第4話

盛り場に一人で出た時、勘定を済ませていないことに気付いた。まあ、いいだろう。姉が払ってくれるはずだ。そう思うと、呑み代だけでなく生活費すべてが親がかりならぬ姉がかりという自分の身分に、改めて言い様のない恥ずかしさを覚えた。

 言い訳はできる程度の努力はしてみた。短期長期を問わず、いくつものアルバイトの募集に履歴書を送ってはいた。しかし、高校中退で職歴も資格らしい資格もない人間と面接してくれる雇い主は少なかったし、いざ面接となると例外なく断られた。自分は人に好意を持たれることはない、という妙な自信があった。

 パソコンでやっているデータ入力の内職というのをまたやってみたらどうか、と姉に勧められたこともある。しかし、一度やってみたが、手間ひまの割に支払いが悪く、一度など振込に失敗したからといって支払わない上に失敗したのはこちらの連絡ミスだと手数料を請求さえしてきた。

 苦情を言おうにも、メールを打っても、木で鼻をくくったような返事があるだけで、責任者の所在もたらいまわしにしてわからないようにしているので、市役所や国民生活センターに訴えて、どうにか支払いにはこぎつけたが、いやがらせのように手数料はしぶとく引いてあった。そこまでの支払いを求めるのには、いいかげん嫌気がさしていたし、そのまた手数料を請求されかねないと、あきらめた。

 人間は嫌だ。こっちが顔を出せば陰にこもり、出さなければかさにかかって悪意を向ける。そういうぼくに、姉は強いて反論しなかった。するのも面倒なみたいだ。


 働かず、家に金を入れていない代わり、ぼくは労働奉仕というわけではないが、家事一式は取り仕切った。

 朝早く起き、朝食と姉の弁当を作る。毎日弁当を持って行くので、会社で姉は、今どき珍しくいいお嫁さんになるよ、などと言われているらしい。

 自分一人の昼は簡単に済ませる。といっても、コンビニ弁当やカップラーメンの類は避け、卵を主体に必ず蛋白質をとり、残り物の煮野菜を掃除するような献立ですませる、といった簡単で安上がりで食べ過ぎないですむような献立だ。そういう工夫をするのが、ぼくは好きなのだ。

 もちろん、夜は二人分作る。よほど遅くなっても、食べてくることは少ない。三食自炊となると、費用や栄養価はずいぶん違うはずだ。ぼくが言うのではなく、姉が言うのだが、本心かどうかはわからない。仲間のOLと話題の店のランチを食べに行きたいことだってあるのではないかとも思うが、その手の話題に乗って来たことはない。だいたい、会社の同僚や上司がどんな人なのか、ぼくはまったく知らない。姉は何か高校を出てから独学でいくつも資格を持っていて、収入は25歳にしては割と良かった。

 ぼくが出かけるのは、夜になってからの食料品その他の買い出しのほかは、土日に近くの図書館に行くくらいだった。毎日が日曜日のようなものなのだから、いつ行ってもいいのだが、ウィークデーでいい若い者(!)が表をうろうろしていると何を言われるかわからない。何も言ってないかもしれないが、どうしてもそういう気がしてしまう。図書館には、ひたすら本を読み続けている常連が何人かいた。行くたびに顔を合わせる、というより顔を合わせないままその存在を感じる(ということは、相手は毎日来ているのだろう)ので、あくまで見て見ぬふりを通し、それ以上は決して踏み込まなかった。

 一日家にいても、テレビはあまり見なかった。見ないばかりか、普段は電源からコードを抜いておいた。待機電気がもったいないのと(本当に一円たりともムダ金は使うまいと決めていた)、テレビを見ているとイライラしてくるからだ。携帯はもちろん持っていない。どこに持っていくというのか。誰にかける、あるいは誰からかかってくるというのか。

 辛うじて、パソコンであちこちのサイトを見てまわるか、ゲームをするか、本を読むか。考えてみると、まったく仕事を持ちない主婦だって、家事の時間以外をなんとかして潰しているのだろう。それは大変なのだろうか。それなりのやりがいのあることを見つけているのだろうか。ぼくの場合は、なんともいえない。ただ、時間だけは潰れる。いやでも潰れてしまう。

 そんな五年間の生活に、姉はつきあっていた。あまり口やかましくはないが、当然ときどき意見するし、涙入りに近くなることもある。たいていはぴたりと無表情で、とりつくしまもない。話しかければ、きちんと受け答えするが、それ以外の余計なことはしない。それこそ、ぼくの望む態度だった。

 だが、ぼくがたまに無理して外部と接触すると必ず失敗した。きのうは特にひどい。テレビの評論家だったら、ぼくが“ひきこもり”になったのは、“中学でのいじめ”が原因だといとも簡単にレッテルを貼るだろう。別にそれは否定しない。それだけではない、のだが。

 大げさではなく、文字通りぼくはそれだけの存在ではないのだ。

 だから、姉がわざわざ同窓会に連れ出していこうとした時、これほど弟の学校生活を知らなかったのかと逆に驚いた。だが、強いて逆らおうとはしなかった。姉がなんとかせずにいられない気持ちはバカでもなければ、もちろんわかる。

 行ったからといってうまくいかないのはわかっていたのだし、そうしたらぼくが全面に立って責められる。一応出て行ってうまくいかなければ、言い訳もきく。そう思ったのだが、思った以上にひどいことになった。姉はどう思っているだろう。そろそろ確かめてみないと、とシーツの中で目を開いた。


 シーツを剥ぐと、陽は赤みがかっていた。

 起きて、キッチンに出て行くと、姉がテーブルについていた。気まずかったが、黙ったままだとますます気まずいので、無理に声をかけた。

「会社、休んだの?」

「今日は、土曜。休み」

「ああ、そうか」

「ずっと家にいると、曜日の感覚がなくなるみたいね」

 さっそく棘のある言葉が飛んで来た。

 座ってと言われる前にぼくは姉の斜向かいの席についていた。

「紅茶、飲む?」

「うん」

 ティーバッグを入れたカップにジャーから湯を注いだだけの紅茶のカップが、ヒヤシンスの花瓶のそばに置かれた。

 ぼくは砂糖もミルクも入れず、いれたての紅茶を吹きながら口をつけた。

「きのう、店を出てからどこにいたの?」

「よく、覚えていない」

「やっぱり、いきなり外に連れて行ったのは失敗だったかなあ」

 内心、(そうだよ)と呟いたが黙って紅茶をすすってから聞いた。

「あれから、どうなった?」

「あんたにからんでた人のこと?」

「他も、全部」

「どうもこうも。何あれ。ビール瓶なんて割っちゃって、危うく傷害沙汰よ。それから店員も手伝って店の外に引きずり出したら、しばらく『殺してやる』って喚きまわって、怖がって酔っぱらいがよけて通ってた。あんなのが同級生にいたの?」

「いたのって、知らなかった?」

「知らないわよ、あんたの友だちに酒乱がいるなんて」

「友だちじゃないよ。第一、中学の時から呑んでるかよ」

「あの分だと、どうだか」

 ぼくはカップを受け皿に置いた。まだふらふらする。もっと水を飲むか、と立ち上がって蛇口に向かった途端、めまいがした。

 立ちくらみか、と初め思ったが、それとは違う、しかし覚えのある感覚だった。ぼくは立ちすくんだまま、動けなくなった。姉が怪訝な顔をしてぼくを見ている。その顔に不安の色がみるみる広がった。耳もとや喉もとに脂汗が撫でるように流れているのが、自分でもわかった。

「どうしたの?」

 姉の声が、ひどく遠くに聞こえる。

 また、あの発作が来た。

 目はその姿を含めて部屋の中を見ているのだが、頭の中には別の像が結ばれていた。

(中古のマンションが、次第に近付いてくる)

 姉が立ち上がり、ぼくの肩をつかんだ。

(マンションに入っていく)

 誰が? 誰だ? 今、俺が見ているものを見ている奴は。

 視界は明るくなったり暗くなったりして、昼なのか夜なのかもはっきりしない。

(歩いている)

 廊下を。管理人室は空だ。

(エレベーターに乗り込む)

 姉がぼくを椅子に座らせた。

(4階のボタンを押す)

 上って行く感覚のないまま、4階でドアは開いた。ここまで来るのに、誰にも会っていない。

(一室に近付く)

(ドアホンを押す)

 耳鳴りのような音、というより鼓膜が突っ張ったような感覚だけがあって、具体的な音はまるでわからない。

「だいじょうぶ? あたしの言ってることが聞こえる?」

 と、耳もとで姉が出しているらしい大声に、ぼくは辛うじてうなずいた。

(ドアが開いた)

 ちらと表札が見える。

 その名前の主…木口が顔を出した。驚いたような表情。その顔に妙なものが突き付けられた。

 一瞬、それは鳥の一種のように思えた。左右に広がり、端がすぼまった形状、真ん中に飛び出た鋭利な尖端。すぐにそれが矢をつがえた弓を乗せたボウガンであることに気付いた。気付くとともに、その引き絞った弓を放つ引き金にかけた指の感触を感じた。

 背後でドアが閉まる。

 木口が何か喚き、手を泳ぐようにばたつかせた。

 指と、それにつながる腕の筋肉が収縮し、次いで弛緩する。

 木口の開かれた口から、細い棒が飛び出したように見えた。口の中を通って喉に矢が刺さっている。

 木口は喉をかきむしるようにし、狭い部屋を右往左往してあちこちにぶつかり、大きくのけぞるようにベッドの上に大の字に倒れこんだ。矢を抜こうにも、触るだけで強いショックを感じるらしく、ベッドの上ではねまわるように激しく上下していた。

 しかし悲鳴も、物がぶつかったりはたき落とされたりする音も聞こえない。

 彼の動きが次第に治まるのを見ながらじっと待っている。

 やがて力が尽きてくるのを待って、再び矢が木口の顔面に向けられた。

(ぼくは、悲鳴をあげた)

 喉にもう一本の矢が突っ立った。口から血の泡がこぼれてくる。

 やがて、苦痛による身悶えとは別の痙攣が木口の全身をとらえた。

(矢に毒が塗ってあるのか?)

 長いようで短い断末魔の痙攣が頂点に達し、木口の身体はベッドの上で不自然なポーズのまま硬直し、それからゆっくり弛緩した。

 手袋をはめた手が、彼の首筋、頸動脈のあたりを押さえて、脈が止まっているのを確かめる。さらに鼻の下に手をかざして息が止まっているのを確かめる。

(近付くと、瞳孔が開いているのがぼくにもわかった)

 突然、部屋の中がぐるぐる回りだした。

 何が起こったのか、しばらくわからなかった。

(部屋中を小躍りしてまわっているのだ)

 首尾よく木口を殺せた、一種毒々しい喜びを眼前に押しつけられた気がして、また吐き気とめまいを覚えた。

 ぐるぐる回っていた部屋が止まると、姉がじっと覗き込んでいる。

「どうしたの?」

 まだ網膜に今の光景がありありと写っていた。めまいと吐き気がまだ治まらない。

「どうしたのよ」

 ぼくが答えられないでいるのを見て、

「前にもこんなことなかった?」

「ないよ」

 やっと言葉が出た。

「嘘。子供の時、よくあったでしょ。ひきつけだと思ってたけど」

「なんでもない」

「普通じゃなかったよ」

「慣れない酒呑んだから、まだ残ってるんだろ」

「医者に行ったら?」

「いい」

「だけど」

 うっとうしくなってきていたぼくは、はたと思い付いた。

「出かける」

「どこに」

「きのうの同窓会の名簿、持ってる?」

「あるけど」

「見せて」

「なんで」

「いいから」

 姉は、くしゃくしゃに折り畳んだ名簿の紙をバッグから出し、ぼくは急いでそれに目を通した。

「行ってくる」

「どこに」

「木口のところ」

「木口って、誰」

 すでにぼくは玄関に向かっていた。

「待ちなさい。財布も持ってないじゃない」

 姉がバッグを持って追ってきた。

 ドアに鍵をかけている気配を後ろに感じていたが、ぼくは歩調を緩めずに通りに向かった。

 もっとも急いでも意味はないので、どっちにしてもバスを待たなくてはならないのだが、これ以上あれこれ詮索されるのは避けたかった。

 バス停に立っていると、すぐに姉が追いついてきた。 

「木口って、誰。きのうの会に来ていた人?」

「そう」

「あの暴れていた?」

「違う。暴れているのを止めていた方」

「その人がどうしたの」

 ぼくは、口をつぐんだ。いつもそうしていた。その「いつ」がいつ来るのかも、誰が相手なのかも、ぼくにはわからない。ただ、まったく見ず知らずに相手からの“中継”を受けることはなかった。そしてやりきれないことに、悪意と敵意、怒りと憎しみに満ちた相手の負の念ほど届くことが多いのだ。禍々しい感情ほどパワーがあるということなのだろうか。ぼくにできたのは、できるだけ見知っている人間を増やさないようにすることだけだ。

 姉はいつもの不満そうな、しかしあきらめたような表情で話すのをやめた。

 しばらく待っていると、バスが来た。姉が先に乗り、二人分の料金を払った。

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