2、出立前に《6》
「えっ……………」
マリーは目を瞬いた。いきなり何を言う?
そんなマリーに、ジークハルトは言葉を紡ぐ。
「もう一度申し上げまする。マリー殿下。………………本当に、行かれるのですか?」
それは、静かな声だった。
波紋一つない、
「はい………………。本当は、行きたくありませんけれど。陛下の勅命ならば、それに従うのがフロシア陛下の臣というのでしょう。…………違いますか?」
マリーは言葉を紡いだ。
一つ一つ、自分に言い聞かすように。
「先ほどは、柄にもなく動揺してしまいました。覚悟が、足りなかったのかもしれません。ですが、私はフロシアの王女です。陛下の勅命とならば、それに従わねばなりません」
「ほう………」
「それに、御存じですよね?私は、常に薄氷の上を歩いているようなものなのですよ。陛下のお側に置いていただいているのは、私が陛下と王太子殿下に絶対の忠誠を誓ったからです」
ジークハルトは思った。
このお方は、賢すぎる。
それ故に、御自分の微妙な立ち位置をわかっていらっしゃるのだろう。
だから、ここではあえて御自分の弟君フランソワ殿下を、“王太子殿下”と呼んだのだ。
それに、マリー殿下がおっしゃったことは決して間違ってはいない。
“絶対の忠誠を誓うことで、ひいては自分の身を守る”
そういうことなのだ。
「私にとって、王命とは絶対です。もちろん、王太子殿下のご命令も。もし、私がそれに逆らえば、すぐに叛意ありと疑われましょう。だから、私が王命――――それも勅命に逆らうと言うことはすなわち、国賊になると言うことです」
国賊、とは国や国王に仇となる存在のこと。
フロシアでは、王命に逆らう者や王族を害そうとする者は、逆臣となる。これは、誰もが知っているようなことだ。
そんなことをあえておっしゃったということは…………。
このお方は、父君である国王陛下を完全に信じてはいない。
それがわかってもなお、ジークハルトには言うべきことがあった。
重い口を開く。
「あなた様はアマリスにとって、元敵国の大将なのですよ」
マリーは、驚いた。
まさか、それを今言うなんて。
しかし、驚きを隠せないマリーを尻目に、ジークハルトは静かな声で続けた。
「あれからもう五年が経ちましたが、それは裏を返せばまだ五年しか経っていない、ということにもなりまする。……………それでも、お行きになられますか?」
マリーは動揺した心を隠すように、言葉を紡いだ。
「忘れたことはありませんよ。………………あの戦いは私にとって、数少ない後悔の一つですから」
マリーは、我知らず俯いた。
それはたまに悪夢となって、今もなお自分を苦しめている。
六年経った、今でも。
それは、変わらない。
「私は、後悔なんか滅多にしません。だだ……………あれだけは、絶対に避けたかった。水面下で止めることが出来たらどれだけよかったか。それだけが、悔やまれます」
マリーの声には、心から後悔していることがわかる響きがあった。
ジークハルトは目を見開く。
マリー殿下が、心の中にひた隠しにしているだろう、罪悪感を。今、知ったような気がしたから。
「それでも、行かなくてはならないと、思います。それは単に、王命だから、と言うわけではありません」
そう。理由がある。
私には、行かなければならない。行きたい、理由が。
「……………………私は、償いを、したいんです。アマリスに行って。あの戦いで、何かを失ったのはフロシアだけではありません。むしろ、アマリスの方が大きいのかもしれません。だから、私に何が出来るかわかりませんが、償いをしたい。それが、たとえ自己満足からくるものだとしても」
償いというものは、簡単には出来ない。それは、わかっている。
でも――――でも。やらなければならないのだ。自分の犯した人殺しという名の罪に、きちんと向き合うために。
もう、マリーの心は決まっていた。
自分はアマリスに行く。いや、行かなくては。
そのために、することがあった。
ジークハルトに向かって深々と頭を下げる。
「だから…………………行かせてください。本当は、あなた様には私がアマリスに行かなくても良いように、陛下を説得していただきたかったのです。でも、それはもうようございます。あなた様とお話して、私も決心がつきました」
「マリー殿下……………。後悔は、なさりませぬか?」
ジークハルトの心配そうな声がする。
マリーは頭を上げて、口元に笑みを浮かべた。
やはり、この人は優しい。いつも食えないタヌキではあるが、それは多分、若い自分を鍛えるためのもの。
それがわかっていても。マリーは首を横に振った。
「いいえ。何があったとしても、決して後悔したりはいたしません。それにご安心くださいませ。あなた様の内弟子の名にかけて、アマリスとの外交にヒビが入るような真似は、決していたしませんから」
「…………………そうですな。是非そうしていただきたいものですのう、マリー殿下。うっかりアマリスとの外交にヒビを入れました、なんて報告を受けないよう期待しておりますぞ」
「ま、まあ、期待していてください…………ではなく、なんでそんな失礼なことをおっしゃるのですかっ」
マリーは怒った。なんだ、このタヌキはっ。このタヌキを少しでも優しいだの思った私がバカだった。
けれどもジークハルトは、
「ほっほっほ、ほら、元気になられましたな。これだけ威勢がよろしければ、大丈夫ですしょうな」
と言って笑うだけ。
この方は、やはり食えないタヌキだと認識を改めつつ、マリーは、
「では、よろしいのですね?」
と確認をし、
「ええ、構いません」
という返事を聞くと、すらりと立ち上がり、背筋を正して正式な立礼をした。
「ジークハルト・ベンストン外務大臣閣下。許しを、請います。今、この時をもって、わたくし、マリー・ド・フロシアは外交官見習いの位を返上いたします」
ジークハルトは驚き、しばし言葉を失った。それから、深いため息をついた。
「………………………。わかりました、マリー殿下。そこまでおっしゃるのなら、認めましょう」
そう言うとジークハルトは、老人にしては軽やかな足取りで執務室の机に向かい、ペンを走らせ始めた。
「つきましては殿下、速やかに行政手続きを行います。そうですな、今から行えば…………多分二日か三日ほどで終わりましょう。こちらが終わり次第、またお手数おかけいたしますがわしの元へ来ていただけませんか?」
「わかりました。二、三日後ですね。お知らせくだされば、またこちらに参ります」
頷いたマリーを見て、ジークハルトは軽く頭を下げる。
「ええ。よろしゅうお願いいたします。殿下の貴重なお時間をいただき、ありがとうございました」
「いいえ。私もあなた様とお話し出来、良かったです。気にしないでくださいませ。それでは、失礼いたします」
マリーはもう一度礼をすると、静かに退出した。
バタンッ
と扉が閉まる音がする。
それを軽く見届けた後、ジークハルトはしばらくの間、作業に没頭した。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます