第6話

それで自分でコントロールできるのならともかく、いつ発作が起きるのか、どうすれば防げるのかもわからない。余計なことを言わないでとにかく、人との接触を避けるのが一番と、そう決めて実行して来たのに、何の気の迷いでいかに家族相手とはいえ告白などしたのか。いや、家族相手の方が事がこじれる恐れがあった。幸い、全然信じていないようで、酒のせいにして済ませるつもりらしい。その方がいい。頭がおかしくなったのではないかと心配されて、医者に行けだの薬飲めだの言われたらたまったものではない。

 誰もぼくのことをわかってくれない、などと言うと、なんだか思春期の「心の叫び」のようで、我ながら気色悪い。しかし、こんな能力を「理解」などできないだろうし、なまじ表沙汰になどなったらますます薄気味悪がられるに決まっている。

(そんな風に考えること自体が傲慢なんだよ)

 という声が聞こえた。ときどきしたり顔でちょっかいを出してくる奴だ。

言っていることは正しいが、力を持ったためしがない。

(よっぽど自分を特別だと思っているんだな)

 また余計な声が聞こえる。

 昔のマンガ映画で、主人公のキャラクターの耳もとに悪魔の格好をした同じキャラと天使の格好をしたキャラが、並んでかわるがわる悪魔の囁きと良心の声とを吹き込み続けるという場面があった気がするが、ぼくの場合はそういうのとも違う。囁くぼくも囁かれるぼくも善でも悪でもない、ただの中途半端に、自分も含めて人を小馬鹿にしている点でも同じで、コントラストというものはない。いつも見ているだけ。

 だが、なんどか見られている気がしたことはある。あった、というべきか。父には不思議と隠し事ができなかった。なんでも包み隠さず話せたという意味ではない。もっと物理的な意味だ。たとえば、ぼくが図書館から借りっぱなしにしていた本を、突然物陰から見つけだしたりした。それで、早く返せとか言うわけではない。しかし、ホコリをかぶった図書館の本を見つけられて、そのままに放っておくことなどできない。黙って返しに行き、父も、返したかどうか確かめることはない。

 もしかしたら、と思うことはある。もしかしたらぼくのようにぼくが見ていたものが見えていたのでは。しかし今となっては確かめようもない。用意のいい死に方だった。ぼくをなんとか高校に入れ、保険に入って1年以上掛け金を払い、財産を整理して後景人を立て、姉に大学進学の意思がないことを確かめ、その上で成人するまでムダに使わないようにお膳立てし、病院に検査に行って帰って一日経たないうちに崖っぷちの道でカーブを切り損ねて転落、即死だった。予定に入れていなかっただろうことは、ぼくがすぐ高校を辞めたくらいのものだ。

 警察も普通の事故死として扱い、遺言もきちんと残っていた。御丁寧にも、戒名まで生前に作っていた。母方の墓に入ることになったが、父方の親戚とはもともとつきあいがなかった(まったくなかった)せいか苦情を言われることもなく、葬式で数少ない知人の誰かが「たつ鳥跡を濁さず」と言っていた。母が亡くなって長かったせいか、母方の親戚の出席も少なかった。

 父が最後に何を見たのか、何を考えていたのか、考えることはある。父の末期の眼に写ったものであろう崖から飛びおりて地面が迫ってくる図を想像してみる。だが、見たいものに限って見てはいない。 

 寝床についてぼくは、もう一度考えを巡らした。とにかく木口が殺されたのは確かだ。どういう殺され方をしたのか、あしたの新聞で確かめてみようか、と思いかけたが、気が進まなかった。新聞に載ってしまえば、ぼくが見たものが確かに他に知りようがないものだとは証明できなくなってしまう。載っていなければ、それこそなんで知っているんだと警察にあらぬ疑いをかけられかねない。まずいことに動機はあるし、それを証言しそうな連中も何人もいる。

 ぼくの中の<常識>の声が呟いた。中学生の時の恨みで7年も経ってから人を殺すか? 即座にぼくは答えた。殺すさ。何の不思議もない。経ってしまえば7年前など、きのうと同じだ。突然頭の中に噴き上がる分、きのうより身近なくらいだ。もっとも、ぼくの中の恨みがそれほど強いものとは思えないので、人によってはと言うべきだろうが。

 後になって気付いたのだが、新聞で報道されたものと食い違っていたら、という考えは浮かばなかった。自分の、ではなく人のを借りてだが、目で見た木口が殺される光景はあまりに鮮明で、疑う余地などなかった。

 どうすればいいのだろう。犯人は…わかっている。証拠も何もないが。次に狙われるであろう相手もわかっている。動機は今一つはっきりしないが。クスリで頭がいかれているのだろうか。それにしては妙にもってまわった犯行だ。もう少し発作的にかっとなって殺してしまったというのになりそうなものだが。

 ぼくは同窓会名簿を改めて確かめてみた。清川の名前はあったが、現住所と電話番号は空欄になっていた。実家を出たのは確からしいが、今どこに住んでいるのかは幹事にもわからなかったらしい。どうやって同窓会を開くことを知って会場に押しかけて来たのか、調べてみよう。それより先にもう一人の清川の元子分、橋本に警告しておいた方がいいかもしれない。小さな町のことだからもう木口が殺されたことを知って警戒しているかもしれないが。こっちは名簿に住所が載っている。あした行ってみよう。珍しく、目的があって外に出ることになりそうだ。

 ぼくは頭までふとんをかぶった。


 次の日は日曜日で、姉は朝食をすませると、また一人で出かけた。デートではないというし、女友達と一緒ということも少ないようだ。遠出して映画でも見ているのだろうか。ぼくには帰ってくる時間だけ知らせて、どこに行くのかはいちいち知らせない。

 とにかく、ぼくは橋本に電話した。こちらから人に電話するなど何年ぶりだろう。彼も休みで会社の独身寮にいて、すでに木口が殺されていたのは知っていた。

 話があると言うと、橋本はけげんそうな声を出し、あれこれ聞きただして来たが、電話で話せることではないからと昼過ぎに訪ねる約束だけとりつけて、そうそうに受話器を置いた。

 とはいっても、何をどう喋ればいいのかわからないでいた。誰が殺したのか、という見当くらい橋本の方でもついているだろう。ぼくが知っていることをそのまま話すわけにはいかない。

 考えてみると、中学の時も彼ら以外知っているはずのないことをぼくが知っていてうっかり話してしまったから、スパイではないか、チクリ屋ではないかと思われたのだった。彼らが誰をカツアゲしているか、何を万引きしているか、どこの自動販売機を壊してバラ銭をかっぱらったかのか、別に知りたくもないことに限って知ってしまい、そして知っていることは事実なのだから否定しようもなく、仮に否定しても信じようとはしなかったろう。

 今また警告したとしても、それをまともに信じるとは思えない。いまさらまたいじめられるということもないだろうが、感謝されないことは確かだ。また、警察にぼくに不利な証言をしそうな相手にわざわざネタをやるようなものではないか。そう考えるとばかばかしくなり、行くのをよそうかと思えてきた。

 お茶をいれたら、ふざけたことに茶柱が立っていた。どういう意味だろう。行けという意味なのか、行くなという意味なのか。

 ぼくは特にどこに行くあてもなく、とりあえず外に出た。

 ぶらぶらするにも、大して見て回るところなどない。結局、コンビニで立ち読みして時間をつぶした。昼食もコンビニのお握りで済ませたと思ったが、日曜のことで、タラコとシャケのという基本的なものしか残っていない。つまらないので、家に戻って食べた方が安上がりだと戻ってインスタントラーメンを作った。ぼくはカップラーメンは使わない。余計なゴミが出る。環境のことを考えているのではない、ゴミを出しに外に出るのがいやだからだ。一人暮らしならばゴミを溜め込んでいるかもしれないが、そうしたら姉の目にとまる。何も言わないだろう。その方が、文句を言われるよりこたえる。

 食べると腰が重くなり、改めて出かけるのが億劫になってきた。断りの電話をかけようか。それまた億劫だ。少し眠くなってきた。その時、突然発作が起きた。

(石垣が見える)

 身体は重く眠たがっていたが、頭は水をかけられたように突然冴えた。

 見覚えのある、荒く石を積んだ石垣が見える。なぜ、見覚えがあるのだろうか。

(そいつは石垣に近づいてくる)

 突然、思い出した。ぼくは、この石垣の前にいた。清水のいいつけで、鳥を撃ったボウガンを処分してこいと言われ、学校を出た。家から持ってきた金をむしられた上で。

(そいつは、石垣の石の一つを外している)

 ぼくが隠した、あれが…、

(ボウガンがあった)

 まだ、矢が残っている。 

(そいつの手が伸び、それをつかむ)

 突然、発作が薄れ、石垣の前から意識が遠のいた。

 奴がまた動き出したようだ。どこに行くつもりなのか。

 急いで、橋本のところに電話をかけたが呼び出し音ばかりで出ない。携帯の番号まではわからない。

 ぼくは急いで家を出た。橋本のいる独身寮へはどうバスを乗ればいいのかわからないので、タクシーを捕まえることにした。財布は自分のだけではなく、食料その他を買い込むためのキッチンの引き出しに共同に置いている財布を持ってきた。共同といっても、ぼくが中身を入れたことはなく、姉は帰りが遅いことが多いからもっぱらぼくが使っているのだが。ただ、私用に使い込むことはほとんどなかったが、今回は非常事態として許してもらうことにした。

 タクシーに向かって手を上げるとちゃんと停まったので不思議な感じがした。運転手に、ここに行ってくれと名簿にある橋本の住所を示すと、すぐにタクシーは走り出した。

 全身に普段かかる重力以外の力がかかる経験も久しくしたことがなかった。タクシーが加速したり減速したりカーブを曲がったりする時に身体にかかる力を、ぼくは楽しんだ。考えてみると、ぼくはもちろん自動車を運転できないし、小学生の時の父母と姉と四人のドライブからこっち、車に乗ることすらほとんどないのだ。

 前の家には車があったのに、父は家とともに処分してしまった。いや、処分したのは家より先だった。

 …違う。処分したのではない。母が事故を起こして使い物になってから、買い直さなかったのだ。

 タクシーがスピードを上げ、また意識がふっと身体から離れるような気がした。

(空の管理人室が見える)

 アパートか何かのではない。向こうには白塗りの飾り気のない集合住宅がある。

(独身寮か?)

 どうも、そうらしい。だとすると、これから行こうとしている、つまりまだ着いていない橋本の住処だろうか。

 まだタクシーは走っていた。

「まだ?」

 思わず言葉が口をついて出た。

「まだですよ」

 慣れた感じの、のんびりした口調だった。せかしてもムダだと悟り、ぼくはシートに深く座り、いつ発作が起きても取り乱さないように足を踏ん張るようにした。それから財布を出しておいて支払いに備えた。

 やがて、車が停まった。

「お待たせしました」

 ぼくは多めに出しておいた小銭で料金をぴったり渡し、相手が釣り銭を数える時間を省いてタクシーを降りた。

 ちょっと歩くと、見覚えのある建物が現れた。

(見覚えのある?)

 そんなはずはない。ここに来るのは初めてだ。しかし、白塗りの建物といい、空の管理人室といい、確かに見たことがある。

 ぐらっと寒気の混ざった眠気のような感覚に襲われた。

 門は中からも外からも誰も通らない。たまの休み、出かける奴はとっくに出かけているのだろう。

 橋本の部屋は二階のはずだ。

(階段を上っている)

 ぼくはまだ管理人室の前にいた。今は誰もいないが、見つかったらうるさい。ぼくは急いで構内に入った。

 外から見ると、洗濯物を干してある部屋もちらほら見られたが、たいていは人が住んでいるかどうかもよくわからない、がらんと殺風景な部屋が並んでいる。

(階段を上っている)

 まだ建物の中に入ってもいない。

(二階にいる)

 ぼくは混乱しながら玄関に入った。

(ドアの前にいる。橋本の部屋だ)

 ぼくは階段を上りだした。途中でめまいと吐き気がして、手すりにつかまった。ステンレスのパイプの軽い手触りがした。

(ドアが開き、橋本が顔を出す。こっちを見ても、あまり表情を変えない)

 踊り場でしばらく呼吸を整える。目の前がぐらぐらして、すうっと頭の中が暗くなる。壁によりかかって、やっと身体を支えた。

(まただ)

 頭の中に、そう響いた。

 何を考えているのか、言葉が形になって上から下に降りて行くが、読み取ることはできない。

(右に左に稲妻状に行き来する影)


 部屋の中を逃げまどう橋本だ。

 矢がまっすぐに橋本に向けられる。

 橋本が右往左往するのをやめる。大きく何か叫ぶと、手近なマンガ雑誌をこっちに投げ付けてきたが届かない。

 食らい付こうというのか、かっと口を大きく開けた橋本の顔が大きく迫って来た。と、その目から何か長いものが飛び出し、弾かれたように彼の身体が向こうにふっとんだ。目から物が飛びだしてきたのではなく、矢が目に刺さっていたのだ。

 彼がまた立ち上がろうとして膝が崩れ、血をしたたらせながら床を這いずり回るのを、じっと見つめ続ける。

踊り場の窓の外の木の梢の間から太陽がちらちらのぞいている。

 橋本が風呂場に突っ伏している。目に刺さった矢を引き抜こうとするが、

手で触れただけで電気でも流されたように七転八倒する。やがて片目から涙ならぬ血を流しながら、こちらを向く。残った目も爆発しそうに充血して膨れ上がっていた。

 毒がまわってきたのか、痙攣が始まる。不自由な身体でこちらにまとわりついてきたのを、荒っぽくはねのけると、橋本は蓋が開け放しになっていた湯舟に仰向きに落ちた。つるつる滑るのと、身体が痺れているのとで、顔を水から上げることができない。痙攣と暴れるのとでひとしきり水がはね、しぶきを上げ、口から泡を吐き、ひどく荒れた水面もやがて治まった。

 ゆらゆら揺れる血の混じった水を通して、人間ではなくなった青白い顔が見えている。

 水面がゆらめき輝いていた。

 まぶしくて、目をそらした。

 壁に石鹸で汚れた鏡がある。中をのぞきこんだ。

 ぼくの顔が写っている。


 目の前が真っ白になった。

 外で強い風が吹いたのか、木の梢が騒いでいる。その向こうで太陽があたりを呑み込もうとするように輝いていた。

 ぼくはまだ踊り場にいた。上る方なのか下りる方なのか、自分がどっちを向いているのかもわからないでいた。それがわかっても、上った方がいいのか下りてそのまま帰った方がいいのか、目をしばたたせながらいくらか迷った。

 あれはぼくの顔だった。バカな。幻覚か、あるいは犯人の顔がいくらか自分と似ていたから見間違えたのだ。そう思おうとした。

 しかし、清川の顔は見間違えようがない。服装はどうだったか。思い出そうとしたが、よく覚えていない。そうだ、犯人は手袋をしていた。ぼくは手袋などしていないし、持ってすらいない。そう思うと、いくらか落ち着き、上っていく気になった。

 上って行くと、見覚えのある廊下が伸び、見覚えのあるドアがあった。そっとノックしてから小声で、

「橋本、いるか?」

 と声をかけたが返事はない。それが当然に思えてドアに手をやりかけ、指紋がついたら面倒だと思い、ハンカチは持っていなかったので袖を伸ばしてそれで包むようにノブをつかんで回した。

 鍵はかかっていなかった。物音がしないようにドアを閉めて中に入ると、ひどく散らかった部屋のようすが目に入った。前に進もうとすると何かが足にひっかかったので見ると、マンガ雑誌が落ちている。

 浴室を覗いて見た。ゆらめく水面の下に、人形になったような橋本の片方の眼に矢を突き立てた顔が見えた。

 ぼくは、壁の鏡を見た。さっき見た通りの石鹸で汚れた鏡がそこにあり、ぼくの姿を写していた。

 どうやって部屋を出て、廊下を通って、階段を下り、玄関を出て建物から出たのか、覚えていない。 

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