第5話 このアプリケーションを作動してもよろしいですか
(なんでこうなるのよ)
そう訴えてこちらを見る眼差しは殺し屋のそれだ。
向いに座る羽田の無言が雄弁に語っている内容を一瞬で読み取り、ソフトドリンクのゆずレモンを口にしながら果梨は微笑みを返した。
(残念ながら部長直々のお誘いですから)
それからチーズインハンバーグを口に頬張る。
『洞』なんて妙な名前の居酒屋は、その名の通り洞窟を模した作りになっていた。入り口の引き戸を潜ると白木と岩で出来た不思議な空間が広がっている。
天井から釣り下がる無数の赤提灯が、異空間めいた雰囲気を煽っていた。
中央には桟敷を模したカウンター。木造の回廊や石畳が配置され、しきりには障子や几帳のようなモノが置かれている、独特の雰囲気だ。
その一つに陣取る彼らは、残念ながら羽田が予想したような甘い、プライベートな会話が主体ではもちろんない。
辛うじて本橋の隣をゲットした羽田だが、本橋は自分の隣の香月と、香月の向いに座る藤城との会話に熱心だ。羽田の斜め前で、果梨の隣の白石も時折口を挟んでいる。
(こうなったら完全に部外者じゃないのよッ)
更に殺意の滲んだ眼差しが更に語る雄弁な内容を、果梨は華麗にスルーした。
営業に関するトーク……つまり一般的に使われる営業トークという語彙じゃない話を続ける彼等と、一応彼等に関わっているが事務仕事しかしていない……しかも腰かけ程度の知識しかない羽田と果梨は完全に置いてけぼりを喰らっている。
更に普段は羽田や果穂のような、仕事ではちょっと抜けていてでも男子に気配りが出来る女子はちやほやされるのだが、この場では仕事の話メインのパワーランチめいた空気を醸し出している為、普段の羽田の得意技が封印されている。
そうなると知らず知らず脇に追いやられる。そして飲み会で敬遠されがちな香月が、その腕を振るっているのが彼女の不満により一層拍車をかけていた。
絶対に殺してやる、という視線を少なからず三度は香月に送っていたなと一人食事を楽しむ果梨は数えていた。
この居酒屋は、居酒屋にあるまじき『食べる』事を念頭に置いていた。
兎に角料理の種類もジャンルも豊富で、今彼女が食べているチーズインハンバーグなど専門店並の美味しさだ。スパイシーでありながら、お肉はふっくら柔らかく肉汁の溶けたチーズが非常に美味しい。
お酒を飲んでの失態は果穂に前科が有る為絶対にダメなので、ソフトドリンクを飲んでいるのだが、レモンとゆずの生絞りと書かれていただけに、水で割ったような妙な薄さもなく果物の味が良くする。
これは老若男女に受けるわけだ。
だが行列が出来る人気店にならず、ひっそりある所がまたいい。
(多分、あの……テーマパークみたいな入り口に引くお客さんが多いんだろうな……)
どう考えても怪しいもんな。石造りの外観に鉄製のドアの……しかも引き戸とは。
鉄輪の把手がついているのに、引き戸。
押したり引いたりして開かなくて帰った人も……きっといる筈。
そんなことをつらつら考えながら、果梨はこっそり頼んでいた釜飯に着手する。テーブルにはおつまみの定番しか乗っていないし、香月が取って来た大手銀行の設計案についてのやり取りが白熱していて飲み物も減っていない。
それでも甲斐甲斐しく世話をする羽田が、果梨は気の毒になった。
(お飲み物たりてますか~、とかこれ美味しいですね~とか……よく喰らい付こうとするわ)
ふんふん、と真面目な顔で話を聞いたり、知った名前が出て来ると「あの人、この間こうで~」なんてゴシップを交えたりしている。
頑張る女子は嫌いじゃない。
ただ相手が香月だということが問題だなと、まさかの鯛の釜飯だったとは、と驚く果梨は遠くで思った。
完全に場を支配している女子は香月だ。的確に藤城の発言に応えている。かと思うと、嫌味な眼差しで白石を見ていたりするのだ。
「それは設計さんの理論でしょ? 売り込む側は……ひいてはお客様は考え方が違うんです」
そんな発言が何度も飛び出している。
もちろん白石も負けていない。
「俺達だって馬鹿じゃないさ。きちんと考えたうえでの構造だ。そっちこそ外観重視、ファッション性重視で機能性をおろそかにしたものを提案し過ぎだ」
馬鹿なんじゃないのか? と鼻で嗤う白石に、香月が食って掛かる。
それを横目に本橋がのんびりと「どんな物でも売る自信はありますけどね」とさらりと零すから更に香月と白石がヒートアップするのだ。
喧々囂々と言い合う彼らの収集が付かなくなった際に、部長が割って入った。
「俺達は売れば良いってわけでもない。駄目なものを売り込めば信用はガタ落ちだ。それを日々見抜く目を養えと何度言ったら分かるんだ、お前ら」
でも最近のお客様は……こう言った方向性が……構造なんて二の次で……と否定的な発言が出る度藤城が軌道修正していく。その手腕に果梨は目から鱗な思いがした。
ナルホド……彼が優秀なのがよく判る。
「でもぉ~、私だったら香月さんより本橋さんの方に勧められたら仕事任せちゃうかなぁ」
香月の独壇場が面白くないのか、凄い勢いで羽田が切り込んだ。思わず果梨がぎょっとするような戦法だ。
案の定、喧嘩を売られた香月が乗って来る。
「それ、どういう意味?」
超笑顔だが……怖い。目がマジだ。殺し屋パート二だ。
(こうなると……凄い戦いが繰り広げられるわけだ)
勝手にしてくれ。
ひとり黙々とご飯を食し、それ以降耳だけで周囲を確認していた果梨は、自分の姿を不意に確認した香月が片頬に意地の悪い笑みを張り付けたことに気付けなかった。
「ま、営業に出るわけでもなければ設計にたずさわるわけでもない人間には興味すらわかない話なんでしょうね」
ふん、と鼻で嗤いながら告げられた言葉に果梨は反応しそこなった。どうせ羽田と香月の言い合いだろうと考えていたからだ。
だが一瞬出来た間が、果梨の胸に気持ち悪く響いた。その所為で気が付いたのだ。
顔を上げれば、勝ち誇った笑みの香月が横目でこちらを見て居た。
(……あれ? また私睨まれてる?)
「香月、いくら酔っ払っててもそれは無いだろ」
本橋がすかさずフォローに入る。出来た営業だ。
「そうですよぉ~。一課の皆さんの為に彼女も頑張ってるんですよぅ」
いくらか彼等の話題に入り込もうと努力していた羽田が、ここぞとばかりに潰しに来る。
「どこが?」
聞こえるような独り言。鼻まで鳴らした香月のそれには流石の果梨もカチンと来た。
その所為で、考えるより先に言葉が出ていた。
「そういえば津崎様、最近お孫さんがお生まれになったそうですね。藤城部長のお名前でお祝いをお送りさせていただきました」
途端香月の顔色が変わった。
香月が携わった建設案。その際にお世話になったのが大地主の津崎氏だ。
マークして置けと果穂に言われていたために、他の営業さんからちょこちょこ情報を仕入れていた。ここ最近の忙しさが祟って、周囲の状況を確認せず猪突猛進していた香月にしてみれば痛恨のミスだろう。奥歯を噛みしめてる香月を見ながら、果梨はにっこりと微笑んだ。
「それくらいしか、私にはできませんからね」
ふふん、と鼻で嗤い返そうとした矢先。
「当然だ」
藤城の一刀両断が炸裂した。
はっと周囲が凍り付く……羽田を除いて。
「お前達全員、普通に仕事をしてるだけだ」
ひとくくりにされ、尚且つ容赦ない通告。
ばっさり切られて青ざめ、悔しげな香月に負けず劣らず、金づちで叩かれたような痛さが、果梨の脳天から足元までを貫いた。
「元も子もないな」
しん、と落ちた沈黙に微かに笑いながら白石が言う。
「あたりまえだ」
グラスのビールを煽る藤城は、やや砕けた口調だったが部下二人は神妙な顔で各々の飲み物を口にし始めていた。
当たり前。普通に仕事をしてるだけ。
(ま……確かにそうだ)
だが痛んだ胸はなかなか良くならない。
そんな風に一括されてしまうと、もう誰も仕事の話しはしたくなくなる。そうなってくると形勢逆転なのが羽田だ。ここぞとばかりにどうでも良い話をぶち込んでくる。
盛り上げついでに、本橋が最近見た映画の良し悪しを語り始め、その主役が現在不倫報道真っただ中にいる事にスライドしていく。
不倫談義から男女の恋愛……モラル……最近のお笑い番組の話し……政治……。
しっかりご飯だけ頂いた果梨は、本橋に突っかかる香月と神妙な顔で話を始める藤城と白石、本橋の袖をひっぱり香月を睨み付ける羽田を確認したところでそろそろ引き時だなと判断した。
(白石さんと果穂の関係についてだけ判らなかったケド……香月さんと果穂が一触即発なのは理解できた……でもなんで?)
やっぱり普通に嫌われているだけなのだろうか。それとも過去に何か遺恨が?
だがこれ以上引き出せそうにないので、本橋と香月が今度は部長に絡みだし、羽田が歯噛みしているタイミングで彼女に声を掛けた。
「なんか収穫なさそうだし帰るわ」
「そうね、さっさと帰って」
血走った眼で睨まれる。
ほんと……分かりやすいなぁ。
香月と姫の座を争うとは思っていなかった羽田は、自分の劣勢が信じられないようだ。
「取り敢えず、こんだけ置いてくから足りなかったら教えて」
「了解」
果梨からお金を受け取った瞬間、きらりと目を光らせた羽田が先手を打った。
「きゃっ」
わざと、自分の肘でグラスを引っ掛けて倒したのだ。
そうなると男共はてんやわんやする。
やだー、とか大丈夫? とか様々な言葉が飛び交う混乱を、果梨は「すげぇな」と生暖かい目で見詰めながらそそくさとその場を後にした。
運命の分岐点はトイレだった。
帰る前に……とお手洗いに立ち寄ったタイムロスが、キングの侵攻を許す羽目になった。
「具合はどうだ?」
居酒屋の狭い通路に藤城が立っている。コートと鞄を手に持って出て来た果梨は凍り付いた。
この男は本当に心臓に悪い。昼間といい、今といい……。
「お蔭さまで体調はすこぶるいいです」
早口に答え、さっさとその場を出て行こうとする。
瞬間、通路の壁に背中を付けて立っていた男が、がん、と長い脚を反対の壁に押し付けた。
寸でのところでの足止めされる。……文字通り。
「……流行ってんですかね」
思わずそう漏らすと、「男は囲い込むのが大好きだからな」とあっさり答えた。
「…………また狩ですか?」
「その通り」
その言葉にマンモスの毛皮を着て、槍を持った男たちが獲物を囲い込む姿を思い浮かべる。
「男ってホント馬鹿ですね」
「狩猟本能はどんなに否定しても消せはしない」
くすりと笑い、藤城は果梨の手からコートを取り上げた。
「戻る気はありませんよ! あんな針のむしろ」
慌てて藤城の腕に手を置けば、彼はさも愉快そうに笑った。
「どこが? 立派に戦ってたじゃねぇか」
砕けた口調にカチンとくる。
この男が振るった一刀両断のダメージは、まだ胸に残っている。
「言っておきますけど! 私が無傷のノーダメージだと思ってるのなら、部長も間抜けです」
しかし果梨の罵倒に藤城はすこぶる楽しそうだ。引き留めるような果梨の手などお構いなしにどんどん歩いて行く。
「なら傷付いた女を慰めるという特権が俺にはあるわけだ」
誰のせいだと思ってるんだ、コノヤロウ!
言葉に出さず、顔で訴えるが前を行く藤城には見えていない。お支払いもしたし、このまま帰る予定だったのに。悔し紛れに掴んだ腕に更に力を込めれば、振り返った藤城が手にしていたコートをふわりと翻した。
そのまま果梨の肩に掛ける。
彼の背中に隠れて見えなかったが、すぐ傍に例の鉄製の扉がそびえていた。
「帰るぞ」
酷く簡素なその一言に、果梨は目が点になった。てっきり飲みの場に連れ戻されると思っていたのに意外だ。だが願ったり叶ったり。このまま帰る事が出来れば万々歳だ。
マフラーでぐるぐる巻きにされ、早急なガッツポーズを取りそうな果梨に藤城が笑う。
「ちょっと待ってろ」
「いえ、お見送りは結構です。このまま帰ります」
お疲れさまでした、と早口で告げてお辞儀をし、猛スピードで居酒屋を出ようとする。が、今度は伸びて来た藤城の腕に腰を掴まれ阻まれた。
「馬鹿言うな。俺と一緒に帰るんだよ」
「え?」
「藤城」
背後からの声に藤城が振り返る。そこには彼の鞄とコートを持った白石が立っていた。
「彼女は?」
鋭い眼差しが、マフラーに埋もれた果梨に注がれる。だがじっと見詰める黒い瞳にはどこか温かな光があった。藤城の策略めいた視線とは違う、心から彼女を案じていると勘違いしそうな眼差し。微かに寄った眉が、彼の日に焼けた精悍な顔つきに不安そうな影を落としていた。
「具合は?」
果梨を見詰めたままのぶっきらぼうな質問にどきりとする。彼の眼差しに心がうずく。だが果梨が質問に答えるより先に、腰に回された腕に力が籠り引き寄せられた。
「顔色が悪いから連れて帰る。後は任せた」
友人に対して、というよりは部下に命令するような冷たい口調。我が物顔で腰を抱く藤城の、トンデモナイ発言に呆気にとられ、果梨は顔を上げた。
自分は別に具合などこれっぽっちも悪くない。顔色だって先ほど確認したが普通だ。だがそんなことはお構いなしに果梨の具合が悪いと告げる藤城の顔からは何も読み取れない。
ただ綺麗なダークブラウンの瞳に白石が映っているだけだ。
「大丈夫か?」
藤城に答えず、依然果梨にのみ視線を注ぐ白石が落ち着いた声で再び訊いてきた。
「はい」
何も言うな、と更に果梨の腰に触れる手に力が籠る。だがそう警告されなくとも、今の果梨には白石に掛けるべき言葉が無かった。白石の……仕草や言葉に感じる親密さに答える言葉が。
(藤城さんが居るから、果穂と何かあったのかと探りを入れる事なんか出来る訳ないし)
二人の人間に気を遣いながら問題の核心に触れようとするのは危ないと直感で悟る。何か致命的なミスを犯してしまう可能性の方が高い。果穂に連絡を取れないなら尚更だ。
(白石さんにしても……香月さんにしても……歯がゆいったらないわ……)
全てはこの藤城康晃という男の所為だ。この男が傍に居る限り果穂との関係を二人に問いただす事は出来ない。女性の香月さんには別のアプローチができるかもしれないが、白石に関してはお手上げだ。
(まぁでも……東野設計事務所とは関わるなってことだから……)
「ちゃんと食って寝ろよ」
ぽつりと漏らされた白石のその一言に、顔を上げるより先に手が伸びて来た。くしゃり、と果梨の頭を撫でる乾いた大きな手。
藤城が微かに目を見開くのを無視し、数度ぽんぽんと果梨の頭を撫でた後「ちゃんと送ってけよ、康晃」と白石が怖い声で促した。
―――康晃。
まさかの名前呼び。そして藤城の憤慨した声を聞く前に、彼は手にしていた藤城の鞄とコートを彼に押し付けるときびきびとした足取りで店の奥に戻って行った。
(今の……何?)
やや乱れた髪を直すでもなく、ぼんやりと白石の背中を見詰めながら今の親密な一瞬に困惑する。
食べて寝て? ていうか白石の眼にも顔色が悪く映ったという事だろうか? それとも果穂の具合がよろしくないのを知っていると言うコト? 最後に会った時、果穂は確かにやつれていてちゃんと食べて寝た方が良い状況だった。
だとしたら彼はその果穂を知っていて、今まで通りの果穂を演じている果梨を強がっていると勘違いしてそれで心配して―――
「行くぞ」
その言葉、氷の刃の如し。
腰を離れた手が、コートの上からでも指の感触が分かる程きつく二の腕を掴む。それを力任せに引っ張られ、果梨は自分が白石を茫然と見詰めていた事が藤城にもばればれだったと気付いた。知らず顔から血の気が失せる。
「あの」
軽くよろけながら腕を引く藤城に必死に付いて行く。外は午後に降り出し、一度は雨に変わった雪が再度細かくなって風に舞っていた。気温はぐんぐん下がっていて吐く息が白い。こんな天気で歩く人は少なく、ましてや金曜夜にタクシーなど捕まるものかという果梨の甘い考えを裏切り、仕事のできる男はあっさりと捕まえた車に果梨を押し込んだ。
「ちょっと、部長! さっきの態度は……ていうか、私具合なんかちっとも悪く―――」
そこで果梨は絶句した。果梨の質問に一切答えない藤城が告げた住所は、あろうことか果穂のマンションがある住所だったからだ。
今この瞬間、果梨の顔色が最悪になった。
(これは……もしかしなくても果穂のマンションに送って行こうとしてる? ていうか果穂のマンションに送って行かれた所であたし入れないし!)
そもそも藤城は果穂のマンションの住所を本当に知ってるのだろうか……まぁ、知ってるのだろう。なんか親密な夜の話題が一瞬でたし。
ていうか果穂の仕事を果梨が代行しているが、住まいまで変更してはいない。彼女から服を借りた時も果穂が自ら持って来てくれただけ。もちろん果穂の家の鍵など持っていない。
(って、ひょっとしたら部長、果穂のご近所さんなのかも)
今聞いた住所は果穂の住所『方面』だった。彼が行こうとしているのが自分の家という可能性もゼロではないだろう。だがその可能性に賭けて、結局果穂の家の前に到着したら?
(自分の家に入れないなんて……そんなのダメだ!)
不信感=入れ替わりがバレる可能性が増える。
それだけは避けなければならない事態で、その為に返答を考える必要がある。
「…………部屋まで送ってくれなくていいです」
ひねり出した最大限の牽制をしてみた。最悪マンションの前でタクシーに乗る藤城を見送ればいい。だがそんな果梨の言葉を隣に座る男はあっさり拒否した。
「ベッドまで見送らないと、お前が何をするか判らないからな」
「……どういう意味でしょうか」
「巧とお前の態度を見れば、現彼氏としてお前を野放しには出来ないと踏んだんだ」
侮辱とも取れるその言葉に、果梨の頭に血が上った。まるで白石と果梨の間に今でも何かあるような言い方ではないか。実際に……あるのかないのか判らないが、白石と続いているのに藤城にプロポーズするような女だと思われるのは心外だ。果穂だってそこまで厚顔無恥では……無い、筈。
「私に彼氏は居ません」
苛立ちを込めて答える。現時点で、果梨にも果穂にも彼氏は居ないので嘘ではない。
「じゃあ婚約者だ」
対して藤城も苛立った返答をする。にべもない一方的な物言いに果梨はかちんと来てヒートアップする。知らず早口で一気にまくしたてていた。
「私に婚約者も彼氏も、ついでに恋人も夫もヒモもセフレもいませんからッ」
「居るだろ」
あっさり答えた藤城が、ぐっと身を寄せて来る。気付いた時には、タクシーのドアと男に挟まれて身動きが取れなくなっていた。
「これ……ご自分の車じゃないんですよッ」
ぞわりと背中が粟立ち、果梨は焦って藤城を睨み付けた。囁き声で怒鳴ると囲い込むのが大好きな藤城が両手で作った檻の中に果梨を閉じ込めたまま捕食者然として微笑んだ。言うまでもないが眼は笑っていない。
「お前がそれは全部俺の役割だと認めるのなら、出してやろう。だが認めないのなら……」
持ち上がった片方の手。その長い指先が柔らかな果梨の頬を撫でて行く。
妖しげな色気全開で向かってくる藤城に、果梨は恐怖した。すぐ前でタクシー運転手が迷惑そうなうんざりした態度で、バカなカップルがコトを始めないかどうか苛立っているかと思うと尚更だ。
いやいやこの上司はそこまで非常識じゃない筈だ―――多分。……ここ数日分しか知らないけど。
「…………いいのか?」
果梨にだけ聞こえる低音の囁き声。それが酷く楽しそうに淫らな事を口走る。
「このままここで、意に染まないまま犯されても?」
指先の作り出す感触に胃の腑がひっくり返るような衝撃が走った。その衝撃が震えとなり、腰に広がるのを認めながらも果梨は果敢に言い返した。
「同意するつもりも無いのに同意するよう迫るのは、恐喝と同じでしょう?」
「俺は脅してるつもりはない。お前が勝手に脅されてると思っているだけだ」
「それが恐喝だっていうの!」
甘い痛みをもたらす手をはねのけ、果梨は喰われてたまるかと睨み返した。依然彼女を囲う男は、ぎゅっと結ばれた果梨の唇に視線を注いでいる。
「君は俺にプロポーズをした」
「間違いでした」
「それを俺は考え直し、お前と付き合うことにした」
「私は望んでません」
「そこにきて何やら怪しい男の登場だ」
「白石さんはただの仕事上のお知り合いです」
「何故だろうな? 俺はそうは思わない」
数センチ、彼がまた顔を近づけて来る。彼は愉快そうに続けた。
「このままここでキスされて喘ぎ声を上げながら部屋に連れ込まれるか、大人しく俺を家に招き入れるか選べ」
どっちも部屋にあげる事前提じゃないかッ!
ぎりぎりと奥歯を噛みしめながら、果梨は迫られている云々よりも「その部屋にあげることが出来ない」事実の方が問題だった。このままだと、バレる。
ああ、部屋の主はいまいずこ。
ここで果梨がナイトではなくポーンだとバレるわけには行かないのだ。
「でしたら」
半眼でこちらを見下ろす男に果梨は、自棄になりながら提案した。
「部長のお部屋に連れて行って下さい」
(部長が高槻さんをお持ち帰りなんていっが~い……)
本橋の隣に陣取る麗奈が、彼に矢継ぎ早に「女子テクニック―居酒屋編―」を繰り出しながら考える。戻って来た白石をちらりと確認するも明らかに不機嫌そうだ。
普通の……特に恋愛遊戯に疎そうな香月渚には判らないだろうが、白石の眉間に増えた一本の皺が彼の機嫌を物語っている。
観察する事……それが麗奈のモットーだった。どんな人間も、見て居れば分かって来る事がある。加えて麗奈には「相手に尽くす」というカードも持っていた。
一つ一つ相手に何かを差し出し、反応を見る。手ごたえのあった物だけチョイスして徐々に相手との距離を詰める。そこから今度は「相手に尽くさせる」ためのカードを切り始めるのだ。
(本橋さんは……手ごたえ無いわね)
彼のグラスに、今日何杯目になるか判らないビールを継ぎながら麗奈は溜息を吐いた。今日彼を誘ったのは、確かにクリスマスに向けて本格的に捕獲作戦を始動しようと思ったからである。だがその裏には他の男性を紹介して貰おうという二次的な野望も含まれていた。だが現時点でその二次的な野望も潰えそうだ。
藤城部長はそもそも麗奈の好みじゃないし、ちょっと良いかな、と思われる白石は現在心ここにあらず。本橋はだいぶ酔っ払っているとはいえ、麗奈のスキンシップをさりげなくガードしている。
いっそのこと胸でも押し付けようか。
「部長は?」
麗奈が見抜けた事実を読めない香月が、本橋に絡むのを止めて場を見渡し、再び座る白石に尋ねる。彼は軽く肩を竦めた。
「高槻さんが具合が悪そうなんで連れて帰ったよ」
麗奈は知っている。高槻果穂は具合など悪そうではなかった。実りが無いから帰ると言っていたのがその証拠だ。だが、麗奈は黙っていた。ライバルは居ない方が良い。
「え? あの部長が?」
今度は本橋が驚いている。同じように麗奈も驚いていた。藤城部長が高槻果穂を買っている様子など皆無だったからだ。もちろん、ここでいう「買っている」というのは仕事上では、というのは含まれない。あくまでプライベートで……女として、という意味だ。
最近仕事で重宝していることくらいは麗奈も知っている。だが、それを女性として高槻果穂を見て居るから、とイコールにはならない……と思っていた。
(ああいう仕事が出来る男は女は外でが信条だと思うから……意外といえば意外なのよね)
部下に手を出すタイプではない、というのが麗奈の見立て。
そんな中「遊ばれてもいい」と藤城康晃にアプローチを掛ける沢山の女性社員の惨敗を「当然でしょ」と鼻高々で見て居たのだが、どう言う訳か高槻果穂に関してはそうならなかった……ようだ。
「そんなに具合悪かったんだ……飲み過ぎかな」
(んなわけないでしょ)
彼女が食べたと思しきチーズインハンバーグと釜飯の空き皿を見ながら麗奈は本橋の言葉に心の中で突っ込む。出来る営業な筈なのに、彼は意外と天然だ。天然炭酸飲料系。……いや待て。これが計算だったら空恐ろしい。
「……送って行ったんですか? タクシーに乗せるだけじゃなくて?」
香月の掠れた声が尋ねる。麗奈はちらと彼女を見た。大分飲んでいる筈なのに顔色は白く、表情は無い。ただ目だけがぎらぎらと光っているように見えた。
「そうだよ」
こちらも苛立ちを滲ませて答える白石。残っていたジョッキのビールを一気に煽った。
不意に空気が悪くなる。お互いが胸の内にしまっている不満があふれ出しそうな雰囲気だ。
それを煽って聞き出そうかと、麗奈がゲスい事を考えていると。
「部長職も大変ですねぇ」
本橋が再び呑気に告げてほっけの開きに箸を伸ばした。
そんな彼の一言に、不気味な熱をはらんでいた香月と白石は一気に毒気を抜かれ、空気が冷えた。
「ま……部下の面倒を見るのも上司の仕事ってことだ」
白石が乗っかる。
「氷の部長とは言っても、藤城部長は部下には厳しくて優しいですからね」
香月が落ち着いた声で答える。
(……面白くなりそうだったのに)
ち、と心の中で舌打ちをしながらも麗奈は藤城が部長として部下を気遣う姿を想像して笑ってしまった。確かに超優秀でエリートで出世街道爆進中の優秀な上司だとは思うが、そこまで部下を思いやる心があるとは思えない。
ここで麗奈が具合悪そうにしていても、藤城は自分で麗奈を送ったりはしない筈だ。
それは断言できる。
藤城がすげなく女性のお誘いを断る姿をこっそり……しかも何件も目撃しているのだから。
だがその点を二人に指摘するのを麗奈は差し控えた。
さっきも言った通り、麗奈にとって藤城は対象外だ。そして入社当時からライバルと目論む高槻果穂が藤城康晃とくっついてくれるのなら、これに越した事はない。
他の女どもが眼の色を変えるだろうが、麗奈としては万々歳だ。
(と、そうは思わない女がここにも一人……)
やっぱり部長は凄いよなぁ、としみじみ漏らす本橋に「アンタはもっと頑張りな」と香月が笑いながら告げる。
平然とワイングラスを煽り、何でもない様子を滲ませているが恐らく心中穏やかじゃないだろう。
今日は散々だった。まさか香月と姫の座を争うとは思わなかった上に収穫はゼロ。これなら友人の美紀と一緒に合コンにでも行けばよかった。
(なんか腹立ってきた……)
本来ならば本橋と二人きりで、ロマンチックなディナーを期待していた。本橋の男性本能を刺激して今頃ホテルでいちゃいちゃしてる予定だった。例えそうならなくても寝てしまえばこっちの物だとも思っていたのだ。だから友人の合コンも断った。勝率八割だと踏んだからだ。
それが二割の確率で失敗している。合コンなら勝率九割だったのに。
そんなくさくさした気分が、麗奈の意地悪心をくすぐった。
香月に飲まされた煮え湯(大げさ)の数々を思い出し、麗奈はとびっきりの笑顔を見せた。
「でもぉ、あの藤城部長が一人の女子社員に優しくするなんて超レアですよね!」
はしゃいだような麗奈の言葉に香月が固まる。ほんの一瞬の硬直。
「そうかしら? ああ見えて部長は出来た人よ」
落ち着いた声で切り返すが、麗奈はその言葉に滲む悔しさのような物を聞き取り心の中で笑った。
「そうですかぁ? 私は見たことも無いケド、きっと香月さんは見たことがあるんでしょうね」
にっこり。
そう言って飛び切りの笑顔を見せる。香月が両手を密かに握り締めた。
「ええ、もちろんよ」
笑って告げる香月に、ようやく麗奈は溜飲の下がる思いがしたのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます