首を振って、己から陰翳の目の、深い闇を覗いてみた。
「互いに、正確無比な遣り取りも悪くないと思っただけだ。無言の相手に話しかけるのも、なかなか、空虚でね」
陰翳の瞳の内で、黒々としたものがふと動いた。僕の言葉に何かの思うところを見出したのだろうが、これもまた憶測であった。思えば延々、陰翳に対しては憶測を働かせるばかりで、僕はあれのことを何ひとつ知らない。それを初めて、少しでも不満と思ったのはいつだったか。
陰翳は僕を見て、かと思えば何か考えを巡らせるらしい、迷いとも惑いともつかない曖昧な表情であるが、陰翳のそんな様子は初めて見た。やがて野犬の喉のあたりに、何かの転がる動きがあり、何がそのように動かせるか、注視した僕の手前、陰翳は獣の唸りと呼吸とを幾許か漏らし、その隙間で、ひとつの単語らしい音を、こちらに向けて絞り出した。
「敢えて、強く望むならば」
陰翳は最初にそう言ったはずである。
薄く開いた獣の口から聞えた声は、年頃にして少年を思わせるものだった。どこかしら険のあり、複雑な、しかし低まりきらない滑らかな声である。陰翳の孕む、あわいに落ち込んだ空気と奇妙に合致した。
「人らしく語るのは難しい。この形では、何といっても、機構が違う」
そこまで言うと、野犬はまた喉を転がす。声は途中からほのかに濁る。
「なら、形を寄せたらいい。話ができるなら、化けることも難くはないだろう」
「勝手なことを言ってくれるな」陰翳は溜息さえするらしい。「人の形は取ったこともない」
「やれるだろう。第一、その野犬にしたって、今じゃずいぶんさまになっている」
「この恰好でも問題はないだろう。なぜおれをそうそちらへ寄せたがる」
陰翳はいつもの不機嫌を顕す。喉に何かの絡まるような音は、話すたび声によく混じる。苦しくも聞こえるが、陰翳はさして気にしない様子である。僕はそのさまを見下ろしていた。座していても僕の方が、野犬の陰翳より背が高い。
「何、半分は実に好奇心さ。どんなものか見てみたい。それに」
存外に近くにいた陰翳へ手を伸ばした。逃げないので頭を撫でると、数秒置いて、あれはかぶりを振ってこれを拒んだ。
「その形ではいかにも犬として接したくなる」
「それは御免だ」
「そうだろう」
その態度から、あれの気乗りしない様子はありありと見てとれた。けれども、妥協するのか観念するのか、ふたたび深く溜息すると、陰翳は僕の前に首を垂れた。
丸みを帯びた背に広がる、薄暗がりの毛皮がわずかに、しかし確かに震えるのを僕は見た。単なる震えというよりは、輪郭のぶれのようにも捉えられたが────そのとき、犬の獣毛のひとつひとつが、細やかな毛先から渦を巻いて揺れた。すべては風に震う葦のざわめき、その内よりのほのかな微風は、夜の空気へ波と及ぶかと思うや、陰翳の黒い毛皮の覆いは、燃えたところの灰が如くにさんざめき、微風に乗ってちりぢりと散った。陰翳はただ目を伏している。奴の足許から胴、胴から頭、水が布に染みるほどの速さで、剥がれゆく灰の流れは総身を覆った────やがて、黒い灰らしいのは足のあたりから順繰りに晴れた。その下からは、何ら人と変わりない、しかし血の気の限りなく失せて、それでも恐ろしく流麗な形の、一対の白い脚が現れた。
それからほんの数秒のうち、一石投じた湖面さながらに、体のおもてを波立たせた陰翳は、内側へ華奢な少年を象るや、蛹を破る蝶の加減で、前脚、否、腕を上げ背を起こし、灰を脱ぎ捨てた。文字の通りに、羽化のようであった。
現れた陰翳の肌には、温かみらしいものが一切なかった。美しく白い陶磁器、あるいは真新な紙の色。そしてかつての毛皮と同じの墨色の髪を、深く俯けた顔いっぱいに溢していた。のっぺりとした体の周りには、先に霧散した陰翳の灰と思しいのが集まり、真白の体を包んだかと思うと、数瞬と経たない間に、幾らか寸足らずの薄い和服が顕れた。服は肌の上に、髪とまったく同じ色をしていた。
一連の変身がおさまる頃、さまに見惚れた僕をよそに、少年は造りの精緻な顔を持ち上げた。黒い衿元から細長い頸が伸びている。顎は、頬は、生物らしからぬ淡い曲線、夜闇のうちに仄白く、ひっそり浮かぶ。少々丈を長く取られた細い前髪は、じっと伏せた双眸の上に降りかかり、まばらな影を落とした。
見る限り、確かにそれは人というより、人形に近い質感の印象であるが、しかし陰翳は実に巧みに化けていた。あれが元来持つ、はるかに浮世離れした雰囲気をそのままに、ただ形だけが人間に変じていた────その心もち切れ長の目がはっきりと開かれたとき、瞼の奥に、僕の親しんだあの闇が、とろみのある瞳が、髪の隙間に僕をじっと覗いている。
「それで────」
少年になった陰翳は、そこだけ僅かに色のある薄い唇を開いた。僕は我に返る。
「いったい、どうだ。何か面白みでもあったか」
初めて人になった姿、その目を、僕はじっと見返した。表情の作りも何も知らぬていの、人にしては静かな顔である。瞳のうちも、深い暗がりが広がるばかりで、瞳孔も何も見当たらない、しかし硝子とするにはあまりにも澄んでいるので違和が残るが、それすら何ともそれらしい。
「自分で言うほど悪くないじゃないか」
僕の感想は正直だったが、陰翳は己の薄く、しかし幾分男らしく骨の浮いた掌で、己の造形を確認するらしい、ひたひたと頬に触れ首に触れ、少々華奢な腕を手を矯めつ眇めつ、「────そうか」所作は娘子を思うほどに幼気であった。
「思ったより貧相な形だ」
そして眉間に皺が寄る。不機嫌の顔は野犬のときとさほど変わりない。やはり陰翳と思うに併せて、微笑ましいものを見た気になった。
「困らないだろう。誰に見せるでもないのだから」
「それもそうか」
陰翳は溜息をつくと、危なげに立ち上がった。均衡を測る最中と見えて、幾分よろけたがほどなくして直立を保ち始めた。────そうして、座ったままの僕を見下ろすのだが、蝋燭のある方を背にして立つので、夜のうち、こちらへ深い影が差すのだが、見えるものは暗い、僕の身のあるところも暗い、さながら陰翳に呑まれる心地である。
「お前が戻ってくるとは、思っていなかった」
静かな声が、冷えた空気に解けていった。陰翳の瞳もまた淡々と静かだ。この種のものには見惚れてしまう。初め陰翳が陰翳として、僕の影から剥がれるより前、日がな眺めた己の影のことも、よくよく思い出された。翳なるものは、ただ僕の目には美しい。
「親の葬式だもの。呼ばれたら戻るさ」
「呼ばれなければ、戻らんのだろう。葬式だって、どれだけ大事か、知れている」
陰翳はまた、白皙の眉間に小さく皺を入れる。「それは、面倒は面倒だけど」僕はあれに嘘を吐く気になれないのだが、あれとてそれは同じようである。
「ずっとここにいたのか。僕が越してからもずっと」
改めて訊くと、陰翳は今度こそ首肯した。
「他に行くあてはない。動く理由もない」
「ずっとひとりで」
「そうだ。ひとりでなかったことなど、あまりない。しかし、幾分退屈だった」
陰翳はそっと目を細める。
「お前がいるうちは、目を追いかけていれば日が暮れたから、それでよかった」
「ああ、────お前は、一体何を思って僕に付き纏った。僕にしか見えないのだから、幽霊のようなものと、思っていたが」
「それは、そうだ。おれは幽霊のようなものだ。幽霊は、人にとり憑くものと、相場が決っているんだろう」
「ではなぜ、こちらについて来なかった」
「おれは幽霊のようなものだが、幽霊ではないからだ。気まぐれにそれらしくなったり、ならなかったり」
そればかりは、はぐらかしだと僕にも分かった。少し視線を遊ばせたので────そしてふと、あれはわずかに首を傾げて僕を見た。
「お前は、この先はずっとここにいるのか」
「ああ、しばらくは、そのつもりだ」
「そうか」
そのとき、陰翳の口許に、ごく、小さな微笑みらしいのが、はっきり浮かんだ。そう思ったらその時には、あれは僕の方へ一歩寄ると、膝を折り、僕に視線を揃えた。陰翳よりのものか、鼻先に甘苦い匂いがしたが、あれは白檀か何かの種類のものと似ていた。慣れた遠さを思うに気が引ける至近であった。少年の肌に、髪からくる濃い陰翳が映える。奥には瞳よりの、より濃く深く、澱んだ清らな暗闇がある。
「では、今度こそ見失わないようにしなくては。おれはお前の足許にあるものだ。当のお前がいないのでは、話にならない」
「とり憑こうとでも言うのか」
「少し、違う。おれは幽霊ではないのだから」
陰翳は同じことを、一分の澱みもなく言うと、「おれは影なのだから。実あるところへうまくついて行くだけだ」取り縋るように僕の腕に触れた。その掌は、生きている何ものかのものにしてはずいぶん冷たかった。
昔日、夏の夕暮れ、薄暗がりのあるこの部屋で、障子に浮かぶ僕の影の背が二股に裂けて蛇になった風景は、幾度となく、また際限もなく頭に浮かべたものだが、その幻視が再び僕の遠い目の前を、淡い陰翳とともに支配していく心地であった。「お前は」僕は多少の眩暈を覚えながら、近くの陰翳の目から目を逸らすことができず、ただ、あれにたびたび感じていた妙な親しみについて、いっぱいの頭の中の、ほんの隙間で考えていた。
「お前は一体、誰なんだ」
僕は遂にそう訊いた。すると陰翳は今度こそ、僕の目線の僅か下で音もなく笑んだ。
「ただ、影だ。それより先をおれは知らない。考えたこともない」
お前はどう思う。陰翳はそのまま首を傾げた。僕が何か言うのを待つばかりで答えをくれなかった。それでも僕には、背中の上を、わけもなく、不明な種類の冷たいものが滑り下りていくのを覚えていた。不快ではなくてある種の昂奮に近かった。
「では」
幼時の幻に唇を噛み、ひと息を呑んだ。
「お前は僕だな。僕から生って、離れたのだ。そうでなければ、説明がつかない」
言葉にしてしまうと、口に出したもののそのものに、体を縛られる心地がするのはなぜだろう。しかしそれ以前に、陰翳はもとから、僕の中に何らかの形で、深々と根を張っているに違いなかった。根拠はないまでも、僕は奇妙に確信している。
「そうか」
少年の形をした陰翳は、僕の肩の許で満足を得たようであった。
「おれはお前の身から生り、分かたれたものであるか。ならばそのように捉えよう」
────それで明確に、互いの由縁が形を成したようであった。陰翳はこれを、僕を繋ぎ止める縄か鎖か、然様なものとすることに決めたらしかった。
というのも、僕が今まさに、そのように思ったのだ。あれを今、僕と礎を同じくするものとして捉えるならば、あれが僕と同じことを考えない理由はないのである。
これはやはり僕の陰翳。うつくしい記憶の鏡。
(略)
◎
(別記)
あの陰翳に、付かず離れずのうちに縛られていられる期間は終わったのだと考えた。あの夜中、僕の腕に静かに巻き付いた冷たい細腕が、何とも言えず忘れ難い、けれど僕はあれを思う都度、何と言ったら良いものか、そう、幼い子供が、目当てかあるいはそれ以上の人形を手に入れたときのような、あまりに即物的だがそれほど単純ではありえないはずの、妙な昂ぶりを覚えてならない。あれは、確かに一度忘れて、しかし思い出し、再び目の当たりにした幼時の夢である。過去ゆえに幻然とした非常の象徴、今また手に入れたく思ったとして、本来は彼方にあるものだ。それゆえに僕は陰翳をこれ以降手離そうと思い得ず、またあれとて同じことを思うだろう。これで、僕はあれからいよいよ逃げられない。
それだけを、今ぼんやりと考え至ったところである。
◎
祖父の話では、そうした経緯で原田のもとに居ついた陰翳の少年は、まさしく祖父にも目視できたが、一方で、原田が幼少期にあちらこちらで見かけていたとある、様々な動物の姿を取った状態の陰翳の姿はというと、それらしいものは一度も見なかったそうだ。そのことはまた別なところに書きつけられているので、追ってまとめていけたらと思う。
祖父は、原田が地元に戻ってきた頃、旧友である彼を何度も訪ねていた。そのたび、家の中に陰翳の少年を見かけたとかで、あの歳頃の子どもが原田の家にいないことを知っていた祖父は、当然ながら不審に思ったそうである。まだ存命していた彼の母が不在の折に、少年について自分からは言及しない原田に「あれは何だ」と尋ねたところ、彼は「とても長い話だが」と前置きし、先に載せたような内容のことを(ただし全て口頭で)語ったのだそうだ。
「そういうわけでひとり増えたんだ。母さんは知らないから、黙っていてくれよ」
原田があまりにも澱みなく語るので、祖父はこれを彼の空想癖のたまものではないかと少しは疑った。しかし現実に少年の存在はあるからそれ以上のことはしなかった。
「突飛な話だが、本当なんだよ、信じなくても結構だけど。土台無理だろう」
原田がそこまでため息交じりに語るのも珍しいことだったと祖父は言っていた。原田はそもそも、自分の世界を大事にする人間というのか、自分の世界しか大事にしていない人間とするべきか、そういう性格をしていたらしい。それを思えばこの話も、たとえ創作だろうがそうでなかろうが、もっと問答無用然として語りそうなところが、妙に言葉に気を遣われているという違和感が、祖父にはあったようだ。本当は自分の夢の話に収めておきたいような非現実のできごとが突然、自分はもちろん祖父のような他人にも手の届くところに落ちてきたので、きっと困惑したのだろうということだ。
そのあと、原田は喉が渇いたからと席を外し、ひとりでしばらくその部屋に残された祖父は、何となく、原田から口伝された話をいくらか噛み砕こうとして、じっとあれこれ考えていたところ、ふと気づくと、背後、襖のあたりに人影があるのに気がついたという。
振り返ると、そこにいたのは件の陰翳の少年だった。顔をはっきり見たのは、それが初めてだったというが、磁器人形のようにつるりと白い肌、恐ろしく整った顔立ち────少年は、原田が形容した通りに、冷たく深い闇をその目に湛えて、祖父の姿を捉えたという。その目に見られていると思うと、まるで金縛りにでも遭ったか、体が凍りつく心地がしたそうだが、しかし威圧ではなくて、存在を理由なく恐ろしいと感じるような、根拠のない感覚だったと、祖父は言っている。
少年は、まるで何かを見定めでもするかのように、祖父をしばらく見ていたが、やがて多少の満足を得たか、僅かに口の端を持ち上げて、ふと笑った。その意図を祖父が掴むより早く、少年は踵を返し、足音もなくいなくなってしまった。
見送ってからしばらくして、全身の力が抜けたことに気づいた祖父は、急に原田の「突飛な話」を真っ向から信じる気になっていた。しかし、人にない気迫を目の当たりにしたこと以外にも、理由があると言った。
「笑い方がな。あいつと斗志見とでまるで一緒で」
「笑い方か。顔じゃないんだ」
「顔のつくりはさほど。強いて言や、目の形が似とるなあというくらいで」
原田はほとんど表情の動かない男で、顔から思考を読み取りにくいこと、この上なかったそうであるが、それでもたまには笑いもする。とはいえ、少し口の端を自然に持ち上げた程度の動きに過ぎず、あまり分かりやすいものではなかったらしいのだが、それと全く同じ動作を、祖父は陰翳に見たという。
ずっと後になって、貰い受けた原田の手記を初めて読んだ際、原田が陰翳を「僕だ」と決めたのも、分からない理由ではないということだった。
陰翳の少年は「山犬」と呼ばれた。
また別の記述にはそのようなことが書いてあった。原田が初めてまともに会話をしたときの陰翳の姿が、野犬であったことに由来するのだそうだ。
祖父の言うことと、原田の手記とを見る限り、山犬はその後、原田が亡くなるまでその傍らを離れなかったらしい。その三十年余りの間、少年が姿を変えることはなく、原田がどこへ行くにも着いていく様子だったそうだ。しかし原田が死んで少しすると、山犬は煙のように姿を消し、以来誰も、彼を見たものはないという。
実際、祖父も山犬を見なくなって久しく、きっと消えてしまったのだと言っていたが、原田と違って生死が分からないので墓などもない。山犬が存在したことを証明するものは、周囲の人間の記憶と、原田斗志見の手記に止まる。
「残しておいてやりたい」と言った意図を、祖父はあれ以上詳しく語ってくれなかったのだが、単に山犬という非常の少年が、原田の生涯において大きな位置を占める存在というのを知っていて、しかしそれが後世に残らないことを惜しんだのではないか。だからその存在と、作家として世に残ることがなかった哀れな友人の一生とを、ぼくにも印象づけようとして、あの手記を譲ったのではないか。とはいえ、本当のところは分からない。祖父にもう一度聞くのも気まずいので、きっと永遠に予想止まりだ。だが、原田がこの手記を残した理由ともかみ合うし、祖父は彼の思うところを理解し、協力したのかもしれない。祖父は山犬のことを、「愛想がないだけの良い子だった」と言っている。
そして、祖父(と原田)の目的はおおよそ達されているとしていいだろう。ぼくはこの、誰も知らない内輪の記録を見て、多少の興奮を禁じ得ない。こうして原田の記述をいくらかまとめ直している間も、次を読みたくて、何だか全てを知りたくなって、仕方ない。今ではなくても、この書きものがいずれ、誰かに読まれることがあればいいと思ってはいるのだ。ぼくもまた、記録と名の付くそのものが、時間や何やに埋もれて忘れ去られていくのは、興味関心を抜きにしても、忍びないと思う。まして、そこにしか息づくことのできない存在を知ってしまっては。
また、あるいは、僕は羨ましいのだと思う。遠くひと回り以上昔の現実に、こんな非日常がノンフィクションの顔をして転がっている。しかしながら、あくまでも現実に起こったできごとであるという前提の上で、現実味を大いに含んだ三十二冊を手にし、祖父の昔語りを交えて非日常を垣間見る。その時代、その場所に生きたわけではない僕は、いいところ、傍観か観測かの立場でしか、この話に介入することはできない。一切かなわないのだろうと思う。
それでも、原田の手記を今ひも解いてみることによって、その非日常をこちら側に、少しは取り込むことができるかもしれない。空想に耽ってばかりだった子ども時代を思うと、薄い望みであったとしても、心の踊る、夢のような話だ。ぼくとはつまり、そうなってみたい平凡な人間で、彼の身辺の非日常に、憧れているだけなのだ。けれども、悪いものではないだろう。
今しばらくの手慰みだが、そういうつもりで、ぼくはこの記録を書き直していこうと思っている。消えるに惜しい不思議の記録を、あのノートの他に、この世に留める手段になれば嬉しい。
誰か、もし、読む人があれば。
翳踏むばかり 釘島滝子 @nailshock
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