第2話
「嫌だなぁ。帰りたいなぁ。帰っちゃおうかなぁ。でもなぁ」
前日に水路という水路が氾濫し、街中が水浸しになった、ある春の日。
時たま残っている水たまりを避けながら、僕はとぼとぼと歩いていた。
横の水路を、すいーっとゴンドラが流れていく。漕ぎ手の女性が優しげに口ずさむ歌声が、風に乗って聞こえてくる。
「人と恋は出会うもの。時と水は流れるもの」
恒例の大水害にあったとて、僕が住む水の街はびくともしない。水は流れるものなのだ。
慣れたものである。
けれど、人とはあまり出会いたくなかった。
慣れないものである。
生まれてもうすぐ十六年になるけど、知らない人と会うのは、やっぱり慣れないし、嫌だし、ましてや二人きりになるのなんて絶対に耐えられない。服のまま水路に飛び込んで逃げたくなる。泳げないけど。
「でも、父さんに頼まれちゃったしなぁ。せめて無口な子だったらいいなぁ」
喋らなくて済むし。
頼まれると嫌とは言えない性格――と言うか、単に断る勇気がないだけだが――を遺憾なく発揮して、僕は父から「可愛い女の子のお迎え」を命じられていた。遠い親戚の娘で、なんでも今日からウチに住むという。
可愛い女の子、ねぇ……。
憂鬱だ。ほんのちょっぴりも胸が踊らない。女の子ってだけで話せないのに、可愛いだなんて論外だ。目を合わせることだって出来そうにない。
なんてことを考えながら、待ち合わせ場所の、大きな広場にあるカフェに着いた。
いちおう、辺りを探してはみるが、山高帽にスーツのおじさんや、せっせと働く女給のおばさん、ピザを片手に陽気に笑い合うおじさんたちくらいしか目に入らない。いつも通りの風景だ。
いっそ来てくれなくてもいいな……。
僕がそんなことをうじうじと考えていると、後ろからいきなり声をかけられた。
「こんにちは」
驚いて振り向くと、そこには綺麗な女性がひとり、大きなカバンを持って立っていた。この辺りでは見たことが無かった。
明るい青色のワンピースが、とてもよく似合っていて、切れ長の細い目も、同じ青色だった。青空、というイメージが世界一しっくりくる人だと――僕はそこまで世界を知っているわけではないけれど――一目見た瞬間にそう思った。
――誰だろう?
そんな疑問にようやく思考が追いついたとき。
「ロッシさんですか?」
と、女性に聞かれた。
あ、と思う。疑問が解決する。糸が繋がった。
この人が――父さんの言う「可愛い女の子」だ。
その言い方から、てっきり年下だとばかり思っていたけれど、とんでもない。どう見ても年上の、オトナの女性だ。後で聞いたら、実際には二つしか違わなかったのだが、十六歳の少年から見れば、十八歳の女性はかなりオトナに見えてしまうのだ。
そ、そ、そうです、と慌てて僕が頷くと、その人はいきなり笑い出した。
「ねぇ、寝癖ついてるよ? それになんだか大きな眼鏡ね。すごく重そう」
彼女はそう言って笑った。細い目をさらに細くして、すこし大きな声で、楽しそうに笑った。
八歳のころに両親と死別し、それから十数年もの間、親戚の家を転々としてきた苦労など、まるで垣間見ることの出来ない、それは完璧な笑顔だった。
「ああ、ごめんなさい。初対面なのにこんなこと言って失礼だよね。あなたがあんまり良い人みたいだったから安心しちゃって……。わたしはケンオ。ケンオリアーナ・グレッシーニ。よろしくね」
僕がぽかんと口を開けていると、彼女が自分の非礼を謝罪した。僕が『呆れて物も言えない』状態だと思ったらしい。
そうではない、その笑顔に見とれて、怒ることすら忘れていたのだ――とは、とても言えなかった。
「お名前は――ポゥくん? あってる?」
何も喋らない僕の顔を覗き込んで、ケンオは笑顔で尋ねた。彼女の方が、僕より少し背が高かった。どきまぎしながら答える。
「そ、そう。ポゥ・ティアーノ・ロッシ。よくわかったね、僕のこと。父さんに聞いたの?」
彼女は、かぶりを振った。
「ううん。男の子がいるのは知っていたけど、名前も特徴も、何も聞かなかったわ」
「え? じゃあどうして……」
「聞かなくても分かるわよ。わたし、こう見えても魔女よ?」
首を少し傾けて、得意げに。
にっこりと彼女は笑った。
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