第3話 アップデートのお知らせです

 年末恒例イベントといえばクリスマスだろう。

 二十五日にはショッピングモールやデパートからクリスマスの装飾が全て取っ払われるという、なんとも無情な日本のクリスマスは二十四日が本番だったりする。

 その二十四日まであと十日。そわそわし、服装から髪形まで気合の入っている羽田とは対照的に高槻は完全にやる気を失っていた。

「ちょっとぉ……あんたどうしたのよ?」

 コピーに立った羽田が、通りすがりに高槻に声を掛けた。

 データ整理をしている高槻の恰好は、白のブラウスに紺のカーディガン、四角いプリーツの膝丈ベージュのスカートと分厚いタイツという地味な装いだ。

 今までにないその格好に、羽田が不気味そうに眉を寄せた。

「クリスマスを前にあたしに敗北宣言?」

 ピンクパールのグロスが引かれた唇を歪めて嗤う羽田に、「いいからほっといて」と高槻は眉間に皺を寄せて答えた。

「あ~あ、面白くな~い~」

 ふん、と馬鹿にしたように鼻を鳴らし腰を振って遠ざかる羽田に胸の内で「ほっとけ」と更に悪態を吐く。

 果穂を意識してなるべく派手めな装いをしていたが、今はそれどころではない。

 あっという間に高槻の装いの第一段階を剥いだ男が上司として存在しているのだ。欺くべき相手に武装を完全に解除され……掛かった。

 すわ、これは忌々しき事態! と武装を強化するのもありだが、もともと無理な武装だった。

 となると、基本に立ち返るべきだろう。

 ポーンが突然、ナイトのようにひらりと馬に飛び乗り巨大な槍と盾を扱える訳などない。

 ポーンにはポーンの戦い方がある。その為には自分はポーンであると相手に認識して貰わなければ。キングからナイトだと思って攻撃をされても困るというものだ。

 そう。

(私は果穂じゃない……)

 パソコンの画面を眺めながら、彼女は溜息を吐いた。

 私は高槻果穂じゃない。

 私は……彼女の双子の妹だ。



「果梨、私を助けて」

 そう言って姉が果梨の部屋に飛び込んで来たのは霜月も終わりの事だった。

 スウェット姿で玄関に出た果梨は、彼女を押しのけアパートに上がり込む姉が青ざめ泣きはらした目をしている事に溜息を吐いた。

 世界で唯一自分に近い遺伝子を持っている相手は、顔や体型こそそっくりだが歩む人生はだいぶ違っていた――筈なのだが。

(結局同じか)

 部屋の中央に置かれたビーズクッションに崩れるようにして座り、じっとガラステーブルを見詰める果穂が震える身体を押さえようと拳を握りしめている。

 その姿に果梨は覚えが有った。

 自分が会社を辞めようと決めた時とそっくりだ。

「何やらかしたの?」

 向かいに胡坐をかいて座れば、口をへの字にした姉が、ず、と鼻をすすり赤らんだ目元を緩めた。ぽろっと透明な涙が頬を転がり落ちる。

「私……」

「うん」

「会社休む」

「………………あー……流行ってんの、それ」

「本気なの」

 そう言って果穂は手にしていたブランドのハンドバッグから通帳と印鑑を取り出した。それを果梨の前に差し出す。

「給与口座を新たに開設して、事務に渋い顔されながら変更した」

「…………うん?」

 顔面にはてなを飛ばす果梨を他所に、果穂は目元を乱暴に拭い怒ったような口調でのたまった。

「これからの給料、果梨にあげるから私の代わりにICHIHAで働いて」



(普通なら速攻で諌める所だわね……)

 ぼんやりと画面を眺めながら、果梨はあの日何故果穂の提案に乗ったのかをつらつらと考えていた。

 彼女は逃走休暇だと座った眼をして告げた。

 ここには居られない。その理由も説明してくれた。そしてその理由を会社に話す事もしたくないと。だから子供の頃しょっちゅう入れ替わって大人をからかっていた悪だくみの相棒に、この入れ替わりを提案したのだ。

 果梨が帰ってくるまでICHIHAで働いて欲しい。その間の給料は全部果梨の物でいいからと。

(果梨も就活するより手っ取り早く稼げていいでしょ、なんてよく言うわ……)

 本橋から頼まれた資料を手早く……もとい、手遅く処理しながら渋い顔をする。

 でも、辟易していたのも事実だった。

 毎日毎日同じ景色を眺めているうちに、他人が眺めている景色にふらりと惹かれたのだ。

 例えば街を行くキャリアウーマンや、ギターケースを背負った少女。世界で自分こそ最強と思っている女子高生に、子供を後ろに乗せたママチャリのお母さん……。

 そこには千差万別、その人の人生があり全身傷だらけの果梨にはどの人もキラキラ輝いて見えた。

 どこかに行きたい。あそこに居る人の誰かと人生をチェンジしたい。

 楽になりたい。楽しい事がしたい……。

 常識的に考えてあり得ない、選ばない選択を彼女がしてしまったのは、そんな弱った心の隙間にするりと姉の提案が滑り込み、かちりと嵌ってしまったからなのだろう。

 一週間、朝から晩まで果穂の生活パターンと人付き合いを覚え込まされた。会社以外の友人には自分が対処すると姉は請け合い、果梨には会社内の事だけ頑張ってほしいと言った。

 上手く行くわけないと果梨が正気に返ったのは、ICHIHAに出社する月曜の朝だった。

 それでも意外と周囲を騙せているのは、偏に彼女が「記号化」した生活を送っていたからだ。

 果穂は本当に上手に自分を隠し、典型的なOLを演じていた……気がする。

 見る人が見なければわからない個性。

 大勢のアイドルグループの、その全てが同じに見えるが、好んで掘り下げれば見えて来る個性とそれは近い。

 だが、そんな風に上手く深く入り込まずそこに『居た』果穂がやらかしたミスが、果穂をそこから遠ざける結果になった。

(……果穂の中から果穂を見付けたからこその……)

「高槻」

 ひんやりとした声がし、果梨はぎくりと背を強張らせた。

 キングが呼んでいる。

 ホンモノのナイトではなく、張りぼての馬と段ボールの鎧で武装したニセモノのナイトを。

 ばれないよう、笑顔という鉄仮面を被り立ち上がった彼女は、営業部の入り口に佇む藤城ともう一人に気付いた。

 こいこい、と手招きされぎこちなく歩き出す。と、自然と果梨の足が止まった。

(まずい)

 藤城部長の隣に立っているのは東野設計の白石巧だ。

 果穂のレクチャーでは東野設計とは関わるな、という事だった。関わるような事になったら非常に厄介だから逃げろとまで言われている。

 その一人が藤城の隣に居る。

「何やってる」

 笑顔の気配など微塵もない藤城の台詞に、一瞬果梨は倒れようかと画策した。

 持病の生理痛が、とか何とか言いながら。

 だが話を聞いた時から気にもなっていた。何故果穂が東野設計を恐れるのか。……まあ、理由は一つしかないかもしれないが。

 止めていた足を動かし、姿勢だけは針金が入ったように真っ直ぐに強張らせながら果梨は張り付けた笑顔で二人に近づいた。

「何かご用でしょうか」

「用がなきゃ呼ばない」

 コノヤロウ。

 こめかみに青筋が浮かないように細心の注意を払う。

 この男への対処を間違ったお蔭で非常に面倒な事になっている。

 恋人同士宣言。

 そんな宣言無意味だ、というのが現在の果梨の正直すぎる感想だ。あれ以来、藤城部長から何かアプローチがあるわけでもなく、果梨も「触らぬ神にナントヤラ」精神で触れもしない。

 別れ際だってあっさりしたものだった。割り勘にしようとした果梨を、一瞥で震えあがらせ、なのに紳士らしく駅まで送って解散となった。

 メールもラインもケー番もプライベートな連絡手段の交換等一切なし。

 が、部長の名刺は持っている……部下だからね。そこにオフィスのメールアドレスの記載はある……必要だからね。

「でしたら呼ばれた用をご説明願いましょうか」

 藤城部長に負けず劣らずな塩対応とすると、隣にいた白石が微かに目を見張った。心なしか肩が強張っている。

 白石巧は藤城と同じ歳だ。ICHIHAの建設した建物の主な建築物の設計担当が白石で、彼の耐震構造は一目置かれている。そしてそれこそが今回の駅前再開発に乗り出す際のウリなのだ。

 建築に一切興味のなさそうな果穂に「やばいらしい」と言わしめるその構造は、大学教授とチームを組んで研究開発したものなのだとか。資料の作成などで部長を手伝うと必ずこの構造の説明が入って来るので、理論はともかく「凄い物だ」という認識が果梨の中にも出来ていた。

 藤城と比べてやや短めの黒髪に日に焼けた肌。真冬というのにスーツのジャケットを脱ぎ袖を捲り上げている。腕組みをするとその腕の太さがよく判り、スポーツ選手のような体格だなと果梨は頭の片隅で考えた。

(モテそうだな)

 じっと見下ろしてくる黒い瞳を見返していると、微かに白石の顔に動揺が走り果梨はおやっと思った。ついっと視線を逸らすその様子が何故か気になる。

(この人……私を避けようとしてる……?)

「外に出るからコート取って来い」

 冷え冷えとした声がして果梨は我に返った。見れば藤城が果梨を睨んでいた。

(怖い怖い……)

 何故睨まれるのか皆目見当も付かないが、藪をつついて蛇を出す趣味も無いので果梨は「はぁい」と果穂らしい返事をしてくるりと彼の背を向けた。

(つーか、パシリに使うなよな)

 部長の机の後ろにあるラックから彼のコートを取って振り返ると、ホワイトボードに出先を記入していた藤城が「違う」と一言。

「え?」

 そのまま彼はきゅきゅっと果梨の欄にも出先を書き記した。

「…………もしかして、私もですか?」

「そうだ」

 なんでどうして単なる営業補佐事務でしかない私が営業部長とどこに行くというのだ!?

 かろんとマーカーを受け皿に放り、三歩で果梨に近づいた藤城が手からコートを取り上げる。

 顔全体に「なんで?」を張り付ける彼女に男はにやりと笑った。

「渡した資料をまとめるだけなら期待値の五割の人間がやる事だ。が、俺はもうちょっと評価の高い部下が欲しい」

「…………え?」

 彼は端正な顔に意味深な笑みを張り付ける。それが何故か果梨の好奇心を直撃した。

 どきりと心臓が高鳴る。

 張りぼてナイトの下から、一歩一歩直進しか出来ないポーンが顔を出す。

「お前の議事録……偉く面白かったからな」

 秘密めかした囁き声。続く、偉そうな「行くぞ」に促され果梨は久々に仕事振りを認められた期待と正体がバレるのではという不安に胸をドキドキさせ、慌ててコートとマフラーを掴んだ。


 その駅は中心街から車で二十分という環境にあった。美しく聳え立つマンションが印象的な住宅街である。

 緩やかに流れる川と、それを見下ろすように立ち並ぶ家々。少し行くと街から外れて山の中に入ってしまうそこは、自然が多く人が静かに暮らすにはもってこいの環境だった。

 ―――ただし商業施設が目に見えて少ない。

 夕暮れ時、濃い灰色の空を背に駅前に降り立った果梨は寒風に首を掬めた。ずらりと自転車が並ぶ広い敷地。その向こうには三人が載って来た社用車を止めたただっぴろい駐車場。

 遠く向こうに広がるマンション群の、ぽつりぽつりと灯り始める窓明かりを見上げながら彼女はぐるりを見渡した。

「何もないだろ」

 あっさりした藤城の台詞に、彼女は一も二もなく頷いた。

「駅前にこんなにただっぴろい空間を確保する意味が分からないんですが……」

「もともとここにデカイ駅ビルを建てる予定だったんだ」

 真っ白な吐息を吐きながら白石が切り出した。

「だが実際には折からの不況で資金難。計画はとん挫した」

 それで確保した土地だけが余ったというのか。

「だが街の住人からの買い物施設が欲しいと言う声は大きい。ここにマンションを買った当初は車で近くのショッピングセンターに気軽に行けたかもしれないが、それから三十年近く月日が流れて、住人の高齢化が進んでる」

 藤城が見詰める先に、自転車に重そうな買い物袋を提げるおばちゃんが見えた。茶色のダウンコートに黒っぽいニット帽。手には厚手の手袋という出で立ちで年齢は定かではないが、おばあちゃんという可能性もある。

「一週間分の買い出しを電車に乗って……というのも面倒なモノだろ」

 たとえ一駅でもな、と苦々しく告げる藤城に果梨は納得した。

 ここの商業施設建設に名を上げているのはICHIHA以外にも三社ほどあった。

 一つは近代的なガラスと鉄骨を使った建物が体表的。もう一つは高層ビル・高層マンションが得意。最後はデザイナーズマンションを主に手掛けるアーティスティックな建築様式を売りにしていた。

 電車が到着し、高校生や中学生など学生が駅から吐き出されてくる。その波に乗りながら、三人はマンション群のある通りへと足を運んだ。

 敷地は広く、くねくねした小道が続いて行くのが見て取れる。住宅街の道路は細く、蛇行したり山が近い所為で坂になったりしていた。

 主要な道路と思しき歩道はレンガ敷きを模した石畳風で、見上げた先の街灯も古い英国の通りを彷彿とさせる黒塗り装飾の物だった。

 歩きながら白石と藤城が地盤に付いて話している。傾斜がどうとか、粘土質がどうとかいう話を右から左に聞き流しながら、小高い丘を登って行き、最終的に公園に出た。

 日が落ち、しかしまだ闇に沈む前の深い青色の世界にぽつりぽつりと灯るオレンジ色の灯り。

 車のヘッドライト。自転車のライト。それから街灯。

「この辺りの住人はこの静けさを気に入っても居るというのが本音だ」

 コートのポケットに手を突っ込んだ藤城が、寒さにも首をすくめる事無く堂々と立っていた。マフラーに顎まで埋まった果梨が「そうですね」と何気なく相槌を打つ。

「分かる気がします。なんというか……絵本の中の街みたいですから」

 真っ白な吐息に混じって呟かれた果梨のその台詞に、何故か白石が目を見開いた。ぎょっとしている。その彼の様子に、藤城は満足そうに小さく笑った。

「この街が望む建物はどんなものだと思う?」

 少なくとも、鋼鉄のビルや奇抜なデザインのモダンな建物ではない事は判った。

「……何かで読んだ事があります。建物はその場にずっと有り続けるもので、簡単に排除は出来ない。その場に溶け込むモノでなければ大いなるストレスになるとかなんとか」

「景観が大事という事だな」

「……だとしたら」

 雰囲気のある街灯と石畳。老若男女が住まうマンション群。通勤通学で行き交う人々。

 出発と帰還。日常と非日常。ゲートの先。

「…………関所みたいな?」

 それに藤城が盛大に吹き出した。そのまま腹を抱えて笑いだす部長に果梨は言葉のチョイスを間違えたと苛立たしげに眉を寄せた。

「スイマセン、間違いました。私としては……」

「ゲート。要塞。砦……駅」

「一周したな」

 イメージを告げる白石が、結局「駅」という単語に戻るのを見て藤城がにやりと笑う。

「だが悪くない」

「ああ」

 ちらと視線を交わすだけで、二人は納得したように頷き合う。その姿に、果梨はなんとなく羨ましい物を感じた。

 今までの人生で、そんな一時が有っただろうか。

 ただ漫然と己の業務をこなすのではなく……互いに必要とされてやり取りする。そんな瞬間が。

 対等で有りながらライバルであるという関係。

「やっぱり見に来て正解だったな」

 公園にある見晴らし台の手摺に掴まった藤城が、すっかり暗闇に沈んでしまった家々を見下ろす。その男の隣に立ちながら、果梨は溜息を吐いた。

「私、来た意味ありました?」

 太陽の恵みを失い、どんどん低下する空気の中寒さ緩和の為に足踏みを始める。彼女を見た藤城が何故かふわりと暖かく笑った。

 そんな藤城が何か言うより先に白石が割って入った。

「良い助けになった」

 ぬっと目の前に手を出され果梨は困惑した。だが彼はお構いなしに、公園の街灯に照らされた真っ直ぐな瞳で彼女を見下ろしている。

 差し伸べられている手を取らないわけにいかず、果梨は気まずい思いをしながら手を出す。

 手袋をしていない、大きくて暖かく、乾いた掌が果梨の冷えた指先を包んだ。

 その瞬間、白石が苦しそうに眉を寄せた。見上げる彼の眼に、切望が宿る。

(―――え……? 何?)

 不意に果穂が言っていた警告を思い出した。東野設計には近づくな。

 思い切ったような感情が白石の顔に過った瞬間、藤城がぐいっと果梨の二の腕を掴んで引っ張った。

「関所発言には笑ったが、お蔭で収穫があった」

 そのまま何かから振り切るように、藤城は彼女を連れて歩いて行く。

「今日見た物を十分に役立ててくれ」

「は……あ……」

 長い脚で淡々と進む藤城によろけるようにして付いて行く。そして何故か果梨はほっとしたようながっかりしたような気持に襲われていた。

 白石は何を言いたかったのか。そしてそれは一体どんな意味があったのか。

(それとも何の意味も無い、私の見間違いか……)

 ちらっと後ろを振り返ると、片足に重心を掛けて立つ白石がこちらをじっと見て居た。やや傾いた首と組んだ腕。表情は読み取れないがその態度からは呆れと苛立ちが見て取れた。

(果穂となんかあったのかな……)

 ぐいぐいと自分を引っ張る上司に視線を戻し、果梨は状況を改めて考えるためにも彼の手を振り解こうとした。だが、離れた傍から掴まれる。

「部長ッ」

 数度その攻防を繰り返したのち、果梨は苛立ちながら目の前を行く上司に非難の声を上げた。

「一人で歩けますから、いい加減離してください」

「お前は自覚が足りない」

 唐突に叱責されて果梨はぽかんと口を開けた。坂を下りきり、突き当りを右に曲がる。そのままマンション群の横を通り過ぎれば駅前だ。

 やや人通りが多くなり、流石に手首を掴まれて引きずられるのには抵抗が生まれる。今度こそ、と捻るようにして手を抜き、さっと背中に隠すと冷え冷えとした表情の男がこちらを振り返った。

(怖ッ)

 じろっと絶対零度の視線が果梨を捉える。助けを求めて後ろを振り返れば、白石は十メートル程後方に居た。

「高槻」

 彼が来るまで足踏みでも……なんて考えていた果梨は藤城に呼ばれ観念する。

 彼はちらと後方の男を確認した後、早口に告げた。

「お前と俺は恋人同士だ」

「―――認めた覚えはありませんが」

「付き合うに合意したんだ、文句は言うな」

「文句ではなくて、あんな発言問題外だと提案を」

「他の男に触るな」

「……はあ?」

 突然飛んだ……しかもあまりの暴君な発言に思わず声が上ずった。他の男に……触るな?

「あの……二十一世紀にあるまじき発言なんですが……」

「二十一世紀だろうが紀元前だろうがホモサピエンスだろうが、全世界の男は自分の所有物をべたべた触られるのが嫌いなんだよ」

 …………つまり、男は皆、須らく原始人だと言いたいのか?

「いや、違う違う。ていうか所有物って何ですか!」

 思わず飲まれそうになって慌てて反論する。

「君と俺は付き合っている。だから君は俺の所有物だ」

「馬鹿言わないでください! 文明人にあるまじき発言ですよ」

「ヒトも所詮は動物という事だ」

「いやいやいやいや……違うでしょ。その考え可笑しいですよ、部長!」

「お前はどうなんだ?」

 近づく白石を確認した後、くるりと果梨に背を向けて藤城が歩き出す。

「何がですか?」

 前を見たまま、彼は白い息を吐いた。

「お前は、付き合った男を独り占めしたいとは思わないのか?」

 その言葉に不意に、果梨の脳裏を鮮やかな光景が駆け抜けた。

 人として、誰かを縛るなんて良くない。あんまりべたべたしたくない。嫉妬なんて見苦しい……。

 常に冷静に。相手を思って息苦しくないように……。

 そう思って取った行動が生んだ歪がぽっかりと、果梨の胸に出来ている。


 ―――果梨、ごめん。


 耳の奥に響いた声に、彼女は慌てて蓋をした。思い出したくない。今は……まだ。いや、一生思い出すつもりもない。

 何も言わない果梨を不審に思った藤城が振り返る。

 彼女は街を眺めていた。通り過ぎていく車。マフラーから真っ赤な頬を出し、風を切って自転車を漕ぐ女子高生。子供の乗ったバギーを押す若いお母さん。公園から走って帰るバットを持った少年と、彼に声を掛ける背広のお父さん……。

「高槻?」

「縛られたいものなんですか、みんな……」

 意図せず乾いた声が出て、果梨ははっと我に返った。奇妙な顔で藤城が自分を見下ろしている。

 慌てて剥がれそうになったハリボテの兜をかぶり直す。

「ていうか、握手くらいで目くじらを立てるような心の狭い男性はそもそもごめんです」

 彼を追い抜いて、寒さに身を震わせながら果梨は停めてある社用車に大急ぎで歩いて行く。

「そうだな」

 再び彼女の隣に並ぶように歩調を合わせながら、藤城は微かに強張った果梨の頬に目を止める。

 ぎゅっと握り締めた手。ぴんと伸びた背と微かに怒らせた肩。彼女にしては大股な足運び。

「俺もそう思うよ」

「矛盾してます」

 吐き捨てるように指摘すると、藤城はさして感情もなく、普通にさらりと答えた。

「どこが? 縛りたいが縛られたくない……普通だろ」

 車に乗り込む藤城の背中を見詰め、果梨は言葉を飲んだ。

 それは男性が? それとも女性も? そんな単語がのどに詰まってしまい、結局果梨はその問いを尋ねることが出来なかった。



「藤城」

 戻って一息、と休憩スペースで缶コーヒーを買おうとしていた康晃は呼び止められて振り返った。不機嫌そうな顔の友人が立っている。

「どうかしたか?」

 落ちて来たコーヒーを手にソファに近づく。正面のガラス窓からは隣接するビルの窓が幾つも見えた。端に腰を下ろせば、近くの固いプラスチック製の椅子に白石も腰を下ろした。

「高槻とはどういう関係だ?」

 缶を開けるのとほぼ同時に尋ねられ、康晃はやっぱりな、と胸の内で密かに呟く。

「お前こそどんな関係だ?」

「俺にその戦法は通用しないぞ」

 むっとした表情でこちらを睨む白石に、康晃は思わずにやりとした。聞かれたくない事は逆に聞き返す。これも話術の一つだ。だが白石はそう簡単に引っかかってはくれないようだ。

「俺が訊いている。高槻果穂と……どんな関係だ?」

 声に混じる苛立ちとやや落ちた視線。白石の言葉と態度が自分は高槻果穂と何らかの関係があると語っていて、康晃は微かに苛立った。

(東野の連中とはそこそこ付き合いがあるが……)

 高槻が白石とどんな接点があったのか。

 康晃が彼女を登用し始めたのはごく最近……そう例のプロポーズ騒動があった頃からだ。それ以降の彼女がどんな仕事をして、誰と交流があるのかは大体把握している。その中に白石は含まれていなかった……筈だ。

 コイツと高槻がどういう関係だったのか。

 俄然それが知りたくなり、康晃は缶コーヒーに口を付けて一口飲む間に様々な情報を精査し言うべき言葉を探した。

「実は彼女の部屋に招待された」

 そこそこ強めのカードを出してみる。その瞬間、白石が怯んだのが判った。それから眉間に一本皺が増える。

「……そうか」

 返って来たのは平静さを装った口調。それはおおむね成功していた。……康晃以外の人間が訊けば。

(……不安と……苛立ち?)

 付き合う事にした、と二番目に強いカードを出そうかと迷う。だがその前に白石は一人頷いて立ち上がるとゆっくりと立ち去った。

 残された康晃は一人悪魔の笑みを漏らす。

 いいカードが手に入った。これを切って高槻を翻弄してやろう、と。

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