第一章 七話
「失礼しまぁす」
学院の人間は出入り自由だという図書館に、そっと足を踏み入れる。
まだ学院の人間ではなく、自前の制服で出入りしているというのに、ちらりと向けられる視線だけで誰も見咎める者はいない。
なんだ、この世界でもやっぱりおれはおれのままか。少しほっとして膨大な図書の中から必要そうなものを選び取る。
「もう少し簡単なものが欲しいんだけどなあ」
高等教育の場では、基礎中の基礎の本などなかなか置いていない。この世界の常識すらわからないおれには、少々難しい本ばかりなのが実際のところであった。エルの部屋へ戻ろうとしたところ、いつもは堅く閉じられた扉が開いているのが見えた。
てっきり閉架室だと思っていた。少しだけ興味を覚えて、中を覗く。
「うわあ……」
天井までぎっしりと積み重ねられた本棚。隙間なく埋められた本。図書室独特の黴臭さ。こういう場にこそ、非日常を感じる。心躍る景色だ。
首が痛くなるほど上を見上げて、中へと進む。かけられたはしごに上り、目の前にあった本を、そっと抜き出してみる。どれもこれも難しそうなものばかりだが、きれいな装丁はそれだけで目を惹く。すっかり見蕩れていると、さらに奥の方からかたんと小さな物音がした。物音のした方を覗いてみると、少女が机に突っ伏すように寝ていた。開け放した窓からは爽やかな風が通り過ぎる。すうすうと気持ちよさそうな寝顔に起こすのを躊躇うが、少し冷たい風に身を冷やしてしまいそうだ。
「もしもし、風邪をひきますよ」
「うんー……」
少女は身を小さく捩ると、ぼうっとした顔を上げた。視界の定まっていない目が、ぼんやりとこちらを認識し始める。
「誰、あなた」
「……クレイと言いますが」
「シンカンじゃないわね」
そしてきょろりと辺りを見回すと、いきなり立ち上がった。
「嘘、私寝ていた!?」
「えぇ、まあ」
勢いに圧倒されながら答えると、少女のいきりたった目が見つめてくる。
「なんでこんなところにいるの?」
「あの、入り口が開いていたから……つい」
「ここに私がいたこと、誰かに喋ったら――」
「喋ったら?」
「ここにいられなくしてやるんだから」
意図のわからない脅迫だが、おれはこくりと頷く。少女があまりにも必死だったこともあるが、こんな些細なことを話してどうなるのだ。少女は未だ疑いの目でおれを睨みつけたまま、窓の方へと近寄った。そしてあっという間にそこから空へ身を躍らせる。
「ちょっと……!」
慌てて駆け寄ってみると、少女は器用に木へと移って、無事に下まで降りたようだ。
安堵の息を吐いていると、喧々とした声が聞こえた。
「誰かいるのか?」
本棚の陰からひょこっと顔を出すと、司書が目を吊り上げてこちらを見ていた。
「なんでこんなところに入っているんだ。ここは立ち入り禁止!」
「え、でも……」
あの少女のことを聞こうとして、黙っているという約束をしたことを思い出す。
「すみませんでした。知らなくて」
「風を通してただけなのに、これだから学生は油断ならない」
散々愚痴を零されて、ぐったりとしながらエルの部屋へと戻る。彼はおれの顔を見て微笑む。
「また借りてきたのか。よくまあ飽きないな」
「……本を読むのは好きだから」
「俺には無理」
そう言いながらソファに伸びているエルが、今のところ、一番頼りに出来る人物である。騙し討ちはあったが、嘘を簡単に吐けるような人柄ではないところは安心できる。反面、一番おれを落ち着かなくさせる対象でもある。というより、どうしたら良いのかわからないのだ。こんなに近くに寄ってくる人は、じいちゃん以外に久しぶりだから。
「返す時は手伝うから言えよ」
のんびり笑むエルに言われ、おれは机の周りに目を向ける。
そこかしこに積まれる本、本、本。簡単な読み書きのものから、基礎学習の教科書まで。本を集めてから、今更ながらに気付くことがあった。
おれは、日本語ではない言葉を喋っている。そして、文字も読めるのだ。何故かはわからない。どう変換されているのかも……。けれど普通に日本語を読むように、頭に意味がすっと入ってくる。この世界に来た時におれの中で何かが急激に変わっている。あのちりちりとした感覚が、おれの大事な何かをはぎ取ってしまったようだ。
急にぞっとして、腕を摩る。そう、これは変化ではなく、変質なのだ。
じわじわと自覚したものから目を逸らすように、そして自分の変わらない存在感を確かめるために、時々図書室と部屋を往復し、一心不乱に勉強した。誰かに吐き出してしまいたい。だが、誰に? こんなことを話してどうなるというのだ。
今のおれはとにかくこの世界での居場所を、自ら掴みとらなければならないのだ。はっきり言って自信はない。こんな一夜漬けでどうにかなるほど入試は簡単なものではないと思うのだが。そう不安を吐露しても、エルは豪快に笑うばかりで、試験がどういうものなのかすら教えてくれない。みんな入試で何をするのか知らずに受けるのだから、おまえだけ事前に知っているというのは不正だろう?
と、なんとも真っ直ぐな答えが返ってきた。異世界から来たってだけで充分ハンデがあると思うのだが……。
とにもかくにも、入試の日は駆け足でやってきた。
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