第2話

「おい、起きろよ」

 肩をつかまれ、揺すられた。

 背中が冷たい。固いものに押しつけられていて、あちこちすれたような痛みを感じる。

「起きろって」

 真っ暗だった。目をつぶっているかららしい。粘りつくような瞼を上げて、目を開いた。

 上から丸まっこい塊が下がっている、と見えたのは制帽をかぶった警官の顔だった。後ろにはまだ暗い、青みがかった空が広がっている。

 ぼくは頭をもたげた。警官が、ぼくの肩の下に手を入れ、起き上がらせてくれた。

「こんなところで寝て。風邪ひくぞ」

 そう言われたとたん、身体の芯まで冷えているのに気付き、鼻をすすった。

「立てるか?」

「はい」

 声を出してみると、問題なく出た。喉も痛くなく、声もかれていないようだ。

 警官が貸す手から逃げるように、ぼくはできるだけ急いで立ち上がった。少しふらついたが、立っていられる。

「あまり若いうちから飲み過ぎるな」

「はい」

 神妙に答えた。

「帰れるか?」

「大丈夫です。帰れます」

 言うより早く歩き出していた。警官が追ってくる気配はない。よくあることなのだろう。

 ぼくは肩をすぼめて掌で二の腕をこすった。今はいつごろの季節なのだろう。朝だから冷えるが、それほど寒い時期ではないようだ。

 と、思ってから、いま何月なのか覚えていないのか、と妙な気がした。確かに記憶がすっとんでいるらしい。飲み過ぎて前後不覚になるとはよく聞くが、それが自分に起こるとは思わなかった。

 歩きながら、今見えている街の記憶を探した。朝のひと気のない時の青みがかった光景なのでだいぶ印象が違うが、見覚えのある街角だ。

 家までバスで5つか6つくらい離れた盛り場なのが、ほどなくわかった。何度か来たことがある。探すと、少し迷ったが、バス停はすぐ見つかった。もう運行しているのだろうか。

 朝早いことは確かだが、いま何時なのか、わからなかった。私は腕時計を持っていない。部屋の中にいればいつでも時計を見ることができるので、必要ない。とにかく、バスが来るまで待つことにした。小銭があるか心配になり、ポケットを探ると、鍵のついた財布が出て来た。中を覗くと、千円と小銭が少し。いくらなのかよく覚えていなかったが、片道なら足りるだろう。

 それほど待たずにバスが来た。乗り込むと、もう三人の先客がいた。

 バスが走り出すと、ぼくはもっぱら流れて行く窓の外を見ていた。ぽつりぽつりとまだ閉まっている店が通り過ぎるほかは何もない。自動販売機の明かりだけが、まだこうこうと点いている。

 そんな単調な繰り返しを見ているうち、きのう何があったのか、考えるともなく考えていた。 

 こうやって外に出たのは何日ぶりだろう。隣街まで足を伸ばしたとなると、何ヶ月、いや何年ぶりかになるかもしれない。

 もしかすると、中学の時から七年かたこの路線のバスには乗っていなかていのかもしれない。高校に通う路線は別のものだったし、それも一年足らずで辞めてしまったのだから。

 高校の同級生のことは何も覚えていない。ほとんど通わなかったし、行っても一切口も聞かなければ、目も合わさないようにしていた。

 中学の…、そう中学の同級生のことはよく覚えている。何しろ、きのう会ったばかりだ。

 会ったというより、会わされたというべきだろう。なぜ姉はあんなにむきになって同窓会に出ることを要求したのだろうか。わざわざ酒を飲んだこともないぼくをひっぱって、居酒屋で開かれた会に連れて行ったのだ。ショック療法のつもりだったのだろうか。

 だとしたら、ショックが強すぎたらしい。どれくらい飲んだのかも、いつ店を出たのかも、どこをどうほっつき歩いていたのかも覚えていない。

 誰とどんな話をしたのかも…いや、その記憶はこびりつくようにかすかに残っていた。だが、何か膜がその上に張られているように、輪郭がぼんやりしている。

 急に、今が五月なのに気付いた。

 東京の大学に行っていた連中が帰ってきて一息ついた時期に合わせたのだろう。奴らは大学には行っていないはずだ。高校を出て、就職したのかぶらぶらしているのか。時間を過ぎても姿を見せないので、一安心したところで、まるで見透かしたように姿を現わした。

 奴ら? って、誰だ?

 わかっているはずなのだが、まだ頭の中に膜が張ってあるような感触はなくならない。

 その時、降りる停留所が近いことに気がつき、ぼくはボタンを押して降車のサインを出した。

 バスを降りると、見覚えのある風景が目の前に広がった。

 家のすぐそばなのだから見覚えがあって当然なのだが、なぜかデジャ・ヴというのか見たことのないのに見覚えのある風景を見ているような違和感がある。

 ぼくはいちいち道を確かめるように歩き出した。

 バスを降りて、通りを横切って横道に入り、最初の十字路を右に曲がり、茶色い壁の分譲マンションのある角で左に曲がる。

 ほどなく、ぼくが、いやぼくたちが住んでいるローズハイツが見えてきた。名前はもっともらしいが、昔でいうなら長家みたいな古ぼけたアパートだ。

 急ぎかけて、石畳に少し蹴つまずいた。頭が振れ、全身がひやっとした感覚に包まれた。

 気付くと、またぼくは道に倒れていた。

(またか)

 石畳といっても、それらしく見せかけたタイルをセメントで道に貼付けただけのもので、近くで見るといいかげんに施行したのか、少し波打っているのがわかる。

 腹がたちかけたが、とにかく立ち上がった。特にけがはないようだ。すがるようにとにかく部屋に急いだ。

 鉄製の外付けの階段を登り、204号室の扉を探し、財布についていた鍵を鍵穴に入れて、回す。錠が外れる感触がした。チェーンはかかっていない。おそるおそるドアを開いて覗くと、白い先の尖ったハイヒールが見えた。

 姉がきのう、ぼくについてきた、いやぼくを連れていった時にはいていた靴だ。

 起きているのだろうか。音をたてないようにそっとドアを身体が通るぎりぎりだけ開き、素早く中に滑り込んだ。

 部屋の中はしんとしていた。そっと靴を脱ぎ、足音を忍ばせて玄関に隣接してあるキッチンに上がった。テーブルの上に、姉が買って来たヒヤシンスの花びらが散っていた。

 姉の寝室の襖は閉まっている。並びにぼくの部屋がある。そっとぼくの部屋の襖を開けようとしたら、

「守?」

 姉の声がした。

 しばらく、いや、実際はごく短い時間だったのだろうが、ぼくはそのまま硬直したように動けなくなった。

「守なの?」

「ああ」

 襖が開き、姉の郁美が姿を現わした。赤いブラウスにグレーのスラックスという、きのうの服装のままだ。

 急にどっと疲れが襲って来て、また軽くめまいがした。

「とにかく、休ませて」

 それ以上何か言われるのを遮って、ぼくは部屋に入った。ベッドに潜り込むと、シーツを頭の上までかぶって目をつぶった。幸い、それ以上小言を言ってくることはなかった。実際、疲れていたのだろう、そのまますぐ意識が遠くなった。


 目をさましても、真っ暗だった。

 そのまま、きのう何があったのを思い出していた。

 居酒屋に着くまでに、どこでどうやって調べたのか、ぼくの同級生の近況を事細かに話して聞かせた。店には、一番乗りだった。姉は少し離れたところで、ぼくを見張っていた。

 だから、ほとんど七年ぶりの元同級生たちがぼくを見てどう反応するか、一人一人観察できた。まったく気がつかない者、不思議そうな顔をして見返す者、それから…それだけだった。まともに挨拶をしてくる者はまったくいなかった。こっちから挨拶すれば返してくるのは良い方だ。実をいうと、ぼくの方でもかなり顔を忘れてしまい、貸し切りだから部外者は入ってくるまいと、とにかく誰か入って来たら挨拶するようにしていたのだ。

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