スェヴェリスの花

 ロスタルめ。

 ザラシュトラに事あらば、何処からともなく現れ出てあるじを守るのが常だったあの男が、何故、姿を現さない? 

 よもや、あの火竜の傭兵ごときに返り討ちにされたのでは……


 エスキルは忌々しげに喉の奥で唸り声を上げると、剣帯から短剣を引き抜いて、今にも女術師に襲い掛かろうとする毒竜の喉元めがけて投げつけた。

 ほんの一瞬、獣は動きを止めた。が、硬い外皮に覆われた身体にわずかな擦り傷を負っただけで、人の子の戦士を恐れる素振りさえ見せず、無防備に立ち尽くす女術師に再び牙を剥く。と、獣に向けて手を差し伸べていたザラシュトラが、突然、何かの気配を感じたように大きく身を震わせて後退あとずさり、目の前の虚空に顔を向けた。


 刹那、頭上の揺らいだ空間から、瘴気の名残をまとったロスタルが現れ、妖獣と女術師の間に立ち塞がるように地上に舞い降りた。

「やっと護衛殿のお出ましか」

 突如として現れた「魔の系譜」に毒竜がひるむのを目にして、エスキルは思わず苦笑した。


 ……化け物には化け物を、という訳か。

 所詮、危険な妖獣を使い魔として操る術師の護衛など、人の子の手に余るのだ……まあ、良いさ。どちらにしろ、毒竜が相手では、さしもの俺でも分が悪すぎる。



 毒竜が白い妖魔に気を取られている隙に、エスキルは女術師のすぐ背後へと駆け寄った。

 いつもなら、ロスタルの姿を目にするなり勝ち誇ったように微笑むザラシュトラが、何故か身体を硬直させて両手をきつく握りしめたまま立ちすくむ様子に、エスキルは言い知れぬ違和感を感じた。

 次の瞬間、ロスタルが手にしていた剣を大きく振りかざした。

 その刃が毒竜に向けられたものではない事に気づき、エスキルは咄嗟にザラシュトラの細い腕を掴んで力尽くで背後に引き込むと、素早く長剣を引き抜き、迫り来る刃を何とか受け流した。

 震える小さな手が背中に触れ、何事かをささやく娘の熱い吐息がふわりと背筋をくすぐる……不意に、エスキルは周囲の空気がうねりを帯びる気配を感じた。


 女術師が紡いだ呪詛の言葉は、神殿の壁に走る亀裂から差し込む光を束ね上げ、淡い輝きを帯びた光の矢となって、白い妖魔に向けて放たれた。




「アルスレッド殿、あれは……!」

 タイースが息を呑んで指し示す方に視線を向けたアルスレッドは、揺らぐ虚空から現れ出た白い妖魔が、地面に足を着けるや否やザラシュトラに剣を向けたのを目にして、驚愕せざるを得なかった。


 女王の護衛が、何故……?


 もしや、と思いながら周囲に視線を巡らせたが、黒髪の若者の姿は何処にも見当たらない。アルスレッド同様、タイースも辺りを見渡して落胆の吐息を漏らす。

 突如、神殿の壁が大きくきしみ、光の糸のようなものが二人の目の前をかすめて行く。目に見えぬ力で紡ぎ上げられた光の束が矢の如く走る先に、白い妖魔の姿があった。



 一瞬、ロスタルが驚きに瞳を見開いた。

 その薄青色に浮かぶ縦長の獣の瞳孔を目にして、ザラシュトラの表情が一層冷たさを増す。と、同時に、数多あまたの光の矢がロスタルに襲い掛かった。

 さすがにこれ程の数を避け切るには無理があると見定めて、ロスタルは「狭間」の揺らぎに身を隠そうと心を飛ばした。だが、女術師の結界を通り抜けようとした瞬間、全身を焼かれる程の痛みに阻まれ、弾き返されるようにして地面に転がり落ちた。


 光の矢は追撃の手を緩めず、ロスタルの手足と肩を射抜くと、粉々に砕け散って消えた。

「駄目よ、逃がさない。その銀の髪……あの時の傭兵ね?」

 エスキルの影から歩み出たザラシュトラが、怒りに震える声を上げた。ロスタルの背後で、突然現れた「魔の系譜」に獲物を横取りされた毒竜が、怒り狂ったように大きな翼を広げて威嚇の姿勢を取ると、女術師は愛しげな眼差しをそちらに向けた。


 長剣を支えにして立ち上がりながら、ロスタルは素早く全身に目を走らせた。

 腕の傷は擦り傷だ。これくらいの傷ならば、すぐに塞がるはずだ。だが、射抜かれた肩と両足の傷口から流れ出る血は全く止まる気配がない。

 肉を切り裂いた術師の呪詛は、「魔」の魂に守られているはずの身さえむしばむのだと気づき、ロスタルは獣のような唸り声を上げて女術師を睨みつけた。

「……何の真似だ、ザラシュトラ?」

「おかしいと思ったのよ。気位の高い父上が、何処の馬の骨とも知れぬ異国の傭兵をそばに置くはずがないもの……お前が父上をたぶらかし、七王国軍を城内に引き入れたのでしょう?」


 薄紫色の瞳が妖しげな輝きを増し、毒竜が大きな身体を、ぶるりと震わせた。

 女術師の呪詛の言葉が妖獣の中にゆっくりと忍び込み、その声に耳を傾けるかのように頭を垂れる獣の姿を間近にして、エスキルは、先程まで心もとない程に幼さを感じさせた娘の中に、誇り高き女術師の心が再び戻ったのを感じ取った。

 喜びと渇望の入り混じった薄笑いを浮かべながら、エスキルは白い妖魔に向けて剣を構え直した。 

「いいわよ、アシャラ。その傭兵の魂を、あなたに上げる」

 その声に応えるように、毒竜の低く地を震わせる咆哮が神殿に響き渡り、はらはらと壁や天井から漆喰が零れ落ち始めた。




 円柱や壁が悲鳴を上げるように軋む音が、あちこちでこだまする。

 結界の外から様子を伺っていたタイースとアルスレッドが気づかわしげな表情で辺りを見回した。

「まずいな……タイース殿、この神殿も長くは持たんでしょう。負傷している戦士達の中に自力で動ける者が居れば、今のうちに退避させた方が良いかもしれません」

 ええ、と天井を見上げたままかすれた声で応えると、タイースは背後に控えていた戦士に手振りで合図を送った。

 


 背後に迫る禍々まがまがしい毒竜の吐息を感じて、ロスタルは素早く振り向くなり長剣を横になぎ払った。

 白い妖魔の鋭い一撃に喉を切り裂かれた獣が、ごぼごぼと耳障りな音を立てて血の泡を吐き出しながら、なおも執拗に牙を剥いて襲い掛かる。が、再び振り下ろされた刃が毒竜の片翼を掻き落とした。

「ああっ! アシャラ!」

 エスキルが止める間もなく、鋭い悲鳴を上げたザラシュトラが地面をのたうち回る毒竜の元へと駆け寄った。斬り落とされた黒い翼を愛しそうに抱きしめ、息も絶え絶えになりながらも牙を剥いて威嚇し続ける毒竜に手を伸ばすと、娘は血に塗れた頭を優しく撫でてやりながら悲痛な叫び声を上げた。

「アシャラ、私を置いて行かないで……ああ、お願い……誰か、アシャラを助けて!」



 ……アシャラ、だと? 


 地面に片膝をついて息を切らしていたロスタルが、遥か昔に命を落とした使い魔の名を呼ぶ娘の声に、顔を歪ませた。



 百年前の、あの夜。

 滅び行くスェヴェリスの王城で、己の魂と引き換えに七王国軍に向けて毒竜達を放った王のむくろを前に、ロスタルは焦燥に駆られていた。

 このまま、ディーネを救う希望の光を失うわけにはいかない。稀代の術師と呼ばれた王には、確か一人娘が居たはずだ。世継ぎの娘ならば、「罪戯れ」の子を救う秘術を身につけているかもしれない……そう思って心を飛ばした先に見出したのは「スェヴェリスの花」と謳われる可憐な少女だった。

 王の娘は、迫り来る死の恐怖と使い魔の苦しげな断末魔の声に魂を引き裂かれながら、ロスタルが差し述べた手にすがりついた。

『早くアシャラを助けて! 父上に仕える戦士なのでしょう?』 



「お願い、早くアシャラを助けて!」

 ザラシュトラの声が、ロスタルの心を現実へと引き戻した。 

 助けを求めるスェヴェリスの娘が見つめる先に、燃える炎のような髪のティシュトリアの戦士が佇んでいる。相容るはずもない二つの魂が共に寄り添ったとして、その先に待つのは絶望でしかないと言うのに。


 ……ああ、そうか。

 あの時、主の盾となって殺された使い魔と共に、死なせてやれば良かったのだ。そうすれば、お前をここまで追い詰める事も、苦しめる事もなかったのだ。

 百年という時の重みに耐えきれず、魂が壊れてしまう前に……「スェヴェリスの花」と呼ばれたけがれを知らぬ少女のまま、その命を終わらせてやるべきだった。


 苦しみ悶える毒竜の頭を抱えたまま、ザラシュトラはしゃがみ込んで動こうとしない。

 エスキルは苦しげに肩で息をするロスタルにちらりと目をやると、娘の側に駆け寄って、起き上がらせようと両腕を掴んだ。

「ザラシュトラ、そいつはもう助からん。お前の手で楽にしてやれ」

「そんな……駄目よ! アシャラを置いては行けないわ!」

 ゆっくりと忍び寄るロスタルの気配を間近に感じて、エスキルは眉をひそめると、ザラシュトラの両脇を抱え上げて無理やり妖獣から引き離した。嗚咽の声を漏らして身悶える娘を抱えたまま水鏡のそばに移動し、「ここから動くなよ」と耳元でささやいて、震える唇にそっと口づける。

 突然、唇を奪われ、困惑の表情を浮かべた娘が小さくうなずくのを目にして、エスキルはゆっくりと後ずさりながらわずかに微笑むと、振り向きざまに長剣を振りかざして白い妖魔に襲い掛かった。



 傷ついた両足を引きずりながら、普段の野生の獣のような敏捷さこそ見せぬものの、ロスタルはエスキルが渾身の力を込めて繰り出す攻撃を巧妙にかわしながら反撃の刃を降り降ろす。


 くそっ……これだけの傷を負っていながら、まだ動けるのか。

 やはり、こいつは化け物だ。タルトゥスの戦士との一騎打ちでかなりの体力を消耗させられた上、致命傷ではないにしろ、あちこちに刀傷を負ったままの身で白い妖魔を相手にするとは……


 エスキルは己の愚かさを呪いながらも、こちらを真っ直ぐに見つめ続ける娘の眼差しを背中に感じて、不思議と心が奮い立つ感覚を覚えた。


 ああ、なるほど。こういう事か……守るべきものがあれば、人は強くなれる、とは。

 故国を追われ、手にしていたものすべてを失って、初めて気づかされるとは。

 ザラシュトラ、お前が居れば、俺は……


 

 エスキルは朦朧とする意識の中で、手にしていた長剣が弾き飛ばされ、弧を描きながら宙を舞うのを見つめていた。

 と、同時に、冷たく光る刃がその胸を深々と刺し貫いた。


 ザラシュトラが、まるで己の魂が引き裂かれるような痛みを感じて、胸元を抑えたまま鋭い悲鳴を上げた。

 血に濡れた刃が胸から引き抜かれ、噴き出した鮮血が見る間に上衣を朱に染め上げていく。

 そのまま、ゆっくりと背中から地面に倒れ込んでいくエスキルの姿に、女術師は我を忘れて駆け寄ると、その身体に取りすがり、両腕でしっかりと抱き寄せた。

「ああ、エスキル……! 駄目……血を……血を止めなければ」

 呪詛の言葉を口にしながら朱に染まった胸元に手を添えてみても、既に多くの血を失ってしまった身体には生への執着さえ残っていない。迫り来る死を受け入れた命を救おうともがくのは、苦しみを引き延ばすだけだ……ザラシュトラは崩れ落ちるように戦士の身体に身を寄せた。

 輝きを少しずつ失っていくエスキルの瞳を覗き込み、この世界に引き戻そうとするかのように、耳元で何度もその名を呼び続ける。


 ふと、静かに、焦がれるように、戦士の唇が言葉を紡いだ。

「……共に行こう、ザラシュトラ。お前と二人、『果ての世界』まで」

 余りにも穏やかなエスキルの声に、はあっと息を呑んでザラシュトラが顔を上げた瞬間、緑色の瞳は永遠にその光を失った。



 ああ、父上、アシャラ……私が愛した者達は、皆、私を一人残して逝ってしまう。

 世界を恨んだのは、私から大切な人達を奪ったから。ただそばに居るだけで生きる喜びを感じさせてくれた人達が、姿を消してしまったから。

 ……そして今、あなたまで、私を一人残して逝ってしまう。

 王国をこの手に奪い返すなど……愛する者を失った今、何の意味がある? 再び、憎悪に歪んだ魂を新しい器に置き替え、禁忌の術に手を染めて、魔物と畏怖されながら、果てのない恩讐の中に身を沈めろとでも?

 あなたを失ったこの世界に、たった一人で。


 

 ティシュトリアの戦士の亡骸を抱いたまま、抜け殻のように身動き一つせぬ女術師の背後にロスタルは静かに近づくと、ゆっくりと長剣を頭上に振りかざした。 

 その気配に気づきながら、ザラシュトラは己の心が少しも揺るがぬ事に小さな驚きを感じて、美しく微笑んだ。 


 この世界など、あなたの腕の中に比べれば…… 


「そうね、エスキル。あなたと二人、共に……」

 スェヴェリスの花と謳われた娘は、愛する者を抱きしめたまま、振り降ろされた刃の前に静かに身を投げ出した。



 その瞬間、祭壇を覆っていた女術師の結界が音を立てて崩れ落ちた。

 水鏡の中に沈んだ青い石の輝きに照らし出されて、薄紫色の可憐な花びらを思わせる結界の小さな欠片かけらが、はらはらと優しく舞い落ちては消えていった。



***



 「狭間」の闇を通り抜けたその先に、探し求めていた青い輝きを見つけると、ファランはシグリドをしっかりと抱きしめたまま、何の躊躇ためらいもなく飛び降りた。



 大きな水飛沫しぶきの音と同時に、凍えそうに冷たく暗い水中に投げ出された恐怖に必死に耐えながら、ファランはシグリドの身体に回した両腕に力を込めて、心の中で何度も同じ言葉を繰り返した。


 大丈夫、あなたと一緒なら、私は大丈夫。

 絶対に離さないわ。だから目を開けて。

 シグリド……お願いよ、私を見て。


 ごぼごぼ、と二人の身体を伝い上がる気泡とは反対方向に沈んで行きながら、明るい光が揺れる頭上の水面に何とか浮び上ろうと、ファランは必死に足をばたつかせた。

 だが、水を吸った衣服が身体にまとわりついて、思うように足が動かない。

 

 ああ、駄目……もう、息が……出来ない……


 意識を失ったままのシグリドをしっかりと抱きしめたまま、ファランはどうする事も出来ずに、光の届かぬ仄暗い水底へと引きずり込まれて行った。

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