第13話 タグを自動で修正します

 柏銀行との打ち合わせは順調に進んだ。最終チェックのような物だったので相手を説き伏せたり、自社をアピールする必要はほとんど無かった。

 ただ向こうの役員の一人がICHIHAとなにやら遺恨が有ったようで、嫌がらせのように追加資料を請求されたのだが問題なくクリアできた。

 施工日やらなにやらのスケジュールや大体の流れを決めた後、会議はお開きとなる。

 柏銀行の担当者に見送られながら康晃は、ほっと息を吐いた。時刻は十一時を少し過ぎている。

 突貫で出させた資料だったが、必要以上に上手く出来ていた。昨日一日で……しかも追加で資料を作ったほどだ、よほど急いだのだろう。

 褒められても嬉しくないと、拒絶を滲ませていた果穂を思い康晃は苦笑する。だがそれもここまでだ。

(明日は祝日だし……)

 柏銀行本社フロアを歩きながら、康晃は珍しく心が躍るのを感じた。急ぎの案件は特にない。このまま年末を迎えるのだが、今年はだいぶ様相が違っている。

 過ごしたい相手が居る。

 その事が自分でも驚きだ。

(今日の帰りは前回と同じく拉致だな)

 さあって、どうやって彼女を捕まえようか……。

 そんな楽しい妄想を繰り広げながらエレベーターを待っていると、後ろから来る香月の勝ち誇ったような声が聞こえて来た。

「兎に角問題をクリアできて良かったわ~」

「追加資料、良く間に合ったな」

 感心したように言う建設の真鍋に、香月はにっこりと微笑んだ。

「事務に任せてたんですけど、これが全然使えなくて。もー大変でしたよ、私も他の打ち合わせ入ってたし」

(…………ん?)

 回数を示すランプを眺めていた康晃が振り返れば、香月が「部長もお疲れ様です」と笑顔を見せて来る。

「上手くまとまってほっと一息ですね」

 胸に手を当て、息を吐いて見せる香月に曖昧に頷く。彼女の台詞が引っかかるが、香月が果穂を目の敵にしているのをなんとなく理解していたので、火に油を注ぐような真似はすまいと言葉を呑んだ。

(帰りに拉致するとして……いや、まずは昼だな、色々ひっくるめて褒めてやるか)

 それに彼女が作った音楽ホールと駅舎の資料もまだ使いどころが有る筈だ。白石のデザインは非常に人気が高いし。

 決して朝の……ひいては昨日の夜の出来事を引きずっているわけではない。断じてない。

(アイツ、まだ社に居るよな?)

 食堂もあるがそこに居るだろうか? それとも外に出ているか……。

「部長も褒めてくださいよ」

「ん?」

 やって来たエレベーターに乗り、一階を目指す。すっきりとした立ち姿に屈託のない笑みを浮かべた香月が、猫のような目を妖しく光らせて康晃だけを見て居た。

「何をだ?」

「いえ、それよりももっと高槻さんの仕事量を減らした方がいいですよ」

 眉間に皺をよせ、深刻そうに訴える。顎に手を当てて、香月が大げさに溜息を吐いた。

「彼女、自分の実力が判ってないみたいです。何でもかんでもはいはい、って引き受けて結局どれも中途半端。今日の資料だってお願いしたのに全然出来なくて、それで見かねた私が引き取ったんです」

 微かに康晃の眼が大きくなる。

 それに気を良くした香月が更に饒舌に畳みかけた。

「こっちだって打ち合わせだの外回りだのが有ったのに……忙しい合間を縫ってたらあの時間ですよ。まったく……仕事には優先順位があってそれをわきまえられないのは――――」

 続く香月の告げ口は、康晃の耳をスルーしていった。

 頼まれた仕事が出来ていない?

 いや、そんなことはない。前はだらだら仕事をしていたようだが、今の彼女は働かない羽田の代りも務めている。本橋や松原、件の香月のアシスタントもしながら康晃の雑用もこなしているのだ。

 それが出来ない事はない。きちんと仕上がって来る。

 だが。

「あの資料」

 永遠と高槻の仕事の出来なさを説明していた香月を遮る。

「お前が?」

「はい。大変でしたよ」

 苦く笑って肩を竦める香月に、康晃の心臓がどきりと音を立てた。嫌な物が胃の腑を駆け巡って行く。

「……そりゃ大変だったろうな、昨日はほぼ外回りだったんだから」

 平然と聞こえるよう気を付けたが、どこか掠れてしまった。対して彼が自分の行動を覚えていてくれた事実に、ぱっと香月の頬が赤く染まった。

「ええでも、何でもないですこれくらい。まあ……高槻さんがもっとしっかりしてくれてればとは思いますよ」

 はあ、とこれ見よがしに溜息を吐く香月を康晃は見下ろしていた。

 正確には見下ろしているが、その瞳に香月は映っていない。

 康晃の脳裏は激しく回転していた。

 どういうことだ? あの資料を作ったのは果穂ではなくて香月だと? 何故? 彼女は確かに資料を作っていたではないか。二十時過ぎまでずっと―――

「香月ちゃん、一緒にメシいかねぇか?」

 康晃の物思いは、真鍋が発した声に破られた。

「奢ってくれるならいいですよ」

 エレベーターを降り、フロアを歩きながら朗らかに答えた香月が、ちらと藤城を見上げた。

「部長も行きましょ。今日は真鍋さんの驕りってことで」

 えー、と不服そうな声が上がる。それから和やかな雑談が始まるが、康晃はそれどころではなかった。

「……いや、俺はまだやる事が有るから遠慮しておくよ」

 上の空で答えながら、彼は状況を整理しようとした。

 香月は果穂に資料の作成を頼んだ。

 だがそれが間に合わず、香月が資料を作った。

 それにもかかわらず、果穂は追加資料を作っていた。

 それらから導き出される答えは……?

「じゃあ、夜にでもお疲れさま会を開きましょう」

「また奢らせるつもりか、香月ちゃん」

「嫌だな、当たり前じゃないですか」

 あはははと盛り上がる声を背景に、康晃は辿りつきたくない答えを導き出しそうになり慌てて首を振った。だが……状況が指し示すのは……。

ぐ、と奥歯を噛みしめ違う考えはないかと黙考していると。

「部長」

 声を掛けられ、康晃は後ろを振り返った。

 この案件を香月と一緒にまとめていた松原が、苦い物でも飲んだような顔でこちらに近づいて来る。

「あの……香月さんはああいってましたけど、高槻さんも頑張ってたんですよ」

 先を行く二人を見ながらそう言って、彼は困ったような顔で肩を竦めた。

「ただ高槻さんへの指示がおかしくて……的場銀行の案件をまとめる筈だったのに、何がどうなったのかうちが携わった銀行の工費をまとめてくれって言われたみたいで」

 はっと藤城の身体が強張る。それに気付かず松原は困惑したように先を続けた。

「でも高槻さん、今からでも十分間に合いますって資料室にこもりっきりで……追加資料が出来上がって来たから間に合ったんだと思ってたんですけど」

 彼女が悪いんじゃなくて、指示がどこかで違ってたんです。

 そう告げて顔を上げる松原の肩を、康晃はなんとかぽんと叩いた。

「……ナルホドね」

 それから、唐突に湧いた怒りが渦巻く腹の内を隠してにっこり笑って見せた。

「大丈夫。俺も高槻の事はちゃんと……判ってるから」

 その笑顔に、松原はほっとしたように胸をなでおろした。

「ですよね。最近高槻さん、お嬢様のような……高飛車な雰囲気が消えていい感じだなぁって思ってたんで。誤解されたままだと可哀想かなって……」

 どこか照れたような松原の台詞に、何故か康晃は……苛立った。

 彼女の雰囲気が変わったことなど、俺の方が良く知ってる。お前に言われなくてもなッ

(って松原相手に何考えてんだ)

 掻き立てられた苛立ちを飲みこみ、早足に柏銀行本社を後にする。

 康晃の脳裏には、香月の言葉と松原の言葉……そして昨日の果穂の様子がぐるぐると巡っていた。

(どうしようもねぇな)

 何をしたのかは大体の見当がついた。彼が拒否しようとした事実が……真実だったとは。

 自分はちゃんと香月を買っているし、認めているつもりだったのにこんなくだらない事をと憤るが、そこではたと気付く。

 ―――つもり、だったのだ。

 康晃側が認めていると思っていたのだとしても、香月はそうは考えなかったのだろう。

 何をどうとらえたのか、彼女は自分が認められていないと考えた。

 そして矛先が果穂に向いた。

 自身の評価が彼女より劣っていると勝手に勘違いをして。

(……まあそれだけじゃないだろうが)

 プライベートと仕事は違う。そこになんらかの感情を持ち込まないのが康晃だ。だが香月は違ったのだろうと今なら分かる。

 彼女の生活スタイルを考えると……そんな気がしてくる。

 全てが仕事を中心に回っているという……印象を受けたからだ。

 生活のすべてが『ここ』に根差しているのだとしたら、恐らくプライベートと仕事を分けて考えることは不可能だろう。

 そうなると、香月の深夜の告白も大分様子が変わって来る。

 部長としての康晃を尊敬していると言う事は、プライベートでも康晃を尊敬していると言う事になる。つまり……公私ともに認めて欲しいというサイン。

 だが康晃は「仕事上」は香月を認めるが、プライベートでは彼女として付き合えない、と断言した。

 彼女にとってはオフィシャルで認められればプライベートでも当然だという考えなのだと今更ながらに気付き、更に康晃は焦った。

 どちらか一方だけ、というのは彼女には通用しないのだろう。だとしたら……プライベートで勝てなくても仕事で相手を蹴落とせばいつかは自分に振り向いてくれるだろうと考えても不思議はない。その為に……手段を選ばなかったとしても。

(くそッ……)

 昨日の果穂の様子を思い出す。自分が作った資料にダメ出しをされて落ち込んでいた……以上に悔しそうだった。必死に自分を立て直そうとして、へらりと笑って見せていた。

 指示が違っていた事を康晃に告げ口しなかった事実が、果穂のプライドの高さを物語っている。

(多分……指示が違っていたからこそ……違うアプローチをしたんだろう)

 資料が出来上がっていなければクライアントの機嫌を損ねる。クライアントが何らかのマイナス感情を抱いていたのなら尚更だ。その資料を香月が蔑ろにするわけがないので、果穂が手を出そうとした時には既に資料は出来上がっていたのだろう。

 頼まれた仕事が出来ていない……そんな事態をなんとかして回避しようとして……。

(果穂……)

 知らなかったとはいえ、自分は彼女の仕事を「無駄」だと切り捨てた。既に出来上がっていた物が良質だっただけに。でもそれは果穂にしてみれば酷い打撃だったのだろう。

 自身の発言に後悔はしていないが……ただ傷つけたかったわけじゃないのだ。

 帰社する間じっと苛立ちを堪えていた康晃は、辿り着いた自部署の人気の少ないフロアを見渡した。

 もちろん果穂は居ない。時計を見れば十二時を十五分ほど過ぎていた。

 どこに行ったのだろうか?

(兎に角話を……)

 何を今更と言われるかもしれないが、裏にあった事実を知ってしまったからには放って置くことも出来ない。彼女のコートがない事に気付き、康晃は一か八かで果穂の携帯に電話を掛けてみた。





「やっぱりこの案で行かせてください」

 一通り打ち合わせをし、どの建設案を採用しようかと白熱した議論を交わす。その中で、果梨はどうしてもあの門のような外観の設計案を却下したくなかったようで、熱心にそれを推し続けた。

「だがこれは結構……奇抜な部類に入るぞ?」

 周囲の風景を思い描きながらそう指摘する白石に、しかし果梨は頑として首を縦に振らない。

「確かに一見奇抜に見えますが、色調をもっと明るめにして……なんっていうかな……こう眼鏡橋みたいな感じにするといいと思うんです」

 長崎の街の中にありながら、どこかレトロな雰囲気の漂う橋を示唆されて白石は唸った。確かに、形状と色調の均整がとれていれば調和するかもしれない。

「もう少し、レトロ感を出せば行けると思います」

 会議室のテーブルに乗り出してそう告げる果梨に、白石は最初気圧されたが次第に微笑みが漏れるようになった。彼女の言葉はまっすぐで……いい意味で裏が無い。

 本当にそう思うからそう言っているという感じが伝わって来る。瞳に宿る熱意もホンモノだろう。

「……お前の感性に任せろと?」

 にやりと口角を上げて笑うと、ぱっと果梨の頬に朱が差した。そこから真剣に考え込む。赤い唇を噛んだ三秒後に、彼女はきっぱりと頷いた。

「その通りです」

 途端、白石は豪快に笑った。

 ナルホド、顔も体型もそっくりだがこういった思い切りの良さは果梨の方が上のようだ。

(いや……入れ替わりを提案するくらいだから果穂も相当なものだろう)

 ふと脳裏をよぎる恋人の姿を、白石は無理やり封印した。今は彼女の話をする時ではない。

「じゃあ急ぎでこっちの案を使える形にする。が、そうなると高槻の仕事が押すが……」

「それなら大丈夫です。白石さんの描いたものはこの間で大分勉強しましたから。下地くらいは作って置けます」

 にやりと笑う果梨に、今度こそ白石は感心した。転んでもただでは起きないと彼女は言ったのだ。

 そこでふと、昨日、彼女がくしゃくしゃにしたあの資料の事を思い出した。

 あの資料の事でも話が有ったのだ。

 時計を見れば十二時を三分ほど過ぎていた。

「別件の話が有るんだが……飯食いながらいいか?」

 立ち上がり、伸びをしながら言われたセリフに果梨は瞬きをした。





「独立、ですか」

「ああ」

 ざる蕎麦とセットになっている親子丼を食べながら、白石が無造作に頷く。それも当然だろうと果梨は納得した。それと同時に彼を失ったら東野設計事務所は困るだろうなぁとどこか遠い所で思った。それくらい彼は優秀だ。

「来年の春くらいに考えてる」

「凄いですね」

 感心したように呟く果梨に、丼に半ば埋めるようにしていた顔を白石が上げた。

「そこで高槻に個人的な頼みがある」

 藤城と初めて来た蕎麦屋で、彼が食べていたえび天蕎麦を頼んで食していた果梨は、天ぷらにかぶりつきながら顔を上げた。

「ふあい」

 もぐもぐする。

 何を頼まれるのだろうと深く考えずに彼を見れば、白石がにっこりと微笑んだ。

「君に俺の売り込みようの資料を作ってもらいたい」

 さらりと告げられたその台詞に、果梨はえび天を喉に詰まらせた。

 げほげほと咳き込む果梨をすまなそうに見つめながら、白石は早口に告げる。

「さっきの感性云々に関わるんだが、君の文章の書き方とか……選んだ建物のセンスとかが俺の理想なんだ」

 そう言われて嬉しい反面、果梨は困惑する。確かにクライアントの為を思って作りはしたが……。

「わ……私、デザイナーでもなければ広告プランナーでもないんですよ?」

 おしぼりで口を押えながらそう言う。

 自分はただの事務で、レイアウトとかキャッチフレーズを考えたりするような広告の仕事はしていない。ハッキリ言って門外漢なのだ。自分の資料だって、『上手な資料の作り方』的なマニュアルを踏襲しているだけだ。

 だが白石はそんな事は意に介してい無いようで、ただ肩を竦めるだけだ。

「確かにそうかもしれないが……俺が言いたい事を直感で汲んでくれたのは康晃と君位だから」

 ここで部長の名前を出されて果梨はどきりとした。

 あの藤城部長と同じ部分がある?

「まあ……私はあの人の部下ですから……」

「と言ってもまだ三週間くらいだろ?」

「…………はい」

 そう考えると、果梨は非常に優秀な『拾い物』と言えるだろう。

「前の会社で広告の仕事をしてたとか?」

「とんでもないです! 果穂と変わらない、しがない営業事務ですよ」

「売ってるモノは違う?」

「ええまあ……」

 お茶を濁す果梨に、白石は彼女の前の仕事に付いてもうちょっと言及しようかと考える。だが途端口の重くなった彼女に昔の話をさせるのは大変かと、その方向で切り込むのは止めた。

 こんな突拍子もない『入れ替わり』を承諾したのだから……きっと彼女にも何か事情があるのだろう。そしてそれを探る権利があるとすれば……騙されている康晃のみだ。

「だとしたら、康晃は良い拾い物をしたな。間違っても果穂はこういうのに向いていない」

 溜息交じりに云われた白石の台詞に、果梨は思わず吹き出した。

 果穂と果梨で違いがあるとすれば、集中力や手先の器用さにある。

 楽しい事が大好きで、人の輪の中心に居ようと全力を尽くす果穂はその性格が示す通り大胆且つ、飽きっぽい。誰かに奉仕するよりも奉仕される方が好きで、ものを作るなんて事に一切興味を持っていなかった。

 対して果梨は誰かの為に尽くしたり、物事の成り立ちを調べたりと一つの事を探求するのが好きだった。ただし、果穂程大胆ではないので肝心な場面で尻込みして結局裏方に回る事が多い。

 果穂が主役を張れるヒロインだとすれば、果梨は脚本家なのだ。

 そんな果穂が、例え愛する人の為とはいえ何かをデザインしたり調べたりするとは思えない。

 やった所で途中で飽きて放り出すに決まっている。

「アイツが前にケーキを焼こうと奮闘してたが……結局俺が作る羽目になったよ」

「盛り付けたり、飾り付けたりが好きで測ったり混ぜたりが嫌いですからね」

 お察しします、と苦笑いをすれば白石もく、と声を出して笑った。

「今までの仕事の仕方なら、きっと康晃は君に目もくれなかっただろう」

 ひとしきり果穂に想いを馳せた後、不意に真顔になって白石が切り出す。

「ああ見えてもアイツは人を見る目があるし、仕事に厳しい。あんまり言わないがアイツが部下に求めてる出来は九割だ。ただし、例え六割でも褒める能力がある。もちろん本心じゃないがな」

 モチベーションを削るような真似はしない。

 つまりは人の使い方が上手なのだ。

「だがそうは思わせてない所がまた……曲者なんだがな」

 溜息をつく白石に「その通りです」と果梨も小声で同意した。

 数日前の『夜中の会合』を思い出す。

 彼は確かに香月さんを肯定していた。……ある一定の部分では。そして香月が欲していたであろう肯定は一つもやらなかったのだ。

 それが吉と出るか凶と出るか……。

(ていうかそれが原因で私はいらんごたごたに巻き込まれてるわけよ)

 藤城が香月の「何もかも」を認めなければ、彼女は諦めただろうか。

 諦めて……果梨への嫌がらせもしなかっただろうか。

 考えた所で答えは出ないが……なんとなくそうはならない気もする。

 香月は例えどんな答えを藤城から聞いても納得しないだろう。ただ一言、藤城から「好きだ」と言われない限り。

 そこで不意に果梨は、藤城から「愛してる」と甘く囁かれる図を妄想してしまった。

 普段は氷の営業部長で、部下を褒めるが求める物はあまりにも高い、自分の持ってるスペックはハイレベルというあの藤城康晃から、蕩けるチョコレートのような甘さで「愛してる」と言われるのだ。

(うひゃあ)

 ぞくり、と背筋から腰に向けて甘いしびれが走り果梨の頬が熱くなる。

 そんなことを言われる女性は……。

(きっと物凄く仕事のできる、そして家庭的で、スペシャル美人なんだろうな……)

 なんせ求める物は「九割」だ。

 ちくりと胸が痛み、果梨はエビ天に視線を落とした。彼がこれを食していた時の事を思い出す。

 考えてやると言われたプロポーズ。

 付き合ってると言い張る彼。

 だがそれを言い出した藤城の最大の原因は「好奇心」だ。

 純粋な愛や恋とは無縁の筈だ。

(そう……愛してるなんて言われるわけがない)

 ほんの少し痛みが走る。だが、そう言い聞かせておかないと勘違いした心が、やがて来る欺瞞の終わりに爆発してしまうだろう。

 果梨はエビ天にかじりついた。

 今は。果梨は果穂だ。そして果穂として仕事をしている。彼女が帰ってくるまで自分は誰かと深く付き合ってはいけないし、深く入り込んではいけない。

「果梨?」

 ふと白石に本当の名前を呼ばれて目を上げる。そこには真っ直ぐに「果梨」だけを見詰める目があった。

「どうだろうか。俺は……本当の君に頼みたいんだが。もちろん報酬は払う」

「……私に……頼む……」

「そうだ」

 久々に果梨は血が沸くような感触を覚えた。

 誰かに必要とされる。

 自分が。自分の力が。

 ふつふつと湧き上る、軽くて甘いソーダ水のような感情に果梨は照れたように笑った。

 その、甘くふわりと優しい春のような笑顔を、一番目撃してはいけない人物に目撃されているとも気付かずに。





 焦燥感。苛立ち。そして……思っていた以上に自分がアホだった事実に非常に不快な感情を抱き、持て余していた康晃は、留守電に繋がったコールを力任せに切る。

 一縷の望みをかけて飛び込んだ行きつけの蕎麦屋で、自分にあるとは思わなかった様々な感情を掻き立てた張本人を見付けどっと安堵した。

 だがそれも、彼女が笑っているのを見るまでだった。

 自分が見た事のない、柔らかくて甘い……ピンク色の薔薇が綻ぶような微笑みに身体が凍り付き、目が離せない。

 そしてそれが誰に向けられているのかを遅ればせながら目の当たりにして、動かないと思っていた身体に衝撃が走るのを覚えた。

 それは非常に暴力的で、原始的な力の衝撃だった。

 それは康晃が普段、押さえている凍れる炎に油を注ぐようなものだった。

 腹の奥に着火し、我慢ならない速度で熱さが脳髄まで駆け上がる。

 俺ノ物二手ヲ出スナ

 そう灼熱のような本能が喚きたて、気付けば彼は二人の座るテーブルの真正面に、抑えきれない怒りの炎を宿したまま立っていた。

「ランチデートか?」

 狼の低い低い唸り声かと思うようなその一言が、果梨の心をふわりと覆った温かさを無残にも凍結させていく。

 はっと顔を上げた彼女は、じっとこちらを見下ろす藤城の怒りに満ちた眼差しの前に言葉を失った。ああどうしてこう……厄介事は大挙して押し寄せて来るのだろうか。

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