エレミア王と大神官

「どうして? そんなの、おかしいわ!」

 本格的な冬の到来を前に、午後の暖かな日差しを楽しもうとパルサヴァードの寝椅子を窓辺に移動させていたファランが、神妙な面持ちで部屋を訪れたタイースの言葉に激昂した。


 

 王城の隠し部屋から陽当たりの良い小部屋に居を移して以来、パルサヴァードの容態は日毎に安定した。気力が優れる日ならば、寝椅子に腰掛けてパルヴィーズが王城の書庫から持ち出した書物に目を通したり、身の回りの世話をする城仕えの娘達との他愛もない会話に笑顔を見せる程に回復した。 

 それなのに……

「今さら、パルサヴァード様をラスエルクラティアに送り返すだなんて、酷いわ。そんな事をすれば、今度こそ本当に殺されてしまいます!」

「協議の結果によってはその可能性もある、と言ったのだ。まだ決まったわけではない」

 顔を真っ赤に染めて声を荒げる娘の勢いに圧倒されて、救いを求めるようなタイースの眼差しが、部屋の片隅で銀灰色の烏と共に興味深げに様子を伺っていたパルヴィーズに向けられた。


 肩に止まった鳥を愛しそうに撫でる手を止めて、やれやれという仕草をタイースに返すと、パルヴィーズは優雅な仕草でファランの前にひざまずき、小さな娘の手を取った。時に見せる貴族を思わせる立ち振る舞いは、どこか浮世離れしたシグリドの雇い主が何事かをたくらんでいる時に使うものであるのは、ファランも承知していた。

「さて、ファラン。パルサヴァード殿が『病によって崩御された』後、ラスエルクラティアの現女王が擁立された。そうですね?」

 頰を紅潮させて、こくんと首を動かす娘の仕草が小さな子供のようで、パルヴィーズは思わず微笑んだ。

「では、その女王が最も恐れる事は?」

「……パルサヴァード様がまだ生きていらっしゃると言う事ですか?」

「そうですね。正しくは、巫女姫ザシュアに操られた毒竜エレンスゲに襲われ、瀕死の状態でティシュトリアに逃れ、奇跡的に生きながらえた事、と言うべきでしょう。例えば、ザシュアが意図して使い魔にパルサヴァード殿の『亡骸』をこの国まで運ばせたとしたら? 『実は、先王は敵国に囚われ、毒竜によって命を奪われたのだ』と民をあおり、ティシュトリア侵攻の足掛かりにする事が狙いだったとしたら?」

 大きく温かな語り部の手を握りしめるファランの手に、緊張が走った。


「あらゆる奸計の可能性を考慮した上で、あえてパルサヴァード殿をティシュトリアに迎え入れるとなれば、それは即ち『天竜の統べる王国ラスエルクラティア』の覇権争いに介入する事を意味します。今は『嫡子エスキル殿が起こした不祥事を収め、ティシュトリア国内の秩序を取り戻す』との名分で、ラスエルクラティアに攻め込む事を西の大国アルコヴァルも黙認しています。そのお陰で大きな混乱も起きてはいませんが、大陸には天竜を守り神と奉ずる王国が数多あまた存在します。彼等がどこまで平静でいられるか……エレミア王も悩んでおられるのですよ。だからこそ、パルサヴァード殿を協議の場に引出したいのでしょう。そうですね、タイース殿?」

「……仰る通りです」

「協議の場って……そんな、駄目です! 寝椅子に腰掛けているのがやっとの状態なのに」

 一層困惑したファランを前に、タイースが重い口を開いた。

「ファラン、お前がつないだ命も、今度は救えぬかもしれぬ」

「そんな……タイース様、どうして?」

「お前が救ったのが名も無き民のものならば良かったのだが。この方の生死は一国を揺るがすだけの重さがあるのだよ」


 わなわなと震える小さな手を握りしめたまま、パルヴィーズはファランの怒りを痛い程に感じ取った。すべての命に救いの手を差し伸べる癒し手の娘にとって、命の重みに違いがあるなど認めたくもない残酷な事実なのだろう。

「他に何か方法はないのですか……? いっそ、どこか遠くに逃げてしまえば……」

「直ぐに追手が掛かるでしょうね。ザシュアと言う娘は、目に見えぬものさえ水鏡に映し出す力を持つ巫女だそうです」

 パルヴィーズの左眼が奇妙な輝きを増し、一瞬、そこに縦長の獣の瞳孔が見えたような気がして、ファランの肩が、ぴくりと動いた。

「え……? 水鏡、ですか?」 


 何かおかしい。何かが間違っている……ファランの心の声がそう告げた。

 炎や水など、自然に内在する力を利用して術を編み上げ、魂の契約で妖獣を縛り使い魔とするのは術師の力だ。巫女ならば、天竜の声に耳を傾けるだけで全てを知る事が出来るはずだ。

 元より、かつてオトゥール山で妖獣達の餌食にされた天竜の巫女が、使い魔を操る力を持つはずもない。


「ああ、もしかしたら……!」

 不意にパルヴィーズの手をすり抜けて、ファランは寝椅子に腰かけて事の成り行きを静かに見守っていたパルサヴァードの前に跪くと、何かを見出そうとするかのように天竜の大神官を真っ直ぐに見上げた。

「パルサヴァード様は天竜の声をどのようにお聴きになるのですか?」

 突然の意外な問い掛けに、大きく見開かれた緑玉の瞳が、やがて優しく治癒師の娘に注がれた。

「聴くのではなく、感じるのです。私の場合は、痛みが見せる幻覚にも似たような感覚ですが……」


 ああ、それなら分かるわ。治療を施す時、私も同じように感じるもの。


「神官や巫女も、術師のように自然の力を利用して祈りを編み上げるのですか?」

「祈りを、編み上げる……? 祈りは常に我らの中にあって、自ずと湧き出るものです。人為的に創り上げるものでは……」

 はっ、と息を呑んで青灰色の瞳を見つめ返した瞬間、パルサヴァードの中でファランの言葉の真意が形をなして姿を現した。


 ああ、やはり……!

 あの娘の禍々まがまがしさは、「魔の系譜」との魂の契約の果てに生み出されたものに違いない。

 神託を偽り、民を惑わせ、己の欲望のために罪なき者の命を奪い続けるなど……許されてはならない。これ以上、災いの種子を芽吹かせてはならない。

 聖なる天竜ラスエルよ。あなたはそのために、私を生かしたのですか?


「パルサヴァード様、毒草がなぜ毒を持つのかご存知ですか?」

 また唐突な質問に、パルサヴァードは少し困ったような顔で治癒師の娘に微笑みかけた。

「自分自身を守るためです。初めから相手を殺そうとして毒を隠し持っていたのではなくて、捕食者に襲われ、根絶やしにされるのを恐れて、自分自身を少しずつ強く変化させていった結果です」

「ファラン、一体、何を……?」

「人の命など簡単に奪ってしまう怖ろしい毒草にも、解毒を施す術は必ずあります。パルサヴァード様、あきらめては駄目」


『ひとりで苦しまないで』


 パルサヴァードは、そう自分に語りかける声が聴こえたような気がした。


 

 突然、くわっ、と銀灰色の鴉が甲高く鳴いてパルヴィーズの肩を飛び立ち、窓の外へ羽ばたいて消えた。思わずそちらを振り向いたファランの目の前で、雲間の空が不自然な青さに揺らいだ。

 まるで薄衣うすぎぬを結んでいた帯がほどけ落ちるように、王城を囲む結界の一部が、はらりと音をたてて崩れ落ち、仄暗い「ほころび」がぽっかりと口を開けるのを間近に感じて、ファランは急いで窓辺に駆け寄った。

「あまり冷たい風に当たりすぎると、お身体にさわりますよ」

 そう言って、パルサヴァードの姿を邪悪なものから隠そうとするかのように、開け放たれていた窓を静かに閉じた。



***


 

 「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の神託が大陸中を驚愕させてから二度目の新月を迎えても、女王ザシュアはティシュトリアに侵攻する素振りさえ見せず、「王の目」曰く、神殿に引きこもったまま祈りの日々に徹していると言う。



「さすがに、あの神託はやり過ぎだったと気づいたのではないか? 聞けば、巫女姫はまだ年端も行かぬ少女だと言うではないか。大方、欲深い神官共にたぶらかされでもして……」

「王よ、協議の場とは言え、大神官パルサヴァード様の御前みまえですぞ」

 円卓を囲む側近達を前に、玉座に腰掛ける王を容赦なくたしなめるイスファルの声が部屋に響くと、エレミアは気まずそうに短く刈り込んだ金色の髪をがしがしと掻いて口をつぐんだ。


 アルファドと共に護衛として「王の盾」に付き従うのが日常の事となったシグリドは、仕草や表情がどことなくアスランのそれを思わせるエレミアを不思議な面持ちで見つめていた。

 まだ傷の癒えきらぬパルサヴァードが協議の場に加わる事を反対し続けたファランも、自身の同席を条件に出され認めざるを得ず、パルサヴァードが少しでも楽にいられるよう、寝椅子を使う許可を取り付けた。


 側近達が好奇心も露わに天竜の神官に視線を向けると、パルサヴァードは寝椅子に腰かけたまま優雅な所作で一礼し、その場に居る全ての者を魅了する美しく崇高な微笑みで返した。

 息をつくのさえ痛みを伴うはずなのに……ファランは驚嘆のあまり、思わず吐息をついた。

「エレミア王の仰る通り、神官達の横暴な振る舞いには目に余るものがありました。それを知りながら、正す事さえ出来なかった私はとがめられこそすれ……ですが、ザシュアは野放しにしてはなりません。あれは、忌まわしき魂を持つ者。あの娘の言葉は甘美な毒となって民の心を蝕み、やがてこの大陸に大きな厄災を……」

 込み上げるように激しく咳き込み、苦しみに顔を歪めるパルサヴァードの肩を優しくさすりながら、治癒師の娘が頰を紅潮させてエレミアを鋭く見つめた。

 小さな娘の非難するような視線に、王は思わず肩をすくめた。



 慣れ親しんだ胸の奥を絞めつける痛みが、備えよ、とパルサヴァードに告げた。

 世界を見守り続ける大いなる存在からの警告の声は、故国を離れ、ティシュトリアの王城にかくまわれる身となった今でも、変わることなく耐え難い痛みとなってささやき続ける。

 それでも……

 今は、以前とは違う何かが、確かにそこに根付き始めていた。


『ひとりで苦しまないで。心の奥に無理やり押し込めようとしないで。今まではそうだったとしても、これからは、全てをあなた一人で背負う必要などないの。差し伸べられた手を、信じて』


 妖獣の毒に侵され朦朧もうろうとする意識の中で、繰り返し聴こえてきた優しい声がパルサヴァードの中でこだますると、さざ波が引くように痛みも消えていった。

 小さく心地よい手の重みを肩に感じながら、パルサヴァードは天竜の祝福を受けた者として、全ての迷いを打ち捨てた。

「聖女ウシュリアの昔から、望むと望まざるとにかかわらず天啓を得た者は、天竜に愛されし者の責を負い、民を正しく導くよう定められて来ました。聖なる天竜ラスエルの祝福なしに神の声をかたり、神殿をおとしめる者は、何人たりとも許してはなりません」


 差し伸べられた手を、信じて。

 そう教えてくれた癒し手の娘に支えられながら何とか立ち上がり、ゆっくりとエレミアの前に進み出たパルサヴァードは、天竜に仕える大神官の気配をその身にまとっていた。

「天竜の名において、ラスエルクラティアの解放を求めます。妖術師ザシュアの討伐を。それが大陸の和平を揺るがぬものとするでしょう」



 驚愕のどよめきが、その場を一瞬で埋め尽くした。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る