第7話 503サーバーエラーです

 条件その一、膝から降りることは許さない。

 条件その二、機会が有れば押し倒すからそのつもりで。

 条件その三、部長と呼ぶな。

 藤城から提案されたそれを吟味し、果梨は性交渉以外の「お家デート」案を考える。一番初めに来そうなのはDVD等の映像鑑賞だろう。

「別にいいぞ」

 シャワーを使いたいならどうぞ、と言われ果穂の化粧ポーチを持ってバスルームに籠っていた果梨はそこに乳液だの化粧水だのメイク落としだのが完璧に入っているのに複雑な気持ちになった。

 避妊具が入っていたとしても驚かなかっただろう。

(どこまで準備が良いんだよ……)

 果梨ならそこまで準備して持ち歩いたりしない。

(イマドキのホテルにならそれくらいあるだろうし……いや、家に泊まる事も想定済みだったのか?)

 それとも誰か特定の人がいた?

 果穂の様子を思い出し、果梨は複雑な顔で髪を乾かした。

 厚手のパジャマは藤城から借りたものだ。下着類は現在洗濯機の中。

(うううう……)

 透けては見えない。が、武装が一枚解除されている事実に変わりはない。

(恥ずかしくて死にそう……)

 だが藤城曰く「無い方が好都合」らしい。

 そりゃそうだ。藤城が興味を持つのは下着の中身なのだから。

「どうせ洗濯すんだから、履いてようがなかろうが一緒だろ」

 そう酷く合理的に藤城は言った。この上司は本当に……こういう論理的で情緒の無い判断を下すのに躊躇が無い。

 気分の問題だ、というのに「例えお前が下着を付けてようと付けてまいと俺が付けてないと勝手に妄想しても同じだろ」と真顔で言うから手に負えない。しかもあっけらかんとしているから恥ずかしがる方が可笑しい気分になってしまう。

「どれ観るんだ?」

 彼シャツならぬ彼パジャマ。冬用の温かいものなのだが手足が長くて折り返している。

 振り返った藤城は、酷く居心地悪そうにしている果梨を感慨深げに眺めた。

「使わないパジャマがいい仕事してるな」

「発想がエロ親父です、部長」

「康晃だ、果穂」

 その単語が予想外にぐっさりと果梨の胸に突き刺さった。

(意外過ぎる程ダメージデカい……)

 高揚していた気分が足元まで落ちて行く。温かかったシャワーの温度など吹っ飛ぶくらいの勢いで。

 果穂。

 そう、今の私は高槻果穂なのだ。部長の中でも。今ここ、誰も入れた事のないという部長のマンションの一室で、彼のパジャマを着ているのも。

「あの」

 古い映画の一本を取り出す藤城に果梨は考えずに言葉を発していた。

「名前では呼ばないでください」

「なんで?」

 果穂じゃないから。

「…………じょ、女子には色々……順序が有るんです」

 苦しい。

 物凄く苦しい言い訳だ。

加えて二十代後半女子の言うセリフじゃない。絶対違う。羽田なら許される台詞だろうが……果梨が言えば痛いだけ。

見れば藤城もぽかんとしていた。

「お前……」

 言ってから絶句。

(笑えないほど引かなくてもいいじゃないのよッ!)

 ドン引きする男性を見た事は無い。が、どうしても譲れず果梨は構うもんかと押した。

「部長に与えられた権限は、まだ高槻止まりです」

 しげしげと見詰めているであろう藤城の視線が痛い。言わなきゃよかったとは思わない。恥も外聞も関係ない。ドン引きされても譲れない。

 果穂と呼ばれるのは……多分辛い。

 唖然としていた康晃は傲然と顎を上げる果梨が、すました顔でパジャマをぎゅっと握りしめているのに気付いた。

 指先が真っ白になるほど、強く。

 途端、何言ってんだこの女、という引き潮よりも早く引いた気持ちが満潮レベルまで戻って来た。

(可愛いじゃないか、高槻果穂……)

 それと同時にその装いを引っぺがしたいような……その奥に隠れてるモノが知りたくなってくる。

 数週間前、彼女は簡単に身を委ね、間違いだと豪語するプロポーズをした。

 数週間後、彼女は彼に平身低頭し、性的交渉のみを許さず名前を呼ぶのですら順番があるという。

(どこまでも俺の好奇心を刺激してくれるよな……)

 何故、そう言うのか。何故、名前を呼ばれたくないのか。

 人間、恥ずかしくて死ねるという沈黙の中で、藤城の柔らかい……猫なで声が響いた。

「だが、俺は名前で呼んでくれ、高槻」

 じっとりと汗が滲んでいた手を解いて、果梨は恐る恐る藤城を見た。彼はDVDのケースを持って立ち上がりこちらに近づいて来る。

「…………藤城…………部長」

 ぽこん、とケースで頭を叩かれる。

「康晃」

「いえあの……いきなり名前呼び捨ては無理です」

「じゃあ、康晃くん?」

「あほですか」

「康晃さん」

「…………藤城さんで勘弁してください」

 仕方ねぇな、と文句ありげな口調で告げ、藤城は果梨を攫ってソファに座る。

「あの!?」

「条件その一」

 膝の上に果梨を落としてあっさり言われ、彼女はほとばしる文句を強引に呑み込んだ。


 クリスマスまであと一週間。そんな浮かれる街の空気に相応しく、藤城が選んだ一本は「素晴らしき哉人生」である。しかし白黒で吹き替えも無いそれを観る果梨は内容が頭に入って来なかった。

 何故なら。

「部長ッ」

「康晃」

「…………藤城さん、止めてもらえませんか」

 果梨は自分の腹を抱く腕を持ち上げ、背後に居る男を睨み付けた。睨まれた方はしかし、平然と果梨の耳朶を味わうのを止めようとしない。濡れたベルベッドのような感触が耳に触れ、果梨の背筋を本日何度目になるか判らない衝撃が走る。

「そのっ……はむはむするの止めてくださいッ」

「なんで?」

「その低音もダメッ」

 意図せず裏返った声が恥ずかしくて、果梨の顔に血が上る。

「赤くなって可愛い」

 するっと腕が持ち上がり、長くしなやかな指が愛おしそうに果梨の喉を撫でた。

「こういうのが流行ってんだろ?」

 全身総毛立って唸る猫のような反応を繰り返す果梨に、康晃は意地の悪い笑みを浮かべた。

「部長には羞恥心は無いんですか!?」

 ちうちうと喉と耳にキスを繰り返す男に、紳士的な態度とやらを解こうとする。が、彼は果梨の顎を掴んで自分の方に向けた。

「二人きりなのに何を恥ずかしがるって?」

 じっと見詰めて来る茶色の瞳に、果梨は吸い込まれそうになった。そこには揶揄いも嘲笑もなく、バカにするような雰囲気もない。ただ温かく楽しんでいるような色だけが籠っていた。

「……ふ、普通の日本男子は……あんまり甘い言葉を言いたがらないという統計が……」

 掠れた小声になる果梨に、康晃は更に低く甘く告げる。

「俺は付き合った女は甘やかしたいし、縛っておく為ならどんな事でもする」

 前半は彼氏として最高だが、後半は病んでるだろ。

 大画面の向こうでは、大切な奥さんがそっぽを向いて去って行く場面が流れている。人生に絶望した主人公に天使が見せる『あったかもしれない未来』の一部だ。

「部長なら手を尽くさなくても女の子が寄って来るんじゃないですか」

 気付けばそんな冷やかな言葉が漏れていた。

「あほ抜かせ。俺は努力しない人間が一番嫌いだ」

「恐ろしいこと言いますね……」

 この男が努力したら一体どうなってしまうのか。

「それから部長って言うな。あともう一回言ったらペナルティだからな」

「…………なんでそこに拘るんです?」

 未だに顎を掴んでいる彼が果梨に顔を寄せて来る。

「この俺がお前を甘やかしてるんだ。なら対価を寄越せ」

 結局等価交換か!

「それに彼女にだけ与える特権だぞ? 泣いて喜べ」

「全く嬉しくない特権ですねッ」

 慌てて手を伸ばし、迫る男の唇に掌を押し当てる。キスを拒まれたことなど皆無の康晃が眼を見開く。ぐいぐい相手を押しやり距離を空けると果梨は康晃の膝から弾かれるように降りた。

「藤城さんの所為で全く内容が頭に入りません」

 腰に手を当てて睨み付ける。

「当然だ。そうしてるんだから」

 しれっとそういう事を言えるから凄い。ソファに寄りかかり飢えた狼のような眼差しを注がれると、今直ぐにでも足から力が抜けそうだ。だがそれを堪えて果梨は康晃に背を向けるとサイドボードをじっと見詰めた。DVDが収納されているスペースにゲーム機がある。

 この男の膝の上に乗せられるのは避けられないのなら、果梨に触りまくる手を封印すればいい。

「黙って見てるだけだと藤城さんが退屈なようなので、これにしましょう」

 つかつかとサイドボードに歩み寄った果梨が取り出したのは、国民的ゲームキャラクターがレースを展開するゲームだった。


「甘く見ましたね?」

「計算外だッ」

 康晃の中で高槻果穂というのはゲームなんてやったことのない、自身の情熱を恋愛とコスメ、自分磨きという分野に注いでいる人種だと思っていた。学生時代であればクラスの中で中心となる女子たちのような。

 だからヘアピンカーブに差し掛かった瞬間、追跡用の赤い亀の甲羅を放たれて、康晃がチョイスした姫君キャラがスピンした瞬間ぎょっとしたのだ。その後も、赤い髭のおっさんは康晃の前を爆走していく。

「そういう意外な特技を発揮するな」

 膝の上に居る女に無性に苛立つ。対して振り向きもせず高槻は自キャラを爆走させ続けた。

「お褒めに預かり光栄です」

 ひゅいーんと軽い音を立てて飛んでくる緑の甲羅をよけてお返しにブーメランを投げてよこす。

「汚ねぇぞ!」

「勝つためには手段を選ばないでしょ!」

 見上げた根性だ。

 たかがゲーム。されどゲーム。得意満面で首位を爆走する高槻を見ながら、康晃は小さくほほ笑むと彼女の弱点だと気付いた耳元に甘く囁いた。

「お前が勝ったらご褒美は何が良い?」

「ちょっと!」

 びくん、と身体を震わせて振り返る高槻に無情にも棘付きの甲羅をお見舞いし、首位を奪回する。

 果梨の何かに火が付き、彼女は躍起になって藤城の後を追いだした。

 二人で熱中し気付けば時計は夜中の二時を指そうとしている。

 ようやく果梨が満足したのは、ゴール直前に藤城のマシンを吹っ飛ばし直線で果梨が勝利した瞬間だった。

「はい、終了!」

「てめぇ……」

 コントローラーを放り出し、さっさとゲーム機に歩いて行く果梨を康晃が捕まえた。

「勝ち逃げとはいい度胸してるじゃねぇか」

「彼女を甘やかすのが藤城さんの楽しみなんでしょう?」

「それとこれとは話が別だ」

 再び康晃の膝の上に落とされるかと思いきや、そのままソファに押し倒されて果梨は目を見張った。

「ちょっと!」

 もがく彼女の両腕を押さえ、康晃は果梨の額に己の額を押してた。

「勝者にはキスの贈呈を……」

 手は封印され、身体の上に彼の重みがある。ちょっとした油断から藤城の侵攻を許した果梨は、奥歯を食いしばった。本能的に彼にキスされてはいけないと悟る。そんなことをされればきっと、間違いなく、蹂躙されてどこまでも落ちて行く結果となるだろう。

 だってこの男は果梨が知ってる唯一の男とは全く違うのだ。前の男が霞むくらいの好物件。そして高、物件。果梨には手も届かない……ハイスペックな存在。

 彼の茶色の瞳が怖いくらいの熱に浮いている。ぎらりと光る刃を目の当たりにして果梨の呼吸が止まった。ふわりと男から漂うのは石鹸と柔軟剤の香り。

 ああ、やっぱりちゃんと自分で洗濯してるんだ……。

 キスされる間際だというのに、果梨の脳裏はどこまでもクダラナイ思考へと落ちて行った。

 ダメダメ。ああでもキスされる。

 重そうに目蓋が落ち、気怠い雰囲気の康晃の唇が近づいて来て果梨の好奇心が刺激された。

 本来ならば、決して手に入らないだろう存在が、自分に飢えて喰らい付こうとしている……。

 目の前に差し出されているぎらぎらした剥き出しの欲望が、果梨の胸に穴が開いている事を知らせた。そこが埋めて欲しいと飢えた嬌声を上げている。

 求められているという恍惚が、果梨を絡めとっている理性の紐を解きだした。

(…………キス……してもいいかも……)

 康晃の指が、抑える果梨の手首の肌を撫でる。胸の奥、手の届かない所がざわめき知らず果梨は呼吸を整えようと薄く唇を開いた。

 キスしたいかも。いいや、違う。

(キスしたい……)

 戦闘で使用したヒットポイントは回復してはいなかった。空っぽのままなのだ。そこを埋めるべきものは多分、藤城が与えてくれる欲望ではないと思う。だが、それでもそれが欲しい。紛い物でも。今この瞬間キスをすれば虚しくてもそこは埋まるのだ。

 そっと康晃の唇が触れた。

(わっ)

 刹那、全身に電撃が走った。びくりと果梨の身体が震える。それに気付いたかのように撫でるだけのキスをしたあと、彼の唇がそっと離れた。

だが再び引き寄せられるように温かく柔らかなそれが、今度はやや強く押し付けられる。数度そんなやり取りが繰り返され、柔らかな唇が受け入れるようにと訴えかけてくる。

無意識に抵抗していた果梨の理性はやがてそれに説得され、身体に入っていた力が抜けて行った。思考が感触に押しやられる。繰り返される口付けの事しか考えられなくなっていった。掴む康晃の掌を果梨は知らず握り返していた。

擦り寄るように身体を動かした果梨に気付き、康晃が口付けたままにんまりと笑った。するりと手を離し、果梨の背中に回す。更にきつく抱き寄せ、キスを深くした。温かく濡れた舌先が果梨の唇を促し入れろとせがむ。外れた手を腰に回し、果梨はおずおずと唇を開いてみた。

容赦なく康晃が押し入ってきた。先ほどとはまるで違う、女性を骨抜きにし意のままに操る媚薬のような甘いキスが果梨を飲みこんでいった。

もっと……と応えるとキスは激しくなり、やがて身体をまさぐる手が徐々に彼女の武装を解いていった。

もっと近寄りたい。

もっと熱を感じたい。

もっともっと……彼の中を知りたい……。

きつく抱き合い、噛みつくような飢えたキスを繰り返していると不意に電子音が二人の間を切り裂いた。

果梨のではない、康晃のスマホからのメロディだ。最初から設定されているちょっと抜けた感じのある着信音。

「ふじしろ……さん」

 角度を変えて口付けようと、彼の唇が離れた瞬間に果梨が喘ぐように彼の名を呼んだ。

「なんだ」

 美味しいご馳走が目の前にあって、まだまだ食べたりないとばかりに襲い掛かる康晃の唇。それに触れられる度に電流が腰に流れる。甘い渦に半身を浸しながら、それでも果梨は鳴りやまない着信音に意識を集中した。

「でんわ……」

「ほっとけ」

「でも……」

 一度切れてもまた更に鳴り響く。それがどうしても果梨は気になった。仮にも彼は営業部の部長だ。確かに深夜を回っているが年末のこの時期、急に何か重大なトラブルが起きたのかもしれない。

 ぐ、と顎を掴まれて深く深くキスをされる。

 反論など許さない。気を逸らすのも許さない。これだけに集中しろ。

 そう訴えかける強引な口付けに、果梨は眩暈がした。舌が果梨を求め、飢えたように蠢く。再び強く抱き付いた瞬間、また間の抜けた音が響き果梨は襲う康晃の舌から顔を逸らした。

「っ」

 すべらかな彼女の頬に唇を付けた康晃が怒りに強張る。そのまま耳朶を噛む。甘い悲鳴を飲みこみながら「ふじしろさん」と果梨は掠れた声で指摘した。

「でんわ……でてから」

 っあああ、もうっ。

 ぐいっと腕一杯彼女を離して、濡れた目と唇で見上げる果梨を確認した後、康晃はもう一度キスをした。それから名残惜しそうに起き上がると苛立ち全開でスマホを取り上げた。

 着信は、白石巧。

 ちらとソファを振り返れば、横たわりぼうっと天井を見上げる、自分のパジャマの裾を乱した女が一名。

 白い脇腹が見えて、一瞬そのままベッドルームに運ぼうかと考える。だが何かを察したようなタイミングで電話をしてきた白石に興味と怒りを覚えているのも事実だ。

「いいか」

 鳴る電話をそのままに、康晃はのろのろと身体を起こす果梨に釘をさす。

「電話が終わったらキスから再開だからな」

「何の宣言ですか……」

 思わず突っ込む果梨を他所に、康晃が鳴り響く電話に出た。


 一見白石の言い分は筋が通っていない。ハッキリ言って迷惑だというのが康晃の正直な感想だ。

 だが、友人が「困っている」と言い、その為には「お前の力が必要だ」と言われて断る程康晃は薄情でもない。……そこに過分に計算が働いている場合は特に。

 計算。それは白石に貸を作る事の優越感と果梨を揺さぶるのに手っ取り早いという利益の計算だ。

 それにより、康晃は十二月下旬の午前二時という真に寒く暗い時間に外出する事にしたのだ。

 徒歩五分弱で到着する最寄り駅。そこにスウェットのズボンにトレーナーを着て帽子の付いた黒のジャンバーを着た藤城がやってくる。

 駅前には五時間前に分かれた時と同じ格好の白石と、そして電話で呼び出した理由の張本人たる香月が居た。

 ゆっくりと近づきながら康晃は手にしたスマホの通話ボタンを押した。

(これは何の羞恥プレイよ……ッ)

 コール音がする自分のスマホを通話オンにして耳に当てた果梨は、何故かその康晃の後方数十メートルに居た。

 兎に角寒い。

 彼に借りたジャージにロング丈のダウンを着ては居るが、風呂に入って後は寝るだけだった身体にこの寒さは堪えた。そもそも何故こんな所に自分が居るのか……そんな気持ちも相まってますます寒さが身に沁みる。

 白石からの電話内容は、香月が部長とどうしても話したくて一人で藤城のマンションに押しかけると言って聞かない、というモノだった。

「んなもん、捨て置け」

 ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、康晃はにべもなく言い返した。彼のぎらつく視線が捉えているのは慌ててパジャマの裾を直して必死に身繕いする果梨だ。もうちょっとであれを簡単に脱がせることが出来たのに……と思うと苛立ちもひとしおだ。

『確かに俺もそうしたい。だが……こんなに酔っ払っている香月を置いて帰る程俺も薄情じゃないんでね』

 閉口しているという口調で言われ、更に康晃が苛立つ。

「じゃあお前が責任をもって連れ帰れ。俺は忙しいんだ」

 月の頭に彼女の身体に触れた際に感じた欲望とは雲泥の差の、餓えた感情が全身を支配している。

 早く……早く彼女のすべらかな肌に触れないと……。

『……康晃』

 友人の声に混じる躊躇いと……黒い何かに気付き、康晃の有能な脳が素早く状況を判断した。

「お前の考えてることとは違うぞ」

 ぴしゃりと白石の探りをけん制する。

 しばしの沈黙。

『兎に角、連れて帰るにもお前に会わない限り梃子でも動きそうにないんだよ。言っておくがお前のマンションに香月が突入してもいいんなら俺は止めないがな』

 今度は白石に先に牽制されてしまった。ち、と舌打ちする康晃に構わず彼が続けた。

『嫌なら駅まで来い』

「呼び出しかよ」

 いらいらと髪をかき上げるも、康晃の非情な脳は意外に早く答えを計算していた。

 彼は常に利益と非利益、メリットとデメリットを計算している。何が会社の……営業部の……自分の……そして顧客の利益となるか。そして何が非利益となるか。

(だからって何も私を連れて行く事ないじゃないのよ)

 自分の身体を抱き締めるように腕を回し、果梨は憤りしか感じない中正面のコンビニに入った。

『そこに居ろよ』

 耳に押し当てたスマホから康晃の声がする。

 深夜のコンビニには人気は無い。いらっしゃいませ~と覇気のない声に迎えられなにやら品出しと思しき作業をしている店員を横目に、果梨は雑誌ラックの前に立った。暗い道の向こう、駅の灯りがぼんやり見える。彼との通話をオンにしたままにしておけと言うのが彼からの指示だ。

「香月が俺と話がしたいらしい」

 白石との電話を終えた康晃が開口一番にそう告げた。

「香月さんが?」

 今日(日付的には昨日)の飲み会を思い出し果梨は複雑な気持ちになった。彼女の敵意を思い出す。あれはどういう意味なのかと考える機会をこの男の所為で失していた。

 そんな彼女が、藤城になんの用だろう?

「……何かありましたっけ?」

 彼女の携わる案件を思い出し眉間に皺を寄せて考え込む果梨に康晃は呆れた。

 康晃にとって香月の悪意は単純で分かりやすい部類だ。ああいう女をよく見たからだ。

 康晃の寵愛を巡って対立する女子を。

 彼女達は康晃の考えなどそっちのけで、康晃と他の女の行動を監視する。ほんの少しの接触、ほんの少しの言葉尻、ほんの少しの視線のやり取りで優劣を付けて互いにけん制し合う。それを康晃は斜め上から見下ろしているのが日常だ。彼女達の誰とも真剣に付き合う気もないし、それを宣言したにも関わらず身体を投げ出してくるのならお相手する程度。

 それでもあわよくば康晃のルックスと社会的地位、金銭を自分が得られるのならばと、寵愛を求めて必死になる。

 香月のそれは、必死になる女性たち程あからさまではない。だが彼女が果梨を睨む様子からそれとなく嫉妬が感じられるのだ。

 眉間に皺を寄せて考え込む果梨をじっと見詰める。

(……まさか本当に思い当たらないのか?)

 康晃が果梨を重宝し始めた事を恐らく香月は面白く思ってない。それも……判らないとか?

 その事実に康晃は驚く。またここに意外な彼女を発見した。

 康晃の知る彼女は、まさにそういう戦闘を得意としている印象だった。

 だが今、真剣に悩んでいる彼女にはそう言った印象は感じない。

 化粧っ気のない、素顔の彼女は……普段とは大きく違って見えた。

武装しハッキリしていた瞳は丸く柔らかできらきらしている。化粧をしている時の彼女がダイヤモンドのような硬質な眼差しを備えているとすれば今は、綺麗な水が溢れる泉のようだ。透明で……底が見えそうで、日に当たるときらきらと輝く。風が吹いたり雨が降ればゆらゆらと揺れ色が変わる。

 ふと康晃は、今ここ、目の前に居る彼女が誰なのか判らなくなった。

 普段とあまりに違う……高槻果穂。

 それは彼が知っている彼女とは程遠い人物で、そしてそのギャップが彼の興味を引くと同時に所有欲を刺激するのだ。

「―――行くぞ」

「え?」

 どんな理由でこんな時間に話をしたいのかと、そう考えていた果梨は有無を言わさぬ藤城のセリフに顔を上げた。彼はとっとと寝室に戻ると上からトレーナーを着こみ、ジャンバーを羽織っている。呆然と見詰める果梨には自分のジャージを放って寄越した。

「上から着ろ」

「え? え?」

「寒いからな」

「いや、ちょっと待ってください」

 長いコートを果梨に着せかける康晃の手を掴む。彼が眉を上げた。

「なんだ?」

「いえ……あの……い、一緒に行くのはおかしくないですか?」

 この時間に呼び出された藤城と一緒に果梨が居るのは……絶対にオカシイ。

 だが康晃は取り合わない。

「お前は俺の彼女だから問題ない」

「いや、大ありですよ! といいますか私、まだ同意……」

「お前はもうちょっと自覚を持て」

 遮るように言うと、康晃は目を瞬いて自分を見上げる果梨をじっと見下ろした。

「自覚って……」

(か……果穂らしくない……とか?)

 不意に思い当たり一気に冷汗をかく果梨の唇に、康晃はちうっとキスを落とす。

「いいか、こんな夜中に女に呼び出された俺が一人駅前に出掛けるんだぞ? 彼女ならどう思う?」

 そりゃまぁ……

「ふ……不安になります……」

「だろ? それを俺は解消してやろうというんだから有り難くついて来い」

 いやいやいやいや、なんだその理論? まぁ確かに彼女なら、夜中に女と会いに行く彼氏なんて言語道断だろう。そこに配慮して一緒に来いというのもぶっ飛んだ言い分だが超効率的でもある。

 まさに藤城部長の考えそうな事だ。

(ていうか私、本当に藤城さんの彼女なの!?)

 もちろんそのつもりは無かったのだが、現在彼のパジャマの上からジャージを着て、更に彼のコートを着て彼の部屋から彼と一緒に出て行くのだから恐らくその定義に当てはまるのだろう。

 なってこったい。

(本当は逃げるつもりだったんだケドなぁ……)

 コンビニで雑誌を見る振りをしながら、果梨は押し当てたスマホから聞こえる藤城の言葉に耳を傾けた。多分彼は手に持ってスピーカーにしてるのだろう。声はやや遠いが聞こえない事はない。

(ていうか、これでいいなら一緒に来る必要は無かったんじゃ……)

 だがそれでは現場が見えず、『浮気などしていない証明』にはならないというのだろう。

(どこまで無茶苦茶なんだ……)

 今までの藤城の様子から判った事がある。兎に角彼はしつこい。縛るの大好きだし、囲い込むのも大好きでその為なら非情な手段に訴える性根の腐った所がある。

 そんな男が何故モテるのか。

(そりゃ……)

 全部喰わなきゃ収まらないという、飢えまくったキスを思い出し果梨は耳まで熱くなるのを感じた。それと、捕まえて置く為ならと臆面もなく囁かれる砂糖菓子のような言葉。

 それは彼女の特権だとあの男は笑いながら告げた。

(その他大勢にはくれてやらないということで良いのかな……)

 だとしたら嬉しい。

(いやいやいやいや、オカシイでしょ。嬉しいとか、ないない)

 でもどきどきする。

(くそっ)

 氷の営業部長というのに寄って行く女も居る。彼女達は一体どんな部長の一面を目にしたのだろうか。恐らく果梨が見て居るものとは全く違うものを見せられていた筈だと熱くなった体で思う。

(それってどんな部長だろう……)

『夜中に上司を呼び出すとは偉くなったもんだな』

 不意に響いた彼の冷たい声。自分が言われたわけではないのだが、果梨の心臓がどきりと不安に鳴った。

 自然に彼女の視線は、ガラスの向こうに広がる別の藤城康晃へと向かって行った。

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