第2章 白い獣

恋文

 きたるべき時に備えよ、と。ただ、それだけ。



 オトゥール山脈から吹き降りる冷たい風が頬を撫で、被っていた頭巾がゆっくりと後ろにずれ落ちると、レティシアの黄金に輝く髪が羽根を広げるように、ふわり、と宙に舞った。

 まだ幼さを残すタルトゥスの若き領主は、王都からの勅使がもたらした言葉を噛み締めながら、混乱する頭を冷やすために砦の城壁に佇んでいた。

 薄っすらと白く降り積もった雪を頂く峰々が、砦に冬の訪れが近い事を告げている。




 隣国に旅立つパルヴィーズ達の後姿を砦の塔から見送って既にふた月。その間に「天竜の統べる王国ラスエルクラティア」の大神官パルサヴァードが急逝した。

 元々、病に臥せりがちな王だったとは言え、余りに急な訃報の陰に、良からぬ力が働いたのではといぶかしむ王侯貴族達も少なくはない。予期せぬ者が玉座を狙うなど、七王国時代から続く大陸の悪しき伝統と言っても過言ではないからだ。

 パルサヴァード亡き後、神官達が後押しする形で女王となった巫女姫ザシュアが、ティシュトリアの戦士エスキルを伴侶として共同君主による統治を宣言すると、大陸中が驚愕した。軍事大国の嫡子を夫として迎え入れなどすれば、神聖国家ラスエルクラティアなど瞬く間にティシュトリアの王都軍によって蹂躙じゅうりんされるだろう、と考えたからだ。

 だが、その懸念を裏切って、信じがたい神託の言葉が大陸全土を揺るがした。

『ティシュトリアに天罰を』


 七王国時代の血塗られた記憶を持たぬ新興国の宗主達は、天啓の導きを信じてティシュトリアに進軍し、大陸随一の強さを誇る王都軍の前に成す術もなく敗走した。

 アルコヴァルとティシュトリアの王は、神託を鵜呑みにして先人たちのしかばねを代償に手に入れた和平を無に帰すほど愚かではなかった。この百年で築き上げた二国間の絆が「たかが小娘の戯言ざれごと」如きで揺らいではならぬのだ。

 大陸の柱である二大国が動かぬ以上、小国の王達は動向を見守るしかない。戦火の渦に再び呑み込まれるかもしれぬ恐怖と不穏の影が、大陸の民の心を少しずつむしばみ始めていた。



 間諜うかみからの知らせで、ティシュトリアに滞在するパルヴィーズ達の様子を耳にしてはいるものの、この砦に戻るような素振りは微塵も見せぬと聞いて、レティシアは言いようのない寂しさを覚えていた。亡くなった兄を思わせる優しい微笑みと、王族の孤独を知る空色の瞳を思い出しながら、タルトゥスの守護者である「永遠の王」にそばにいて支えて欲しいと願う自分の弱さに嫌気がさして、はあっと白い息を吐いた。


 こんなことでは駄目だ。次の春が来て十六になれば、成人の儀式を経て正式に領主として立つことになるのだ。誰かに頼ってばかりいては駄目なのは分かっている。

 けれど……


「冷えてきたな。冬越えの支度を急がせた方が良いぞ、レティシア。王都につながる街道もすぐに雪で閉ざされるだろう」

 いつからそこに居たのか、アルスレッドは手にしていた毛皮の外衣を広げると、少女の小さな身体を包み込んだ。いつまでも子供扱いして……と不機嫌に払いかけた大きな手が氷のように冷え切っているのを感じて、レティシアは少し歯痒く思いながらも、年上の従兄が時折見せる優しさに甘んじることにした。

 幼い領主の側近として謁見の間に居合わせたアルスレッドは、勅使が立ち去ると同時に張り詰めた表情で玉座から立ち上がり、祖父とその側近達の声で騒めく部屋から抜け出したレティシアを追って来たのだろう。

「アルス従兄にいさまはどう思った?」

 ふかふかの毛皮に鼻先までうずめながら、薄紫色の瞳を隣に佇む戦士に向けた。

「アルコヴァル王の勅命の事か?」

「……それもそうだけど」

「だけど……何だ?」

 ああ、もう! と叫ぶレティシアの真っ赤な顔を見て、アルスレッドが意地悪な微笑みを浮かべた。

「らしくないぞ、レティシア。言いたいことがあるならはっきり言ったらどうだ? 勅使の態度が気に食わぬ、とな」


 ……いつもそうだ。


 この年上の従兄は、どうしてこうも心の内を読み取ってしまうのだろう。兄が亡くなって以来、アルスレッドには一切の隠し事が出来なくなった気がする。

「……あの男、お祖父じい様とアルス従兄さましか見ていなかった。私の存在など無きものだとでも言いたげに」

「何だ、そんな事か」

「そんな事って、私にとっては……!」

 怒りに震える少女の横顔を見つめながら、アルスレッドは兄弟同様に育ったレティシアの兄の面影をそこに見出した。

「なあ、レティ。誰が何と言おうと、お前がこの砦の領主だ。顔を上げて堂々と前だけを見つめていればいい。お前を侮辱するやからは、我らタルトゥス王家を侮辱したも同然。俺が許してはおかぬから安心しろ」

 まるで兄上のような口調だ……そう言いかけて、レティシアは言葉を飲み込んだ。



 先の戦さは、小国同士の小競り合いの調停を乞われたアルコヴァル王が重い腰を上げ仲介に入った事で新たな混乱を招き、思いがけず大陸の東の諸王国を巻き込む激戦となった。

 アルコヴァルの国境地帯で繰り広げられた戦いで、自分自身も深手を負いながら、兄の最後を見届けて亡骸を砦に持ち帰ったのは、他でもないアルスレッドだった。


 幼い頃から強い絆で結ばれていた二人だもの、目の前で兄を殺された時の絶望感は計り知れないものだったろうに……その欠片かけらも見せず、いつもこうして私のそばに居てくれる。

 おそらく、あるじであった兄の最後の願いを叶えるために。


「……分かってる。アルス従兄さまとお祖父さまが支えてくれるから、私は大丈夫。兄上に負けないくらい、立派な領主になってやる」

「そう願う。いつまでも俺が窮屈な城住まいをせずに済むよう、頼むから早く一人前の領主になってくれ」

 気が強いくせに泣き虫な幼い従妹に向けられたとび色の瞳は、小さな妹を見つめる兄のそれに似ていた。

「従兄さま、勅使の言葉通り、本当にアルコヴァル王は動かぬつもりだろうか? ラスエルクラティアの神託に背いてまでティシュトリアとの和平を取るなど……」

「その逆だ。神託が告げられて間もなく、エレミア王が勅使を王都に送り込んだ。我らが王も馬鹿ではない。大陸随一の武力を誇るティシュトリア軍を敵に回すより、味方につけておいた方が良いに決まっている」

「でも、それが大陸の覇権を握るためのティシュトリアの罠だとしたら……」

「いや、あの王は姑息な手は使わぬ生粋の戦士だ。信用していい」

「でも……」

 募る不安を抑えきれず言葉を続けようとした矢先、とび色の瞳が陰りを帯びた気がして、レティシアは口をつぐんだ。アルスレッドのそんな顔を見るのは初めてだったから。

「お前はまだ生まれていなかったからな……俺に年の離れた姉がいたのは知っているな? お前と同じ、『砦の姫』の運命を背負わされてティシュトリアに嫁いだ。側妾そばめとしてだがな」

 

 女ながらに剣を振るい、戦場で共に戦うタルトゥスの砦の姫を、エレミア王は常に傍らに置いた。

 王の愛情の深さをアルスレッドが知ったのは、戦場で命を落とした姉の亡骸を大切に持ち帰り、綺麗に清めた後、故郷の砦で浄化の炎に包まれるよう手筈を整えてくれた時だった。


「たかが側妾の亡骸など、ティシュトリアの慣習では戦場に打ち捨てられて当然だったのに……戦さでは容赦なく人を殺める王だが、情けも深い。信頼に足る男だ。ただ……」

 アルスレッドは不愉快そうに口元を歪めた。

「その王の息子が、血を好む無慈悲な戦士、と言うのは皮肉なものだな」

「……ああ、そうか! ティシュトリアの覇権争いが今回の騒動の発端ならば、ティシュトリアの不祥事はティシュトリアが治める……エレミア王はそう言いたいのか」

 大きな手を、ぽん、とレティシアの頭にのせて金色の髪を優しく撫でるアルスレッドの顔に、いつもの皮肉っぽい笑顔が戻っていた。

「お前にしては上出来だな」


 ラスエルクラティアの共同君主として迎えられたエスキルの元には、あわよくば名を上げようと野望を抱く傭兵達が大陸中からつどい始めていると言う。天竜の庇護を掲げた狂信的な戦士達とティシュトリア王都軍との戦いが始まれば、隣国アルコヴァルにも火の粉が降りかかる事態になるかもしれない。

『来るべき時に備えよ』

 勅使がもたらしたアルコヴァル王の言葉が、レティシアの中でようやく現実味を帯びた。


「シグリドもティシュトリア軍の戦士として出るのだろうか」

「さてな。ファラン曰く、ティシュトリア軍の若い戦士達を『鍛錬』にかこつけて痛めつけるのが日課になっているらしいが」

「ファラン曰く……? それって……?」

「お前の間諜にファランにふみを届けるよう頼んだら、思いがけず返事が来たのでな。その後も何度か文を送ってはタルトゥスに戻るよう口説いてはいるのだが、なかなか良い返事をもらえぬのだ」

「……私の間諜を使って、女を口説いていたと言うのか?」

「風流だろう? 恋文など書いたのは久しぶりだ」

 呆れた表情で立ち尽くすレティシアに背を向けると、アルスレッドは館に向かって歩き出した。

「風邪をひくぞ、館に戻れ」


 あの「火竜」の女に手を出すなんて、何て命知らずな……!


 開いた口が塞がらぬまま、タルトゥスの若き領主は自由奔放だが頼りがいのある従兄の後を追った。



***



 くしゅん、と小さなくしゃみをしたファランに目を向けて、シグリドは剣を研ぐ手を止め、新しい薪を炉にくべた。

「冷えるな……風邪でも引いたか?」

 大丈夫よ、と笑いながらファランは火にかけていた薬缶を手に取って、いつものように手早くお茶をれ、シグリドの横にそっと腰かけた。

 薬草の心地よいほろ苦さと甘い花の香りが、二人の小さな部屋を満たしていく。


 

 イスファルの館に仮の住まいを与えられてから既にふた月。

 城付きの術師や治癒師に薬草や治癒の知識を伝える役目を担いながら、タイースの薬草園の手入れを手伝う「王の盾」の館での満ち足りた日々は、自分のいおりを持っていた頃の平穏な生活をファランに思い出させた。

 シグリドはと言えば、アルファドと共にティシュトリアの若い戦士達を鍛錬する任にあたり、時に押し寄せる新興国の寄せ集めの軍相手に王都軍の傭兵として剣を振るい、イスファルと共にアスランの領地となるはずだった草原を愛馬で駆ける平穏過ぎる日々に戸惑いを感じながらも、愛する娘と共に普通の人生を歩む喜びを感じ始めていた。


「またアルスレッドからか?」

 朱色の封蝋を短剣で器用に開けて、丸められていた文を丁寧に伸ばしながら嬉しそうに目を輝かす娘の姿に、シグリドは眉をひそめてファランの腕を掴むと、強引に胸に引き寄せて両腕で囲い込んだ。突然の事に驚いた小さな手から文が転がり落ちる。

「ちょっと……シグリドったら! せっかくアルスレッド様が書いて下さったのに……」

「あの男、次に会った時には利き手を斬りおとしてやる」

 それは駄目よ、と笑いながら文を拾い上げるファランを一層強く抱きしめると、シグリドは甘い香りのする赤い巻毛に鼻先を埋めた。



 シグリドの腕の中でアルスレッドの文を読み終え、少し眠気の差した頭でぼんやりと炉の炎を見つめながら、ファランは遠い昔、冷たい地下牢で同じように抱きしめてくれた黒髪の少年が語ってくれた出来事を思い出そうとしていた。


 この人を追い詰め、死を覚悟させる程の傷を負わせた白い妖魔の戦士。その戦士が愛した月色の髪の娘……やっぱり、あれは、ロスタルとディーネのことだったのかしら? 

 もし、そうだとすれば……シグリドは絶対にロスタルを許してはくれない。あの日、たった一人の兄を奪った戦いの最中さなかで、シグリドをあんな目に遭わせたんだもの。

 

『次はさらってでも必ずお前を連れ帰る』


 タイースの薬草園でロスタルが口にした尋常でない言葉を思い出して、ファランは小さく身震いした。

 シグリドは手近にあった毛布を手繰り寄せると、ファランの身体を一層引き寄せて毛布の中に閉じ込めるように包み込んだ。

「ねえ、シグリド。地下牢で逢った時のこと、覚えてる?」

 忘れるものか、と心の中でつぶやいて、シグリドはゆっくりとうなずいた。

「私は……ごめんなさい、裏覚えな事も多いの」

「お前はまだ小さかった。忘れていても仕方がない」

 頭のてっぺんに熱い吐息を感じて、ファランは温かい胸にもたれ掛かって頬を寄せ、瞳を閉じた。

「あの時の白い妖魔の戦士……ほら、『罪戯れ』の妹を持つ……」

 一瞬、身体に回された腕に力がこめられたのを、夢現ゆめうつつの中でファランは感じた。

「ロスタルとディーネの事か?」

 

 ああ、やっぱり……



 腕の中で眠りに落ちたファランが、小さくあえぎ声を上げた。

 その頬に涙がこぼれ落ちるのを目にして、シグリドは起こさぬようにそっと小さな身体を抱き上げて寝台に運び、共に横たわると、ファランの頬を優しくぬぐった。

 ゆっくりと愛しい娘に口づけし、炎の色の巻毛に顔を埋めると、匂い立つ花の香りに抱かれながら、シグリドはいつしか心地よい眠りに落ちた。

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