第12話 リンク先のURLを入力してください
果穂が逃亡した本当の理由を隠して、果梨は白石に事情を説明した。
彼女に泣き付かれて入れ替わった事。その際に果穂は藤城にプロポーズしていたらしい事。だが果穂の態度から本当は白石の事が好きなんじゃないだろうかと言う事……。
「あ、でもそれは私の憶測何ですケドね」
余計な事をするなと果穂から怒られそうかなと思うが、ここまで来たら同じだろう。
入れ替わって逃げ出したのを知られたくなかった相手が、白石なのだから。
対して白石は脱力したように椅子の背もたれに寄りかかっていた。くしゃりと髪をかき上げた手に、知らず顔を埋めてしまっている。
その姿に果梨は「そりゃそうだろうな」とどこか他人事な感想を抱いた。本来なら最大の秘密がばれてしまったのだから青ざめてしかるべき時なのに、何故か彼女はほっとしていた。
これ以上嘘を重ねる必要が無くなったからかもしれない。それに、白石に果穂として接するのは無理があると心のどこかで判って居たからだろう。
これがもし、藤城にばれたら?
(それは困る)
ぴしゃりと思考を否定し、その事に果梨は何故だろうかと不安になった。白石にバレた所で失うものは無い。だが藤城にバレた場合、容赦なく社会的鉄槌が下されるに決まっている。言ってもただの事務だ。自分と会社を騙していた果梨に激怒し退職を迫るだろう。
間違いない。
「あの……」
急に背筋が冷たくなり、果梨は慌てて白石に釘を刺しに掛かった。
「この件は……白石さんの心にだけ止めておいてください」
強張った果梨の声に、はっと白石が顔を上げる。自分の内側を彷徨っていた彼の瞳に果梨が映る。
彼はゆっくりと手を降ろし、じっと空になった器を見詰めた。
「果穂は……今どこに?」
掠れた声が尋ねる。それには果梨も答えようがなかった。
「一番可能性が高いのは実家かなと」
「……そうか」
自分が原因で果穂が姿を消した。
その事実が意外なほど巧を打ちのめした。
果穂は一方的に、何も言わず巧の前から姿を消した。しかも、消えたことを悟られまいと突拍子もない手段に出てまで。
「俺は……果穂に嫌われていたんだな」
ぼそりと漏れた低温の一言に、果梨はぎょっとする。
何を聞いていたんだ、この男は。
「違います! 逆です! 果穂は白石さんの事が好きだから……身を隠したんです」
「何故?」
鋭く聞き返され、彼女は言葉に詰まった。妊娠している事がばれないように……。だがそれを果梨が彼に告げるわけにはいかない。果穂が自分自身で告げるべきだ。
「俺達の関係は別に隠すようなモノじゃなかった。なのに、一方的に居なくなって君に代りを頼んで……」
「果穂は……結婚したかったんだと思います」
ずばりと切り込まれ、男の顔に動揺が走った。日に焼けた肌が青ざめる。テーブルに置かれていた彼の大きな手がぎゅっと握り締められた。
辛そうに歪んだ彼の顔に、果梨は先程彼が口走った言葉を思い出した。
二度と結婚したくない。
「……俺と結婚する事が出来ないから、姿を消した」
「まあ……その……」
だからと言って姿を消す理由にはならないし、ましてや果梨と入れ替わる理由にもならない。だが白石は果穂が結婚を望んで姿を消した、という事実が大きすぎて些細な事に構う余裕がなくなっていた。
再び落ちる沈黙。じっと何かを堪えるように考え込む白石に、果梨は何故「結婚したくない」のかその理由を聞きたかった。だが今の彼にそれを尋ねるのはどうしても憚られた。
彼自身が、その理由と果穂の間で戦っているように見えたから。
「白石さんは果穂の事……どう思ってらっしゃるんですか?」
何でもない、ただ付き合いが有っただけの女というのならここまで悩んだりはしないだろう。そっと尋ねたその問いに、白石は何も答えない。
手つかずの大根サラダに気付いて、それに箸をつけ始めた所で白石が呻くように告げた。
「果穂にすらその事を話してないのに、双子のあんたには言えない」
苦しげで突き放すような言い方なのに、サラダを口に頬張った果梨が白石を確認すれば耳まで赤くなっていた。
言葉以外が雄弁に語っている、事実。
「そうですよね」
彼女の軽い口調が気に入らない。思わず顔を上げた白石は、訳知り顔ににやける果梨を見付けて憤慨した。
「何をにやにやしてるんだ」
「別にぃ」
「高槻」
真っ赤になる白石が意外と可愛くて、きっとこういう部分に姉は惹かれたのだろうと果梨は結論付けた。藤城と違って彼は感情がストレートに顔に出る。裏表が無いのだろう。
だからこそ惹かれ……そして、「結婚しない」という発言がどれだけ本気なのか判ってしまったのだろう。その人を苦しめたくはない。義務で縛りたくない。
それが果穂の出した結論なのだろう。
「果穂は……元気なのか?」
こほんと咳払いをして尋ねる。すまなそうに果梨は苦笑した。
「それが……判らないんです。メールを出しても帰って来ないし……」
さっと白石の顔が青ざめ、果梨は慌てて「心配はないと思います」と付け足した。
「ラインのメッセージはちゃんと既読になってますから」
「……そうか」
ほっとしたような……でもどこか心配そうな顔のまま、白石はテーブルに肘を付いて額を抱え込んだ。
「俺も……連絡を取ってみるよ」
「あの」
気付けば果梨は白石にこう告げていた。
「果穂の事……本当に考えているのなら、諦めないで下さい」
まだ俯いたままの白石に、構わず続ける。
「このまま別れるのだけは……避けて欲しいんです」
果穂がどう思っているかはわからない。でも白石が義務で結婚したいというのなら、その事実を果穂は知るべきなのだ。いやその前に、果穂の身体に宿った命には、白石が必要だと言う事も絶対白石が知っておくべき事なのだ。
それらを隠して逃走するのは……卑怯だ。
二人にとっても、子供にとっても。
「果穂は……きっと白石さんの事、諦めたくない筈だから」
ぽつりとこぼれた果梨のセリフに、ようやく顔を上げた白石が真っ直ぐな眼差しで彼女を見た。
「俺も……彼女を諦めたくない」
複雑な思いの絡み合った、彼の黒い瞳。だがその底になにか……切羽詰まったような物が見えて果梨は切なくなった。
白石も果穂も、苦しんでいる。
「なんとか……上手く行くようなものを探してみるよ」
背筋を伸ばす白石に、果梨はぺこりと頭を下げた。
「姉の事……頼みます」
そのままどちらともなく立ち上がり、お会計……という段になって果梨は改めて白石が見せてくれた新しい設計案を自分が持っている事に気が付いた。
「って白石さん、これ……あと私、自分の分払います!」
レジで財布を出している白石に慌てて近寄りながら、果梨はファイルを持った手で器用にバッグから財布を出そうとした。鞄の底になっていた財布に押され、適当に突っ込んだだけだった例の資料がぽろりと鞄から落ちる。
だが手に物を持っていた果梨はその事に気付かなかった。逆にさっさと支払いを終わらせた白石が気付く。ひょいっと拾い上げ、慌てて財布の中を確認して「いくらですか?」と焦りまくる果梨に視線を遣る。
「いや、別に構わない」
ぎっちぎちにねじられた棒状の書類の、その上部に自分が担当した建設物の名前が見え微かに目を見張った。
「これ」
尋ねようと顔を上げれば、果梨はカウンターのマスターに詰め寄って「いくらですか!?」と値段を聞きだす真っ最中だ。その様子に巧は思わず苦笑した。
こう言う時果穂はスマートに、「ありがとう」と言ってとびっきりの笑顔を見せてくれた。もちろん、お財布を片手に。男性の心鷲掴みの仕草だ。だが、双子なのにどストレートな彼女は、奢ろうとする男子のプライドをずたずたにし、尚且つドン引きされそうな勢いで、あろう事かマスターにまで値段を確認している。
だが巧から零れたのは、何故か温かな微笑みだけだった。
「いいから」
ぽこん、とねじった資料で彼女の頭を軽く叩き、振り返った彼女がそれを見て目を丸くする。
「それ……」
「君が作ったのか?」
歩き出す巧は、ねじられた資料を解いて自分の建築物をじっと見詰めた。
「か、返してください」
慌てて手を伸ばす果梨をひょいっとかわし、内容に目を通していく。対して果梨は恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じた。失敗作で、しかも藤城から「無駄」と言われた代物だ。ここで資料を否定するような発言を聞いたら立ち直れない。
「白石さんっ」
「良く出来てるな、これ」
感心したような呟きに、果梨はぽかんとした。彼はじっくりと内容を確認してそれから彼女に微笑んで見せる。
「これなら俺に仕事を頼みたいって思ってくれそうだ」
俺に。
不意に藤城の告げた「クライアントが求める物が何なのか」という話を思い出して、果梨は首を振った。
「そうですよね……この内容だと、白石さんに仕事を頼みたいって思う内容ですよね」
「そう言う資料じゃないのか?」
からかうような彼の言葉に、果梨は乾いた笑い声を立てた。
「違うんです。明日の朝イチで使う資料だったんですが……」
駅まで歩きながら、果梨は藤城に怒られた件を話して聞かせる。そして悔しさの余り資料をねじり棒にした事も。
「なるほどな」
そう言って白石は真っ白な吐息を吐いた。彼女と会った際、泣きそうになっていたわけがようやく判った。
藤城の言い分は一々最もだ。……もっと柔らかな言い方があろうだろう、とも思うが。
「ほんと……欲を出すとこうで嫌になります」
はは、と笑う果梨が痛々しい。それに巧が見てもこの資料は良く出来ていると思う。
「そんな事はないさ。欲が無い人間に仕事を頼んだ所で、俺の望んでる五割も出来てこない。むしろ自分で工夫して提出して来る方がよっぽど有り難い」
はっと顔を上げてこちらを見る果梨は、確かに果穂によく似ている。だが、判ってしまえば何故彼女達を取り違えたのか、巧は自分の眼の節穴さ加減に呆れてしまった。
果梨の瞳には、果穂のような冷めた気怠さが無い。代わりに満ちているのは好奇心だ。
純粋に白石のアドバイスが欲しいのだろう。
「確かに勝手に色々やられて、正直望んでるモノとはかけ離れた……五割以下の出来の時もある。だがそう言う時はちゃんと理由を説明して、次回に期待するようにしてる。それを繰り返して、俺の意図を組んでくれるようになった部下は、俺の求める物の八割、九割、下手したら十割越えの物を出してくるようになった」
付いて来れない奴はいつまでも使えなかったがな、と心の中でこっそりと呟く。だが、果梨は康晃が大事にしようとしている最中なのだ。あの康晃が、だ。
「藤城はそれを期待して、厳しい事を言ったんだと思うな」
白石の、どこか温かかくて男らしい微笑みに果梨はじわりと手足が温かくなるのを感じた。
ああそうだ。上司はこうでなくっちゃ。
「……ありがとうございます」
ぽつりと零し、果梨は熱くなった頬を隠すように俯けた。ぎゅっと胸に資料を抱き締めてはっと気づく。
「って、これ白石さんにお返しします」
「いや、それは持っててくれ」
通りに人があふれ出し、駅の灯りが煌々と辺りを照らしている。行き交う人の波の邪魔にならないよう、駅舎の柱の近くに立ち止まり、巧は改めて果梨を見た。
「じっくり検討して君の意見が欲しい」
こちらを見詰める眼差しには心からの信頼が映っている。果梨は気分が高揚するのを感じた。
「それから、この資料を貸してほしい」
「え?」
くしゃくしゃと皺の寄ったそれを掲げられ、果梨は尚びっくりした。対して巧は意味深に笑う。
「これは俺の仕事に大いに味方になってくれそうだからな」
「はあ……?」
不思議そうに首を傾げる果梨を他所に、丁寧に資料を鞄にしまい込む。
「じゃあ明日、打ち合わせにいくな」
「あ、はい」
そうだった。パワーポイントを作る際に、白石と詳細を詰めなければならなかった。
「その上でも、どのデザインを推すか考えておいてくれ」
果梨とは反対方向に向かって歩く白石に、彼女は「お疲れさまでした」と頭を下げた。
やれやれ……今日は大変な一日だった。―――だが悪くない一日だった。
白石の笑顔を思い出し、果梨は初めて「自分自身」が認められた喜びに、落ち込んでいた気持ちが吹っ飛び世界が百八十度違って見えることを素直に喜ぶのだった。
珍しく朝も早くから出社した果梨は、一人黙々とフロアの掃除から始めた。
心機一転。今日からは新人のつもりで働く所存だ。
各々の机の上をさらっと片付け、特別ぴかぴかな上に整理された藤城の机の上を拭きながら、横に避けた資料にちらりと目を落とす。
良く出来ていたと褒めらられていたその資料に、果梨はちくりと胸が痛むのを感じた。だが首を振る。昨日の件は……私の修業が足りなかった。
(授業料、授業料……)
昨日の夜、悔しさの為にどん底まで落ち込むことが無かったのは、ひとえに白石のおかげだ。
こんな人が義兄になってくれたら本当に嬉しいのだが。
昨日の夜の出来事をつらつらと思い出していると、バレた時に感じた不思議な安堵感がひたひたと胸を満たしていった。
少なくとも一人は味方が居る。自分一人じゃないのだ。
知らずほっと緩む頬のままくるりと振り返り、果梨は気配もなくそこに立っていた存在にぶつかりそうになった。
「っと」
「あ」
視界が、すらりと背の高い高スペックの男を捉えた。
慌てて距離を取るが、藤城との間は三十センチに満たない。両手を上げてバランスを取る彼からふわりといつもの清潔そうな洗濯糊の香りがして、彼女の思考は一気に素朴な疑問に飛んだ。
「……部長ってご自分で洗濯なさるんですか?」
「―――は?」
昨日の件を多少引きずっていた康晃は、突拍子もない質問に微かに目を見開いた。彼女がじっと自分の胸元を見詰めている。その視線に全く色っぽい物がなくて、康晃は何故かかちんと来た。
この女は全く……。
(俺を振るわ、俺を振るわ……俺を振るわッ! その上、昨日ちょっと言い過ぎたかなと気まずい感じがしてたのに、何をのほほんとシャツの事なんか気にしてんだ)
むかむかと苛立ちが込み上げ、ほとんど衝動的に康晃は高槻の腕を掴んでいた。
「お前……他に訊く事ないのか?」
「え?」
見上げれば、藤城がじっとこちらを見下ろしている。その視線に混じる微かな怒りと甘さに果梨はぎくりとした。
「何を訊かれたいんでしょうか」
こちらを睨む高槻の目には警戒感が滲んでいる。だが、ほんのりと赤い目元に気が付き康晃は少し溜飲が下がる思いがした。
「例えば……シャツの事じゃなくて、その中身の事とか」
ほんのりと赤かった目元の朱が、耳まで広がっている。
「そう言う事をこういう場で言うのはどうかと思いますが」
「じゃあ、あの後どうしたんですか? とか、昨日はすいませんでした、とか今日はどうしたんですか、とかいうセリフを聞きたい」
ついっと顔を寄せる康晃から、更に強く清潔そうなシャツの香りと……彼自身の香りがしてくる。
ほんの少し甘いような……眠気を誘うような……。
「果穂?」
そっと耳元で意地悪く囁かれたセリフは、果梨を正気に返すのに一番効果的だった。掴まれた腕をさっと取り返し、一歩後ろに下がると先ほどよりも冷たい眼差しで彼を睨み付けた。
「昨日ハスイマセンデシタ、アノ後ドウシタンデスカ、テカナンデ居ルンデスカ」
棒読みとは……いい度胸じゃねぇか。
そのままじりじりと康晃との距離を取り、フロアの外に向かう彼女をもちろん逃がすつもりはない。じわりじわりとドア横の壁へと追い込んでいく。
「一人寂しく飯食ったよ」
「よかったですね」
「良くねぇよ!」
思わず一人で食べたラーメンの味を思い出し――康晃がマズイ店に行くわけがないので、味は非常に良かった――苛立つ。思わず、という感じで前髪をくしゃりとする部長に、果梨は何故か罪悪感を覚えた。急に申し訳なかったな、という気持ちが膨らんできて、きゅっと唇を噛んだ。
昨日は香月の嫌がらせや、自分の未熟さに腹が立ち部長の正論に苛立った。人というものは得てして本当のことを言われると腹が立つものだ。
だが、彼とどんな顔をして食事をすればいいのか判らなかったのも事実だ。
だからどうしても……逃げたくなった。
「俺にみじめな思いをさせたお前が、何故か今日は朝イチから機嫌がいいとなれば……俺が面白くないのも分かるだろ」
「―――完全な八つ当たりでしたか」
あまりにも俺様な発言に、申し訳なく思っていた気持ちが急速に覚めて行く。引き攣った笑みを返せば、藤城は不意に真面目な顔になった。
「昨日は正直……言い過ぎたと思ってる」
先程までとは打って変わった低く、真剣な声に果梨はぎくりとした。
「俺としては最初の資料だけで十分だと思ったのも事実だ。追加の資料も良く出来てたと思う。だが俺はその事を認める前に、お前を非難した。それは……単純にミスったと思ってる」
もっと違う言い方が出来たのではないかと、珍しく康晃はラーメンをすすりながら考えたのだ。自分でも驚くべき事態だ。今まで部下への注意の仕方に神経を使った覚えなど無いのだから。
「一晩考えて、今日お前に会ったらそれを言おうと思っていた。てか……取引先に向かう前に立ち寄った社で会えるとは思わなかったがな」
かつんと堅い床に靴底が当たる。後ずさり、果梨は自分の背中が壁に当たるのを感じた。
はっと顔を上げると、藤城の両手が顔横の壁に押し当てられる所だった。またしても囲い込まれてしまった。
「なのにお前ときたら! 昨日の事など全然全く関係なしみたいな態度で俺の前に立ちやがって」
果梨を見下ろす瞳に、ちかちかと炎が煌めいている。引き下がりたくてもこれ以上下がれない果梨は、ぐいっと顎を上げた。
「私も昨日は色々反省したんです」
その結果、藤城の態度は至極最もだし、何よりも自分を偽らなくていい相手を見つけることが出来た。これは大きな成果だ。
「どうやって?」
更に顔を寄せて来る康晃を、果梨は睨み付ける。ここで彼に付け入らせるわけには行かない。彼とは距離を取らなくてはいけないのだと、白石との件を思い出して自分を戒める。
白石にばれて失うものは特になかったが、藤城に正体がばれれば何が起こるか予想がつかない。
今この瞬間、自分の非を認めて謝ってくれて、それがほわりと心を温かくしても。
心を決めるように、一つ深呼吸をすると果梨は彼の顎に掌を当てぐいーっと上に押し上げた。
「おい!」
怒りに声を荒げる康晃を無視し、果梨は素早く彼の腕の下を潜り抜け彼を睨み付けた。
「兎に角私は反省したんです。これ以上無意味な事は致しませんので、失礼します」
「待て! 俺はお前を褒めたんだぞ!?」
最初の資料の製作者は香月だ。もちろん追加資料の作成者は果梨だが、あれが日の目を見る時などない。なら褒められたところで無意味だ。
(意味のない資料を作るなって、怒ったのは部長でしょうが)
それを良く出来ていたと言われたって……今、言われたって……。
「嬉しくありません」
彼に背を向けたまま、果梨がぼそりと告げる。
「あ?」
カチンと来た藤城が険悪に問い返す。振り返った果梨が冷やかな眼差しで康晃を見た。
「この資料はまるで意味がないが、良くまとめられていた……なんて言われて喜ぶバカだと思われたのなら心外です」
鋭利な刃物のようなその言葉に、ぎくりと康晃の身体が強張った。何かを言い掛けるように口を開くも……言葉が出なかった。ぎりっと手を握り締め、絞り出すように告げる。
「確かにそうだが……いや……じゃあ、その資料をお前はなんで作った?」
真っ直ぐに見詰めて来る藤城の視線に、果梨はお腹の奥の方がぎゅっとなるのを感じる。それを振り払うよう彼に背を向けた。
「気の迷いです」
なんだそれは。
だが康晃が問いただすより先に高槻は部屋を出て行き、残された男は苛立たしそうに再び髪をかき上げた。くしゃくしゃになったために威厳も減ったくれもないが、寝ずに考えた謝罪が功を奏さなかった事に必要以上にむしゃくしゃした為、気にする余裕も無かった。
「あの女……」
何故か高槻は康晃の感情をかき乱す。その事実がまた……苛立たしい。
手を出そうとして拒否され、結局抱けずじまい。昨日は夕食に誘ったのににべもなく断られ、今も謝ろうと差し出した手を噛まれた。
一瞬、こんな面倒な事は全て止めてしまおうかと考える。
もう高槻果穂に手を出すのを止めるのだ。
彼女の事など、前と同じように無視する。ただの事務員なのだと決めつけて、必要最低限の会話しかしないようにする。
その図を想像した際に、康晃は意外な事実に気付いて驚いた。
自分がそれを全く受け入れられないのだ。
(重傷だな……)
あの女……ッ
歯ぎしりすらしたくなる。まさかここまであの女にはまり込むとは思っていなかったのだ。彼女が微笑んでくれればそれでいい……そんなどこかの田舎少年のような事を考えてしまっている。
そしてそれが……まんざらでも無いのだ。
靴音荒く自身のデスクに立ち寄った康晃は、仏頂面で書類を手に取った。
(たかが会議用の追加資料で何を揉めているんだ、俺は)
普段、フォローなんかしないのに。部下に判らせてそれで終わりなのに。
なのに……果穂に悲しい思いをさせたくない。
(切り替えろ)
数秒眼を閉じ、康晃は要らぬ私情をシャットアウトするべく集中した。
兎に角今は、取引先との会議の事だけ考えるのだ、と。
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