第3話
いてもいなくても同じ。ぼくはいちいち気にしなかった。いつものことだ。むしろ変に話しかけられて相手させられるより、大勢の中でも一人でいられるのを望んでいたのかもしれない。
とにかく、飲みつけない酒をちびちびやり、適当につまみを食べ、早く時間が経って解放されることだけを考えていた。かつて彼らと一緒に学校にいる時間が過ぎるのをただひたすら待っていたように。姉はその様子を見て、少し安心したようだった。
ぼくがここ五年くらい、ほとんど部屋から出ないでいるものだから、人づきあいがまったくできないのではないかとしきりと心配して、同窓会を口実に無理に外に連れ出したのだが、何、ごく短い間表面的につきあって喧嘩しないで別れるのだったらお手のものなのだ。
始まってかなり経ってから橋本がやってきた。彼はぼくを呼び出す時の使い走りをしたり、奴がぼくを殴る時に腕を押さえたり、ついでに後ろから膝蹴りを入れたりはしたが、主犯ではない。居酒屋にきょろきょろしながら入って来て、ぼくと目が合った時も、はっと気付いたあと、忘れたようなふりをして通り過ぎた。高校を出る時、あちこちの会社を受けたが全部落ち、結局親の会社に入って小さくなって四年経つうちに、びくびくしているのが習い性になったようだ。
それから、木口もやってきた。こっちはぼくの顔を見ても反応を見せず、こっちが会釈すると反射的に会釈を返した。長いことあちこちのコンビニを渡り歩いているうちに、相手の顔に目を向けていても見ずにすませて機械的に挨拶する癖だけは身についたようだ。
橋本と木口はお互いのことを明らかに気付いていたが、知らぬふりをして離れた所に座った。中学の時はあれだけ意味もなくつるんで歩いたくせに。
だが、奴が…清川が来た時は様子が違った。
意外なことに、奴の顔を見ても最初はわからなかった。のばし放題にのばした鬚、ばさばさの髪の毛、そしてどろんと濁った目の色。明らかに店に来る前から泥酔していた。もしかしたら、酒以外のものも入っていたのかもしれない。足元もおぼつかなく、そのくせ服だけは不思議と身綺麗なものをつけていた。
橋本も木口も、最初は清川に気付かなかったらしい。最初に気付いたのは誰なのか、よくわからない。ほとんど示し合わせたように、三人同時に気付いたようだ。
他の同級生たちには、ついに奴が同級生だとわからなかった者もいたのではないか。ホームレスが間違えて紛れ込んだような反応だった。それとわかった後も、
「誰だ、あんなの呼んだのは」
というささやきが、確かに聞こえた。
清川はどこに座ろうかとぐるりを見渡した。橋本と木口は、明らかに敬遠するように隣の同級生に話しかけだした。しかし、清川は委細構わず、まず橋本の横に割り込むように座った。明らかに橋本は迷惑そうに一方的に話しかける清川の言葉にただ機械的にうなずいていた。と、清川の方でもそれに気付いたらしく、橋本の頭をはたいて立ち上がった。気軽に軽くはたいたつもりなのかもしれないが、明らかに橋本の顔が酒だけのせいでなく赤くなった。
続けて、木口のもとに清川がふらふらと寄っていった。木口はさっきまでの表面的な愛想の良さをかなぐり捨てて、あくまで無表情に清川の口が回り続けるのを、ただ見ていた。話している内容はわからなかったが、素面の時でもまともな話ができなかった男だ、まして酔っぱらっているのだから聞くに耐えまい、と思っていると、かつての子分たち(清川の方で勝手にそう扱っただけの気がするが)のつれない素振りに不満なのか、案の定、清川はぼくの方にやってきた。
何をするつもりだろう。中学生の時の再現とすると、ゴキブリをビールに入れて飲ませるつもりか、舌でトイレの床を掃除させるつもりか。それとも裸で踊らせるか。裸踊りは、大人がやったらかえってただの無礼講になる気もするが。
ちらと姉の方をうかがうと、プロ野球のベンチの監督よろしくどっかと座って動かないでいる。自分でなんとかしろ、というつもりなのだろう。
清川が手を上げて来た。ぼくは素早く手を上げ、ぼくの頭をはたこうとした奴の手をブロックした。
濁った目が驚いたように見開かれた。ぼくはじっと奴の目を睨み付けた。また、あの症状が起こらないか不安だったが、奴が他の誰からも相手にされないさまを見て、一種の勇気、というより侮る気分が生まれてきていた。おそらく、それまでちびちびではあっても絶え間なく飲み続けていたアルコールのせいもあっただろう。と、奴は余裕を見せたつもりなのなのかもしれないが、不敵なつもりらしい下手な笑みを見せて、ぼくの正面の席に座った。
「よう、しばらくぶり。どうしたい、ちっとも噂聞かないけど」
それはそうだろう。ここ五年間、とにかく人目にたたないように過ごして来たのだから。
「そっちこそどうした」
ぼくはわざと荒っぽく聞き返した。
「ん…まあ、ぼちぼちだ」
おとなしく見せているが、情緒は安定していない。明らかに今、奴は羽振りが悪い。そう見てとると、ぼくは急に借りを返してやりたくなった。
しばらく、奴はぺらぺらとつまらない、退屈なだけでなく、不愉快なホラがかった自慢を並べていた。うんざりしたぼくはそれを遮った。
「相変わらず、誰かいじめてるのか」
清川は口に運びかけていた酒の入ったグラスを中途で止め、それから改めて一気に飲み干した。また作り笑いを浮かべながら、
「いやだな、いつまでもそんなことするもんか」
おちゃらけたような言い方に、ぼくはさらに追い討ちをかけた。
「それとも今じゃ、いじめられている方か」
濁った目がぎろっと動いた。赤みがかっていた顔色がすうっと青白くなる。清川が立ち上がった。突然、罵声が轟いた。
「生意気言うんじゃねえぞ、この野郎」
あたりのざわめきが、潮が引くように引いて行った。姉の表情が変わったのが、視界の隅に写る。
「表に出ろっ」
ぼくはグラスを口に運びながら、立ち上がらないでいた。ぼく以外に同じテーブルについていた同級生は、すでに席を外している。
姉がしきりと首を横に振っているのが見えた、というより感じていた。
突然、ぼくの中に奴と同調して禍々しく恨みがましい怒りが生じ、何かにはねあげられたように立ち上がると、奴の顔が目の前に迫っていた。姉が割って入ろうとした。
「誰だ、おまえ」
清川は血走った目で姉に食ってかかった。
「弟が、何か言いましたか」
清川はふらふらしながら、ぼそっと言った。
「弟の喧嘩に、姉ちゃんが出るのか」
「もうやめたらいかがです」
卑しい笑いが奴の顔に広がった。
「弟なんか放っておいて、男と楽しめよ」
と、顔を姉の目と鼻の先に近付けた。平手うちの音が響いた。
「この野郎っ」
奴が姉につかみかかる前に、ぼくは奴に組み付いていた、と思ったら組み付かれていたのはぼくの方だった。
見ていると、橋本が清川を抑えてテーブルから引き離していた。振り返ると、至近距離にぼくを羽交い締めにしている木口の顔が間近に見えた。腹たちまぎれに、ぼくは後頭部を木口の顔面に叩き付けた。木口が手を離した。
「今になって、正義の味方面するなっ」
怒鳴ってから、しばらくぼくと木口はにらみ合っていた。こいつが俺にやったことに、どれくらい清川と違うというのか。子細らしい顔してるんじゃねえっ。頭の中にそんな言葉ががんがん鳴り響いていた。もしかしたら、口に出していたかもしれない。
ぼくは立って荒い息をつきながら、ふと引き立てられて行く清川の姿を見た。と、隣のテーブルのそばまで引きずられた清川は、突然その上にあったまだ三分くらい残っているビール瓶を握ると、テーブルの角に打ち付けた。瓶が割れ、破片と泡立った中身があたりに飛び散った。
「ぶっ殺してやる」
あちこちから悲鳴が上がった。姉の声が響いた。
「逃げなさい」
ぼくは出口に向かい、すぐそばまで来てから急に振り返った。
清川が罵声を浴びせているのは、今ではぼくではなく、割って入ったかつての子分の橋本と木口にすり代わっていた。姉が手振りで、行け、行けと指示している。
ぼくは改めて出口に向かい、外に出た。
(酒だけじゃないな)
という声が聞こえた。あるいは自分でそう思っただけなのかもしれない。
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