第4話 ファイルを新規作成します

「敷島なんぞ取るに足りん。白石で決定だ」

 藤城がにべもなく香月に告げている。例の設計案の件だろう。ICIHA社内でのコンペは二月頭。候補は他にもいるが抜きんでた才能があるのが件の白石と、敷島浩人らしい。

「部長は白石さん推しですからね」

 今回のプロジェクトを取れるかどうかはその設計案に掛かっている。脇を固めてしまおうと、幾つか有望な工業を回って来た香月が手ごたえを報告している中での出来事だ。

 棘の塗された香月の台詞に藤城はおかしそうに笑った。

「なんだ? 白石は気に入らないか?」

「はい」

 きっぱり告げる香月に部署内の空気が凍り付いた。気に入らない、と断言された白石の為にと、部長自ら調べ上げた他社の主なデザイン案や建築士の名前。それをデータにする作業をしていた果梨も思わず顔を上げた。

 途端、香月と目が合い動揺する。目尻にラインの入ったきかなそうな瞳がしらっと果梨を見て居た。それから馬鹿にしたようにすいっと視線を逸らすのにポーン果梨は心の奥で舌打ちした。

(伏兵がここにも……)

 あの様子だと果穂に対して一言も二言もありそうだ。……面倒な。

 ビショップかルーク的な直線的な感じのする香月は「白石さんの実力は認めますが」と前置きしてとキング藤城と真っ向から対立する。自分が果穂のポジションでなければ好感を持てる振る舞いで、対等に意見する姿はよっぽど藤城と似合いだ。

(部長の興味が香月さんに向けば楽なのに……)

「彼の設計プランは有名過ぎてライバル企業からマークされてます。ですが敷島さんでしたら相手方に情報は流れてません。安全策を取るなら――」

「香月」

 続く香月の台詞を藤城が遮る。

「良い物が残る。それだけだ」

 ばっさりと切り捨てられ、香月の頬がかあっと赤くなった。爪が食い込みそうな程強く拳を握っているのが何故か果梨にも判った。

(せーろん)

 再びパソコンに視線を戻し、苦々しく思う。上司としての藤城は極めて単純だ。

 思考にブレは無く、物事は極めてクリア。グレーゾーンを否定しはしないが、グレーはグレーだろと割り切った考え方も出来る。時と場合によってはどこまでも非情になれる男なのだ。

 この話はこれで終わり、と相手をシャットアウト出来る器量も持つ。

 悔しそうに肩を落とす香月に、藤城は微笑んだ。それはなんというか同志に向けるような物で偶然それを目撃した果梨はほんの少し羨ましくなった。

「それに俺は白石をバックアップしてるが、ダメなものを出して来たら容赦せん」

 部長クラス以上がコンペには出席する。

 彼の眼に狂いはないし、そう言った場で公正な判断が出来る人だと香月も十分に理解している。だが振り返った香月はどこか不満そうに頷いた。

「分かってます」

 それから高い背を更に高く持ち上げるようにぴんと張り詰め、デスクに戻った。書類作業を始める彼女に思わず果梨は見惚れた。

 ダークグレーのパンツスーツに渋い赤のシャツという出で立ちは、漆黒の短い髪が良く似合う。

(ルークというよりクイーンだったか)

 キングと並ぶと絵になる。信頼されてそうだし。

 なんだかそれが羨ましい……と思い掛けて、果梨は自分自身に呆れた。

 ここは仮住まいなのだ。そして……高槻果穂として働いている。そこで誰に認められても悲惨な結末しか生まないだろう。自分に出来るのは果穂がこなしていた仕事をなぞり、ちょっと違う景色を眺める事。そこに踏み込むことはしてはいけない。

「なぁ~に、アレ……お高く留まっちゃってさ。敷島さん狙いなら口閉じてろっての」

 日に何度コピーするんだ、紙とトナー代の無駄だろ、という悪態を飲みこみながらもはや日課となっている背後からの声に果梨は肩を竦めた。

「そんな単純な理論で部長に進言する人が、営業成績二番手とか無いと思うケド」

 果梨のその台詞は、羽田にとって青天の霹靂だったらしい。

「ちょっとぉ! あんたの口からそんなセリフが出るなんて驚き何ですケド!? マジで大丈夫なわけ?」

 怪訝そうな顔で後ろから覗き込まれ、果梨は失敗した、と舌を噛んだ。

 あんまり地を出せば簡単に見破られてしまう。特に服装を地味目にシフトチェンジしたばかりでは尚更だ。

「だってあたしの狙いとは関係ないもん」

 果穂ならこうするだろう、と予測し軽く口を尖らせ余裕ぶって見せると、羽田は納得したらしく「そう言うコト」と背を起こしながら呟いた。軽く品を作る。

「でもざ~んねん。あなたには悪いケド、本橋さんとあたし、今日デートなの」

 うふふ、と軽く笑い「お先に」と意味深なセリフを吐いて羽田がコピー機に向かって行く。その背中を見詰めながら、果梨は溜息を吐きそうになった。

(気の毒な本橋さん)

 クリスマスに向けてターゲットロックオンされてるとは……。

(でもあの人あんまり羽田さんに興味なさそうなんだよね……)

 再びパソコンに向かうと、今度は目の前に書類の束を突き出された。顔を上げれば怖い顔の香月がこちらを見下ろしている。

「お忙しい所悪いんだケド、急ぎで」

 お忙しい、を強調して告げる。どうやら現在交渉中の大手銀行支店の、工費見積もりらしい。

「今日中にお願いね」

 言外に喋ってんじゃねぇという棘がある。視線にも適当に仕事しやがってという棘が。

 ふむ。

「かしこまりました」

 にっこり笑って馬鹿丁寧に返すと、微かに香月が眼を見張った。反撃されるとは思ってもいなかったようだ。

 濃い赤の唇をきゅっと結び長い脚を目一杯使って離れていく。

 白石の話が出た際に睨まれた。

 そして今現在、敵意をむき出しにされた。はてさて……どういう意味だ?

(う~ん……)

 果穂から訊いた話では「馬鹿な女には関わりたくない」と羽田と果穂を鼻で嗤ってる人、という事だったからこんな風にあからさまな敵意を見せられるとは思っていなかった。

 そう、彼女から感じたのは強烈な敵意だ。

(ケド……果穂の印象だと話したこともそんなにないってのに……何に対しての敵意?)

 ぱ、と必要な施工が記載された用紙を取り上げてデータから金額を算出していく。次から次へと項目と金額を確認し最後の一つを打ち込む際に我に返った。

(っていかん! これだと終わってしまう!)

 正味三十分。香月が皮肉を込めて「今日中に」と言ってたのを思い出し果梨は悩む。

 一応……果穂としてここに居るのだとしても……香月のようなキャリアウーマンに一矢報いる機会をみすみす見逃すのは悔しい。それに、と果梨は点滅するカーソルを見詰めながら考える。

 胸の内でほくそ笑む……というのが苦手というかあまり好きではない事に気付いたというのもある。堂々と高笑いしたい。最低だけど。

 颯爽と香月に近づき、「お忙しい所すいません」と微笑む。「何?」と苛立たしげな彼女に「先ほどの見積もりです」とさらりと書類を渡す……的な妄想が止まらない。

(絶対果穂のキャラじゃないけど……やりたいッ)

 うずうずする。加えて、先日藤城部長に「仕事が出来る部下が欲しい」と言われた際に感じたときめきもちょっと欲しい。

 誰かを見返したい。

 自分はそんな人間じゃないと見せつけたい。

 認められたい。

 ―――誰に?

 その瞬間、果梨の中に溢れそうになっていた希望に氷水がぶっかけられるのが判った。

 自分がそんな人間じゃないと見せつけた―――かった。

 過去形。

(痛いなぁ……)

 最後の一つを打ち込んだ画面を凝視しながら、果梨は自嘲気味に笑った。カーソルをファイル右上×印に持って行く。未保存のファイルを閉じれば、紙に書きだしたわけではない記録は無慈悲にも白紙に戻る。時間と手間を飲みこんで。

 全てがクリアーに。

(なんと羨ましい……)

 ぼんやりとそんなことを考えながら、マウスを動かそうとしたその時。

「あ、高槻さんそれ終わりですよね? ちょっと手伝ってもらっていいですか?」

 三度背後から声を掛けられる。驚いて振り返れば、微かに濡れたコートを持った本橋が困ってる割には爽やかな笑顔で立っていた。

「ビル風に書類吹っ飛ばされちゃって」

「え?」

 ぐっしょり濡れた封筒を持ち上げる本橋圭一が済まなさそうに笑った。

「会議室で乾かすの、手伝って」

 期せずして三十分という高槻果穂史上最速で仕上がった見積書(果梨史上ごくごく普通)を更に驚く香月にさっさと手渡し、果梨は慌てて本橋の後を追った。


「凄いよ、外のアスファルト。一センチは積もってるかなぁ」

「はあ」

「革靴じゃ役に立たないのなんのって」

 そう言って本橋は疲れたように首を振った。

「そしてまさかすっころぶとは……」

 ビル風云々は作り話だったらしい。照れたように「内緒な」と話してくれたのは自らが転倒した経緯だった。

 会議室のテーブルに濡れてくっついた書類を並べながら(幸い重要な契約書等は無かった)果梨は大きな窓に視線を遣った。

 濡れた雪がべしょべしょと灰色の空から落ちてきている。

 傘が無いと濡れる、雨が多少固形になったレベルの雪だ。

「スーツは大丈夫でしたか?」

 これで完了、と封筒を横に置く本橋に視線が向く。知らず知らず果梨は彼のお尻辺りを眺めていた。黒いスーツの為濡れていても良く判らない。

「ん。手、付いたからなんとか」

 袖口をまくり上げて「痛っ」と呻き声を上げる彼に、果梨は男性の尻を凝視していた視線を慌てて逸らして近寄った。

「うわ……痛そう」

「痛いです」

 手首付近の掌が擦り剝けたように赤くなっている。

「消毒しないと……」

「へーきへーき。舐めときゃ治るって」

「ダメです」

 きっぱりと告げる。そもそも傷を舐めて治るのは若い頃の特権だ。二十代後半はまだいけるかもしれないが、絶対に治癒時間は遅い筈だ。

「雑菌とか入ったら不味いですよ」

 言いながら果梨は救護室が有っただろうかと、叩き込まれたビルの構造を思い出そうとした。

 確か総務の横にあったはずだ。

「総務の人に言って救急箱借りてきますね」

「っとー、その前に」

 さっさと会議室から出て行こうとする果梨のカーディガンを本橋が掴んだ。

「ちょっと話があって」

 途端、嫌な予感がした。本橋ラブだった果穂が彼相手にどんな対応を取っていたのか……大体理解している。だが、今ここで本橋に媚びを売るわけには行かない。

 そもそも男性に媚びたり甘えたりした記憶が皆無なのだ。

 台本はあるが演じる実力が無い。

 しかも周りには誰もいない。

 さあ、何を言われるのか。もし付き合ってくれとかなんかそういう恋愛沙汰だったらどうすれば?

(まさか果穂のヤツ……本橋さんにもプロポーズしてないわよね!?)

 果梨の現状を支配している部長とのやり取りを思い出しぞっとする。そういう重要な事をアイツは何故言わないのか。

「あのさ……果穂ちゃん」

(まさかの名前呼び! マズイ!)

 周囲に人が居る状態でも、果梨が本橋と関わった事は数えるほどだ。しかもどれも仕事上のやり取り。唯一プライベートに掛かっていたのがあのお土産事件だけだ。

 だから、果穂と本橋はそれほど親密ではなかったと高を括っていた。

 何を言われるのか。多少藤城部長で耐性が付いているとはいえ、爆弾発言をされたら困る。

(つーか、もしかしてあり得ないとか思ってたけど果穂の相手って……)

「今日……羽田さんとデートなんだけど、付いて来てッ」

 発言と同時に拝み倒される。

 そんなまさかの爆弾に、果梨は言葉を失った。

「え?」

 デートに? 付き合え?

(ってぇ、中学生かッ!)

 呆気にとられる果梨を他所に、本橋は純粋に困った顔で彼女の手を取った。

「俺、全然全くこれっぽっちも羽田さんに興味ないの! でも全然全くこれっぽっちも諦めてくれなくてさ……」

「はあ」

「で、気付いたら今日一緒にご飯行く約束してて……」

「…………気付いたら?」

「気付いたらッ!」

 真剣な眼差しでこちらを見詰める本橋に、果梨は遠い目をした。

 一体全体どうやったら気付かずに行きたくもない相手と食事に行く流れになるのか。しかも営業部エースの本橋ともあろう者が。

「断ったらいいじゃないですか」

 言葉が投げやりになる。だが本橋はぶんぶんと首を振った。

「一度断ったら三倍近い勢いで誘いが来るようになった」

 下手な鉄砲作戦か!

「は……羽田さんやりますね」

「冗談じゃないよ」

 更にぎゅっと手を握られて、本橋は泣きそうな顔で詰め寄って来る。

「だから当たり障りのない話で誤魔化してたんだケド、泣きそうな顔でお話がありますって詰め寄られて……情緒不安定そうに見えたから断り切れなかったんだよ」

 良くそれで営業部のエース(以下略)

 手首でも切られたら怖いでしょ、と震える本橋に、果梨は申し訳ないが安堵した。

 この様子なら本橋と果穂がどうにかなっていた可能性は低い。だが気は抜けない。

(本橋さんに果穂が言い寄ろうとしてたとして、この態度を本橋さんが取るって事は少なからず果穂に気があるってわけで……)

 そうなると、本橋が両想いだと勝手に思い込みを始める可能性もある。

 それを断ち切るにはどうする?

(いや……断ち切っていいのか?)

 不意に果穂が戻って来た際の事を考えて、瞬間「別に良いのか」とあっさり否定する。

 何せ果穂は部長にプロポーズしているのだから。

(果穂的にはもう本橋さんは無しって事なのか……それとも部長に振られて本橋さんの元に走る事にしたのか……って、面倒くせぇっ!)

「果穂ちゃん?」

 黙り込む果梨に、そっと本橋が声を掛ける。顔を上げればすぐそこ……鼻先が触れそうな位置で本橋が果梨を見下ろしていた。相変わらず手を取られたまま。

「俺……本当に困ってる。だから、一緒に飲もうってことで」

 何故か低く、囁くように言われる。が、果梨は藤城の所為で耐性が付いていた。

 渋い顔で彼を見上げて考える。

 絶対に関わりたくない。っていうか、羽田さんってそこまで粘着質だったのか!? 知らんかったわ! っつーかこういう事を教えて行け、果穂ッ!

「あーっと……ですね……」

 何と答えるのがベストなのか……そう果穂の正解はどこにあるのか。ぐるぐると考え込んでいると「高槻」と恐ろしくて振り返れない声がした。

「部長」

 慌てた本橋が果梨の手を離す。一歩後退る彼に、果梨は「遅い」と胸の内で呻いた。

(く……ぬかった)

 やや青ざめる本橋に同情しつつ、そろそろと振り返る。戸口に右肩を預けた藤城が腕を組んでこちらを見て居た。

(怖い怖い怖い怖い……)

 ぞっとしながらも発するべき言葉を探しまくる。

「困りごとか? 本橋」

 彼の機嫌を象徴するかの如く気温が下がって行く。ついでに気圧も。低気圧だ、低気圧。荒れる……雪模様の外など目じゃない嵐が来る予感。

 なのに藤城は春の日差しかと見まごうような笑みを浮かべているから更に恐ろしい。

「えっと……ですね」

 部長の恐ろしさを知っているだけに、本橋が慎重に言葉を探る。だがどう考えても彼に勝ち目はない。火を見るより明らかだ。

「個人的な問題なので部長のお手を煩わせることは……」

「個人的な問題?」

 笑みを絶やさずに藤城が首を傾げる。目が笑ってないから死ぬほど怖い。

 果梨は少なからず本橋に同情した。彼は何故部長に凄まれているのか理解していない。ただ同僚と(距離は不謹慎だったが)話していただけだ。軽い叱責や二人の関係を尋ねられる程度で終わるのが普通だろう。

 だが、藤城は殺人も辞さないような雰囲気をありありと見せつけている。

(部長がここまで原始人だったとは……)

 嫉妬云々、束縛云々の話を思いだし、果梨はげんなりした。

 その嫉妬や束縛を求める感情が「愛」や「恋」ではなく単なる「好奇心」であることを果梨が知っているだけに尚更だ。強いて言うなら、おもちゃを取られそうになって怒っている五歳児と同等の感情だろう。

 そう分析できる自分が悲しいやら情けないやら。

 だが流石に本橋が可哀想で果梨は助け舟を出した。

「本橋さんが今日、羽田さんと飲みに行くそうで。一緒に来て欲しいって頼まれてたんです」

 言ってから、果梨はこれでは果穂っぽくない事に気付いた。完全に他人事チックだ。

 そこで慌てて付け足す。

「本橋さん、優しいから断れなかったんですって。羽田さん、強引だから。それで急遽みんなで飲み会にしないかって。ね?」

 可愛らしく微笑んで、首を傾げて見せる。営業部エースはその空気を読むことには長けていた。

「そうなんです。どうですか、部長」

 体制を立て直し、一歩前に出る本橋。屈託なく笑って見せる彼を藤城はしばらく眺め下ろしていた。生きた心地のしない五秒。

「俺は今日、白石と香月とで飲みに行く予定なんだ」

 それはまた面白い。

 しょんぼりと肩を落としていた香月と、彼女に微笑んだ藤城。その様子を思い出し、果梨は知らずに手を握り締めていた。

 藤城が見せた笑みは、決して果梨に向けられるものではない。部下の成長を見守るような……そんな笑みだった。

 彼が果梨に見せるのは、興味を惹かれたような……捕食者のそれで、温かく穏やかな感情とは無縁のもの。それが何故か果梨の胸に痛みを呼び起こすのだ。

「それじゃあ無理ですよね」

 どこかほっとしたように本橋が言った。

「三人で行きましょう」

 果梨に向きなおり再び炭酸スマイルを見せる本橋。だがここで藤城が引き下がるわけが無かった。

「誰が行かないと言った」

 ゆっくりとドアから身を起こし、猫科の猛獣のような悠々とした足取りで近づいて来る。本橋より五センチは高い身長の藤城が、二人を見下ろして微笑んだ。

「どうせならお前達が俺達と来ればいい」

「そ……うですね」

 しばしの沈黙の後、本橋が肩を落としながら呟いた。そんな本橋とは対照的に、果梨はこれはラッキーかもしれない、と人知れずにやりとする。

 香月の敵意、白石の謎の視線。これの理由が分かるかもしれない。それが分かれば対処のしようもある。

 だがリスクも大きい。

 果穂にとって二人がどういうポジションに居たのか謎過ぎるからだ。

(でも香月さんはどう考えてもノーマークだったし……白石さんは……)

 東野設計には気を付けろ。

(―――遠くから眺めてるだけでも良いか)

「それじゃ、七時に『洞』で」

 行きつけの居酒屋のその名前と、周辺地図もばっちり頭に入っている。

 振り返り、他に何か用が無いか本橋に尋ねようとして果梨は救急箱を渡すのを忘れていたことに気付いた。

「本橋さん、私、総務から救急箱借りてきますから」

 どこかがっかりした様子の本橋が、ぱっと顔を上げる。

「いえ、一緒に行きます」

「怪我したのか?」

 藤城が両眉を上げて尋ねると、バツが悪そうに本橋が両手を見せた。

「ちょっとすりむきまして……」

 掌の傷をちらと一瞥した藤城が「子供じゃあるまいし」と冷ややかに告げる。

「一人で行ってこい。高槻、業務に戻れ」

 反論を許さないオーラ全開で告げられ、本橋がのろのろと会議室を出て行く。残っていた果梨も会議室を出ようと藤城の横を通り過ぎる。

 その手首を、彼にぱしりと捕まれた。

「高槻」

 ぐいっと引き寄せられ、果梨の頬が藤城の胸元にぶつかる。ふわりと洗濯糊の香りがした。

 流れるように腰を抱かれ、果梨の背筋が粟立った。びくりと震えて顔を上げる果梨を見詰めながら、藤城がするっと細い腰のくぼみを撫でた。

「分かってると思うが、男は生来女を縛るのが非常に好きだ」

「枝の弓と石の矢尻で獲物を狩ってた時以来ですか?」

 柔らかく……腰から背中へと手を滑らされる感触に膝から力が抜けそうになる。それを懸命に隠しながら果梨は力一杯藤城を睨んだ。

「ああそうだ。そして、他所からそれを奪われるのも好きじゃない」

「女だってそうですよ」

 言い返せば、彼は楽しそうにくすりと笑った。

「覚えておこう」

 身を屈めて耳元で囁かれた低音が、腰の辺りを直撃する。膝が笑い立っていられない。

 するっと身体を撫でるように藤城が腕を解くと、よろけた果梨が片手を後ろ手に会議室のテーブルに付いた。必死に縋りつく。

 恐らく耳まで真っ赤になっているであろう果梨を見詰めて、藤城は楽しそうに笑った。いや、字が違う。

(愉しそう、だ)

 くそ……覚えてろよ、ドS 上司めッ……!

「迫られたら思い出せ? お前は現在『俺の物』で、縛られた獲物だって事をな」

 くるりと踵を返して歩き去るキングに、張りぼてナイトの果梨は悔しさとなんだか判らない動悸に歯を食いしばった。

 彼の獲物になってたまるか。

 そこから動けるようになるまで、果梨は永遠と呪詛の言葉を呟き続けるのだった。

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