百年の狂熱

 ああ、なんて美しいのかしら。


 

 戦場から戻ったばかりの父に駆け寄ろうとした娘は、その隣に控える見知らぬ戦士の姿を見るなり立ち止まった。

 慌てて追いかけてきた若い女の姿をした使い魔が、落ち着きのないあるじを逃してなるものかと、鉤爪のある細長い手を伸ばして娘の肩を優しく掴んだ。

「姫様……ああ、もう本当に、姫様ったら! 突然走り出したと思ったら、急に立ち止まって……姫様を追いかけるアシャラの身にもなって下さい!」

 背中に生えた翼の羽根を逆立てて声を荒げる心配性の使い魔をよそに、娘は艶めく漆黒の髪に手を添えて、きらめく星空を思わせる紺碧の瞳を潤ませながら、端正な容貌の戦士を見つめて熱い吐息を漏らした。

「アシャラ、父上の隣に居るあの戦士は誰?」

 獣の瞳をそちらに向けると、使い魔は少し首を傾げた。

「さて、見かけぬお方ですね。異国の傭兵に見えますが……妙ですね」

「何の事?」

「まあ! 姫様ともあろうお方が、お気づきになりませんか?」

 訳が分からない、と言う顔の娘を見て、妖魔の女は落胆したように大袈裟にため息をついた。

「あの戦士から漂う『魔』の気配に」


 さわり、と風が吹いて、戦士の白銀の髪を緩やかに舞い上げた。



 ロスタルと言う名の戦士は、七王国連合軍との戦いで敵兵に取り囲まれ身動きが取れなくなっていた父王を、たった一人で救い出したと言う。

「『火竜』の傭兵だそうよ。背中に翼の無い異教の竜が彫り込まれてるって、神官達が噂していたわ」

 天竜の神殿でにえを捧げる儀式のために夜明け前から叩き起こされ、身支度の世話をする使い魔の女の手を借りて、娘は眠い目をこすりながら巫女の正装に身を包んだ。

「突然『狭間』から飛び出して来たそうよ。使い魔も連れていないし……あの戦士自身が妖魔なのよね?」

 いつものように鉤爪で優しく髪を梳いてくれるアシャラに、娘は尋ねた。

「さあ、どうでしょう。『魔の眷属』なのでしょうが、人の子の匂いも致しますから……私と同じ『罪戯れ』かもしれませんね」

「アシャラから人の子の匂いなんてしないわよ」

 くくっ、と笑い声を上げて、使い魔の女はあるじの豊かな黒髪を器用に結い上げると、色鮮やかな宝玉で飾り上げた。

「それはそうでしょう。私の宿主であった人の子の魂は、とっくの昔に私の血肉となってしまいましたから……さあ、出来ましたよ。ああ、やはり、私の姫様は誰よりもお美しい。『スェヴェリスの花』と呼ばれるに相応しいですわ」

 愛し子の姿を惚れ惚れと見つめる妖魔の女に促され、水鏡に映った自分の姿を眺めながら、その隣の水面に、密かに白銀の戦士の端正な姿を思い描いた。


 あの人も、そう思ってくれるかしら……

 


 突如、水面が大きく揺らぎ、使い魔の女が威嚇の唸り声を上げた。

 城を包んでいた父の結界が破られた気配と辺りに漂う血の匂いに異変を感じ取って、娘は部屋の周りに結界を編み上げようと言葉を紡ぎ出した。物々しい足音が近づき、娘の術で固く閉ざされている扉に向けて鋭利な刃物が振り下ろされる音が何度も響いた。

 アシャラは慈しみ育んできた娘を背後に押しやって、結界代わりに大きな翼をばさりと広げた。

「姫様、早く『狭間』にお逃げなさい!」

 扉が悲鳴にも似た音を立ててきしみ、大きな音を立てて崩れ落ちた。

「でも、アシャラが居ないと『狭間』の中で迷ってしまうわ。一緒に来て!」

「後からすぐに参りますから……さあ、早く!」 

 部屋の中になだれ込んだ妖獣狩人の一人がアシャラに向かって大鎌のような武器を振り上げるのを見て、娘は咄嗟に呪詛を編み上げ狩人に投げつけた。途端に、その武器が粉々に砕け散った。

「まだ妖術師が残っていたか……! 使い魔め、そこをどけ!」

 別の狩人が振りかざした長剣がアシャラの翼を切り裂くのを目にして、悲鳴を上げた娘の肩を背後から大きな手が掴んだ。


 恐怖に凍りつき、必死にその手から逃れようと振り返った娘の目に映ったのは、歪んだ空間から手を伸ばす白い戦士の姿だった。

「スェヴェリスの花、偉大なる術師の娘よ。父王が果たせなかった契約を受け継ぐならば助けてやろう」

「……何を言っているの? それより早くアシャラを助けて! 父上に仕える戦士なのでしょう?」

 ロスタルは娘の心を見透かすように、氷のような微笑みを浮かべた。

「『火竜』は主など持たぬ。お前の父が死の間際に娘であるお前に契約を譲り渡した。俺は契約主を守るまでだ。生き伸びたければ俺の手を取れ」

 ちらり、と娘の背後に薄青色の瞳を向けると、その表情が険しさを増した。肩に置かれた手に力がこもるのをザラシュトラは感じていた。

「見るな……振り向くなよ」


 妖魔の苦しげな断末魔の声が響くと同時に、魂が引き裂かれる痛みに襲われた娘は、胸元を抑えて悲痛な叫びを上げながら、『狭間』の入り口に立つ美しい戦士に手を伸ばし、その身を委ねた。




 ぱしゃり、と水面を打つ音がして、ザラシュトラはそっと薄紫色の瞳を開いた。

 冷たい水に浮かぶ手をぼんやりと見つめながら、水鏡の大きな水瓶にもたれかかる身体がきしむのを感じて、ゆっくりと顔を上げた。

「ザシュア様、そのような所でうたた寝されてはお身体に障りますわ。お疲れのご様子、午後の祈りの前に寝所で休まれては如何ですか?」

 神殿の奥に置かれた水鏡の前に座り込む女王に、年若いお付きの巫女が声をかけた。


 朝の祈りを終えて、姿を見せぬロスタルを探そうと水鏡を覗いた途端、酷い目眩めまいに襲われた。荒々しく求められるがままエスキルと身体を重ねるのが夜毎の儀式となった今、その行為がしかばねうつわを保つために必要な深い眠りを妨げているせいだ。

 そうと知りつつ、耐え難い欲情に鷲掴みにされている己自身に嫌悪感を覚え、思わずその場にしゃがみ込んだ……どうやら、そのまま眠ってしまったようだ。


 百年以上も前、色褪せる事なく蘇る忌まわしい夜の記憶。

 アシャラの魂は今、どこで眠っているのだろう。人の子と「魔の系譜」が愛し合って生まれる「罪戯れ」が著しく数を減らした大陸に、あるいは「狭間」の先の何処かに、肉体を失った妖魔の魂が行き着く場所はあるのだろうか。

 あの人の心は今、誰を想っているのだろう。差し出された大きく逞しい手の温もりを、この魂は今でもはっきりと覚えている。溺愛していた妹の死を境に、日毎に「魔」の気配を色濃くしていく男のそばに居ながら、どうする事も出来ずにいる己の存在の無意味さを思い知らされたと言うのに。

 それでも、幾百幾千の日々を共に過ごせば、いつかこの想いは報われるだろうと信じたかった……



 ザラシュトラは、はあっ、と大きなため息をついて、心の底にふつふつと湧き上がる虚しさを吐き出した。

「そうね。こんな状態では祈りを捧げられそうにもないわ」

 ザラシュトラはゆっくりと痛む身体を起こそうとした。が、突如、慣れ親しんだ気配が神殿の結界を通り抜けるのを感じて、目を見開いて感覚を研ぎ澄ませた。


 ……ロスタル?

 だが、この血の匂いは……?


 目の前で、ぐらり、と歪んだ空間から浮き上がった影が、音を立てて床に崩れ落ちた。

「ロスタル!」

 悲鳴に近い声を上げて駆け寄ろうとしたザラシュトラが、一瞬、困惑するように動きを止めて目を凝らした。床に投げ出されたロスタルの上に覆い被さるように、小柄な娘が逞しい腕の中にしっかりと抱きしめられている。

 ざわり、とザラシュトラの心が騒めいた。


 ……誰だ? なぜ、その人の胸に抱かれている?


 娘の赤い巻毛がふわりとこぼれ落ちると同時に、ロスタルの脇腹からどす黒い血がこぼれ出した。薄青色の瞳は固く閉ざされたまま、美しい顔は完全に血の気を失っている。

「ああ、そんな……ロスタル!」

 普段の冷静さを失った女王の姿に困惑し立ち尽くしていた巫女が、あるじの悲痛な声に我に帰った。

「ザシュア様、お気を確かに。すぐに治癒師を……神殿の護衛も呼んで参ります」

 震えながら告げると、慌ててその場を立ち去った。


 ああ、駄目だ……血を止めねば……ロスタル、あなたを失うわけには……


 ザラシュトラが傷口を塞ぐための言葉を編み上げ始めた矢先、ロスタルの腕に抱かれていた娘がうめき声を上げて身を起こし、泣き腫らした顔であえぐように、だが真っ直ぐに女術師を見つめて声を上げた。

「駄目よ……絶対に、その術を編んじゃ駄目! 身体の内側の損傷を確かめもせずに傷口を塞いでしまったら、下手に癒着を起こして取り返しのつかない事に……早く、治癒師の箱を……ああ、お願い、早く……ロスタルを、助けて!」

 


***



 血塗れの姿で戻った女王の護衛に寄り添う赤い巻毛の娘の噂は、あっという間に神殿に仕える者達の間に知れ渡った。

「あの護衛殿が、まさか女を連れ戻るとは……」

「特に目を惹くでもない平凡な容姿の娘だそうだ。大方、ザシュア様の稀なる美しさに圧倒されて、つい魔が差したのだろう」

「また『癒しの箱』だとか。エディルと言い、その娘と言い、護衛殿は術師でない者が余程お好きらしい。まあ、年若い娘ならば慰み者としては丁度良いだろう」

「それが、その娘、治癒師としての腕は確かなようだ。女王の目の前で、深手を負っていた護衛殿の傷口をあっという間に縫い合わせたとか」


 噂話に花を咲かせている術師達を横目に、エディルは籠いっぱいに詰められた薬草に手落ちがないかもう一度確かめると、籠を抱えて術師の館を後にし、神殿の片隅にあるロスタルの居所に足を運んだ。

 扉の前には女王の命で二人の護衛が置かれていた。

「治癒師のエディルと申します。ロスタル殿に薬草をお持ちしました」

 護衛の一人が籠の中身に視線を落とし、線の細い優し気な顔立ちの治癒師を上から下まで舐めるように見つめると「なんだ、つまらん、男か」とつぶやいて、扉を開けた。



 数日前、初めて薬草を届けに来た時の薄暗く殺風景だった部屋が、明るく居心地の良い場所に変わっているのを見てエディルは驚きを隠せなかった。開け放たれた窓から流れ込む新鮮な空気を吸って暖炉の炎が赤々と燃え、小さな水瓶に活けられた薬草の花々が空気を浄化しながらほのかに甘い香りを漂わせている。

 女性が居るだけで、こんなにも変わるものなのか……少し複雑な気持ちになりながら、エディルはその女性ひとの姿を探した。


「……ああ、エディル、ごめんなさい、気がつかなくて」

 寝台の脇に置かれた長椅子でうたた寝をしていた娘が、少し乱れた赤い巻毛を手櫛で整えながら起き上がった。

「気になさらずに。頼まれていた薬草を届けに来ただけですから」

 部屋の中央に置かれたテーブルの上に薬草籠を置くと、新しい道具箱が目に入った。女王自らが治癒院に命じて最も質の良い物を取り揃えさせただけあって、エディルが腰帯に着けている物とは比べ物にならないほど立派な品揃えだ。

「……他に入り用な物があれば遠慮なく仰って下さい。ここには身の回りの世話をする者と私以外、出入りを制限されていますから」

「ありがとう、エディル。でも、必要な物は揃えてもらったから大丈夫よ」

 籠の中の新しい薬草に顔を近づけて、すうっと息を吸うと、ファランは満足そうに微笑んだ。


「ロスタルったら、あんなに何もない部屋でどうやって暮らしていたのかしら……」

 ファランは眠り続ける男の顔を覗き込むと、愛する妹を失くして静まり返った世界を一人彷徨さまよい続けた孤独な魂を思いながら、額にかかる銀色の髪を優しく撫でつけた。

「この部屋には眠るためだけに戻ると仰っていました。ラスエルクラティアの雰囲気があまりお好きではないようで、普段、神殿で姿を見かける事は殆どありませんし」

 それはそうよね……とファランは苦笑した。妖魔の魂を持つがために苦しみ抜いてきたロスタルにとって、妖魔の王である天竜を崇め祈りを捧げるこの場所が居心地良いわけがない。


「あなたの事だったんですね、ファラン」

 エディルが柔らかい笑顔を浮かべてつぶやいた。

「私と同じ『癒しの箱』を知っている、とロスタル殿が話して下さいました。だからこそ、私の事を気遣って下さったようで……神官や術師達もロスタル殿を恐れて私に触れようとはしませんでした」

「あなたに……触れるって?」

 けがれを知らぬ者の瞳が、エディルの心を刺し貫いた。


 「役立たずの厄介者」と軽んじられ、際立った治療の腕も持たぬ治癒師でも、若く見目の良い者は神官や術師の慰み者としてねやの相手をする事で、彼らの庇護を得て身を守る事が出来る。七王国の昔から大陸で密かに行われて来た悪しき因習だ。主の寵愛を失い後ろ盾を無くした「癒しの箱」の辿り着く先が、街の片隅の娼館である事さえ、この娘は知らぬのだろう。


 エディルは治癒院で生きていくために身に付けた人好きのする微笑みを浮かべて、冷え切ったハシバミ色の瞳を娘に向けた。

「治癒師であるお祖父様に教えを受けたとか……恵まれた環境にあってこそ、あなたのように心根の清らかな女性が治癒師として独り立ち出来たのでしょうね。ロスタル殿が大切にされる理由が分かりました」

 猛禽どもが支配する大空を知らずに、鳥籠の中で大切に育てられた無垢な小鳥を愛でるように。

「確かに大切にされて来たわね……妹としてだけど」

 ファランは申し訳なさそうに肩をすくめてロスタルを見つめた。

「妹、なのですか? それにしては、あまり似ていらっしゃらない」

「血の繋がりはなくても、心は繋がることが出来るでしょう、エディル?」

 にっこりと微笑むと、また愛しそうに銀色の髪に触れた。


 あなたが向けてくれる愛情が、余りにも深すぎる事に気付いてあげられなかった。私の浅はかさが、あなたを追い詰めてしまった……それでも、あなたが私の大切な人である事に変わりはないのよ、ロスタル。


「ずっと眠っていらっしゃいますね」

「あれだけの傷を負ったのだもの。仕方がないわ」

 妖魔の魂に支えられているロスタルの尋常でない回復力を持ってすれば、そろそろ目覚めても良いはずなのだけれど……ファランは心の中で少しだけ不安を感じた。

「早く目を覚まして、ロスタル。でないと、私、心配で、シグリドの元に戻れないわ」

 小さな妹が優しい兄にするように、ファランはロスタルの額にそっと口づけた。



 エディルの心の奥底で、どろりと暗い情念がうごめいて、静かにとぐろを巻いた。

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