戦士の狂気

 こんな所で死んでたまるものか。愛しいお前を独り残して、こんな所で……



 血の海と化した戦場に累々と横たわるしかばねの中で、深手を負いながらも立ち上がろうと足掻き続ける戦士の頭上に、ゆらり、と銀灰色の炎が浮かび上がった。

『お前の望み、叶えてやろうか?』 


 ぞくりとするほどなまめかしい声に驚き、咄嗟に顔を上げた戦士の目と鼻の先で、燃え立つ炎がゆっくりと銀灰色の髪の麗しい乙女の姿に変わった。

 きらめく赤い輝きを宿した金色の瞳が、戦士の顔を覗き込む。

『猛々しく美しい火竜の戦士よ、お前の魂を我に差し出せ。代わりに、永遠に朽ちぬ命をくれてやろう』


 縦長の瞳孔を持つ獣の瞳。

 ああ、妖魔だ……


 戦士は、既に思い通りに動かなくなった腕で必死に長剣を振りかざそうとした。

『我がものとなりて、甘き血肉の匂いに酔いしれながら共に戦場を駆け巡ろうぞ。恍惚の微睡まどろみの中で、共に幾百幾千の夜を迎えようぞ』

 柔らかく熱い唇がねっとりと戦士の唇に重ねられ、こらえきれぬほどの恍惚の波が疲れ果てた身体を貫くと、戦士は手にしていた剣を滑り落とし、血にまみれた両腕で妖魔の女を掻き抱いた。


 ああ、ディーネ、俺の小さな光。

 お前と共に、永遠に生き続ける事が出来るなら……構うものか。





 夜明けの薄明かりが差し込む冷たい部屋の片隅で、眠りから覚めた白い獣が大きく身体を震わせた。次の瞬間、その輪郭が大きく揺らぎ、一糸まとわぬ長身のしなやかな姿を取り戻した。白銀の髪が、するりと肩に滑り落ちる。

 寝台に投げ捨ててあった上衣を拾い上げて窓際にたたずむと、鮮やか過ぎる夢の名残りを消し去ろうとするかのように、薄青色の瞳を閉じて大きくため息を吐いた。


 背中に刻まれた火竜の刺青は長い月日の果てに色褪せても、聖魔に与えられた妖魔の魂は、いまだロスタルを朽ち果てる事さえ叶わぬ命に縛りつけていた。



***



 口元に光る牙の隙間からよだれを垂らしながら、縦長の瞳孔を持つ瞳が不気味な輝きを増す。鋭い鍵爪を持つ四肢は蜥蜴とかげのそれを思わせ、異様に長い両腕をだらりと身体の前に垂らしたまま、物欲しげにこちらを見つめている。

 その姿は人の子に似てはいるが、気配は血に飢えた獣そのものだ。人と人ならざるものを掛け合わせたような生き物からは、知性の欠片かけらも感じられない。獲物を狩ろうとする本能だけに突き動かされ、喉元に喰らいつく機会を伺いながら、一歩、また一歩とにじり寄ると、目の前の獲物目がけて身を躍らせた。


 が、次の瞬間、胴体を切り裂かれ、咆哮を上げて地面をのたうち回る獣の首をティシュトリアの剣が貫いた。断末魔の叫びが神殿の奥底まで響き渡る。

「醜悪だな……我が剣を汚すのもはばかられる」

 けがれに触れるのをいとうかのように、エスキルは獣の身体を足で押さえつけて剣を引き抜くと、刃身に流れる緑がかった血を振り払った。が、その悪臭に思わず顔を歪めて、隣にたたずむ女術師を睨みつけた。




 新女王の伴侶として武装大国の嫡子エスキルが迎えられてからというもの、あわよくば名を上げようと大勢の傭兵達がラスエルクラティアに押し寄せた。


『天竜のために命を捧げよ』


 それが、気負い立つ戦士達に与えられた巫女姫ザシュアからの「祝福」だった。

 互いに刃を向け、殺し合い、生き残った者だけが天竜の神殿を警護する名誉を与えられる、と。


 恐るべき「天啓」に疑念を抱こうともせず、「七王国を翼下に従える聖竜」の紋章を武具に刻む栄誉だけを夢見て、巫女姫の中に潜む女術師の呪詛に魂を絡め取られた戦士が、一人、また一人と血溜まりの中で息絶えていく……


 最後まで生き残った戦士が高らかに勝利の雄叫びを上げて巫女姫の前にひざまずくと、少女は祝福を与えようとするかのように戦士の頬に小さな手を添えて、微笑みを浮かべた可憐な唇をわずかに動かした。

 途端に、戦士は強い呪縛に縛られ、身動きさえ取れずに目を白黒させながらうめき声を上げた。その胸元に、巫女姫ザラシュトラ躊躇ためらいもなく短剣を突き立てる。ぎゃっ、と獣のような悲鳴を上げて倒れ込んだ男の胸を素早く斬り開き、そばに控えていた使い魔に鼓動の止まらぬ心臓を与えると、ザラシュトラは慎重に言葉を編み上げ、血に染まった指で男の身体に呪詛の文様を描き始めた。

 やがて、夢中になって獲物をほふる妖獣の背後に忍び寄って短剣を振り降ろし、憐れな使い魔の心臓をひと突きにした。


 断末魔の叫びも上げずに干からびていく妖獣の傍らで、先程まで心臓を喰われていたはずの男がゆっくりと起き上がり、ぶるり、と大きく身震いした。

 むごたらしい儀式を冷めた表情で眺めていたエスキルに、女術師が血に染まった巫女装束など意に介さぬ様子で妖艶に微笑み掛ける。

「……では、エスキル様。ティシュトリア随一の戦士と呼ばれるあなた様のお手並み、拝見させて頂きましょう」




 女術師が「獣人」と呼ぶは、虚ろな獣の瞳を見開いたまま息絶えた。その瞳から人間だった名残の涙が薄っすらとこぼれ落ちるのを見て、エスキルは眉をひそめた。

 かつて、妖魔と交わる禁忌を犯し続けた罪で、ティシュトリア率いる七王国軍に滅ぼされた「妖術師の王国」スェヴェリス。目の前にいる女術師は、その忌むべき妖術師達が遺した禁書から呪詛を操る術を学んだと言う。

「何度見ても、お前の術には身の毛がよだつ」

 そこがまた良いのだが……とエスキルはザラシュトラを睨みつけたまま、心の底で呟いた。

 豊かに波打つ黄金色の髪を背中に流した妖艶な少女は、可憐な唇の端を吊り上げて、赤い髪の戦士を見つめ返した。

「お気に召しませんでしたか? これでも、妖獣の魂を植え付けられてなお、人の形と戦士の本能を留め置くよう苦労したのですよ。使い魔は人間の傭兵と違い、術で縛られている間は裏切る事も命令に背く事もございません。とは言え、未だ改善の余地はあるようですね」


 エスキルは足元に転がる獣人の骸に、もう一度、嫌悪の眼差しを向けた。

「俺には化け物にしか見えんが……妖獣殺しは性に合わん」

「まあ、それは意外。無慈悲さで知られるエスキル様らしからぬお言葉ですわ」

 エスキルは、くくっと不気味なわらい声を漏らしながらザラシュトラに素早く詰め寄ると、少女の細いあごを乱暴に掴んで顔を近づけた。

「つまらぬのだよ。獣はどれだけ痛めつけても、表情を変えぬゆえ

 強引に身体を引き寄せられながら、エスキルの瞳の奥底に宿る狂気の光を、ザラシュトラは凍てつく表情で見つめ返した。

「だが、人は追い詰められれば悲鳴をあげ、苦悶の表情でその身を震わせる。泣き叫び、必死に命乞いをしながら理不尽な要求にさえ甘んずる。その命をこの手で握りつぶす瞬間が、たまらなく心地良い」

 少女の柔らかな唇をむさぼるように、己の唇を押しつけて舌を這わせながら、戦士の大きな手が細い首をぎりりと締め上げていく。ザラシュトラがたまらずあえぎ声を上げても、エスキルは熱に浮かされたように耳元で囁き続けた。

「そうだ、もっと足掻け……冷たくあざけるような目で俺を見つめながら、この腕の中で情欲に溺れ身悶えるがいい……ああ、そうだ……良いぞ、ザラシュトラ。やはりお前は良い……もっとだ……もっと俺を奮い立たせてくれ」

 

『我らティシュトリアの民をあなどるなよ……術の力に頼らぬ我らが、如何にして妖術師の王国スェヴェリスを滅ぼしたと思う?』


 神殿を襲った日のエスキルの言葉が、ザラシュトラの脳裏に蘇った。

 声を出せぬように唇を塞がれ、言葉を紡げぬように舌を絡みとられ、呪詛を練り上げるすべを奪われたまま、女術師は己が犯した失態を呪った。


『戦場で囚われた術師が舌を切られるのは何故なのか、考えた事はないのか?』

 アンパヴァール陥落の夜、シグリドにそう問いかけたのは、他でもない自分だったのに……ああ、私としたことが。


 剣を握る節くれだった長い指が、ぎりぎりと容赦なく細い首を締め上げていく。

 ザラシュトラは遠のく意識の中で、揺らいだ空間に向けて震える手を必死に伸ばした。



 ちっ、と鋭く舌打ちする音が聞こえて、縛り上げられていたしがらみほどけ落ちるような感覚と共に、ザラシュトラの身体が、ふわりと宙に浮いた。使い魔に連れられて「狭間」を抜ける時に感じる、あの浮遊感。

 銀糸を思わせる髪に頬をくすぐられ、少女の中に閉じ込められている女術師の魂が騒めいた。

「らしくないな、ザラシュトラ。これしきの事で根を上げるとは」

 ロスタルは片腕で女術師の身体を抱え、もう一方の手で長剣を握りしめたまま「狭間」を抜けると、神殿の奥にあるザラシュトラの居所に降り立った。


 

 逞しい腕にすがりついたまま、ザラシュトラは小さく咳き込むと、何の感情も現さぬ端正な顔を見上げた。男の手に握られた剣の切っ先が血に濡れている。

「……あの者を、斬ったのですか?」

「いや、少し脅しをかけただけだ」

 ザラシュトラを寝台に横たえながら、ロスタルはエスキルに掴まれていた白い首元をそっと撫でた。

「……あざになるな」

 首筋を這う男の手の温もりに、女術師の魂が喜びに震える。

「用心しろよ、ザラシュトラ。あの男、女を責め殺す悪い癖があるらしい。エレミア王も愚かな息子に相当悩まされたようだ」


 首元から離れていくロスタルの指先を名残惜しげに目で追いながら、ザラシュトラは赤い髪の戦士に宿る狂気を思い出して唇を噛み締めた。

「……ティシュトリアの男など、獣と同じ。呪詛で縛りあげれば良いだけです」

 

 

*** 



 獣人の骸のそばで、エスキルは血の滴る利き腕を押さえたまま立ち尽くしていた。


 まただ……あの妖魔め。

 普段は姿を見せぬくせに、ザラシュトラに事あらば、気配を隠したまま空間から突然現れる。


『あの者は忠実なる護衛。それ以外の何者でもありません』

 そうつぶやいた女術師の声が僅かに震えていたことに、エスキルは気づいていた。


 恐らく、あの妖魔は使い魔として契約主を守ろうとしているだけなのだろう。だが、お前にとってあの男はそれ以上の意味を持つのだろう、ザラシュトラ?


「良いな……実に良いぞ、ザラシュトラ」


 お前が悶え苦しむ姿を、もっと見せてくれ。もっとこの俺を楽しませてくれ。

 つまらぬのだよ……たかが百年続いた和平にしがみつき、戦場に立つ事さえままならぬ退屈な世界など。

 女術師よ、せいぜいこの大陸に不穏の芽を撒き散らせてくれ……再び、戦火がこの大陸を呑み込むように。


「さあ、ザラシュトラ。お前と二人、この世界を血に染め上げようぞ」

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