第6話 悪意のあるソフトウェアを発見し隔離しました
果梨にとって「男性の部屋」は戦いの場だった。
玄関、リビング、キッチン、洗面台、バスルーム……そしてベッドルーム。
初めに「戦い」に気付いたのはリビングだった。
付き合って一年目。いつものように彼の部屋にやって来た果梨は、ふとテレビの置いてあるサイドボードの上に小さなマスコットが乗っているのに気付いたのだ。部屋の主は果梨に配慮してベランダで煙草を吸おうと出ていた。
コーヒーでも淹れようかと立ち上がった果梨の眼の端に、それは掠めた。
近寄って手に取れば、何ということはない食玩の一つ。卵型のカプセルをチョコレートでコーティングし、中からおもちゃが出て来るというあれだと果梨は気付いた。
デフォルメされたキャラを積んで消して行くゲームは未だに根強い人気を誇っている。そのキャラクターの小さなマスコットが一個。
(食玩に興味なんかあったかな……)
加えて言うならチョコレートだってあまり好きじゃないと零していた。果梨が買ったバレンタインのゴディバを前に。
(ま……このゲーム、やってるしね)
そのまま果梨は何も言わず、コーヒーを淹れる事に専念した。
だがしばらくして彼氏の部屋を訪れた際、果梨はそのマスコットがもう一つ増えているのに気が付いた。
沢山増えているのではなく、一個だけ。二個並んでいるキャラクターに目を止めながらも果梨は(そんなに面白いのかな……)と思うだけにとどまった。
次に「戦い」に気が付いたのはキッチンだった。
(ん?)
面倒くさがりの彼氏は、特に食にこだわりはない。コーヒーも放って置くと缶コーヒーを飲む始末で、せめて……と果梨がインスタントコーヒーを買って補充していた。
今日もそのつもりでキッチンの戸棚の前に立ったのだが、そこにあった銘柄は果梨が普段購入する物と違っていた。
「これ……」
思わず呟く。中心街のコーヒー専門店で売っているものだと、瓶に張られているラベルで気付く。
普段、果梨が買うのはスーパーで一個三百円くらいで売っているものだ。だがこのメーカーの商品は五百円から八百円はしていた。
思わずキッチンテーブルの向こうを見る。ソファに座った彼が笑いながら録画したバラエティ番組を観て居た。
(いつからコーヒーに目覚めたんだろ……)
首を傾げながらも、果梨は手早くコーヒーを淹れて持って行った。
確かに果梨が普段飲んでいる物よりも味が良い。コーヒーの香りがふわりとする。
「美味しいね」
驚いたように告げると、無造作にカップに口を付けていた彼はテレビから視線をそらすこともなく「ああ」とだけ答えた。
後から思えばそこで違和感を覚えるべきだった。
彼は食にこだわりは無いのだ。缶コーヒーだろうがスタバのコーヒーだろうがコーヒー専門の喫茶店のブレンドだろうが一緒なのだ。
果梨が気付くインスタントコーヒーの味の違いなど、彼が判る筈が無かった。もっと言えば銘柄が変わったことに気付くはずもないのだ。
けれど、その時の果梨は特に深く考えなかった。
三戦目が仕掛けられるまでは。
洗面所に違和感を覚えたのは、コーヒーの銘柄が変わってから一か月後の事だった。
洗面台の下の収納に押し込まれていた消臭柔軟剤が洗濯機の横に置かれていたのだ。
(…………今まで使った事なんかないのに……)
洗濯なんて適当、で済ます彼氏の衣類を何度か洗濯した事が有った。その度に、確かに果梨はその柔軟剤を使った。だが、この男は一切使わずに洗っている。だから使うとすれば果梨で、果梨は使い終わったらそれを収納に戻していた。何故なら置いておくとこの男はそれを引っ掛けて倒すは、邪魔だとどこかに追いやって二度と行方が分からなくなるからだ。
現に二度ほど邪魔にされている。
使えばいいのに……と零すと「フェロモンが吸着している方がいいだろ」と謎の返答をされたのだ。
それが……何故?
(食玩……コーヒー……柔軟剤……)
じわり、と胸の端を黒い染みが侵していく。それは最初ただの点だった。ボールペンで引っ掛けて着いてしまった物だろうと大して気にもしていなかったのだ。だがそれはボールペンのような乾いたインクではなく、ぽつりと落ちた墨の一滴だったのだ。
気付いた時には、白い衣類を真っ黒に染めて行く。
洗面所から顔を出せば、気のない素振りでスマホを操作する彼が見えた。
続く五戦目は、バスルームに常に置いてあった固形石鹸がボディソープに変わっていた。
何らかの心境変化で彼がボディソープを使うことにしたのだろうか。
ここで初めて果梨は彼氏にカマを掛けることにした。
風呂から上がり、ドライヤーを使いながら考える。とにかく今回のボディソープはなんでなのかを聞いてみよう。
あくまでさりげなく。踏み込まずに……。
不安で心臓が痛くなりながら、バスルームから出た果梨は「ねぇ」と彼氏に声を掛けた。
彼はソファに座って怠そうにゲームをしている。
「んー?」
「ボディソープ買うなんて珍しいね」
「買ってねぇよ」
携帯ゲーム機から視線をそらさず男が言う。
嫌な感触だ。
「……でも今、バスルームに有ったよ」
「え?」
んなわけあるか、と顔を上げた彼氏の顔色が次の瞬間青ざめた。視線が素早く揺れる。
ばくん、と果梨の心臓が一拍だけ強く拍動した。じわじわと黒い墨が胸の辺りを侵攻していく。
ああ――――まさか。
「思い出した、昨日買ったんだよ」
声に不自然に高いトーンが混じっている。半ば怒鳴っているような、強張った声音。不協和音を訊かされたように、その声が果梨の勘に触った。
「固形石鹸派じゃなかった?」
我ながら怖いと思う。笑顔で明るくそんな問いをしているのだから。だが、彼氏は果梨の様子がおかしいことに気付く余裕は無かった。
「別に良いだろ、急に使うモノ変えたって」
無理矢理話を終わらせようとする意図が透けて見える、強い口調。
果梨はここで突っ込むべきか引くべきが判断に迷った。そして結局、「そうなんだ」と小声で答えるにとどめてしまった。
六戦目。
(あたしの馬鹿……)
ベッドルームの掃除などしなければ良いのに、彼女の何かがしろと訴えるから本能に従った。すると目に飛び込んで来たのは、絶対に読まないと思しき恋愛小説。
そもそもこの男が本を読んでいる姿など見たことも無い。なのにそれは、束ねられたカーテンの下にひっそりと置かれていたのだ。
(きっとボディソープの件を怒ったのね)
どこか遠い所で果梨は思った。
なんでこんなもの買うんだよ、という彼。
だって固形石鹸なんてイマドキ流行んないわよ、という見知らぬ女。
見知らぬ女。
(お菓子。コーヒー。柔軟剤。ボディソープ。小説)
裏表紙を見れば、そこに書いてあったのは真実の愛を探す男女の物語という内容説明。
千歩譲っても、これを彼氏が読むとは思えなかった。
それから果梨は、彼氏の部屋に来る度に頻度を増していく「違和感」を数え上げて行った。
料理なんかしない彼氏の家に増えるオリーブオイル。ちょっと高めのボックスティッシュ。買ったことなどないだろうハンドクリーム。吸わない銘柄の煙草。ちいさな百均の小物入れと、そこに収められた爪切りやハサミ……。
少しずつ少しずつ侵攻して来る敵の駒。
それに対し、果梨は防戦も応戦もしなかった。
やがて事態はエスカレート。
あからさまなペアのカップ。自分の物じゃない女ものの箸。うるおい重視のリップクリーム。洗って干されている高そうなハンカチ。見たことのないネクタイ数種類……。
我慢も限界だ。
最終戦。
果梨は手にゴミ袋(大容量)を持って彼の部屋に押しかけた。文字通り、何の約束も連絡もなく押しかけた。
「果梨!?」
ぎょっとした様子で、細めに開けたドアの隙間からこちらを見る彼氏を、ドアの取っ手を信じられない位強引に引っ張って(チェーンを掛け忘れるという致命的なミスを犯していた)彼氏をマンションの廊下に引きずり出し、果梨はずかずかと部屋に踏み込んだ。
踏み込んで、リビングの真ん中に座る女性を見て、絶句した。
栗色の髪を肩口で切り揃え、こちらを見上げる彼女は果梨の先輩だった。
彼氏の同僚でも、ある。
その瞬間、胸の内にあった不安という名の黒い部分が一瞬で憤怒と嫌悪に変わった。
「あの……」
慌てて部屋に戻って来た彼氏が、言いつくろう。
「コイツ、今彼氏と喧嘩してて……それで俺が間に入って相談を」
「すぐ、済みますから」
その台詞は、こちらを能面のような無表情で見上げる女から洩れたのではない。果梨が言ったのだ。そして手にしていたゴミ袋に次々と彼女が「仕掛けた」物を放り込んでいった。
食玩。コーヒー。柔軟剤。ボディソープ。恋愛小説。オリーブオイル。ボックスティッシュ。ハンドクリーム。煙草。小物入れ。カップ。箸。リップクリーム。ハンカチ。ネクタイ。
その上に、果梨は寝室のゴミ箱の中身をぶちまけた。
使用済みの……を見て全身の血が悪寒で震えた。悔しさに胸が痛くなって詰まり、涙が滲んできた。だが……絶対に泣きたくないと、怒りが全てを凌駕していく。
「果梨ッ!」
遠くで焦ったような彼氏の声がするが、果梨の脳に彼の声が入る隙間は無かった。
突き上げるような怒りの熱に動かされ、ぎゅっと口を縛った透明のゴミ袋を果梨は女の膝の上に落とした。
「返すわ」
思った以上に震えた果梨の一言。
人の命すら奪えそうな沈黙の後、膝の上に乗ったそれらをじっと見詰めていた女が顔を上げた。
唇に勝利を称えて。
「気付いてたのに許してるなんて、おめでたいのね」
声も普通だ。口調も普通。表情も普通。ただ嘲笑うような唇だけが、果梨の眼に焼き付いた。
「なんですって?」
「気付いてたのなら、問いただせばいいのに。彼に聞いたけど全然問題ないって言ってたわよ」
ねぇ、なんて厚顔無恥にも彼氏を振り仰ぐ。男はぶるぶると震えていた。
手に負えない事態に動転しているのだろう。
そう思うくらいならしなければいいのに、と果梨は遠い所で思った。だがそれを増長したのは私かもしれない、と不意に苦い後悔が込み上げて来た。
見て見ぬふりは楽だ。決定的な証拠はこんなにも……胸に堪えるのだから。
「あなた、本当に彼の事好きだったの?」
嘲るような声が続ける。
「だとしたら、努力が足りないんじゃない?」
「アンタに言われる筋合はない」
掠れた声で言い返すも、先輩は鼻で嗤うだけだ。
悪い女でもない。遊んでる風でもない。浮いた噂も聞かない……そんな女性だった彼女は、こちらを嘲っている。
「私なら、黙って指咥えて見てたりしないわ」
ゴミ袋の中身をちらと見下ろし、彼女は満足そうに笑った。
「今この瞬間に、これらが全部ある事がアンタが何もしなかった証拠よ」
一つも捨てなかった。一つも嫌だと言わなかった。一つも……問いたださなかった。
それは……私の落ち度なの?
「そんなんだから、捨てられるのよ」
ゴミ袋の中を見ながら呟いた勝利宣言に、果梨は眩暈がした。
そして、蒼白になって二人を見詰める彼氏――元・彼氏の頬をグーで殴って出て行ったのだ。
「どうした?」
軽く背を押され、入り口で固まっていた事に気付く。我に返った果梨は後ろを振り返った。不思議そうな顔で藤城が自分を見下ろしていた。
藤城康晃。
果穂の上司で……果梨の現上司で……彼氏という枠に強引に嵌ろうとする男。
「いえ」
声が掠れてひっくり返る。慌てて滲んだ動揺を隠すように咳払いをして果梨は首を振った。
脳裏にあふれかえった嫌な思い出を、再び元有った場所に押し込めるよう、思考を切り替えるよう。
「早く上がれ」
容赦ない一言がまた果梨を突き動かし、彼女は慌てて履いていたブーツを脱いだ。
「お……邪魔します」
冷たい廊下に踏み出せば自動でライトが付く。恐る恐る奥へ進めば、ガラスの嵌ったドアの向こうにリビングが広がっていた。カーテンの引かれていない窓が正面にあり、街明かりが広がっているのが見えた。
(流石マンションの七階……)
夜景、とまではいかないがそれでも家々の灯りや街灯に彩られた道を行くヘッドライトが光の道を描き出していた。
ぱちり、と音がして明かりが点く。
広いリビングは男性らしく黒やグレーで統一されていた。物は少なく、白い本棚の近くにベージュのクッションソファーと読みかけの本が置いてある。奥には観葉植物の鉢が一つ。サイドボードとテレビ。キッチンにテーブルと椅子。そんな感じだ。
居心地の良さそうな読書スペースが無ければ、何とも無味乾燥な部屋だと思っただろう。
「ん」
ぼんやり室内を見渡し、問題のサイドボードを凝視していた果梨は差し出された上司の掌に困惑した。
「え?」
「コートとマフラー、寄越せ」
自分も脱いで腕に掛けている長身の男を見上げて、果梨は固まった。
自分の素性がばれるのが怖くて、苦肉の策で部長の部屋に行きたいと提案した。それに対し、彼は囲いを解くと「それがどういう意味か分かってるんだろうな?」というにんまりした笑顔を返してきた。
もちろん、果梨だって何が起きるのか理解している。
ただ……そう簡単に許す気は無いというだけの話だ。
(女が部屋に上がって来たからと言って食えると思うなよ)
全男性諸君が訊いたら憤慨して怒りそうな発言を胸の中でしながら、果梨はこのまま走って部屋を突っ切り外に出ようかと考えた。
いや、無理だ。この距離なら動いた瞬間足を掛けられる可能性の方がデカイ。
転んだ果梨をこの男は嬉々としてベッドに運ぶだろう。
物理逃走はまだだ。
無言で……でもどうやって逃げるかを考えながら果梨はコートとマフラーを取ると藤城に手渡した。
「適当に座ってろ」
さっさと部屋の奥に歩いて行く藤城を見遣り、そちらが寝室かと当たりを付ける。
再び果梨は部屋の中を見渡した。
サイドボードには装飾的なものは一切ない。テレビとオーディオ機器が乗っているだけでもちろん、食玩なんか飾られていない。
振り返りキッチンを覗いてみる。きちんと洗われた食器が籠に伏せて置いてある。ややくたびれたスポンジと使いさしの洗剤。焦げのあるフライパンと重ねられた鍋。クリップで止められた塩の袋や胡椒瓶。菜箸、フライ返し、お玉……。
知らず、果梨の眼はあの日元彼の家に行くたびに実施していた眼差しで辺りを見詰めていた。
食器棚には一応誰かが来ても対応できる最小限の食器が並んでいる。が、よく使うものは食器籠の中らしい。炊飯器は電源が切られているが、綺麗に洗ったお釜が入っている。横の方にある洗面所とバスルームを覗いてみる。
洗濯機も置かれているそこの鏡には髭剃り、歯ブラシ、それから……。
(洗濯糊……)
柔軟剤の他にボトルの洗濯糊があって、果梨は不意に部長のシャツの香りを思い出した。漂白剤まである。
(綺麗好きなのか……それとも女性が置いて行ったか?)
だがどれもちゃんと使っている雰囲気と生活感がある。洗濯籠の中も空だし。
こっそり覗いたバスルームもシャンプー、石鹸しかない。風呂は綺麗に洗ってある。
(そんな時間がいったいいつあるんだ……)
果梨ですら帰ってから余裕が有れば風呂を洗うというのに。朝は洗濯機を回して干すので精一杯だ。
(えーと……次は寝室……)
無意識にチェック項目を数えている事に気付き果梨は愕然とした。
男の部屋=戦場……。そんな特殊な日々は終わったのだというのに。
洗面台の鏡横に置かれたカップに歯ブラシが一つ。
流石に二つ並んだ歯ブラシの一つを入れ替える真似を先輩はしなかった。だが……有ったとして自分はそれを咎めただろうか。
これは何!? と詰め寄る事が出来ただろうか。
じわじわと侵攻して来る、敵の駒。塗り替えられていく布陣……。
「何やってんだお前」
藤城が居ないうちにリビングに戻るつもりだったのに、気付けば部長の歯ブラシをガン見していた。はっと彼に視線を遣れば、彼女が見て居たモノに藤城の視線がスライドした。
反射的に果梨は彼の目の前に立つ。
「何でもありませんッ」
ぐいっと彼の両肩を押す。だが、果梨の頭越しに鏡の横を確認した藤城がにんまりと笑った。
「女の影でも探してたのか?」
女の影。
影。
結局、その影を見つけても何もすることなく朝日が昇って消えるのを待っていただけの自分。
「有るわけないだろ、そんなもん」
含み笑いで告げられて、果梨は顔を上げた。スウェットのズボンとTシャツに着替えた男が、果梨の腰を抱いている。そのままくるりと彼女を回転させて引きずるようにリビングへと連れて行く。
「……それは部長に彼女が居ないという意味ですか?」
「ま、そうだな」
あっさり答える藤城が、果梨には意外だった。掃いて捨てる程女が居ると思っていたのだ。
「部長、モテるのに……」
あの、中の中くらいの元彼ですら二股が出来たのだ。藤城ならそれ以上をそつなくこなせそうなのに。
「お前、なんか勘違いしてないか?」
ぽい、と強引にソファに放り出される。斜めに落とされた果梨の上に嬉々として藤城が被さって来た。
「彼女が居ないだけで、女が居ないとは言ってない」
なんてヤロウだッ!
楽しそうに果梨の首筋に顔を埋めようとする藤城の後頭部を、果梨が掴んで引っ張る。
「痛ぇなッ、おい!」
「それはつまり寝るだけの女は死ぬほどいるけど、特定の誰かは居ないという意味でしょうか!?」
血走った眼で睨まれて、藤城は閉口した。
隠し立てしても意味はない。
「そうだが、何か?」
「開き直るなッ」
ぐいっと抑え込む藤城の肩を押し、舌打ちする男の下から這い出る。ブラウスのボタンが三つほど外れているのに気付き「この男は……」と悪態を吐いた。床に座り込む果梨を見下ろして、藤城がソファに背を預けて溜息を吐いた。
「心配するな。今はどの女とも連絡を取ってない」
「当然です」
くわっと目を見開いて告げる果梨に、藤城は呆れたように眉を上げた。
お前がそれを言うのか、と視線が問いかけている。
確かに……彼と一夜を共にしたらしい(?)果穂ならそんな視線を受けても仕方ないかもしれない。だが果梨は違う。
ここは果穂を演じて「そうですよね、部長なら許されるかも」とか言って迫るべきなのだとは分かる。分かるのだが。
彼女が居るのに平気な顔で他の女と寝られるような男にはうんざりだ。
そして気付いていた筈なのに、なんのアクションも出来なかった自分にもうんざり。
「……部長にどう思われているかは知ってます。だからそれを否定する気もありません」
気付けば彼女はそう、口走っていた。
「でも……でも私は、女性と付き合うコトをイコールで性的関係にのみ絞るような関係は嫌です」
気付いていた筈なのに、その影を見逃した。
見ないふりをした。
―――虚構を信じていたから。
二人の間には……愛があるという、砂上の楼閣のような虚構を。
(くそーッ)
先程封印し損ねた馬鹿な習慣を思い出し、果梨は自分の気持ちがどんどん悲しみの方に傾いていくのに歯止めをかけそこなった。
愛してくれているんだと思っていた。
だから……見ないふりをした。
どうしてかって?
軽視されているのだと直視したくなかったから。
愛されていないのだと知りたくなかったから。
あんな派手な行動をしたのも……それくらい傷付いているのだと示せば、彼なら追って来て「気の迷いだった」と言ってくれると思ったから。
恋ってそうじゃないの? 恋愛ってそう言う事じゃないの? 付き合ってるからそうでしょ?
愛ってそうじゃないの!?
溢れた感情を抑えるために目を瞑る。すると、不意に温かな物が背中に触れてがっしりとした物の上に座らされるのに気が付いた。
「ふえ!?」
自分がどこに居るのかに気付いた瞬間、果梨はあり得ない声を上げていた。
藤城が自分を抱え上げて膝の上に座らせていたのだ。
「お前ってほんと変な奴だな。俺に抱かれたいと思ったりプロポーズしたり拒絶したり」
まだ閉まっていないブラウスの襟首を利用して、剥き出しになったうなじに唇が触れた。藤城の吐息が肌をくすぐり、果梨の感情を裏切って身体が反応する。
「一貫性がない。が、ま……いいだろ……お前が俺を満足させてみろ」
「私が言った意味分かってます!?」
一瞬正体がバレタかと不安になるも目を剥いて怒鳴れば、くすりと笑った男が彼女の肌に歯を立てた。
「ちょ」
「お前が俺達の関係……付き合っている、恋人同士であるという関係の定義を性交渉のみに絞りたくないというのなら、それ以外で俺を満足させて見せろってことだ」
……はい?
「さあどうする? このままだと俺は俺の方法でお前を好き勝手にするぞ?」
くすくすと意地悪く笑う男が、果梨の腹に回した手を持ち上げて行く。
「待てーっ」
大きな掌が果梨の胸を包み込む。指の腹で頂を押されて果梨は焦った。
「それは……ふ、藤城部長は……か、身体目当てと公言するということですか!?」
今の発言を受けるとそうなる。振り返って睨み付ければ見下ろす茶色の瞳がぎらりと光った。
「先にそう決めつけたのはお前だろ?」
掠れた声がぶっきらぼうに告げる。冷たい眼差しと相まってそれは……怒り?
「…………ち、がう?」
恐る恐る尋ねる果梨に、康晃は溜息を吐いた。
「お前は俺を何だと思ってるんだ? 確かに寝るだけの女は山ほど居たがそれは向こうも了承済みだ」
まぁ……中には愛人なんて冗談じゃないと最終的に豹変した女は居たが。概ね綺麗に別れて次に移って行った。
「付き合った女は数えるほどだ。最近はほとんどないし、このマンションに連れて来た女はお前が初めてだ」
ウロウロ歩き回って別の女の影を探す高槻は……信じられない事に可愛く見えたのだ。本来ならばうっとおしく感じる筈だというのに。
それくらいには……気に入っているという事か。
「で? お前の意見は?」
こんな状況(胸をまさぐられている)でどんな返答が出来るというのか。
「なあ?」
耳元で囁くな、バカ―ッ! 女だって本能のみになろうと思えばいくらでもなれるんだよ!
「ぶ……ちょうの言うお付合いとは?」
く、と全部の指に負荷がかかり、ブラジャーなど無視して肌がふにゃりと藤城の手の形に馴染む。
「取り敢えず身体から……」
「それじゃ他の方と変わらないので、チェンジでッ!」
途端、後ろから果梨を抱き締めていた男が爆笑した。
手が外れて膝から降りられる状況になったが、何故か果梨は耳に心地よい爆笑に身を委ねるだけだった。知らず脱力した彼女が藤城にもたれかかる。
「部長?」
「分かったよ……だが、この長い夜をお前、俺となにする気だ?」
その質問に、果梨は沈黙した。
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