第10話 ディスクの最適化を行います


 男性自身を触る事に抵抗があった……元彼の場合は。強いられて……とまではいかないが頼まれて仕方なく……という感じだった。

 好き好んで「そんなこと」をする女性が居るとも思っていなかったし。

 さっきの瞬間まで。

 ベッドから転がり落ちるように降りた藤城は、「お前……覚えとけよ」と街のチンピラのようなセリフを吐いてよろよろと寝室を出て行った。どこに行くのかと問えば「シャワー」と怒りマークの滲んだ反論が飛んで来た。

 ばたんと閉じたドアを前に、果梨は藤城の温もりが残るシーツに倒れ込みばくばくする心臓と火照った身体を持て余していた。

 彼が見せてくれた世界は本当に素晴らしく……うっとりするような物だった。そしてその見返りを藤城はほとんど受け取っていない。実際「辛い」と言っていたし、身体に当たった彼の腰の感触から……本当に辛いのだろうと察しがついた。

 だから……。

(教えてくれればやったのに)

 ふかふかの枕に頬を埋めながら、果梨はぼんやりとそんなことを考えた。元彼は……果梨に頼むくせに不服そうで、最終的には「もういい」とため息交じりに宣告された。

 なので多分恐らく……下手なんだとは思う。

 けれど。

(……触ってみたかったな……)

 好奇心は猫をも殺す、パート二。

 自分の大胆な思考に驚くも、心地よい怠さの中ではそれも致し方ない気がする。耳元で囁かれた甘いセリフのオンパレード。続く、「したい」と「いれたい」という直接的な単語。

 明らかに果梨を求めて漏れた言葉だ。それが酷く凄く嬉しい。

 例え、果穂という別人を模しているのだとしても。

 彼に全身を晒したのだ。名前以外の全部を。

 首から頬、耳へと熱が広がり果梨は呻いて藤城の枕に顔を埋めた。ほんのりと清潔そうなシャンプーの香りが洗濯糊と相まって漂う。枕カバーまで洗っているのかと、最近それを洗った覚えのない果梨はぼんやりと考えた。

 不思議な男だと思う。

 ただの俺様、ブリザード部長だと思っていた。女性に対する考え方は淡白で結婚なんて考えてなくて。遊んで愉しく自分の人生を謳歌出来ればそれでいいと思ってる人だと。

 なのに、彼の部屋に見える生活は丁寧で、荒んだ色は無い。仕事は厳しいが暴走しがちな部下をよく見て居る。今日の香月への対応も意外と紳士だった。ちゃんとお前を買っていると告げていた。

 そして何より……果穂たる果梨に対してなんだかんだ言いながらも優しくしてくれた。

(あんな風に……見詰められたことも触られたことも無かった……)

 藤城が大切そうに撫でてくれた。

 蔑ろにすることなく、愛おしむように触れてくれた。

 見下ろす瞳は優しくて、ただただ果梨を映して温かかった。

 この世にただ一つしかない、自分という存在を認めて許して受け入れてくれたような気がしたのだ。

(マズイ……)

 ハイスペック・ハイエンド・ハイクオリティな男性とはこういうものか。

 そこに落ちたら恐らく……這い上がれないだろう。そして二度と他の誰かを素晴らしく思えない筈だ。全ての男を彼と比べてしまうに決まっている。

 だから今のうちに心に蓋をして逃げなければ。

 第一に果梨は彼に嘘を吐いているのだ。決して許されないような嘘を。

 ぼんやりと視界が滲み、果梨は訳も分からず泣きたくなった。このままベッドに沈んで二度と眼が覚めなかったら、それはそれで幸せな人生だと思う。だが無情にも明日は来るし、目が覚めても果梨が嘘を吐いている事実は消えない。

 ああ、なんという泥沼……。

(せめてもっと……不誠実で遊びまくってるような……自分勝手な人なら良かったのに)

 身体を繋いだわけでもないのに、彼がどんな風に女性を抱くのかよく判った。

 元彼とは全然違う。

 強引さが愛情だと……なんとなくそんな感じが漂う人だった。関白宣言と言えば聞こえはいいが、そこに相手を思いやる気持ちが無ければそれはただのエゴでしかない。

 藤城康晃は違う。

 強引で俺様でブリザードだが、自分と同じくらい相手を尊重してくれている。

 透明な雫がほろりと目尻を零れ落ち、霞んでいた視界がクリアになる。彼と同じくらい簡潔な寝室にはやはり装飾はほぼ無い。

 元彼と、例の戦闘の日々を思い出し、果梨は習慣からぼうっと室内を見渡した。

 ふと奥の壁にある棚にチェスの駒が置いてあるのが見えた。

 お洒落男子らしく、クリスタルと思しきその駒は全部ではなくキングとクイーンとナイトだけが飾られていた。

 そのチョイスに果梨は薄く笑った。

(もちろんポーンは無いわよね)

 実に藤城らしい。キングとクイーンを守るように置かれたナイト。その傍に侍らせるものは一切ない。知らず、果梨は苦笑した。

(可哀想なポーン……)

 どんなに頑張っても、ナイトにはなれない。そりゃいつの日かクイーンになれるかもしれないがそんな可能性は低いだろう。特に……果梨には。

 上掛けを引き上げ、そこに包まりながら果梨は目を閉じた。激しい熱さに侵された身体は、柔らかくいい香りの熱に囚われて落ちて行く。

 喜ばせてあげたかった。

 そんな言葉がじわりじわりと胸を占めて行く。

 彼が本当に大切そうに触れてくれたのだから。同じようにしたかった。目も眩むような快感を与えることなど出来なかったとしても……その努力位はさせて欲しかった……。

「……藤城さんの……」

 バカ。

 そんな呟きは心地よい疲れと熱にさらわれて、誰の耳にも届かずに落ちて行った。


 すやすやと心地よさげに眠る女に、康晃は脱力した。布団から覗く丸くてすべすべした頬が子供の様だ。

(一人だけ気持ちよさげに寝やがって……)

 ただ苛立つと同時に康晃は何故か微笑んでしまっていた。知れば知る程この女が判らなくなる。

 世慣れた雰囲気は消え、真っ赤になって縋る姿など想像していなかった。

 あの日の彼女と何故ここまで違うのか。

(アルコールの所為……か?)

 ぽす、とベッドに腰を下ろし、顔に掛かる彼女の髪に手を滑らせる。すべすべした手触りを楽しみながら、康晃は冷えた頭で改めて『あの時』の彼女を思い出してみた。


 玄関まで送った康晃に、果穂は突然キスをしてきた。甘ったるいアルコールの香りがするキスを繰り返すうち、気付けば彼女にベッドに押し倒されていた。

 後はほぼなし崩し。

 だが康晃は彼女を奪うような真似をしなかった。

 警戒心が働いたのだ。

 自分に全く興味の無いように見えた女が、突然身体の関係を迫って来るのには危険すぎる理由が有るに決まっていると、どこか冷静な理性がはじき出したのだ。

 自分に圧し掛かり、リードを奪おうとする果穂を抑え込み、康晃はなだめるように愛撫して濡れた身体を自分の手で解放させた。

 どちらも衣服を着たままだ。

 果穂がキスを強請って首に腕を回してくる。その耳元に、康晃は絶頂に押し上げられた瞬間放った果穂の言葉を確認した。

「さっき何て言った?」

 冷たく凍るような声音に、甘えたがっていた果穂が身を凍らせる。

 身を離す康晃を彼女は茫然と見上げ、それから悔しそうにそっぽを向いた。

「結婚してくださいって……いいました」

 やっぱりか。

 呆れたように溜息に果穂は鋭い眼差しで康晃を見た。

「部長が結婚なんて考えてないことくらい知ってます」

 その台詞に思わず鼻で笑いながら、康晃はベッドから降りた。

「でもお互いにメリットが有れば受け入れるでしょう」

 掠れた声はやけに断定的で、振り返った彼は果穂をまじまじとみた。ベッドに身を起こした彼女は一時の熱が引き、再び青ざめて見えた。きつく両手を握りしめている。が、康晃の視線を感じたのか彼女はぱっと両手を離すと髪をかき上げ視線を逸らした。

「違うとは言わせません」

 極力感情の排除されたその口調に、康晃は苛立った。例えそうだとしても、自分の心情を勝手に推測されて話を進められるのは好きじゃない。

 緩く首を振り、康晃は腕を組んでひたと果穂を見据える。

「それなら訊くが、君と結婚するメリットは?」

 果穂が顔を上げる。康晃の冷たい眼差しにひるむことなく彼女は彼を見返した。

「どんな事にも従順で、何があっても目を瞑る自信が有ります」

 事務的な口調で返され、康晃は何を約束しようとしているのか一瞬判らなかった。気付いて絶句し、それから怒りが湧き上がって来た。

「……つまり、俺が浮気しようがどうしようが関係ないと?」

 呆れと軽蔑から口元に笑みが漂う。それを果穂は勘違いしたのか勢いよく頷いた。

「あなたが特定の女性と一緒になりたくないという気持ちは理解しています。だからこそ、社会的に妻が居るというステータスを持ちながら遊んで暮らすことが出来るよう、提案してるんです」

 部長がどこで何をしていようと、私は関知しません。

 そう勢い込み、ベッドから降りて背筋を伸ばす果穂に康晃が感じたのは嫌悪だけだった。

 そして世間に……部下にそうみられているのかと愕然とした。確かに妻帯者であるというだけで仕事上有利になる場合が多い。誰かを養っている、というのはその人間の信頼性を高めるファクターになるのは仕方ないのかもしれない。

 だが現在、康晃はそんなファクター無しでもダントツぶっちぎりで優秀なのだ。

 その要因の為だけに、偽善的な結婚をする気は無い。

 恋愛事に関して彼は冷淡で、抱かれたい、それだけの関係で良い、という後腐れ無い女を常に選んできていた。自分が唯一だと勘違いし、康晃の心を得られたと何の因果か思うような女性はきっぱりと切り捨てて来た。

 だがそれは、結婚という制度や恋愛という感情を軽視しているわけではない。

 ――――その逆だ。

「部長なら、利益の為に結婚する事もいとわないのではないですか?」

 こちらを真っ直ぐに見詰める瞳に媚びは無かった。

 それが康晃には意外だった。秘められているのはどこか……後が無いという決意。だがそれは目の錯覚かと思うほどすぐに消え、後には艶っぽく溶けたチョコレートのような眼差しが残った。

「それに……私となら楽しめる筈ですよ?」

 しなやかな身体を康晃へと向ける果穂に、彼は瞬間冷却よりも素早く冷めた。

「悪いが」

 伸びて来る青白く細い腕を振り払い、康晃はふいっと彼女に背を向けた。

「他を当たってくれ」

 その足で部屋を出て、それから康晃は気付いたのだ。

 彼女自身がどうしてプロポーズをしてきたのか……その理由が明確ではなかった事に。

(結局、気の迷いと俺が嫌いだからというトンチンカンな答えが返って来たんだが……)

 髪に飽いた手が続けて柔らかですべらかな頬を撫でて行く。ぴくりと彼女の目蓋が震え、思わず彼は手を止めた。

 あんな提案をしてくる女にはどうやっても見えない。まるで別人かと思うほどだ。

 そして康晃にプロポーズした本当の理由は判らずじまい。本当に酔っていた為の戯言なのか……。

 一瞬だけ見えた不安そうな色を思い出し、再び思考の海に溺れそうになる。その時、軽い呻き声を上げた彼女が、康晃の手に擦り寄った。彼の手をお気に入りのおもちゃのように抱き締めようとする果穂に、康晃の不可解に思う感情がセーブされた。

 ―――まあ良い。

 今の彼女はすごく……物凄く康晃の興味を掻き立てる。

 自分をただの冷徹で愛を知らない人間のように扱わない彼女はとても……面白い。

「ったく……」

 三月の日差しのような、まだ新しく淡い熱を含んだ声で呟くと、康晃はそっと彼女の身体を抱き寄せながらベッドに潜った。

 女を抱き締めるだけなんて……と自分自身に信じられない思いを抱きながら。



 社内コンペに向けて、年内に一つはパワーポイントを作っておきたい。白石は忙しいらしいからお前が手を貸せ。

 そう言われたのはもちろん、果梨だった。

(ね……年内ってもうあと一週間ちょいしかないんですが……)

 年末なので取引先との忘年会を兼ねた接待やなんかも入って来る。その為のセッティングや二日酔いの社員が持ってくる伝票の整理、今年に契約を結んでしまいたい企業への見積もりを作成したりと駆け込みの仕事にプラスして、営業担当の挨拶廻りリストや経路作成など通常業務も増えてくる。それも一手に引き受けてのパワーポイント作成は……正直厳しい。

 羽田は役に立たない。彼女の頭は金曜日のクリスマスイヴで一杯なのだろう。暇さえあればスマホをいじってホテルディナーのチェックばかりしているようだし。相手はどうしたのだと聞きたいものだが、ここに立ち寄って時間を無駄にするのは建設的ではないので兎に角彼女は自分の仕事に集中しようとした。

「これもお願い」

 部長から渡されたコンペ用の資料ファイルの上に、香月がどさりとファイルを置いた。

「明日の朝一の会議で急遽過去の銀行の工費データが必要になったの。で、これお願い。余裕でしょ?」

 渡された資料は建設案も工費も掛かった時間もばらばらのデータだ。この中から明日の会議で使用される銀行建設のデータを拾い上げるのは非常に面倒だ。

 思わず睨み付けそうになるのを我慢し、果梨は引きつった笑顔を香月に返した。

「明日の……朝一」

「そ。宜しく」

 冷やかな眼差しのまま彼女は靴音高くボードに近寄ると、打ち合わせ先を記入し颯爽と出て行った。その際、藤城に向かって「行ってきます」と笑顔で告げるのを忘れない。

「ああ」

 ちらと彼女を見遣るその視線に意味はない……と分かって居るつもりだし例え意味が有ったとしても果梨が邪推する必要はない。

 の、だが。

 香月の背中を見詰める藤城の視線の意味を……どうしても考えてしまう。普段より穏やかじゃないか? 誇らしそうじゃないか? 好意が滲んでいないか……。

(って、何考えてんのよ)

 綴じられたファイルを取り上げ、果梨は眉間に皺を寄せて『嫌だ』と訴える心を無視した。そんな感情を抱く事こそ間違いだ。

 ぱらぱらとめくりながら該当項目を探していく。

 普段なら別になんの問題なく処理できる。だが今日は結構な量の仕事が回って来ていた。本橋からは見積もりを頼まれているし。パワーポイントまで辿りつけるかどうかと苦い思いで果梨はデータを拾い始めた。

 それから二時間後。

「明日の資料ですか?」

「はい」

 手元を覗き込むのは香月と組んで仕事をする事が多い、松原広大だ。明日の会議にも出席する彼はふと果梨が拾い上げている資料を見て目を見張った。

「って、高槻さん! この資料違いますよ?」

「ええ!?」

 驚いて振り返ると、彼女が参考にしていた資料を手に取った松原が眉間に皺を寄せた。

「これ……確かに過去の銀行建設の資料ですケド、明日の会議で欲しいのはこの間建設した的場銀行の資料だけな筈です」

 的場銀行を射止めるのに使った資料や時間、金額などをまとめて欲しいという事だったんですケド。

 困惑顔でそう告げる松原に、果梨はどすんと重い一撃を鳩尾に喰らった気がした。

 現在彼女がまとめているのは、過去携わった銀行建設の工費である。差し出される資料を慌ててめくり、そこに的場銀行の資料がない事がまた果梨の怒りを煽った。

(あの女……マジで喧嘩売って来たな)

 ぎりっと奥歯を噛みしめながら、それでも果梨は「じゃあこれ意味ないですよね」と乾いた笑みを返した。

「香月さん……ちゃんと伝えなかったんですか?」

 珍しいですね、と語を濁す松原を他所に、果梨は席を立った。現在藤城は外出中でいない。

 あの日の会話を全て聞かせてくれた事を考えると、藤城にこの件を訴えれば香月は恐らく藤城から叱責を受けるだろう。

 だが……何故か果梨はそうしたくなかった。

 これは、私が売られた喧嘩だ。

 果穂ではなく果梨に。

 心配そうな松原に、果梨は笑みを浮かべてみせた。

「大丈夫です。今からでも十分に間に合いますから」

 しかし資料室には的場銀行の案件だけが無かった。まさかここまで手が込んでいるとは思っていなかった果梨は唇を噛んで考える。

 恐らく香月のデスクにあるのだろう。だが勝手に持って行けばきっと怒るに決まっている。どんな言い掛かりを付けられるか判った物じゃない。

(ったく、中学生じゃないんだから……)

 企業の、しかも取引先を巻き込んだいやがらせってどんだけだよ、と果梨は腕を組んで片足をぱたぱたさせた。恐らく香月の事だ、すでに資料は出来上がっているのだろう。ただ単にいやがらせの為だけに果梨に任せた可能性が高い。

 そんな女性に一見見えない所が狡猾だ。嫉妬なんかしないさばさばキャラっぽいのに。

(それとも恋が眼を狂わせるのか……)

 なんて心理分析をしたところで何の足しにもならないし、ここで間違った資料を出すことも、できませんでしたと頭を下げることも果梨のプライドが許そうとしなかった。

 ならばどうするのがいいのか。

 朝一の会議で必要になったという事は、多少なりとも『時間』が考慮されているのだろう。直近の銀行建設の案だけを求められたのは……恐らく、そこならば参考に資料として提出できると踏んだからだ。

 でも今回施工を担う予定の柏銀行としては、もっと多くの業績を知りたいのではないか?

 そこで大体同じ金額と時間の物だけをピックアップしても意味はない。相手が知りたいのは恐らく、ICHIHAのスペックだ。

 どこまでクライアントに寄り添えるのか。どこまでクライアントの要望に応えられるのか。

 施工費は高いよりは安い方が良い。出来が悪い物よりは最高品質の方が良い。

 そこで果梨は一か八かの賭けに出た。


 果穂が居ない。

 会議と打ち合わせ、外回り……と忙しく仕事をこなした営業部長が社に戻ったのは二十時近かった。最低限の灯りだけがともされたフロアには誰もいない。先ほど香月とすれ違ったが、彼女はやけに満足そうに「お疲れ様です」と微笑んでいた。

「今から帰りですか?」

 笑顔で尋ねる香月に、藤城は警戒した。

「まあな」

「私もなんです」

 かつん、とヒールが鳴り彼女が一歩前に踏み出す。猫のような大きな目が煌めくのを見て藤城は反射的に「気を付けて帰れよ」と促していた。

 ほんの微かに彼女が眼を見張る。強引に迫られるかと予測していた藤城は、意外にも「はい」と頷いて笑顔で引き下がる香月に戸惑った。意味深に微笑んでくるりと踵を返す香月を見送り、藤城はフロアに戻った。

 自分のデスクに戻り、何か食べて帰るかとぼんやり考える。一人で定食屋はちょっと気分じゃないし……。

 週末一緒に過ごした女を思い出す。強引にお持ち帰りをしたあの後、彼女は頑なに康晃に自分の身体を触らせようとしなかった。……まあ、そんな抵抗など儚い物で、唐突に抱き締めたりキスしたりはしたが体を奪うような真似はしなかった。

それに関して、康晃は彼女に提案をしていたし。

 電車で帰ると言い張る果穂に送らせたくないのならイヴは一緒に過ごすと約束しろと強引に迫った。よほど家に連れて行きたくなかったのか二つ返事で彼女は応じた。

 康晃の送り狼を拒否するつもりでの処置だったのかもしれないが、イヴにお預けを喰らう気は毛頭ない……もちろんその間の三日間、彼女を放置するつもりもない。

 香月がしたかったであろう、夕食を一緒に取るという提案を果穂にするために康晃はスマホを取り上げた。

 鐘の音のようなコール音がフロア一杯に響いた。

「な」

 ぎょっとして高槻果穂のデスクをよく見れば、上は片付いておらず丁度席を外したような様子だ。慌ててフロアの隅を見れば、案の定彼女のコートが掛かっていた。

 一体どこに行った!?

 会社からは二十一時には帰るように推奨されている。それ以降は警備に届け出を出すようにと上が煩い。営業部は割と優秀で事務仕事で二十一時を越える残業はほぼ無かった。有ったとしても藤城の会議が長引いて……などだ。

 なのに事務の果穂が二十時まで残っているとは……。

(明日の会議資料?)

 だが藤城のデスクにはすでに出来上がった追加資料が乗っている。では一体何故?

 一向にフロアに戻って来る気配のない果穂を心配して、藤城は靴音荒く彼女が居るであろう資料室へと向かった。


(こんなものかな……)

 資料室の一角に据えられたパソコンの前で、果梨はファイルを保存すると大きく伸びをした。図書室のように棚が並ぶそこには窓はなく、ひっそりとファイルが並んでいるだけの静かな部屋だった。普段、人の出入りが多い場所で仕事をする果梨にとってここは意外と落ち着いて仕事の出来る快適環境だった。

 オカシナ勘違いからライバル視する先輩も居ないし、スマホばっかりいじってる女子も居ない。

 気持ちよく伸びをした後、不意にお腹がぐうっと鳴って果梨はパソコンの斜め下、時計を見てぎょっとした。

「って八時半!?」

 このご時世、要らぬ残業は会社からも役所からも敬遠される。慌てて資料をプリントアウトし、傍にあるプリンターへと視線を転じた瞬間、吐き出される紙を見詰める長身のシルエットを発見し凍り付いた。

(うあ……)

 帰る所なのかコート姿の藤城部長が、吐き出されて来た用紙を一枚一枚拾い上げている。

 顔をやや俯け、片一方の手をコートのポケットに突っ込んでいる無造作な立ち姿。

 マフラーから覗く首筋にどきりとした。

(普通に! 立って! 書類見てるだけなのに!)

 かあっと頬に熱が昇って来て、果梨は悔しそうに奥歯を噛んだ。

 狡い。卑怯だ。ハイスペック・ハイエンド・ハイクオリティってどういうことだ、コノヤロウ。

(ホント……なんでこんな男に付きまとわれてるんだ、私……)

 他の女性が聞いたら刺されかねない発言だが、果梨にとっては有り難迷惑だった。これ以上腹を探られたら嘘がばれてしまう。ばれたら恐らく果穂も果梨もただじゃすまないだろう。

 どんな罰則があるのか判らないが……一番は雇用契約違反だろうか。

 今までの給料を全額返済、とか? 最悪経歴に傷の付く懲戒解雇……。

 洒落にならない。

 ぶるっと身を震わせ、何が何でも正体がバレるわけには行かないと改めて気合を入れ直した。

 特にこの切れ者の男には注意しなければならない、というのに何故か面倒事に巻き込まれている。

(あの茶色の眼に見つめられてキスされると何もかもどうでもよくなるのよね……)

 今だって、こちらを映すその瞳には何やら意味深な色が宿っているようだし。珍しく困惑……だろうか。

(藤城部長が困ってる……)

 そうぼんやりと考えていた果梨は、はっと我に返った。いつの間にやらこちらを見て居る部長とじいっと見詰め合っていたことにようやく気付いたのだ。

 そりゃ瞳の色もそこに宿る困惑にも気付くというものだ。

「ってえぇえ、ぶ、部長! お、おおお疲れ様です!」

 どれだけ彼と視線を絡めていたのか、考えただけで顔から火が出る。それを誤魔化すように無理に引き攣った笑みを浮かべながら、果梨はそそくさとパソコンのデータをUSBメモリに保存した。

「こんな時間まで外回りですか」

「社長のお供にね」

 現在施工中の建設現場を見て回ったのだと彼は言う。お疲れ様です、と再び蚊の鳴くような声で言いながら果梨は目を合わせることなくその場に立ち尽くした。出力した資料は全て藤城の手の中にある。

「これ、お前がやったのか?」

「…………ええ……はい」

 そこには今年一年間で建設された建物の内、相場よりもやや割安に建設され、且つ人目を惹くデザインと機能性を兼ね備えた物を紹介する内容となっていた。

 自分的にはなかなか上手にまとめられたと思っていた果梨は、再び視線を落としてそれらを見詰める藤城に心臓が高鳴った。

 もし、部長がこの資料の出来を認めてくれたら……。

「明日の会議資料は既に提出されてるぞ」

 不意に氷のような声が返って来て、果梨はびくりと身を強張らせた。藤城が手にした資料をひらひらさせている。

「それに頼んでいた内容はこんなんじゃない。的場銀行の資料だ」

 冷たく射抜くような視線を前に、果梨は心臓が足元まで落ちて行く気がした。だが、ここでそうですよね、なんてへらりと笑って誤魔化す気は無い。もちろん香月のやったことを暴露する気もない。

 傲然と顎を上げ、果梨は堂々と胸を張った。険しい顔つきで藤城を見返す。

「確かにそうですが、柏銀行さんが知りたいのは当社のスペックだと思ったんです。うちがどれくらいの工費でどんな素晴らしい物の建設に携わったかを知って貰えればきっと交渉の役に立つのではないかと」

「……その為にピックアップしたのがこれか?」

 一つは天井が特徴的な音楽ホール。もう一つは某市の駅舎だった。片一方は温かみのある建築物で、大きな窓にはステンドグラスが施されて豊かな森が表現され、それを覆う屋根は流線形。川の流れをイメージした物だという事で、公園内に建てられたホールを周囲の緑に溶け込ませていた。もう一つは近代的なデザインで、行き交う人やそこにある交流を時間やネット等の情報に見立てて、通路にガラスのドームが付いた物が交差するエントランスが特徴的だった。

 このどちらも予算の二割ほど安く施工出来たのだ。

 金額と時間等細かい所を見ながら、藤城部長が顔を上げた。

「確かにうちに仕事を依頼したくなるような作りだな」

 言いながらつかつかと歩み寄ると、持っていた資料を無造作に彼女が使っていたパソコンのキーボードの上に置いた。

 ばさばさと、紙が降り積もる。

「だが、俺やクライアントが求めているのはこういうデザイン性の高さじゃない」

 崩れた紙束を見下ろしていた果梨が眼を上げた。そこにはどんな感情も滲んでいない、こちらを見下ろす部長の眼差しが有った。

「柏銀行が求めているのは信頼や安全性だ。デザインや工費の安さじゃない。むろん見栄えのする建物で安く上がるのならそれに越した事はないだろう。だが、言ってみればそれは二の次だ。必要なのはお客様の資産を預かり、運用するという実務に対しての信頼、ここに預ければ、ここに任せれば安全だという安心感だ」

 だから俺は、直近の銀行建設の案件の資料を要求したんだ。

 じっとこちらを見下ろす視線に、果梨の顔がかあっと熱くなった。

 それから、顔のあちこちが強張り背中には嫌な汗が、胃には不快感が溢れるのが判った。

 その果梨の青ざめた顔色をものともせず、藤城は淡々と続ける。

「最新の警備システムや万が一の為の設備。セキュリティ重視は当たり前。それから立てこもり等の事態を想定しての建材や工法が必要になる。尚且つお客様に快適に相談して貰える窓口や外観も必要になって来るだろう。つまりは、お前が追加で作ったデザイン性重視の資料はそれらには全く適さないって事だ」

 腕を組んでこちらを見詰める瞳が、何故そんなものを作った? と問いかけている。

 そこで不意に果梨は悟った。

 そこにあったのは虚栄心。自分を陥れようとする人間に対して自分はもっと出来るのだと見せつけたかった。

 結果、只無作為に時間を過ごしただけの……自分がいかに私的感情で仕事をしたのかという事実が判っただけだった。

 黙り込み、青い顔で俯く果梨に康晃は自分が言い過ぎたのを理解していた。

 だからと言って、ありがとうと受け取って全く使わない資料を自分一人で処分するのはどうかと思った。それでは彼女は学ばない。

 いや、それでも物は言い様だろう。もっとやんわりと注意することだってできたはずだ。

 ただ……康晃にはそれが出来なかっただけの話だ。

「―――的場銀行の資料は上手く出来てたから、それだけで良かったぞ」

 痛々しい程凹んでいる果梨をなんとかフォローしようと、康晃が多少優しい口調で告げる。

 だが、その台詞を聞いた瞬間、弾かれたように顔を上げた部下はぎょっとしたように目を見張っただけだった。

 的場銀行の資料は完璧。

 その事実が果梨の胸を突き刺す。

 あれを作ったのは香月だ。果梨ではない。果梨がやったのは全然全く意味のない……。

「――――なら良かったです」

 散らばっていた資料を集めて一つにしながら果梨は上ずった声でそれだけ告げた。二つ……四つ……と折りたたみながら泣きそうになるのを懸命に堪えた。

 怒られた悲しみからの涙ではもちろんない。間違えて怒られるのは当然だろう。

 なのでこれは……香月に勝てなかった悔しさからの涙だ。

 意地の悪い仕打ちをされたことなど関係ない。もっと自分がこの仕事に付いて理解していれば香月が提出した資料と同じテーマで全く違う……もっといいものを作れる自信が有る。だがその事に気付く事も出来なかった自分が悔しいのだ。

(恥ずかし……)

 奥歯を噛んで滲んだ視界から一滴、零れ落ちないように懸命に我慢する。

 八つ折りくらいにした資料を手に果梨は無理やり顎を上げて、こちらを見下ろす藤城にへらりと笑って見せた。

 言い訳はしたくない。負けを認めたくない。それでも逃げるのだけは嫌だから。

「すいません、無駄な残業しちゃいました」

 たはは、と形容できる笑い方をする果梨に、康晃は戸惑いながらも……ほっとした。

 泣かれるのは嫌いだし、拗ねられるのはもっと嫌だ。かといって逆切れされても困るし。食って掛かられると面倒くさい。

 誤魔化すように、軽く答えて貰った事に康晃は安堵したのだ。

 果梨が、折れそうなプライドを必死に支えている事も知らずに。

「くだらない事で残業するな」

 普段なら受け流せるその一言が、懸命に支えているだけのプライドに堪えた。

(駄目だ)

 自分の浅はかさと、掛けた時間が無駄になった感触が辛うじて立っているだけのプライドに襲い掛かり、果梨は思わず早足で藤城の横を通り過ぎた。八つ折りにした資料をぐしゃぐしゃになるほど握り締める。

「そうですね、早々に帰ります」

 ほとんど悲鳴に近い早口でそう言って、果梨は逃げるように資料室を後にした。

「おい」

 急に顔を俯けて立ち去る果梨に康晃が慌てて声を掛ける。だが彼女は逃げるように廊下を行く。舌打ちをして康晃は彼女を追いかけた。

 もともと彼女を探していたのは仕事上の注意を厳しくすることではない。

 彼女と夕食を共にしたいとそう思っていたからなのだから。

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