その名を呼んで

 必ず見つけ出してくれる。そう信じて、その人の名を呼んでみる。


 シグリド……あなたを呼ぶ私の声が聴こえる?



 自分を見つめる黒髪の傭兵の艶やかな眼差しを想いながら、もう一度、その名を心の中で繰り返す。

 

 ねえ、シグリド、私はここよ。

 聴こえるなら、早く、その腕の中に取り戻して。



「また、声を飛ばしていたのか?」

 窓辺に腰掛けて夜空を眺める娘に、ロスタルは少し呆れたような表情で近づくと、赤い巻毛が流れ落ちる小さな肩に優しく触れた。ファランは振り返ろうともせず、きらめく星の合間に見え隠れする「狭間」の入り口を黙って見つめ続けた。

「あの男の元へ戻りたければ戻ればいい。『狭間』の裂け目は直ぐそこだ。お前なら翔べるだろう?」

 娘の肩が怒りに震えるのを感じて、ロスタルはそっと手を離した。

「ええ、何度も翔んだわ。その度に妖獣達に追い回されて、結局、あなたに助けられる羽目になるのもよく分かったわ」



 ロスタルが目を覚ましたのは、ファランをラスエルクラティアに連れ去ってから五日目の朝だった。

 身体の傷もほとんど分からぬ程に癒え、安堵したファランが別れの言葉を告げて「狭間」に翔ぼうとするのを、ロスタルは止めようともしなかった。否、止める必要がないと知っていた。


「神殿を覆っている結界の『ほころび』に妖獣達が待ち構えているのを知っているくせに、そうやって私をあおるんだもの……ひどいわ」

 顔を真っ赤にして膝の上で両手を握りしめたまま、ファランは精一杯、ロスタルを睨みつけた。

「結界に亀裂が生じた時のために、あの女が使い魔を『狭間』に置いて見張らせていると言ったろう? 頑固なお前の事だから、俺が止めたところで、自分の目で確かめねばあきらめぬだろうと思ってはいたがな。それに……」

 ふと表情を和らげて、ロスタルは不機嫌な顔の娘に視線を向けた。

「こうしていると、お前が小さかった頃を思い出す。あの森で、何の躊躇ためらいもなく共に過ごした頃を」

 遠い昔を懐かしむように、優しい表情を浮かべるロスタルを久しぶりに見た気がして、ファランのいきどおる心が揺れた。 

「あの頃は、あなたがお伽話に出て来る王子様に思えたから……まだ、ほんの子供だったのよ」

 ずるいわ、ロスタル。そんな顔をされたら怒れなくなる……そう思いながら、ファランは窓辺を離れた。


「この神殿の中で、人と獣を掛け合わせたような使い魔を見かけたわ。あれもあなたの雇い主の仕業なの? 『あらゆる命に救いの手を差し伸べよ』と誓いを立てたはずの術師が、あんな、命をもてあそぶような真似をするなんて、許される事ではないわ。しかも巫女と偽って民を騙しているんでしょう? どうしてあなたがそんな人の護衛なんか……」

 眉をひそめて、静かに、と言うようにロスタルが口元に指を当てた。

「アプサリスの眷属である俺に、ザラシュトラの力は及ばない。だが、ファラン、お前は別だ。この部屋から一歩でも出た瞬間、使い魔達に見張られている事を忘れるな。あの女の結界の中に居る限り、あいつの水鏡に映らないものはない」

「だったら、どうして私をここへ連れて来たの? 『狭間』を抜けてどこへでも行けるあなたなら、何もこんな薄気味の悪い所じゃなくても……」

「お前が自由に『狭間』を通り抜けられない唯一の場所だからだ」


 皮肉なものだ。

 あの女の結界に助けられなければ、愛しい女さえ手元に置く事が出来ぬとは。


「目を離せば、お前は俺の手をすり抜けて何処かに翔んで行こうとする。耐えられないのだよ、ファラン。これ以上、愛する者の居ない世界で生き続けるのは……」

 絞り出された声に魂の痛みを感じて、ファランは思わずロスタルに駆け寄りそうになった。

 人の子として生れながら、聖魔の戯れで妖魔の魂を植え付けられた孤高の戦士。

 この人の心は救いようがない程に「魔」に近づいてしまっている。もう間に合わないのかもしれない。


 いいえ、今、しっかりと抱き締めてあげれば、ほんのわずかの間でも、この世界に踏み止まろうとしてくれるだろう。けれど、そうすれば、この人の腕は二度と私を離してはくれない……それは、駄目。

 戻らなきゃ、シグリドの元へ……私には、私だけを想い続けてくれた人がいる。


 ファランは、はあっ、と小さく息を呑んだ。


 ああ、私ったら……治癒師なのに、救うべき魂があるのに、私は……大切な人を見捨てようとしている。何て身勝手なの。


 

 いつものように銀糸の髪に触れたいと思う心を抑え込むと、ファランは立ち上がって外衣を手に取った。

「こんな夜更けに、何処へ行くつもりだ?」

 小さな妹を気遣う優しい兄のような眼差しに、また心が揺るがされそうになる。まるで、この人をむしばむ妖魔の魂が、人の子の魂を誘惑しようとするかのよう……ファランの心が、切なさに悲鳴を上げそうになる。

「散歩よ、月がきれいだもの。毎晩、長椅子で眠るのは大変でしょう、ロスタル? 今夜はあなたが寝台でゆっくり寝て。私が長椅子で眠るから」

「なるほど。『狭間』が駄目なら、歩いて出て行くつもりか。用心しろよ、ファラン。使い魔の中には小さな人の子を好んで喰う奴もいる」

「怖くないわ。どうせ私が食べられる前に、あなたが助けに来てくれるんだもの」

 自分でも驚くほど冷たい声をロスタルに投げつけると、ファランは後ろを振り向かずに重い扉を押し開けた。からり、と銀の腕輪が音を立て、そこにはめ込まれた青い石が、眠りから覚めるように少しずつ輝きを取り戻し始めた。

 


 星空の下、異様な気配が漂っていないか辺りの様子を確かめながら、ファランは明かりの灯っている治癒院へと足を向けた。

 こうして夜空を見上げて満月が少しずつ痩せ細っていくのを眺めながら、もう何度目の夜をここで迎えたのだろう。次の新月までそう遠くはない。


 ……あの人は、まだ私の事を想ってくれているかしら?


 心にもない言葉を投げつけてしまった、あの時。ファランはシグリドが見せた寂し気な表情が忘れられなかった。


 きっと、また、傷つけてしまったわ……私、あの人を傷つけてばかり。

 地下牢で別れたまま戻らなかった時も、プリエヴィラで十年ぶりに会った時に気づいてあげられなかった時も、フュステンディルの祭りの夜に目の前から姿を消した時も。治癒師なのに、大切な人を苦しめてばかりいる。


 不器用だが、変わることのない愛情で自分を包み込んでくれていた黒髪の火竜を想って、ファランの心が小さな悲鳴を上げた。


 

 お願い、シグリド……早く、私を取り戻しに来て。



***



 夜闇の中、名前を呼ばれたような気がして、シグリドは目を覚ました。



 ゆっくりと起き上がって天幕の外に出ると、凍える冬の夜空を仰ぎ見ながら大きく伸びをして周りを見渡した。

 森の一角に円形に張られた陣地を取り囲むように篝火かがりびが置かれ、揺れ動く炎に照らし出されて、夜闇の中に天幕が黒々と浮かび上がっている。降り積もっていた雪は従軍する術師の手で跡形もなく溶かされ、まるでそこだけ春が来たかのように、緑の下草が大地を覆っていた。

 円の中央を陣取る大きな天幕は、ティシュトリア王エレミアと「王の盾」イスファルら側近のための物だ。その隣のひと回り小さい天幕には、ようやく起き上がる事が出来るようになったパルサヴァードと治癒師達が控えていた。他にもいくつかの天幕が木々の間を縫って姿を隠すかのように張られていた。




 ファランをロスタルにさらわれた直後、シグリドは怒りに震えながら血に塗れたままイスファルの居所に赴き、ティシュトリア王都軍の戦士としてラスエルクラティア攻略に参戦することを申し出た。イスファルは荒ぶる黒髪の若者をしばらく黙って見つめると、ようやく重い口を開いた。

「その姿……何があったかは後ほどゆっくり聞くとしよう。シグリドよ、ティシュトリアでのお前の立場を明確にする良い機会ゆえ尋ねるが……アルファドと共に護衛として付き従うお前を、アスランの後継者として王も認めて下さっている。だが、未だ『火竜』の傭兵を自負するお前が、自ら従軍を望む理由は如何に?」

 ぎりり、と歯を噛み締めて、シグリドは低く唸るように声を絞り出した。

「……ファランを、奪われた」

 部屋の片隅で様子を伺っていたアルファドが小さく息を呑み、イスファルは怪訝な表情を浮かべて首を傾げた。

「連れ去ったのはザラシュトラの護衛だ。だから取り戻す。それだけだ」


 イスファルは、めったに感情を表に出さぬ黒髪の若者の心の叫び声が聞こえたような気がした。

「その揺ぎない信念が、己の欲望に支えられているのは戦士として褒められたものではないが……まあ、お前らしくはある」

 若い火竜を見つめる紺碧の瞳が、呆れたように、だが、仕方ない奴だと言わんばかりに優しい光をたたえた。

「アンパヴァールでザラシュトラに操られた使い魔や妖獣を相手にした。女王ザシュアが本当にあの女術師なら、ティシュトリア軍にとっても、俺は貴重な戦力だと思うが」

 使い魔、と聞いて嫌悪の表情を浮かべると、イスファルはアルファドを手招きした。

「王都軍に妖獣狩人は何人いる?」

「すぐに出陣出来る者は三、四人かと。先日の妖獣の急襲で多くの者が犠牲になりましたから」

「王都軍に『魔の系譜』と対峙した事がある者は多くはない。アルファドよ、お前はどうだ?」

「恥ずかしながら、人以外に斬った事はございません」

 アルファドは申し訳なさそうに首を横に振った。

 

 ふと、考え込むように、シグリドが窓の外に目を向けた。王都を見渡す事が出来るその場所からは、王城の正門近くに設けられた救護所がはっきりと見て取れた。

「この国に入る直前、妖獣に襲われた街から逃げ延びた民を見かけた。かなりの数の妖獣狩人が行動を共にしていた。まだ救護所に居るなら……」

 ああ、と微かな声を漏らして、シグリドの意図を理解したアルファドがイスファルに一礼し、急ぎ足で部屋を後にした。その姿を見送る「王の盾」の表情が険しさを増す。

「妖術師相手に戦うとは……七王国時代の悪夢が甦るようだな」

「その悪夢が、アンパヴァールとレンオアムダールを滅ぼした。俺もアスランもその場に居たんだ、イスファル」

 


 王都軍がティシュトリアを出立したのは、ファランが連れ去られてから七日目の明け方だった。

 「狭間」を軽々と通り抜けるはずの娘が未だに自分の元に戻らない。

 その現実を噛み締めながら、足元にじゃれつく黒豹レーウの頭を優しく撫でてやると、シグリドはアスランの長剣を身につけ外衣をまとった。


 天幕のすぐ外では、妖獣狩人や夜警の兵達が焚き火を囲んで座り込んでいた。その中に見知った栗色の髪の戦士の姿を見出して、シグリドは思わず碧玉の瞳を見開いた。傭兵らしく質素な衣服に身を包んでは入るが、その腰帯にある繊細な銀細工が施された長剣と優雅な身のこなしが、男が高貴な出である事を隠しようもなく物語っている。

「アルスレッド、お前、ここで何をしている?」

 シグリドの声に、とび色の瞳が悪戯っ子のように輝いた。

「ご挨拶だな、シグリド。お前が寝過ごしたおかげで、夜番に引っ張り出されたってのに」

「……寝過ごした覚えはないが」

 不機嫌そうに応えるシグリドの隣で、グラムが大きくあくびをして焚火の前にしゃがみ込んだ。




 ティシュトリア軍の旗揚げに際して、アルコヴァル王の命を受けたタルトゥスの使者が、食料と備品を積んだ数頭の軍馬デストリアを引き連れて王都を訪れた。その中に、レティシアの側近として使者に同行したアルスレッドの姿もあった。

 「王の盾」の護衛として背後に控えるシグリドに気づいたアルスレッドは、エレミア王との謁見後、ほんの少し困惑した表情を浮かべたまま近づいて来た。アルファドに軽く会釈して、シグリドに皮肉っぽい笑顔を向ける。

「よお、シグリド、見違えたぞ。ティシュトリア王の護衛とは……レティシアが地団駄踏んで悔しがるのが目に浮かぶ」

 くくっ、と面白そうに笑い声を上げるタルトゥスの戦士に、シグリドは面倒臭そうに黒髪をがしがしと掻いた。

「で、ファランはどこだ? ティシュトリアまでわざわざ足を運んだのも、あの娘に会う楽しみあっての事だからな」

 ファランの名が出た瞬間、シグリドが鋭い刃のような気配をまとった。それを察して、アルファドが「落ち着け、シグリド」と声を掛け、アルスレッドに目配せした。

「……何だ? まさか……ファランに何かあったのか?」

 

 ファランがロスタルに連れ去られた事を知って激昂したアルスレッドは、周りの者の制止を振り切ってシグリドに掴み掛かった。

「お前がそばに居ながら……好いた女一人守れもせずに、『双頭の火竜』が聞いて呆れる!」

 かわそうと思えば簡単に出来たはずのシグリドが、されるがままに殴られる姿を睨みつけながら、アルスレッドは感情を表に出さぬ火竜の心の嘆きを肌で感じ取っていた。




「……で、アルスレッド。お前、ここで何をしている? タルトゥスに戻ったのではなかったのか」

 怪訝な顔をして焚火の前に座り込んだシグリドが、もう一度、問いかけた。

「途中まで戻ったさ。だが、どうにも怒りが収まらなくてな……気づけばティシュトリア軍を追っていた、という訳だ。ああ、心配するな。エレミア王には一傭兵として参戦する許可を頂いている」

「レティシアは? 側近のお前がそばを離れて良いのか?」

「問題ない。砦には信頼のおける俺の部下を残して来た。祖父上も居る。それに……レティシア宛の文を使者に持たせたからな。あれで文句は言わんだろう」

 にやり、と意味ありげに含み笑いを浮かべると、アルスレッドは焚火に新しい薪をくべた。

「お前より先に俺がファランを助け出し、側妻そばめとしてタルトゥスに連れ帰る。レティシアには『火竜』を一匹、土産として連れ帰る、とな」


 円陣を包むように張られた結界の外で、はらはらと、雪が降り始めた。

 呆れた顔でアルスレッドを暫く見つめていたシグリドが、やれやれ、と大きなため息を吐く。

「しかし、さすがはティシュトリアだな、冬の行軍を物ともせん。ラスエルクラティアも、まさかこの雪の中、王都軍が押し寄せるとは夢にも思わんだろう」

 手にしていた干し肉を差し出しながら、アルスレッドがつぶやいた。

「……とうに気づいているさ。この森を抜ければ、ラスエルクラティアは目と鼻の先だからな。あの女術師の力をあなどれば痛い目にあう」

 結界を伝い落ちる雪の欠片に目をやりながら、シグリドは不意に胸の辺りが熱を帯びるのを感じて視線を動かした。焚火の明かりを揺ら揺らと映しながら、守護の青い石がゆっくりと輝きを増していく。同時に、心の奥底にしまい込んでいた熱い想いまでもが、とめどなくあふれ出そうになる。

 咄嗟に、シグリドは夜空を見上げると、心の中で、その名を呼んだ。


 ファラン。

 待っていてくれ、必ずお前を……

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