第11話 こちらのアカウントになります
「果穂」
誰もいないオフィスに、一番聞きたくない声が一番聞きたくない名前を呼ぶ。
撤退するように退出した果梨をしつこく追ってきた上司は、更に彼女が呪いたくなるような提案をしてきた。
「あー……その晩飯まだだろ? 一緒にどうだ?」
なんてことはないその提案を受け入れる程、果梨は器も懐も大きくない。今は傷付いたプライドを一人で癒したい時なのだ。それくらい判らないモノなのか、この男は。
気付けば場違いな怒りに身を震わせていた。ますます強く、無駄になった資料を握り締め、それでも張り付けた笑顔で藤城を振り返った。
「お断りします」
その後、会社を出るまでが大変だった。何故だ、どうしてだ、断る気かと詰め寄られ、そうです、なんででもです、帰りたいんですと喚きたてて逃げ出した。
乙女心も部下の心も判らない上司と顔つき合わせて夕食だなんて絶対に嫌だ。
疲れていたのか、後半藤城も怒り心頭で「だったら二度と誘わねぇよ」と捨て台詞を吐く始末だ。
それでも最後に一言、「イブに借りは返すからな」と悪意に満ちた釘を突き刺すのは忘れなかった。
コートとマフラーを無造作に身に付けて外へと出た果梨は、吐く息が白い事に驚いた。
これだけ腸が煮えくり返っているのだから、火を噴いても可笑しくない。もしくは真っ黒な煙か。だが真っ白な吐息と頬と手を刺す冷たさに、そんな果梨の怒りも急速に鎮静化していった。
無駄になった資料は、最終的に「ねじり棒」のようになって鞄にしまわれている。捨てれば誰かが見るかもしれないと思ったからだ。
……より正確に言えば香月が見るかもしれないし。
「あ~あ……」
思わず声に出る。ストレスが喉まで競り上がっている証拠だろうか。
「あーあ!」
幸い周囲に人気は無い。もう少し大きな声で言ってみて、ほんの少しだけ心のリミッターを解除してみた。途端、抑え込んでいた不満が爆発した。
(ってさ! 大体あんな意味不明な嫌がらせして来る方が悪いっての! なんで頑張った私が怒られなきゃなんないわけ!? しかもしかもしかも、香月さんが作った方の資料を褒められるなんてさ! あり得なくね!? まぁでもぉ、あの冷血部長は私の作ったのだと勝手に勘違いしてたしぃ……そう思わせとけばいいんだって! 私の手柄って事になるしぃ! って手柄ってなんだよ仕事だろ、仕事!)
心の内側と同様に荒い足取りで駅に向かっていた果梨は、最終的に香月が悪いってことで感情に蓋をしようとした。だが、彼女の良心のような物がそんな自分を諌めだす。
でも、無駄な事をしたのはあなたよね?
と。
(~~~~~~~確かにそうだけどさッ……頑張ったんだから認めてくれたっていいじゃんよ)
無駄な頑張りを評価するほどあの人、温情派じゃないじゃない。
(だけどさ……だけどさぁ!)
素直に認めなさいよ。本当は自分が浅はかだったせいで香月さんを見返せなかったのが嫌なんでしょ? で、自分を大きく見せようとして見透かされたからもっと嫌なんでしょ?
だから悔しいんでしょ?
ぴたりと果梨の足が止まった。
果梨は自分との対話を止め、鞄を掴んだ手が真っ白になるほど力を込めた。
(だから何だっていうのよ!)
果梨は心の中で喚いた。彼女を諌めようとする、冷静なビショップのような存在を黙らせる。
(見透かされたわよ! 呆れるくらいよ! でも仕方ないじゃないッ!)
悔しい。
悔しい、悔しい、悔しい、悔しいッ!
「~~~~~~ッ」
うー、と唸り声が漏れ、視界が再び滲んだ。そして滲んだ車のテールランプが世界をぼんやりと照らし、向こうから歩いて来る人影の輪郭を曖昧にする。立ち止まり俯いた果梨は、悔しくて溢れた涙を落とすわけには行かないとぐいっと顎を上げ、聳えるビルの屋上を見上げようとした。
「何か見えるのか?」
その視界にぬっと姿を現した存在に、果梨は目を見張った。
冷たい冬の風に前髪を乱した白石が、真上から自分を覗き込んでいた。
「泣いてる?」
ライトに照らされた果梨の目元がきらりと光るのを見て白石が険しい顔をする。
「康晃か?」
何かを告げる前に矢継ぎ早に言われ、果梨は慌てて首を振った。
「いえ……違うんです。これは……私が悪くて……」
「康晃に叱られたのか?」
「あの、叱られたというか注意」
「泣いてるだろ!」
そのままコートの裾を翻し、勢いよく社内に飛び込もうとする白石を果梨は慌てて止めた。
「だから違うんです! あの……」
果梨が思わず掴んだ腕が強張っている。振り返った白石が、唇を噛んで立ち尽くす果梨の様子に呻くような溜息を漏らした。
大型犬のような声に果梨は数度瞬きをした後、なるべく平静を装って微笑み返した。
「それより、白石さんはどうしてここに?」
ゆっくりと彼を掴んでいた手を解く。彼がじっと果梨を見下ろした。
「コンペの件で話が有ったんだが……」
その鋭い瞳に一瞬だけ逡巡が過った。だが、それも果梨が見返すより先に消え、くすぶった怒りのような物が見て取れた。
「少し時間をくれ」
彼を見上げていた果梨は、その逡巡が一体何なのかを考えていた所為で出遅れた。あっという間もなく、今度は逆に彼に手を取られ引きずるようにして歩かされていたのだから。
「あ、あの……」
来た方へと逆戻りする白石に引きずられ、果梨が困惑した様子で彼の背中に声を掛ける。
「どちらへ?」
前を向いたままの白石は一切、こちらを振り返る事無く言った。
「取り敢えず飯だ」
連れて行かれたのは、色の抜けた暖簾が寒風に揺れる小さなレストランだった。レストラン……というお洒落な名称がついては居るが、よくある街の小さな食堂だ。それでも中はそこそこの人入りで、窓際の奥の席に陣取ると店の小ささが妙に心地よかった。
オレンジ色の庇が見える大きな窓と、黒く輝くテーブルは自分達を含めて八つ。年季の入ったスツールが置かれたカウンター席には、常連と思しきセーターのご老人が新聞を広げてオムライスを食べていた。
いい感じに照明や内装が暗いその店は、白石のお気に入りだという。確かに東野建設から割と近い。
「ここのお勧めはステーキだ」
「はあ……」
味のある手書きメニューを眺めながら、果梨はちらと正面に座る白石を伺う。
成り行きでこうなっているが……これはもしかしなくてもチャンスかもしれない。
果穂と白石が一体どういう関係だったのか。
(チャンスの分危険でもあるけど……)
相手に突っ込んだ質問をすれば、恐らくこちらの腹も探られるだろう。最悪の隠し事をばらすわけには行かないし。
「決めたか?」
どうやって果穂との関係を尋ねようか、なんとかその片鱗を見付けることは出来ないものかと考えていた果梨は、唐突に訊かれて驚いた。
「え?」
「メニュー」
片眉を上げて尋ねられ、果梨は慌ててその視線を再びメニューに戻した。
果穂はどちらかというとヘルシー志向だ。対して果梨はジャンクフードがたまに食べたくなるしお肉も大好きである。
果穂を知っていそうな彼から、正体をばらさずに情報を引き出すためには果穂の思考を踏襲した方が良いのは分かって居る。
だが。
(あ~~~……何かを考えるには苛々してるし、お腹がすきすぎてる……)
白身魚のマリネやヒラメのムニエル、鮭と茸のパスタなどから果穂なら選ぶべきだろう。だが、カロリーが足りない上に凹んだ気分の果梨にはそれらは魅力的には見えなかった。
ステーキがお勧めだと、白石も言っている。
その中でも魅力的だったのが……。
「このステーキ丼定食って魅力的ですね……」
想像しただけで美味しそう……。
無意識にそう呟く果梨に、顔を上げた白石が微かに目を見張った。声を出していた事に気付いていない果梨をじっと見詰める。
(ああでも……果穂っぽさを演出するなら……)
軽めの物を頼むべきなのか、とメニューを眺める果梨を他所に「マスター」と白石がカウンターに声を掛けた。
「ステーキ丼定食二つ」
「あいよ」
黒いエプロンにコック帽のマスターが嬉々として厨房に消える。ぱっと顔を上げた果梨に、白石がにやりと笑った。
「珍しいな? お前が肉が食べたいなんて」
(あたし……声に出してた?)
ひやりとした物を感じながら、果梨は誤魔化すように笑った。
「凹んだ時は肉が良いって、友人が言ってましたので」
「……康晃に何を怒られたんだ?」
不意に真顔で尋ねる白石に、言葉のチョイスを間違えたと心の中で舌を噛む。この際藤城部長と香月さんの件は置いておきたい。あのモヤモヤする感情に付いて今は突き詰めたくない。
正確に言えば、あのエネルギーを枯渇させる考えごとはしたくない、というのが本音だ。
今しなくてはならないのは。
「それは……私が悪かったから本当に大丈夫です。それよりも、白石さんのご用件は?」
無理やり話題を転換する。訊かれたくないと察してくれたのか、じっと果梨を見詰めた後諦めたように男は溜息を吐いた。
「例の商業施設だが……どうもしっくりこない気がして」
「え?」
コンペは二月の頭だ。今はもう最終調整に入っている段階なのに、ここに来てデザインの変更?
彼は手にしていた鞄から一冊のファイルを取り出し、テーブルを滑らせる。
「今のデザインが嫌いなわけじゃない。が……どうも手ごたえを感じない」
「はあ……」
受け取ったファイルをめくり、果梨はじっくりと彼が描いた新しいデザインを見詰めた。
駅と隣接した施設と言う事で、世界にある駅舎をモチーフとしたものが多い。それは確かに既存の『駅』がベースになっている為に目新しさというものにどことなく欠けているように見える、と果梨は素人ながら考えた。
それでも目に優しく、周囲に溶け込むデザインをしているのは判った。
「どう思う?」
顔を上げた果梨は、こちらを見詰める真剣な眼差しに自分が期待されている事に気が付いた。
それが……深く傷ついた心に、温泉のようにじわりと沁みた。
身体の芯がゆっくりと温まって行くような……そんな気になりながらも果梨は慎重に言葉を探した。
「どれも素敵だと思います」
「けど?」
「え?」
テーブルに肘を付いて顎を乗せこちらをじっと見詰める白石は、驚く果梨に微笑んだ。
「否定的な意見を申し渡しそうに見える」
果梨は苦く笑う事しか出来なかった。うろっと視線を泳がせた後、観念したように溜息を吐いた。
「周囲に溶け込む、優しいデザインだというのはどれにも感じます。でも……白石さんが気に入らないのは、『どこかで見たような』感が払しょくできないからですよね」
疑問形ではない、どこか断定するような果梨の口調に白石は面白がるように笑った。
「だがあまりに奇抜なものは受け入れられない」
「……確かに」
「ジレンマ、だな」
椅子に寄りかかり天井を見上げて腕を組む。疲れたような溜息を吐く白石に果梨はもう一度ファイルに目を落とした。
もう一度頭からじっくりと眺め、ふと最後のページだけ用紙が二枚入っている事に気が付いた。
「あの……」
顔を上げて尋ねようとするが、彼は眉間に皺を寄せてじっと考え事をしている。二重になっている紙の、後ろの物を引っ張り出して果梨は小さく声を上げた。
「ああ、それは……」
気を惹かれた白石が、果梨が手にしているデザインを前に苦笑した。
「君が関所とか門とかいうから……」
そこには、フランスの凱旋門のような形の巨大な門とそこから続くアーケードが描かれていた。
門をくぐった先にはドーム天井と丸い時計。そして中央広場は円形でレトロな街灯が設置されていた。正面の大階段を登れば、広い空とホームが見て取れる開放的なデザインだった。
「これ、凄い素敵ですよ!」
「え?」
「旅立ちと帰還、行って帰って来る、そんな感じが凄く伝わってきます」
入っているお店も商店街みたいだし。
「なんかゲームの小さな街みたいな感じで私は好きです」
ぱっと顔を上げて大輪の笑顔で告げる果梨に、巧は目を奪われた。
彼女がこんな風に生き生きとした表情を見せたのは、本当に久しぶりだった。
その様子が、巧の心を甘く満たした。それと同時に猜疑心と……困惑、それからちょっとの違和感を呼び覚ます。
彼女の笑顔に感じる……どこか馴染まない……違和感。
(照明が暗いからか?)
もっとよく見ようかと身を乗り出した所で、店のママさんがすっと隣に立った。
「ステーキ丼、お待たせ」
ふわりと漂う、お肉から滴る油の香り。それからジャガイモと玉ねぎの味噌汁、大根とじゃこのサラダが乗ったセットがファイルを抱えた果梨の前に置かれる。
丼に乗っているのは、レアな焼き加減の牛肉だ。これが神戸牛だと言う事はまだ教えていない。
目をきらきらさせている果梨に、巧は小さく吹き出した。
二人で食事をした際、彼女はフランス料理をついばむ程度だったというのに。
いつから思考が一変したのか。
(不思議と言えば不思議な……)
「おーいしそーう」
隣にファイルを置いた果梨が、いそいそと箸を取り上げ幸せそうに「頂きます」と告げる。それに我に返った巧は、自分の前にも置かれたお膳を前に首を振った。
彼女は変わったのだろうか?
大変身したのだろうか?
その時ふと、仏頂面で腕を組んでこちらを睨む康晃を思い出し、巧は思わず味噌汁のお椀を握る指に力が入った。
まさかアイツの影響で変わったわけじゃないだろうな……?
ほくほくしたジャガイモを口にしながら、巧は釈然としないものを感じた。
そこから次々と彼女との短い間の関係が蘇り、眉間に自然と皺が寄って来る。
ほんの三か月の付き合いだった。ただ……何が悪かったのか判らないままに、唐突に終わりが来た。再会した際の彼女の態度が何を物語るのかと気になったが、巧に見せるのは今までとまるで違う彼女の姿ばかりだった。
自分が知っている、堂々としているのにどこか冷めていて、ざっくばらんなのに甘えたがりでという二面性が影を潜めている。
猫を被っているのか……それとも、騙されていたのか?
舌で蕩けるお肉など食べた事のない果梨が、この値段でコレ!? と仰天しながらも大事にステーキ丼を食べていると、不意に「果穂」と名前で呼ばれてぎくりと背中を強張らせた。
……あまりの美味しさに全力で自分が果穂である事を忘れていた。
おまけに白石の言葉に混じるどこか魅力的な甘さに、彼女の心臓は早駆けを始めた。そっと顔を上げると、どこかが痛むような顔をした白石がこちらを見詰めている。
さあ……どうしよう?
「なんで……唐突に連絡を切った?」
せっかくの美味しいお肉が、一瞬で味を失う。一気に血圧が下がり脳に血が行かなくなるのを感じながら、果梨は必死に鼓動する心臓に耳を傾けた。
唐突に連絡を切った。
それすなわち。
(この人が……果穂の相手?)
じっとこちらを見詰める瞳に、切羽詰まったような色が見える。ごくりと唾を飲みこみながら、果梨は必死に頭を回転させた。
もし彼が果穂の相手だとしたら? 何故果穂は彼との連絡を絶ったのか?
――――あの人はきっと、責任感から結婚しようとする。一生の決断をさせてしまう。
果穂の言葉が脳裏によみがえり、彼女は白石が結婚もしたくないし子供も欲しくない男性なのかと当たりを付けた。
そうは……見えないが。
(これが部長だったら納得なんだケド……)
「果穂?」
冷たく素っ気なく、嫌いになったのと告げて嫣然と笑う必要が有った。そうすれば恐らく、彼はこれ以上ない程果穂に幻滅するだろう。だが、果梨はそれが出来なかった。
果穂はきっと、白石の事が好きなんだろう。愛している筈だ。なのに彼女を嫌いになるような発言をあえてしたいとは思わない。
果穂はそうしてくれて構わない、むしろそうしろと怒りそうだが、果梨は可能性を潰すのが嫌だった。自分には無い可能性を。
「……あなたに迷惑をかけるから」
今日は一か八かの賭けに一度負けている。だから次の賭けに繰り出すのは勇気が要ったが、それでも彼女は果穂の気持ちを汲んでそう告げた。
「どんな?」
掠れた声で白石が尋ねる。箸を握る手に力が入っている。
果穂の秘密をばらさずに……彼女の心を伝えるためには……。
「……私ね、結婚したいの」
姉の悲嘆にくれた姿と、義務で結婚させるなんてトンデモナイと呟く姿を脳裏によみがえらせる。
現状を伝えずに、もし……もし彼がプロポーズしてくれたら。
なんだそんな事か、と微笑んでぎゅっと手を握って「結婚しよう」って言ってくれたら。
私は喜んですっ飛んで行って、果穂に電話をする。
伏し目がちに告げたその台詞の所為で、果梨の心臓が周囲の音をかき消す程耳元で高鳴っている。美味しそうなレアな牛肉を見詰めながら、その回答を待つ果梨は……意外と返事が遅い事に恐る恐る目を上げた。
白石は、まるで幽霊でも見たような顔でこちらを見て居た。顔色は真っ青だ。
(あ……あれ?)
ふと今日は賭けに負け続けていた事を改めて思い出した。
ひょっとして……言葉を間違えたのだろうか?
「お前……」
乾いた声が、酷くゆっくりと先を続ける。
「康晃と結婚したいのか?」
(なんでそうなる!?)
今度は果梨が絶句する番だった。間の抜けた顔で白石を見れば、彼は必死に「アイツは駄目だ」と豪語した。
「見れば分かるだろ? アイツは結婚に便宜性しか求めてない。自分に有利な事ばかりを選び取る才能に恵まれてるんだ。もしいまアイツと付き合おうとしてるのなら、結婚なんて愚か遊んで捨てられるだけだぞ!?」
まあなんとも……酷い評判だ。
力説する白石の言に、果梨は急に胸が悪くなるのを感じた。
遊んで捨てられるだけ。
(まあ確かに……そんな気はするけど……)
だが彼は果梨の意見を尊重してくれた。真に酷い男ならばあのまま果梨を抱いていた筈だ。……我慢などせずに。前の彼氏同様、自分勝手に果梨に欲望を押し付けた筈だ。
氷のように冷たくて、非合理的な事は嫌う。駄目なものは駄目だと一刀両断する非情さも持ち合わせているが、それは無駄になる予定の資料を受け取ってありがとうと嘯くイツワリの優しさとどちらが酷いのだろうか。
「多分、遊んで捨てるつもりならあの人は最初からそう言います。結婚を求めるなともきっぱり断言するはず。それを信じないで、自分だけは特別だって勝手に思い込んだ人間が裏切られたと喚くんです。部長はそれを否定しないから……そういう人だと勝手に思われてるんです」
藤城を擁護する果梨の言葉に、巧がぎょっとしたように目を見張った。それに気付いた果梨が見る前で、その眼から生気が奪われていった。
「……本気なんだな、康晃の事」
苦しげに呟かれたその台詞に、果梨の血が一気に冷たくなった。
マズイ。私は今果穂で……果穂の幸せの為に頑張ってる最中だったのに!
(他の男を……しかも部長を全力で庇ってどうするのよッ!)
「違います!」
もう破れかぶれだと、果梨は声を張り上げた。
「私は白石さんと結婚がしたいんですッ!」
その瞬間、色を失っていた白石の瞳が急激に輝きだした。果梨はほっとした。まるで果穂が藤城にやったような逆プロポーズだが、これできっとすべてが上手く行くはずだ。
……白石が驚きから、不審……そして驚愕に瞳の色が変わるまでは。
(え……?)
「………………君、誰だ?」
瞬間、冷たい血すら身体に廻らなくなった。果梨の顔色が真っ白になる。握った手が細かく震える。
ヤバイッ! ヤバイヤバイヤバイヤバイッ!
「あ……え……」
「果穂なら……君が果穂なら、俺が二度と結婚したくない理由を知ってる筈だ」
――――二度と?
(ってそんな事に引っかかってる場合じゃない!)
「君は誰だ?」
大きな手が伸びて来て、がしりと果梨の手を掴んだ。思わず腰を浮かしかけていた彼女は、それに引っ張られて思わずテーブルに手を付く。がしゃん、と食器の触れる音がしてちらりと常連のおじいちゃんがこちらを見た。
途端、周囲にギャラリーが居ることを思い出し、ようやく止まっていた果梨の頭が回転を始めた。
「兎に角」
酷く遠くで、冷静な自分が声を発するのを訊く。何とも不思議な感触だ。
震える息を吸い込んで、果梨は腹を決めた。
ああもう……半年どころか半月も持たなかった。それだけ無理があると言う事か。
ゆっくりと腰を下ろし、果梨はひたりと白石に視線を据えた。
「お話しますから、手を離してください」
出来るだけ平常を装い、だが微かに震えた声でそう告げて果梨は席に付いた。
茫然とこちらを見詰める白石に、「本当に恨むわよ、果穂」と心の中で毒づきながら彼女は背筋を伸ばした。もう騙すのも限界だ。
「―――はじめまして。私は……高槻果梨。果穂の……双子の妹です」
その瞬間、白石の肩ががっくりと落ち、椅子の背にもたれかかった。真ん丸の瞳が唇を噛む果梨を映す。
「双子の……妹」
脱力したようなその台詞に、果梨は何故か……張り詰めていた糸が緩むのを感じたのだった。
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