第14話 重要な温度管理イベントの為システムがシャットダウンされました
「話が有る」
「誰にだ?」
恐怖に固まっていた果梨とは対照的に、白石がのんびりと告げる。
だが、藤城を見た視線は冷ややかに凍り付いていた。
「俺にか? それとも彼女にか?」
「どちらもだ」
言ってから、康晃は自分が静かな蕎麦屋の注目を集めている事に気付いた。あちこちに座るサラリーマンが耳をそばだてている。舌打ちしたくなるのを堪え、彼は果穂の隣に強引に座った。
注文を聞きに来た店員に、果梨と同じものを頼む。もちろん視線は白石に向けたままだ。
「で? 俺に隠れて二人で何をしてたんだ?」
言い掛かりも甚だしい。
かっと頭に血が上った果梨が、ぎゅっと箸を握り締めて猛然と蕎麦を食べ始める。
「べふに……なんれもありまふぇん」
もぐもぐしながら素っ気なく告げる。「暴食」という判りやすい果梨の挑戦的な態度に、康晃は更に苛立った。
全く、今日は最悪だ。
もちろん契約は上手く行った。ただし、そこに付随した不愉快な出来事の所為で、感情のふり幅が大きくなった。
自分が何も見て居なかった事を痛感させる出来事が多すぎる。
「何でもないのなら言えるだろ」
低く唸るように告げる。蕎麦の丼をひたすら見詰めて箸を動かす高槻は、依然として康晃を見ない。それが更に更に彼のプライドを傷つけて行く。
「果穂」
威嚇するようなそれに、びくりと高槻の肩が強張った。
「彼女は俺と例の商業施設についての打ち合わせをしただけだ。その流れで昼飯に誘った」
悪いか?
康晃の怒りを感じ取ったのか、白石が牽制するように静かな口調で告げる。だがその果穂を庇うような物言いが、溜まりに溜まっていた康晃の苛立ちに火をつけた。
「―――ああ悪いね。こいつを食事に誘っていいのは俺だけだ」
掠れ、滲む怒りに震えた声にはっと果梨が顔をあげる。
まったく、この男はどこまで人を馬鹿にするのだろうか。
「私が誰と食事をしようが出掛けようが、それは私の勝手の筈です」
ようやく康晃を映す瞳。その瞳に滲む純粋な怒り。
くそ。
胸の奥で毒づきながら、康晃はコップの水を一息に飲み干した。
「何故なら、俺はお前の婚約者だから」
たん、と空のコップを置いて隣に座る女に視線を遣れば、彼女はぽかんと口を開けていた。そこから徐々に頬が赤くなる。それと同時に、柳眉が信じられないほど高く険しく釣り上がった。
「馬鹿いわないでください!」
「馬鹿言うな」
二人同時に否定の言葉を口にする。それがまた康晃には面白くない。
「俺は馬鹿な事は言わない」
「白石さん、すいません。部長は耄碌してるかストレスで頭がおかしくなってるだけです。無視してください」
「俺を変人扱いするな。それに、俺にプロポーズしてきたのはお前だぞ」
「部長!」
悲鳴のような声で叱責すると、二、三人のオジサンがこちらを振り向いた。慌てて口を押え、果穂はぶんぶんと首を振る。それから情けない顔で白石を見た。
「全部嘘ですから」
懇願するような果梨の声に、巧は思案気に顎に手を当てた。
「……高槻からのプロポーズはいつ受けたんだ?」
白石の質問に、果梨は自分の血が足元まで落ちるのを感じた。
ああもう……ああもう! あぁあぁあああぁもぉぉぉぉおぉうううううう!
白石は何気なくさりげなく、果穂の遁走の理由を探っている。間違いない。それを知らせないために、色々手を回してお茶を濁したというのに。
「部長はお断りしました。それから私も間違いに気付いて訂正しました。だから私と部長はただの上司と部下です。それ以上ではありません」
藤城が何か言うより先に、果梨が割って入った。
血走った眼差しで白石を睨む。
その果梨を睨む藤城。
二人を交互に見た後、白石は「ふむ」と小さく唸った。
「では、二人はただの……仕事仲間ということだな。なら俺が彼女を誘っても文句はないはずだ。そうだろ、康晃」
再び話が振り出しに戻った。
果梨を睨む藤城が、奥歯を食いしばって告げる。
「高槻……後で話が有るッ」
瞬間、彼女は全ての蕎麦を食べ終え、蕎麦代をテーブルに置くと目にも留まらぬ速さでその場から逃走したのである。
営業部は本日の柏銀行の件で大盛り上がりだった。
九割方決まっていたとはいえ、契約締結となったのは今日なのだ。誰もが香月と松原にねぎらいの声を掛けている。年末に珍しくのんびりとしたムードが漂っている。
ただし、昼から戻った藤城部長の機嫌が最低に悪いのを除けば。
誰かが部長に声を掛けに行けば殺意の滲んだ眼差しか、もしくは営業部ではなく北極かと思われるような凍てついた返答が帰って来る。
自然と部下たちは彼を遠巻きにするようになっていた。
(私は悪くない……私は絶対悪くない)
とばっちりを喰らっている営業部の皆に申し訳ないと思いながらも、果梨は絶対に部長を見るもんかと、堅い決意の元ひたすらパソコンに向かっていた。
お祭りムードは嫌いじゃない。が、櫓の炎が自分に降りかかるようならごめんだ。
押し迫る年の瀬。仕事がひと段落した香月は、特に急ぎの要件も無いため松原にちょっかいを出したり、二課の連中を冷やかしたり、今日の飲み会の企画を立てたりしている。
仕事が無いなら半休でも取って帰れと言いたいが、我慢する。
兎に角今、果梨が究極に求めているのは透明人間になる事だった。
「ほんと……ちょっとあの女調子乗り過ぎじゃない?」
毎度登場、羽田の嫌味攻撃にも果梨は顔を上げなかった。時折背筋が寒くなるのは絶対に部長に睨まれているからだ。だから顔を上げることは愚か、声を出すことも己に禁じているのだ。
「ねえ、聞いてんの?」
普段茶々を入れ返す果梨が沈黙を守るのに、羽田の声が尖る。同僚との関係をこじらせるのは得策ではないので、彼女は投げやりに「そうね」とだけ答えた。
「営業部全体で飲み会って……十一月にやってんじゃん。それを人の都合も考えず」
「羽田さんと高槻さんも参加でしょ?」
ぶちぶち言いながら、今回はプリントアウトされた用紙を拾い上げる羽田に遠くから香月が声を掛ける。彼女に背を向けていた羽田は「ち」と果梨にだけ聞こえるように舌打ちすると、くるりと振り返った。
激甘な笑顔を見せる。
「もちろんですよ~! お祝いという名の忘年会その二ですよね?」
あはははは、とぬるい笑い声が上がる。「オッケーですぅ」と両手で胸元に丸を作って見せる羽田には感心するしかない。
「高槻さんは?」
香月の口調がほんの少し、トーンダウンした。
ちろっと目を上げれば、邪気の無い彼女の笑顔に一瞬だけ優越感が滲んだ。
ふと、彼女に嫌がらせをされたのだと思い出した。
藤城の叱責の方が強烈に悔しかったのですっかり忘れていたのだ。
香月よりも後ろに控えている藤城の、もっと激しく突き刺さる視線が痛い。だがあえて果梨はそちらを見ないように頑張った。
白石の事を咎められるいわれは無い。香月渚がやらかした件について釈明する気も無い。
どちらも自分で選んだ分岐の結果だ。そしてそれを藤城にとやかく言われる筋合いはないのだ。
(なら彼に正面切ってそう言えばいい……)
だがどうしても……言えない。
藤城部長が怒っている。
白石と二人で出掛けた事に付いて。
それは……どうして?
(駄目! 考えるな!)
つい二時間前に再度確認したはずだ。彼が自分に構うのは「好奇心」からだと。彼が愛を囁く女性は……香月のように仕事が出来る美人か、内助の功で彼の家庭をしっかり守る可愛らしい美人の筈だ。間違っても「五歳児のおもちゃ」認定されている自分ではない。
(ってなんで弁解してるのよ! 私は別に部長の事なんかどうとも思ってない筈なんだから)
……ツンデレ調のなんとも心許ない自己弁護だが、繰り返しそう示唆しておかないといけないと果梨の心がぐらりと甘美な方に傾くのだ。そうやってほんの少しでも勘違いすれば、きっと取り返しのつかない事になる。
「……私も是非参加させてください」
ぱっと顔を上げ、にっこり笑うと一瞬だけ香月が怯んだ。微かに気の強そうな眼差しに衝撃が走る。
だがそれは周囲に気付くことなく消え、無理やり微笑んでますという態度の香月が一つ頷いた。
「じゃ、ほぼ全員って事で……よろしいですか、部長」
くるりと振り返った香月が、藤城に話を通しに行く。彼ももちろん参加するはずだ。間違いない。
二人が話し始めるのを、果梨は意図的に意識から遮断した。
後で話が有る。
そう言った彼に捕まるわけには行かないのだ。
何故ならこちらには話など無いのだから。
付き合っていると彼は言う。プロポーズされたのだと彼は言う。
だが。
耐え切れず、そっと果梨は香月と話をする藤城の方に視線を向けた。彼が発するブリザードをものともせずに、香月は飲み会の事から今回の柏銀行の件について取り留めも無い話をしていた。
見た感じ、藤城は普通だ。
―――不意打ちのようにこちらを見た彼の眼以外は。
只の一瞥。
だがそれは果梨を震え上がらせ、縛り付ける。
話は終わってない。
彼はそう訴えている。
(いいえ。話し合いはおしまい)
これ以上藤城に深入りするわけには行かない。その為にと、果梨は終業間近にこっそりと羽田が適当に打ち込んでいるキーボードの上に、裏紙で作った即興の封筒を置いた。
「…………なにこれ?」
顔を上げる羽田ににっこりと笑って、仕草だけで開けろと促す。それから再び果梨は自分の席に着くと、仕事が終わるまでのカウントダウンを始めた。
康晃は感情を持て余していた。普段そんなことなどないのに。だが、自分の中に収めて置けない苛立ちは募る一方で、発散させるべく原因の方を見るのだが、彼女は頑として康晃を見ない。
そうすると更に気分はフリーホールのように落下し、感情を持て余し、スパイラルを描いて行く。
珍しく定時で上がれる。
終業時刻を五分過ぎた所で、全員がわいわい言いながら帰る支度を始める。同じく立ち上がった果梨を予想を違えることなく藤城が呼び止めた。
「パワーポイントの件で話が有る」
絶対違うだろと訴える彼女の視線を綺麗に無視する。
だが、果穂は素直に頷いた。この後二人とも飲み会の予定が入っているのだ。ここで勝手に二人の予定を変えるような事はしない筈だ。……多分。
「何でもいいですケド、お仕事伸ばすのは駄目ですからね、部長」
羽田が声を掛ける。人差し指を立て可愛らしくぶうっと頬を膨らませて見せる彼女に、果梨は心の中で拝み倒した。
今回ばかりは羽田の助けが必要なのだ。
「分かってる」
すぐ済む、と先に立って歩き出す藤城の後を追いながら、果梨はちらと羽田を見た。彼女は大げさに肩を竦めて見せる。ありがと、と拝む真似をして合図をし果梨は深呼吸をした。
ここが正念場だ。
黙々と進む男が選んだのは、資料室だった。ここならパソコンも年間の建設資料もあるからコンペの話し合いをしているように見える筈だ。
……いやもしかしたら本当にその話なのかもしれない。
一応、フラッシュメモリを握りしめている果梨は、ドアを開けて待つ藤城の横を通り過ぎながらパソコンに向かおうとした。
が。
ばたん、とドアが閉まる音。それからがちゃり、と閉まる鍵の音。
ぎくりとして振り返った瞬間、藤城が襲ってきた。
文字通り。
「ぶ」
長、という単語は、二の腕を掴んで引き寄せられ、目を瞬く間に襲ってきたキスの前に砕け散る。
「ん」
普通のキスとは百八十度違う。いきなり食われるようなそれに、果梨は目の前が真っ白になった。
唖然とした所為であっさりと舌の侵入を許し、口内を撫でるように蹂躙される。
舌を弄び、口蓋をくすぐり、全てを喰らい尽くそうと何度も角度を変えて口付けられる。
反射的に逃げようとした頭を、後頭部に添えられた手が乱暴に引き戻す。腰に回った腕が信じられない位強く果梨を抱き締めるから、彼女は捕食され、首筋に歯を立てられたガゼルのように抵抗を奪われていった。
乱暴すぎるキスは、彼女の唇を噛んだり舐めたりして腫れ上がらせた後、宥めるように柔らかくなった。
何故なら、無意識に果梨が康晃のジャケットの袖を掴んだからだ。
「手、離せ」
キスの合間に康晃は袖に縋りつく彼女の手をそっと離し、首に回すように促した。
唇と、後頭部を支える手と、腰を掴む腕。その三つに支えられた果梨がよりしっかりと康晃に抱き付く。
途中で漏れた果梨の甘い吐息が、康晃の身体を直撃し最も言う事を聞かない器官に刺激を与える。
このまま押し倒したい。
気付けば欲望のまま彼は、果穂を側の棚に押し付けていた。
手が楽しそうに彼女の体の輪郭をなぞって行く。
「これでもまだ……俺は関係ないと言うのか?」
唇を押し当てたまま囁く。
腰から這い上がった手が、ブラウスの上から柔らかな丸みへと辿り着いた。形を確かめるように指と掌が遊ぶ。ブラジャーなど目じゃないと言いたげに、確かな手つきで胸を揉まれて果梨は喉から洩れそうになる甘い声を必死に堪えた。
「どうなんだ?」
キスの合間に低く囁く声が、甘い刺激となって腰を襲撃する。膝から力が抜けかけて、果梨は必死に目の前の熱い壁に抱き付いた。
「言えよ。俺は……お前の何だ?」
片手で胸を揉みしだきながら、もう片方はゆっくりと腰を伝ってお尻へと動いて行く。全身をまさぐられる感触に、果梨の頭は真っ白になった。
「なあ……どうした?」
頬を撫でた唇が耳朶に移動し、灼熱の吐息が耳を犯す。イタヅラするように康晃の唇が耳朶を甘噛みするので、果梨の細い喉が逸れて啼き声が漏れた。
「イイ声」
感じる?
くすっと笑われて、果梨は何がなんだかわからない本流に呑み込まれ、自我を手放しそうになった。
「…………欲しい?」
つ、とスカートの裾が徐々に上がって行くのが判るが、果梨には止める術が無かった。
強引にキスされて襲われた時点で、自分に勝ち目はない。
それでも意識の遠い所で警鐘が鳴っているのは判った。
ああ駄目だ。止めなくちゃ。とめなくちゃ……とめ……
(…………なんで?)
熱い掌がひんやりとしてすべすべな果梨の太腿をゆっくりと撫でている。唇は彼女の首筋を襲い、片方の手は器用にブラウスのボタンを外し、やや乱暴に胸を堪能している。
その甘く淫らな感触が、果梨のなけなしの自制心を崩壊させていった。
果梨の足の間に、康晃の膝が割り込んで開かせる。硬いものがこすりつけられる感触に、彼女の背筋を甘くうずく震えが走った。耐えられない感情が、胸を押し上げ息が苦しい。
「藤城さ……ん」
掠れた声が呼ぶ名に、すべらかな太腿を撫でていた康晃は自身が更に硬くなるのを感じた。
これ以上我慢したら……いや、出来るか不安過ぎる。
首筋に音を立ててキスを繰り返していた男が顔を上げる。潤んだ眼差しに赤い頬。濡れて腫れた唇の女が髪を乱してこちらを見て居た。
頬に伸ばした康晃の指が震えていた。ゆっくりと撫で、唇をなぞる。
「欲しいって言え」
有無を言わさぬ命令に、喉が震える。言葉が飛び出しそうになる。
自制も自我も。自尊心すら。
何もかも完全に狂っていれば。
「果穂」
刹那、どすん、とハートに銃弾が当たった。
高まった感情が木っ端みじんに砕け散り、緩やかに螺旋を描いて散って行く。
何度も何度も突きつけられる、その現実。忘れそうになる度、忌々しくも襲い掛かってくる。
そして忘れて狂えるほど、果梨は怖いもの知らずでは無かった。
どこまで行っても平行線。
この人を騙しているという事実はどうにもならない。
そんな風に頭で考えて拒絶するより先に、腕が拒絶を示していた。
(……駄目だって、なんでわかんないかな)
自分に対してそう叱責し、果梨は解いた腕を康晃の胸に置いてぐいと押した。
男が信じられないと目を見開く。
あれだけキスを返し愛撫を強請っていたというのに、次の瞬間に彼女は頑なで冷たい眼差しをするのだ。
何故この女は毎回、土壇場で俺を拒否する?
その事実が飲みこめず、康晃は反射的に喚きそうになった。ぎり、と奥歯を噛んで耐える。
「…………おい」
身体を放すも腕を掴む藤城に、果梨は首を振った。
「みんな待ってますよ」
皆などくそくらえだ!
胸の内で悪態を吐きながら、康晃は懸命に理性を呼び戻そうとした。そうでないと、彼の中の本能が今直ぐここで彼女を押し倒せと喚き散らし、実際にそうしてしまいそうだからだ。
「飲み会は不参加だ」
荒い息をしながら、果梨を見下ろす。その瞳が彼女を焦がす程高く高く燃え上がっている。
痛いくらいの「独占」に果梨は自分の身体が反応するのを止められなかった。
ハートはバラバラ。
なのに身体の深い所が満たされたいと欲求を突きつけて来る。だが今、この、粉々の状態で抱かれたら……きっと果梨は修復不能な程自分が崩壊するだろうと予測がついた。
(もし万が一……億が一……彼が私を愛していてくれてるのだとしても)
果穂じゃない事。彼女の双子の妹である事。そして何より今この瞬間も藤城を騙していると知ったら、きっともう二度と信用してくれなくなるだろう。だからこそ今、離れなければ。
「参加しないと……不審に思われます」
俯き、掠れた声でそう告げる。ばかばかしい、と康晃はかぶりを振った。
「思わせて置け」
「嫌です」
「果穂」
「私は……」
果穂じゃない。
「―――――部長と付き合ってるなんて、みんなに思われたらこの先仕事できません」
きっぱりと告げてこちらを見上げる女に、康晃は苛立った。
生まれて初めて……仕事なんぞ辞めてしまえと言いそうになった。
だがそれは……部長の自分が軽々しく言っていいセリフではない。
だからこそ、更に凶暴に苛立った。
「……なら、一次会に参加した後ばっくれるぞ」
唸るような声で宣言する。実際獣のそれにそっくりだ。
「部長……」
「一番最初に目に付いたホテルに行くから、そのつもりで」
ぐいっと果梨の腕を引っ張って、資料室を出て行こうとする康晃に果梨は慌てて告げた。
「化粧直してから行きます」
「ああ!?」
ぎろりと睨まれたので、果梨は反射的に睨み返した。
「こんな……今さっきまで野獣に襲われてました、みたいな恰好で人前に出られるわけないでしょう?」
髪もブラウスもスカートも。赤い目元も腫れた唇も、うっすらと赤みを帯びた喉も全部康晃の所為だ。彼がかき乱し、手を指を唇を這わせた結果だ。
自分が作り上げた女に、再び欲望が腰を這う。
「確かに。今にもむしゃぶりつきそうになるな」
甘く誘うような声に、果梨はぶるりと震えた。
「やめてください」
奥歯を噛んで告げられた拒絶に、康晃は面白くもなさそうに「本当の事だ」と吐き捨てた。
「こんな状態で街中歩いてみろ? 後ろから馬鹿な男共が大量について来る。俺は一人を大勢と共有する倒錯した趣味は無いから、全員と殺し合いを演じる羽目になるだろうな。上手くやる自信はあるが、後始末が大変そうだ」
「………………そーですか」
独占欲の塊のようだ、と果梨は辟易しながら思う。もうちょっと……ドライならいいのに。
そこでふと、自分の感想に疑問が湧いた。
果穂から訊いた話では……彼はもともと淡白で、泣いてる女性を凍り付かせるのが基本だった筈だったが……。
「くそッ……こんな事何回も続けたら勃たなくなるだろが……ッ」
ぶつぶつ文句を言って彼女から名残惜しそうに離れる藤城に、果梨の頬が熱くなった。まったく……とんでもない男だ。
「こ……こんな所で襲ってくるからですよ」
その台詞に、彼は何故こうなっているのかを思い出した。ブラウスのボタンを留めようとする彼女を振り返る。
「これだけは言っておく。二度と、アイツと一緒に、出掛けるな」
一方的な通告に、果梨が唖然とした。そんな彼女などお構いなしに彼はまくしたてた。
「いいか、さっきも言ったが俺は一人の女を大勢と共有する趣味は無い。お前が俺だけじゃなく……別の男に脚を開いてるとわかったら……」
そこでその様子を想像したのか、藤城が絶句した。
他のよく判らん……涎を垂らした小太りの男に圧し掛かられ、あんあん啼く姿を妄想し沸騰しそうな程の怒りが溢れて来たのだ。
「俺は絶対に殺人を犯さないとは言ってないからな」
「恐ろしい事をサラッと言わないでくださいッ!」
「だったら自重しろ」
「部長がねッ!」
しばし睨み合う。
後、康晃は溜息を吐いた。
なんでここまでこの女に執着するのか……意味が分からない。
知らず髪をかき上げ、渋面で女を見た。
(他の女が浮気しようが、誰とヤろうが全然気にならなかったが……)
赤くなってブラウスのボタンを閉めるこの女が、他の男と性的関係を結ぶのが嫌だった。想像すらしたくない。
(唯一……挿入れてない相手だから……か?)
身も蓋も無い感想だが、思い当たる節はそれしかなかった。
だったら。
(一発挿入れれば、このどうにも我慢ならない状態から解放される……?)
ほんのりと赤く染まり、汗ばんだ首筋に乱れた髪が絡んでいる。「ああもう」等悪態を吐きながら果梨はぼんやりとこちらを見詰める藤城を睨んだ。
「先に行っててください。後から行きますから」
「…………しゃーねーな」
まだ何も始まっていない。
だから終わりを想像できないだけだ。
そう結論付けて、康晃は出て行き掛けるがすかさず踵を返して濃厚なキスをした。
何度か舌で口の中を攻めた後、渋面で離れる。
行きたくない。
「…………後で」
そう言う康晃に、キスの余韻でぼんやりしていた果梨は微かに頷いた。
ぱたん、と資料室のドアが閉まる。それをじっと見詰めていた果梨は溜息を吐いた。
きっと康晃は怒るだろう。それこそ……死ぬほど。
何故なら、果梨はこのまま飲み会に参加せずに帰るつもりだからだ。
参加しないが、目くらましの為に羽田に会費を渡した。五千円くらい、藤城から逃げる為なら安いものだ。
そう。五千円払って逃げるのだ。
果梨の指先が、知らず消えそうもない熱を与えられた唇に触れていた。
粉々になった理性。
ばらばらになったハート。
空洞を訴える身体。
どれも、元の果梨には戻れない痛みを訴えて悲鳴を上げている。
そしてそれらの為に果梨が出来ることは、これ以上藤城に関わってはいけないとひたすら逃げる事だけだ。だって……どうやってポーンでキングを獲るというのだ? ポーンは前進しか出来ない、斜め前の駒しか取れない、八個でようやっと強みがある駒なのだ。
そう。取られない為にも、逃げるのが得策なのだ。
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