第一章 二話
ちりちりぢり、ぢりりぢり、ちりちりちり……。
きめ細かい布をゆっくり裂くような音が、耳の深いところに聞こえている気がした。それ以外の音や感覚は海の深いところを漂っているように暗く、鈍い。それでも『自分』というものが未だあることが不思議だ。
これが幽冥(かくりよ)なのか。それともそこへ渡っている途中なのか。とにかく死んだという実感はない。身体が消えたのに、魂は残ってるんだ。意識しても動かす身体のないことは、ひどく頼りない。
鼓動も、息を呑むことも、食いしばることもできない。焦燥が頭の中をぐるんぐるんと回って、まともな考えだとか、思考力なんてものはどこかへ行ってしまったようだ。
こんなことになるなら、昨日のうちに美味いものでも食っておくんだった。
ため息をつくことすら出来ない。泣きたくても泣けない。どうなってしまうのか、ほとほと困ってしまった。
おれは何をしてしまったのだろう。
じたばたすることも出来ないおれの頭に、突然声が響いた。
『いくつもの門を抜けた先の世界へ誘わん』
その言葉を皮切りに、ぐんと何かに引っ張られる。水栓を抜いた時のように下へ下へと螺旋を描く。その円が小さくなっていくにつれて、脳に届く音が騒がしくなっていく。
――ハライニハライテ……チワキニチワキ……
――ラーレ、ラーレ……ロロ、レーヌ、レーナ……
――……ワグナ、オチツ……イヲサダメ、……ノテキデハナイ――
頭の中が音の奔流に呑まれかけたとき、ぱんと視界が明るくなった。
いくつもの門とやらを抜けたのだ。だが、見える景色はいただけない。
「う、わあ、ああぁぁ」
地上千メートルはありそうな空の上。パラシュートもなしのフリーダイビング。
これってあり?
「ああ、あ、あああぁ」
高いところは苦手じゃないし、山ではフリーのクライミングもするけど、こんな高さじゃ話は別だ。死ぬ。絶対死ぬって。それだったら、さっきのちりちりしたので一思いにやってくれれば良かったのに。
憤りと、混乱と、焦りと。めまぐるしくおれの中でせめぎ合っている。
「この、ひとでなし――――っっ!!」
そう叫んだところで、身体がふわりと一回転した。椅子に座ったような姿勢のまま、花びらが散るように地面へとゆっくり近付いていく。これはこれで、いつまた急降下するのではないかとたまらなく不安だ。持っていたリュックをぎゅっと抱きしめながら、近付いてくる大地を初めて見た。
一面に金色の草が風になびき、木々がさんざめく。遠くに見える峰は夕焼けに鮮やかな隆線を描いている。電柱やコンクリートの地面などない。遠目に外国の城のような建物が硝子細工のように、光を美しく反射している。それが唯一の人工物だ。建物の他にも広々とした敷地がとられ、幻想の中の街の模型でも見ているようだ。
日本ではないことくらいわかる。おれはいったいどこへ来てしまったのだろうか。周りが自然に溢れているというところに、幾分か安堵の息を漏らす。無機的なものに溢れた場所だったら、混乱はさらにひどくなっていただろう。
それにしても、何にもないところだ。少し離れたところにある大きな建物以外、見えるのは草原ばかり。
おれは何のためにここへ連れて来られたのだろうか。
大地に到着する直前におれを浮かしていた力が消え、地面へ投げ出された。
「いてっ」
ついでにぽこんと頭にリュックが落ちる。
「なんだっていうんだよ」
尻についた埃を払いながら立ち上がる。一面のすすき野は郷愁を思い起こさせるものだった。
話をせずとも周りに人の気配がしていることと、周りに気配が全くないというのは違う。ぽつんと一人きりなことに、心臓がきゅぅと絞られるようだ。
夢を見ているのかと、頬をつねる。痛い。リュックを漁ってみると、教科書にノートの類、財布、紙やすりや先程採ったばかりの鉱石など馴染みのものが揃っている。夢ではないようだ。
ともかく、連れて来られてしまったのだ、門の先の世界とやらに。
どうしようか。
腕を組んでうーんと考え込み、ぽんと手を叩く。
「あの建造物の方へ行ってみよう」
探検家というのは、いつもこういうことをしているのだろうか。未知の世界に一歩を踏み出すことさえためらうおれは、決してなれないだろう。尊敬に値する。
また光に呑みこまれるんじゃないか。恐ろしい獣などはいないだろうか。草に隠れた崖などがないだろうか。様々な嫌な考えがよぎっていくけれど、反面昂奮している。
一面のすすき野は夕陽に照らされ、黄金に輝いている。さーっと草同士が触れ合う乾いた音。日本でもどんどん少なくなっているという風景。街の学校へ行くよりも、こういう場所こそがおれの慣れ親しんだ光景だ。
自然の力で少し落ち着きを取り戻し、手持無沙汰にぷちっと一本のすすきを抜くと、ぶらぶらと下げながら歩き出す。
なるようにしかならないのだ。怯えるだけよりも楽しんだ方が勝ちだろう。
もしここが本当に日本ではない場所ならば、どこなのだろうか。外国のようにも思えない。
昔、タンスの奥から異世界に行ってしまう物語を読んだことがあるけれど、そんな感じなのだろうか。何の力も持っていないおれなんかを連れてきたところで、たいした変化が起きるとは考えづらい。先程は低級霊の仕業かとも考えたが、低級霊におれをこんなところに送り出すなんていうことが出来るのだろうか。そして神さまが首謀者ならば、何を思ってこんなことをしたのか。考えてもわからない。
とにかく困り果て――そう困惑している。十七年間生きてきて、何かを期待されたことなんてほとんどない。だが、異世界にまで連れて来られたというからには何かしなければならないことなんかがあるのかもしれない。期待に応えられるような何かがおれにあっただろうか。
不安を表面に出さないように、必死に次から次へと考え事で頭をいっぱいにする。
そうしているうちに、がさっと背後で音がした。身体を大きく震わせたおれは、緊張に姿勢を正す。
変な動物だったらどうしよう。熊とか……口笛でも吹いてたら良かったかな。
口から心臓が出そうなほどおっかなびっくり、おれは後ろを振り向いた。そして思っても見なかったものに驚き、目を丸くする。
「き、恐竜?」
図鑑で見たことがあるものに似ている。一番有名な恐竜、ティラノサウルスを小さくしたような蜥蜴の化け物がそこにいた。小さく、と言ってもワゴン車くらいの大きさはある。ここはこういう獣が出るところなのか。
「えー、と」
こういう時はどうすればいいのだろう。熊だったらゆっくり後退すればいいんだけど。……音で逃げていくんだっけ。違う、それは出会う前の予防策だ。じゃあ恐竜はどうしたらいいんだ? 昔読んだ図鑑に何か載ってなかったか。――載っているわけがない。一つ思い出したのは、
「人間は襲わない……かもしれない?」
ひきつった笑みを浮かべると同時に、恐竜はずんと前に一歩踏み出す。咄嗟におれも一歩後退する。すると恐竜は甲高い声で一声鳴き、ぎろりとおれを睨みつける。
「危ない気が、する」
もう一度甲高く鳴いた恐竜が前進してくるのに、ついにおれは背を向けて走り出した。どたんどたんと地響きを鳴らしながら恐竜が距離を縮めているのがわかる。
殺されるって! こんなのなんとかできるわけがない!
「不思議な力も何もない平凡なおれなんかを、なんだってこんなところにやったんだ!?」
もう何度目かになる考えが思わず口を突いて出た。いくら自然の中が好きだと言っても、害獣に出会うのにも慣れていると言っても、恐竜なんかを撒ける気がしない。とりあえず武器になりそうなものはないかと目視しながら走るが、頼りないすすきが揺れるばかりだ。
早く……早く日本に帰りたい!! 熱い茶をゆっくりとすすりたい!
必死に駆けても、大きさも脚力もはるかに勝る相手には勝てるわけがない。すぐに追いつかれ、その大きな口に今しも捕まるという時だった。
空を斬る音と、恐竜の苦しむ鳴き声。
頭を抱えてしゃがみこんでいたおれが頭上を見ると、恐竜の左目に鑓が刺さっていた。
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